祐介のいつも気だるそうな笑みを浮かべている瞳が、この瞬間だけは真剣に里香を見つめていた。普段の彼は気まぐれで、どこか飄々とした態度を崩さない人だった。里香の前に現れるたび、いつも派手な髪色をしていて、まるで周りの目なんて気にしていないようだった。でも、ふと気づいた。彼の髪が黒に戻っていることに。もう随分長い間、あの派手な髪色を見ていないことにも。里香は少し考えてから、口を開いた。「うん、わかった」すると、祐介は手を伸ばして、里香の頭をくしゃっと撫でた。その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。「じゃあ、ゆっくり休めよ。また来るからさ」「うん」里香は頷きながら、祐介が去っていくのを見送った。その直後、かおるが祐介を見送りに行って戻ってきたかと思うと、驚くほど興奮した様子で勢いよく近寄ってきた。「ちょっと、今の何!告白ってやつじゃないの?ねえ、そうだよね?」かおるは目を輝かせながら、里香の隣に飛び込むように座った。里香は肩をすくめて首を振った。「わかんないよ」それでもかおるは諦めずにじっと見つめてくる。「でも、少しでもドキッとしたでしょ?なんか、胸がキュンってなる感じとかさ?」里香は呆れたようにため息をついた。「こんな状況で、そんなこと考える余裕があるなんてね」かおるは大げさに目をぱちぱちさせながら、「いやいや、どんな時でもそういうこと考えちゃうでしょ?そうじゃなきゃ人生つまんないじゃん!」そんな彼女を見て、里香は苦笑いを浮かべたが、それ以上何も言わなかった。祐介の意図がわからないわけじゃない。でも、それに応える気力なんて里香にはなかった。失敗した恋愛の傷はまだ癒えず、もう一度誰かを好きになる勇気なんて、とても持てそうになかったから。ただ、里香には一つだけ願いがある。早く雅之と離婚して、この街を離れ、自分が望む自由な暮らしを手に入れること。それだけだった。一方、二宮グループによるDKグループへの圧力は、日に日に強まっていた。正光は、雅之が折れるのをずっと待っていた。しかし、DKグループはほとんど注文が途絶え、倒産の危機に瀕しているというのに、雅之は頑なに妥協しようとしなかった。「まったく、あいつはどこまで頑固なんだ!」正光はついに二宮グループの社員をDKグループに送り込み、株主総会を強行開催。雅之
里香は彼の冷たい目をじっと見つめたまま、一瞬何も言葉が出てこなかった。「どういう意味?」雅之の薄い唇がかすかに笑みを描き、その目には何とも言えない茶化したような感情が浮かんでいた。「お前が僕を訴えたせいで、破産するのが早まった。それで取締役会の信頼を失い、今では僕はDKグループの会長じゃない。無職だ。そして法律上の妻であるお前には、僕の面倒を見てもらう責任があるってわけだ」里香は目を見開き、信じられない様子で彼を見つめた。何言ってるの……?「後の結果は自己責任だ」って、ずっとそう言ってたのに。その「結果」って、彼が失敗したら自分が責任を取らなきゃいけないってことだったの?そんなの、どんな理屈よ?「無理!そんな暇ない!」里香は首を振りながら、顔に呆れた表情を浮かべて言った。ありえない。離婚したくないってゴネてたのは彼の方だったのに。今さら失敗したからって、それが自分に何の関係があるっていうの?もしもっと早く離婚していたら、二宮家が彼を狙うなんてことはなかったはず。それに、こんな状況に陥ることもなかったかもしれない。雅之は里香のそばに腰を下ろし、冷静に言葉を続けた。「里香、お前には僕を拒むことも、追い出すこともできないんだ。だから無駄な抵抗はやめた方がいい。どうせ1ヶ月後には法廷で会うんだから」かおるはしばらく黙って二人の会話を聞いていたが、ついに我慢できず声を上げた。「何それ!こんなに図々しい人、初めて見た!」よくもまあ、そんなことを平然と言えるもんだ。この男、頭おかしいんじゃないの?里香は眉間にしわを寄せ、雅之を睨みつけた。それから無言でスマホを取り出し、警察に通報しようとした。その動きを見て、雅之は淡々と言い放った。「警察が夫婦間の問題に介入すると思ってるの?」1ヶ月後には裁判が始まるとしても、現時点では彼らはまだ夫婦だ。よほど大きなトラブルでも起きない限り、警察を呼んだところで何も変わらないだろう。里香は指をダイヤルボタンにかけたまま動きを止め、悔しそうに彼を睨んだ。雅之の図々しさに対して、どうすることもできない自分が悔しかった。雅之はほんの少し唇を引き上げ、人懐こい笑みを浮かべながらこう言った。「僕のことが好きなのはわかるけど、そんなにじっと見つめなくてもい
「はぁ……本当に価値観ぶっ壊されたわ。あいつ、礼儀とか恥とか、そんなの持ってないんじゃない?」里香はぼんやりと虚空を見つめたまま、何も答えない。まさか、雅之の切り札がこれだったなんて……あいつはDKグループを追い出されることなんて微塵も気にしていない。それどころか、わざわざ彼女のところに現れて、嫌がらせをする余裕まで見せつけている。何考えてるんだ、ほんと。かおるは反応がない里香を見て、軽く手を振ってみせた。「里香ちゃん?」「うん……」里香は我に返ったように頷いた。「たぶん、これからしばらく毎日顔を合わせることになりそう」かおるは泣きそうな顔をして「でも、私はあいつに会いたくない!」と嘆いた。「じゃあ、引っ越したら?」低く響く声が割って入り、二人が目を上げると、雅之が壁にもたれながら腕を組み、涼しげな目でかおるをじっと見つめていた。「引っ越せって……私が?あんたが出て行けばいいでしょ?何様のつもり?」かおるが冷笑すると、雅之は里香を指差して一言。「里香がボスで、僕がナンバー2」二人が黙り込むのを見て、雅之はどこか楽しそうな表情を浮かべながらゆっくりと近づき、里香に向かって話しかけた。「どうだ?今すぐ訴えを取り下げて、離婚訴訟はただの冗談だったって言えば?そうすれば僕の評判も回復してDKグループに戻れるかもしれない。そしたらここに住む必要もなくなるし、邪魔もしなくて済む」低く響く声でじっくりと言葉を選ぶように話す雅之。だが、それを聞いた里香は冷めた表情で短く返した。「信じるわけないでしょ。バカバカしい」雅之は思わず吹き出した。里香は呆れたように目を回すと、かおるに向かって「行こう。少し外歩きたい」と言った。「うん」かおるは素直に返事をして、バッグを取りに行くと、里香を支えながら部屋を出ていった。雅之の笑顔はその瞬間に消えた。スマホを取り出して電源を入れると、通知が次々と押し寄せてきた。二宮家からの連絡や罵倒のメッセージが山のように届いている。どこかから番号が漏れたのか、知らない番号からも毒々しい言葉がこれでもかと送りつけられてくる。雅之は冷めた目でそれをじっと眺めた後、SIMカードを引き抜いてゴミ箱に放り込んだ。そのまま立ち上がり、ベランダに出て青空を見上げる。その瞳
月宮の言葉は明らかに復讐心に満ちていて、すぐに電話を切った。雅之は鼻で冷笑し、ポケットから煙草を取り出し火をつけた。夕暮れ時、西の空には夕焼けが一面に広がり、目が眩むほどの美しい色彩が描かれていた。里香は歩き疲れてベンチに座り、湖面に映る青い空の景色を眺めていた。かおるが水を取り出して里香に差し出しながら言った。「里香ちゃん、何となく感じるんだけど……」かおるは言葉を飲み込んだ。里香は水を一口飲んで不思議そうに彼女を見る。「ん?何?」かおるは軽くため息をつきながら言った。「雅之、どうやら君に執着してるみたい。前は強引な態度取ってたけど、それが通じないとわかったから、今度は優しい態度に変えたのかしらね」里香は握っていた水のボトルをきつく握りしめた。かおるは彼女をじっと見つめ、いつもの陽気な雰囲気をひとまず脇に置いて、真剣な表情で尋ねた。「君の気持ちは揺らがないの?」里香の長いまつげがわずかに震え、そして首を振った。「揺らがない」かおるは続けた。「かつて最も愛していた人が、今になって低姿勢で許しを求めて、一緒に幸せに過ごしたいって言ってきたとしても、揺らがないの?」今度は里香の答えは少しばかり確固たるものがあった。「揺らがない」かおるは微笑んだ。「揺らいでも別に構わないんじゃないかな」里香は驚いて彼女を見ると、かおるの視線は湖面に向けられた。「ただね、雅之が里香ちゃんのために死ねるほど愛していて、本当に死んだなら、その時揺らいでも遅くはないわよ」里香は思わず笑い出した。わかっていた。かおるがそんなに簡単に雅之を受け入れるはずがないと。雅之が自分のために死ぬなんてこと、ありえるだろうか?彼のように自分の好き勝手に物事を進める人間、典型的な利己主義者が、自分を傷つけたり危険な状況に陥らせるようなことをするはずがない。もう一口水を飲んで里香は言った。「もう遅いから帰ろう」「うん」かおるは頷いて、里香を支えながら帰宅した。ドアを開けると、リビングに誰もいなかった。今はお手伝いさんと介護人が休憩中で、それぞれの部屋にいる時間だった。里香は主寝室に戻り、かおるに言った。「なんだか調子が悪いから、シャワーを浴びてくる。ドアの外で待っててもらって、あとでちょっと物を取ってもらいたいの」
「ふーん」雅之は足を止め、じっと里香を見つめながら口を開いた。「本気で、投げさせる気なのか?」「そうよ」里香の返答には、絶対に近づけさせないという固い決意が込められていた。「わかった」雅之は軽く頷くと、手にしていたパジャマをひょいっと投げた。里香は慌てて受け取ろうとしたものの、パジャマは無情にも目の前で地面に落下した。しかも床には水たまりができていて、パジャマはすぐにびしょ濡れになった。これではもう使い物にならない。「ちょ、なにこれ……!」里香は顔を上げ、怒りに満ちた目で雅之を睨みつけた。「わざとでしょ?」けれど雅之の整った顔には、まるで無実を訴えるかのような無邪気な表情が浮かんでいる。「投げろって言ったのはそっちだろ?ちゃんと投げたぞ。それを受け損ねたのはお前のミスだろ。なんで僕のせいになるんだ?」その態度は、まるで理不尽に怒っているのは里香のほうだと言いたげだ。「雅之!」里香は怒りに声を震わせながら叫んだ。「めっちゃ寒いんだってば!遊んでる場合じゃないの!かおるを呼んできて!」雅之はしばらく里香をじっと見つめていたが、突然彼女のほうへ歩み寄り、そのまま驚く彼女を抱き上げた。「な、何してるの!降ろして!」里香の体は瞬間的に硬直した。彼の温かい手が直接肌に触れる感覚が妙にリアルで居心地が悪い。自分は一糸まとわぬ姿なのに、彼は隙のない服装のまま。この対比に言葉を失った。雅之の瞳がわずかに暗く濁り、次の瞬間、彼は強引に里香の唇を奪った。「里香、分かってるだろ。僕が本気を出したら、お前は逃げられない。だから素直になれ。そのほうが、お互いラクだ」悔しい――けれど、この状況では何もできない。里香はそう思いながらも必死に抵抗しようとしたが、抱えられたままでは身動きが取れず、どうすることもできなかった。雅之はそのまま彼女を浴室から連れ出し、ベッドにそっと寝かせると、クロークへ向かい新しいパジャマを持ってきた。それを手にしながら、まるで彼女に着せるつもりであるかのような仕草を見せる。「いらない!」里香は強い口調で拒絶した。「自分で着られるから!」雅之はじっと彼女を見つめると、しばらくしてパジャマを手渡した。しかしその場から動かず、彼女が着替えるのを黙って見つめ続けた。その視線に気づいた里香は、羞恥で顔を真っ
雅之は両手をポケットに突っ込んだまま、気だるそうに主寝室を振り返りもせずに出て行った。まるで、さっきのことが自分とは無関係だと言わんばかりだ。「ほんと、こんな非常識な人、初めて見た!」と、かおるは足を踏み鳴らして憤慨している。里香は一瞬沈黙したあと、ため息混じりにぽつりとつぶやいた。「もう寝よう」かおるは何も言えず、ただうなずくしかなかった。ベッドに横になりながら、里香の頭にはこれからの生活のことが浮かんでいた。ここを出て、どこか別の場所に引っ越すべきだろうか?いや、雅之の性格からして、どうせまた追いかけてくるに違いない。それに、あの態度……謝る気なんてさらさらなさそうだ。むしろ開き直ってごねるつもりだろう。横を向いても眠気は一向にやってこない。翌朝、里香は寝不足のせいで目の下にクマを作りながら寝室から出てきた。「里香ちゃん、大丈夫?昨晩ちゃんと眠れなかったの?」とかおるが心配そうに声をかけた。「ちょっとね」と、里香は一言だけ返した。ちょうどその時、雅之が客室から姿を現した。Tシャツにパンツというラフな格好で、がっしりした腕が露わになっている。短髪は無造作に整えただけで、前髪が自然に額にかかり、その冷たく鋭い目元もどこか柔らいで見える。家庭的な雰囲気さえ漂っていた。「物語でも聞きたいか?今は暇だから、今夜読み聞かせてやるよ」雅之は口元にわずかな笑みを浮かべ、冗談めいた口調で里香を見つめた。里香は無表情のまま彼の横を通り過ぎ、冷たく一言。「不吉」そのあとを通ったかおるも負けじと言い放った。「そうよ、不吉そのもの!」雅之は気にした様子もなく、二人のあとを追ってダイニングへ向かった。朝食の準備を終えた家政婦が「おはようございます」と挨拶するが、雅之の姿を見て一瞬戸惑った。「こちらの方は?」雅之は平然と里香を指し、「彼女の夫だ」と答えた。家政婦はぽかんとした表情で固まった。「気にしないでください。見なかったことにしてください」と、かおるは眉をひそめて言った。雅之は鼻で笑い、「お前みたいに礼儀知らずじゃないからな」と返した。「礼儀知らず?」と、かおるは皮肉な笑みを浮かべた。「私、礼儀はちゃんと相手を選んで使ってるのよ。あなたに向ける礼儀なんてないわ!」案の定、二人は火花を散らし始めた。
雅之がここに滞在して、もう一週間が経った。初日の夜にちょっとした騒動を起こして以来、目立った出来事といえば、わざと里香の浴室に入ったくらいで、それ以降は何事もなく過ぎている。みんなそれぞれ、何事もなく穏やかに過ごしていた。かおるも徹底して雅之を無視している。ただの「借り部屋の住人」として淡々と扱っているだけだ。一方の雅之はというと、毎日運動をしたり本を読んだりしながら、まるで悠々自適な引退生活を送っているかのよう。二宮グループがDKグループとの合併を進めて世間を賑わせている今でも、彼は全く焦った様子を見せない。まるでDKグループが自分の築き上げたものではないかのように、泰然としているのだ。そんな彼をニュース越しに見ていた里香の心中は複雑だった。大学卒業後ずっとDKグループで働いてきた里香にとって、その会社は特別な存在だったからだ。もしあんなことがなければ、きっと簡単に辞めたりしなかっただろう。それなのに、どうして雅之はこんな状況でも平然としていられるのか?その疑問をどうしても抑えきれず、里香は意を決して彼の部屋のドアをノックした。「入れよ」低く響く声が中から返ってきた。一瞬ためらったものの、里香はドアを押し開けて中に入った。最近は杖なしでも歩けるようになり、足取りもだいぶ軽やかになっている。雅之は椅子に座ったまま読書をしていたが、里香の姿を見ると、わずかに眉を上げた。「珍しい客だな」雅之は本を閉じ、低い声でそう言いながら彼女を見た。その瞳はどこか冷静で、底が見えない。里香は立ったまま尋ねた。「いったい何を考えているの?」「何の話だ?」雅之は眉を少し動かして、淡々と答えた。「DKグループが二宮グループに吸収されようとしているのよ。合併が成功したら、もうDKグループはなくなっちゃうの。それを黙って見ているつもり?」雅之の唇には薄い笑みが浮かんだ。「黙って見ているのが悪いのか?目を閉じてみるのも、案外悪くないぞ」その言葉に、里香は唇を噛んだ。こんな話をしに来た自分が馬鹿らしくなってくる。里香はくるりと背を向け、部屋を出ようとした。「里香」背後から雅之の低い声が響き、彼女の足が止まった。「何よ?」「お前はDKグループを気にしているんだろう?」その問いは彼女の心を抉るようだった
里香は驚いて振り返ると、少し離れたところに雅之が立っているのが目に入った。手にはカップを持っていて、湯気がほのかに立ち上っている。どう見ても作りたてのようだ。「あなた、私の話を盗み聞きしてたんじゃないの?」少し眉をひそめてそう言うと、雅之は無言で近づいてきて、隣の椅子に腰を下ろした。彼も同じように窓の外を見つめている。その横顔は整っていて、輪郭がくっきりしている。落ちた前髪のせいで、どこか少年っぽさが漂っていた。里香はふと目を奪われ、初めて彼と会った時のことを思い出していた。「由紀子に毒を盛るよう頼まれたんじゃないか?」雅之が窓の外を見たまま、淡々と口にした。「えっ……どうしてそれを知ってるの?」里香は驚きで声を漏らした。雅之の唇がわずかに曲がり、嘲るような笑みを浮かべた。「君だけじゃないよ。他の側近にも同じことを頼んでたみたいだし。こういうの、なんて言うんだっけ?『広く網を張る』ってやつ?」里香の表情が少し硬くなり、心の中は複雑な感情で渦巻いていた。「まだ僕が盗み聞きしたことを気にしてるのか?」雅之はちらりと里香を見て言った。そして、薄く笑いながら続けた。「盗み聞きなんてしてないよ。ただ、通りがかりでたまたま耳に入っただけだ」里香は少し目をそらしながら答えた。「言ったでしょ。そんなこと私にはできないって。万が一あなたが死んだら、私が刑務所行きになるでしょ?そんなの絶対嫌だもん」雅之は低く笑い声を漏らした。「随分と小心者だね」里香は何も言わず、黙っていた。「そんなに怖がりなのに、どうして僕と離婚しようなんて思えたんだ?」雅之の言葉に、里香は一瞬息を飲んだ。彼はじっと彼女の顔を見つめた。その顔は化粧ひとつしていないのに、清潔感があって、どこか柔らかい雰囲気を醸し出している。「祐介が後ろ盾になってくれるから?」そう言って、雅之はスマホを取り出し、一枚の写真を見せつけた。「じゃあ、この写真を見た後でも、彼に好感を持ち続けられるかな?」里香の眉がぴくりと動き、険しい表情を見せた。「何言ってるの?私と祐介兄ちゃんはただの友達よ!」そう口では言いながらも、目は自然とスマホの画面に吸い寄せられた。そこには一枚の写真が映っていた。寝室で撮られたと思われる写真だ。祐介と蘭が並んで写っている。写真を見る限り
もういい。帰ってきてくれただけで十分。帰ってきてくれた、それだけでいい。少なくとも、今こうして二人が同じ場所にいれば——雅之が目を覚ました時に、ちゃんと説明できるはずだから。里香は帰らず、そのまま病院に泊まり込むことにした。雅之が目を覚ますのを、ここで待つつもりだった。かおるも仕方なく一緒に残ることにした。やっぱり心配だったのだ。何と言っても、里香は今、妊娠中なのだから。翌日。景司が病室にやってきた時、里香は丁寧に雅之の身体を拭いているところだった。優しい眼差しで、根気よく、ひとつひとつ心を込めて世話をしていた。「里香、家に電話しとけよ。今日は大晦日だし」「うん、わかった」頷いた里香は、身体を拭き終わるとスマートフォンを取り出してソファに腰掛け、グループチャットを開いてビデオ通話をかけた。すぐに繋がり、画面には眼鏡をかけた秀樹の姿が映った。「お父さん、大晦日おめでとう!」にこっと笑いかけると、秀樹もにこやかに頷いた。「おめでとう。お前もな。それで、雅之はどうだ?」「危険な状態は脱したよ。あとは、目を覚ましてくれれば大丈夫」秀樹は安心したように頷いて、「里香ちゃん、無理すんなよ。ちゃんと休めよ、いいな?」と声をかけた。「うん、わかってるよ、お父さん」そのあと賢司も少しアドバイスをくれて、瀬名家のほかの家族たちも次々に顔を出して声をかけてきた。今の里香は、瀬名家にとっていちばん大切な存在。みんなが自然と彼女に気を配っていた。里香は一人ひとりに丁寧に応じ、ほぼ一時間ほど通話してから、ようやくスマートフォンを置いた。外はすっかり車通りが少なくなり、街は静けさに包まれていた。みんな、家で年越しをしているのだろう。昼頃、かおると月宮がやって来た。「特別においしい料理、用意してきたのよ。場所が病院でも、お正月はお正月!おいしいものたくさん食べて、元気つけなきゃ!」かおるはにこにこしながら声を弾ませた。「うん。彼が退院したら、今度は私がご飯作ってあげるね」その言葉に、かおるはぱっと顔を輝かせた。「わあ、いいね!どんな腕のいいシェフが作っても、あなたのご飯には敵わないわよ!」月宮も穏やかに頷いた。「うん、確かに」里香の視線は自然と、病室のベッドの上に向かった。雅之はまだ昏睡状態
里香はなんとか感情を抑えながら、月宮に尋ねた。「中に入ってもいい?」ここまで来て、断れるはずがなかった。月宮はすぐに人を手配してくれた。里香は防護服を身に着け、病室へと入った。マスク越しでもわかるほど、消毒液のきつい匂いが鼻をついた。そんな中、彼のもとへ一歩一歩近づいていく。雅之の周囲には数々の医療機器が並び、顔には酸素マスク。整った顔立ちは青白く、やせ細っていた。里香はそっと歩み寄り、触れようと手を伸ばしかけたが、ふと自分の手袋に気づき、手を止めた。これじゃ、何の感触も伝わらない。「雅之……」手を下ろし、ベッドのそばに立ったまま名前を呼んだ。その声は鼻が詰まっているような、こもった声だった。瞬きを繰り返しながら、必死で感情を抑えようとした。「なんで……なんで何の連絡もなしに消えたの?メッセージのひとつもなくて、私がどれだけ怒ってたか、わかってる?それに……聡があなたの人間なら、なんでもっと早く教えてくれなかったの?ちゃんと説明してくれてたら、私、あんなに怒らなかったのに……」ねぇ、わざとでしょ?わざと目を覚まさないで、わざと私に会わなかったんでしょ?私が焦ってるの見たかったんでしょ?私に折れてほしかったんでしょ?」だんだんと声が震え、最後には嗚咽混じりになっていた。けれど、涙を拭くこともできなかった。ただ、頬を伝う涙が視界を曇らせるのを、なすがままにするしかなかった。「雅之……お願いだから目を覚まして。それだけでいい。それだけで……全部、許すから」その言葉が終わった直後だった。突然、荒い呼吸音が響き、すぐそばの医療機器が警報を鳴らし始めた。医者と看護師が飛び込んできて、里香は外へと押し出された。「どうしたの!?彼、どうなったの!?」里香が必死に問いかけると、医者は手短に告げた。「今すぐ検査をしますので、外でお待ちください!」廊下へ押し出された里香のもとに、かおるが駆け寄って支えた。「どうしたの!?何があったの!?」里香は混乱したまま首を振り、まつ毛にはまだ涙が残っていた。「わたしにも……わからないの……今、彼と話してたのに、急に外に出されて……」かおるはそっと彼女を抱きしめた。「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫だから。たぶんね、雅之が里香ちゃんの
里香が突然帰ると言い出したことで、瀬名家の人々は驚きを隠せなかった。賢司と秀樹が慌てて里香の部屋に駆けつけると、彼女はすでに荷物をまとめ終えており、二人とも不安げな表情を浮かべていた。「里香、一体どうしたんだ?なんでそんなに急いでるんだ?」秀樹が一歩前に出て問いかけると、里香は深く息を吸い込み、落ち着いた声で答えた。「雅之がケガをしたんです。どうしても会いに行かなきゃって思って……」「な……」秀樹は一瞬言葉を失った。つい最近まで、彼女は雅之のことをひどく嫌っていたはずだ。顔も見たくないって言っていたのに……どうして突然、気持ちが変わったんだ?秀樹をまっすぐ見つめながら、里香は目を潤ませて言った。「お父さん、ごめんなさい。一緒に年越しできなくて……でも、行かなきゃ。行かなかったら、きっと後悔する。きっと一生悔やむと思うの」その様子は、あまりにも切実だった。秀樹は「年越してからにしろ」と言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。代わりに賢司が口を開いた。「まず、こっちでも状況を調べてみるよ」もはや、二人にも彼女を引き止めることはできなかった。なにしろ、雅之は里香のお腹の子の父親なのだから。秀樹は小さく息を吐いて言った。「せっかく帰ってきてくれたし、みんなで久しぶりに団らんの年越しかと思ってたんだが……来年までお預けになりそうだな」「彼が無事なら、すぐ戻ってきます」里香がきっぱりとそう答えると、「うん、無理するなよ。子どもの父親でもあるし……」と、秀樹もそれ以上は何も言えなかった。景司はすぐにプライベートジェットの運航ルートを手配し、里香はスーツケースを持って飛行機へと乗り込んだ。景司も同乗していた。「一人で帰らせるのは心配だしな。俺も一緒に行くよ」「そうだ、それがいい」秀樹も頷いた。「何かあったら、景司に全部任せておけ」賢司も一言添えた。「里香のこと、頼んだぞ」ここまで言われて、里香もさすがに断れなかった。「できるだけ早く戻ります」家族の顔を見つめながら、涙ぐんでそう言った。飛行機は滑走路を離れ、夜の空へと飛び立っていった。冬木。二宮グループ傘下の病院内。集中治療室の明かりは、いつもどおり、こうこうと灯っていた。桜井はいつものように様子を見に
里香はまだ少し半信半疑だったが、景司の落ち着いた表情を見て、彼が否定しないことに気づいた。……本当なの?もしこれがかおるの耳に入ったら、喜びすぎて気絶するんじゃないか?そう思いながら、里香は鼻を軽くこすってから視線をそらした。夕方。秀樹が帰ってきた。明日は大晦日。瀬名家の人たちも次々と集まり始めていて、リビングはいつも以上ににぎやかだった。里香はかなり疲れていて、二階で少し眠ったあともそのままベッドで横になっていた。ときどき、階下から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。外では子どもたちが雪遊びをしているらしく、にぎやかな声が混じっていた。でも、里香の心はぽっかりと穴が空いたようで、どこか現実感がなかった。ふいに月宮に言われた言葉を思い出し、唇をきゅっと引き結んだ。スマホを手に取り、ロックを解除して、スクリーンセーバーの写真を見つめながら、お腹にそっと手を添えた。そのとき、スマホが震えた。かおるからのメッセージだった。【大変!!】【里香ちゃん、雅之が銃で撃たれて、ずっと昏睡状態なんだよ!】【ねえ、見た!?メッセージ見た!?】立て続けに三通。尋常じゃない内容に、里香は思わず体を起こした。顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきり分かった。文字は読めるのに、意味が頭に入ってこない。銃で撃たれた?長い間昏睡状態って、どういうこと?そんなはずない。雅之が撃たれただなんて……なんで……!?震える指で、かおるの番号をタップした。なんとか発信できたものの、声を出そうとしても、うまく出なかった。「……もしもし、かおる?さっきの……どういうことなの……?」なるべく冷静に話そうとしたけど、声の震えは止められなかった。電話の向こうのかおるも、明らかに動揺していた。「私も、さっき聞いたばっかりなの!あのね、瀬名家であなたの歓迎会が終わった後、雅之、何も言わずに帰ったでしょ?それで、その夜に冬木に戻って、いきなり撃たれたんだって!しかも心臓をかすめたって言うから、本当に危なかったらしくて……今も集中治療室にいて、まだ意識が戻ってないの!」「どうしてそんなことに……」里香の顔は信じられないというより、恐怖に染まっていた。かおるは焦りながら、なおも言葉を重ねた。「詳しいことは全然わか
月宮の目を見つめながら、かおるはしばらく黙っていた。――月宮と縁を切る?無理に決まってる。月宮家は冬木じゃいろんな人脈が絡んでて、普通の集まりでも顔を合わせることなんてざらにある。だから、唯一の方法は距離を取ること。あとは冷たくするしかない。それに、こんなことで月宮と揉めたくもなかった。「じゃあ、それで決まりね。あの人からまた連絡きたら、すぐ教えて」かおるは、本気でこれ以上この話を引きずる気はなかった。月宮は口元に微かに笑みを浮かべ、「もちろん」と答えた。そして、かおるのそばに腰を下ろし、じっと見つめながら聞いた。「一緒に帰るか?」明日は大晦日。結婚してから初めての年越しで、年が明けたらすぐに式も控えている。かおるは「うん」と頷き、立ち上がりながら言った。「ちょっと、里香に声かけてくるね」月宮も頷いた。「一緒に降りようか」玄関に向かって歩きながら、かおるはふと思い出したように聞いた。「そういえばさ、雅之って今何してるか知ってる?全然連絡ないし、音沙汰なしじゃん」月宮はどこか意味ありげな目でかおるを一瞥し、「さっき里香と話したけど、彼女、雅之には全然興味なさそうだったよ」と言った。かおるはその言葉に少し違和感を覚えた。でも、里香の最近の様子を思えば、あながち間違いとも言えず、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、その話は置いとこっか」階段を降りたかおるは、里香に冬木へ帰ることを伝えた。「ほんと、あんたって根性ないんだから」里香は笑ってからかうと、それを聞いた月宮は眉をひそめた。「かおる、やっと機嫌取れたばっかなんだから、邪魔しないでくれる?小松さん」里香はそれを無視して、かおるに持たせる荷物を用意させた。かおるは遠慮なく、それらを全部受け取った。玄関まで来て、かおるは里香をぎゅっと抱きしめた。「じゃ、数日後に戻ってくるから。外寒いし、見送りはいいよ」「うん」里香は頷き、二人の背を見送った。ふと振り返ると、賢司が階段から降りてきた。黒のタートルネックニットがよく似合っていて、姿勢もしゃんとしていた。「お兄ちゃん」里香が声をかけると、賢司はそれに応えて尋ねた。「もう帰ったのか?」「うん」里香が頷いた。「誰が?」ちょうどそのとき、景司
かおるは思わず目を見開いた。賢司は立ち上がり、彼女のほうへ歩いてきながら尋ねた。「離婚するのか?」かおるは首を横に振った。「別にケンカしたわけでもないのに、なんで離婚しなきゃいけないのよ」賢司はすでにかおるの目の前に立っていて、その言葉を聞くなり、ふいに手を伸ばした。かおるはとっさに身構えて二歩後ろに下がり、背中がドアにぶつかった。そのまま彼を警戒するように睨みつけた。「なにするつもり?」賢司はじっとかおるの目を見つめ、その緊張感を察すると、さらに冷たい表情になってドアノブに手をかけ、そのままドアを開けて彼女を外へ押し出した。「人妻が俺の部屋にいるとか、どう考えてもアウトだろ」そう言い残して、さっさとドアを閉めた。「ちょ、ちょっと、あんた……!」かおるはその場で呆然と立ち尽くした。閉まったドアを見つめながら、何も言い返せなかった。こ、こんな人……どうしてこうなのよ。でも、まぁ、言ってることは正しい、かも。「かおる」そんなことを考える間もなく、月宮の声が聞こえてきた。振り返ると、彼が階下のリビングに立ち、上を見上げてかおるを見ていた。今さら隠れても無意味だし、逃げるタイミングも失っていた。かおるはそのまま階段を下りて、「なによ」と声をかけた。月宮は、どこか冷めた表情をしたかおるを見つめながら近づいてきて、手を取り、真剣な眼差しで言った。「話をしよう」かおるは手を振り払おうとしたが、月宮の力は強くて引き抜けなかった。「手を放して」にらみつけながらそう言うと、月宮はきっぱり言った。「無理だ。一生、放さない」その言葉は強引で、少し傲慢だった。そして、その瞳には、はっきりとした独占欲がにじんでいた。ずるい。こんなふうにされるの、なんか……嫌いじゃないかも。「何を話すのよ?」「どの部屋に泊まってる?」月宮が尋ねた。その言葉を聞いたかおるは、一気に目を見開いて彼をにらんだ。「はぁ!?どういう意味よ?まだ話す前から、もうそういうこと考えてんの?つまり、あたしに会いに来た理由って、それ!?」月宮はすかさず、かおるの口を手でふさいだ。目を閉じると、リビングにいた里香を見て「彼女の部屋はどこだ?」と尋ねた。里香はぽかんとしながらも、指で部屋の
一言で、その場に火薬の匂いが立ち込めたような緊張が走った。月宮はほんの少し眉を上げ、凛とした表情の里香を見つめながら、ぽつりと聞いた。「……俺、巻き込まれてる感じ?」「えっ?」里香は一瞬、その意味がつかめず、きょとんとした。けれど、月宮の笑みはすぐに消え、声にも冷えた色が混じりはじめる。「おかしいと思わなかったか?なんで雅之が急に錦山を離れて、しかもずっと連絡してこないのかって」その言葉に、里香の表情もさらに冷たくなった。「それは彼の問題よ。私には関係ないわ」「はっ」月宮は小さく冷笑した。「関係ない、ねぇ……よく言うよ。俺はずっと、あんたら二人が揉めたり、傷つけあったりしてるのを黙って見てきた。口出しは一切しなかった。でも、雅之には何度も言ってきたんだ。本心から目をそらすなって。後悔するようなことはするなって。アイツもちゃんと変わろうとしてた。それくらい、あんたもわかってたろ?でも……お前、もう雅之のこと、愛してないんだろ?」月宮の視線が鋭く突き刺さった。その言葉に、リビングは一瞬、重い沈黙に包まれた。里香は何も答えなかった。「……そうか。もう本当に気持ちはないんだな」それ以上は追及せず、月宮は話を続けた。「だったら、雅之のこれからがどうなろうと、お前には関係ない。俺もこれからは、雅之のことでお前を巻き込むようなことはしない。今日ここに来たのは、かおるを連れて帰るためだ。戻るかどうかは、本人とちゃんと話して決めたいと思ってる」「彼女、会いたくないって言ってたわ」「それでも構わない。ここで待たせてもらうさ。恋愛ってやつはな、結局、腹割って話さなきゃ始まらない。誰も何も言わなかったら、口なんてあっても意味ねぇからな」その言葉に、里香の胸がわずかに揺れた。腹を割って話す――……そうだ、自分も雅之に、ちゃんと聞くべきなのかもしれない。少なくとも、彼に説明の機会くらいは与えるべきだ。その頃、二階の部屋では、かおるは、浴室から出てきた大柄な男を目にして、思わず目を見開いた。広い肩幅に引き締まった腰、はっきりと浮き出た筋肉のライン。短髪をタオルで拭うたびに、その腕の筋肉がぐっと浮かび上がり、ただ立っているだけでも圧を感じる。濡れて乱れた髪。額の下からのぞくその瞳は、どこか冷たく、じっとこち
かおるは彼をじっと見つめながら言った。「お兄ちゃん、それってどういう意味?私みたいに元気で可愛くて綺麗な妹が増えるのが嫌なの?」そう言いながら両手で頬を押さえて、ぱちぱちと瞬きをした。景司は淡々と笑いながら答えた。「俺は別に構わないけど、ある人はそう思わないかもしれないな」「え?」かおるはきょとんとした顔をしてから、すぐに里香の方を見た。すると、里香は両手を広げて「私は何も言ってないよ」と無言でアピール。となれば、「ある人」っていうのは……賢司しかいない。かおるは少し不満げに唇を尖らせた。だめだ、やっぱりちゃんと賢司に直接聞かなきゃ。どうしてそんなに私のことが嫌なの?その頃、秀樹と賢司の話し合いは、もう2時間近く続いていた。ふたりがリビングから出てきた時、階段の下で腕を組んで立っていたかおるの姿が目に入った。「おじさん、もう遅いですから、お休みになってください」かおるが声をかけると、秀樹は軽くうなずいて、「うむ、お前たちも早く休め」と言い、自室へと戻っていった。かおるはすぐに賢司の方へ向き直った。「賢司さん、ちょっとお話いいですか?」賢司は片手で袖を整えながら、ゆっくりと階段を降りてきた。すらりとした長身に整った顔立ち。気品と冷たさを醸し出しながら、無表情のままかおるを見下ろした。「用件は?」かおるはずばり聞いた。「私のこと、何か不満でもあるの?」「別にない」賢司はそう言って、かおるの横をすっと通り過ぎ、バーカウンターで水を汲んだ。かおるはその後を追いかけ、身を乗り出すようにして尋ねた。「じゃあ、私のことどう思ってるの?」「特に何も思っていない」かおるは内心、答えに戸惑いながらも、真正面からは聞けなくて、自分の指を軽く噛んだ。「それって……」「言いたいことがあるなら、はっきり言え」賢司の言葉にかおるは真剣な眼差しを向けた。「おじさんが私を養女にしたいって話してるのに、なんであなたは反対するの?」賢司は水を一口飲み、喉仏を上下させてから静かに答えた。「瀬名家には、娘はひとりで充分だ」はっきりそう言われてしまうと、さすがに言い返せなかった。かおるは悔しそうに賢司を睨みつけた。「……やっぱり、私のこと嫌いなんでしょ?」そう言い捨てて、そのまま踵を返し行っ
「えっ!?」かおるは彼女の話を聞いて、目を見開いた。聡が雅之の手下だったなんて……「ちょっと待って」手を上げて考え込みながらつぶやく。「東雲凛、東雲新、東雲徹、東雲聡……なるほど、全部繋がってたのね!」里香:「……」かおるはじっと里香を見つめ、「こんなに共通点があったのに、全然疑わなかったの?本当に?」里香は素直に首を横に振った。「うん」「はあ……」かおるは深いため息をついた。何て言ったらいいんだろう。雅之は答えを目の前に差し出していたのに、彼女は気づかなかった。聡を信じてたから?それとも、そもそも雅之のことを意識してなかったのかな?たぶん、両方なんだろう。かおるはそっと彼女を見つめ、「じゃあ今、雅之に怒ってるの?」里香は答えた。「怒っちゃダメなの?」かおるは顎に手を当てて考え込んだ。「もちろん怒っていいと思うよ。でもね、聡がそばにいたから、万が一のときすぐに見つけてもらえたんだし、前の一件も、結局は雅之が聡を通して助けてくれたんでしょ?ちゃんと考えてみたら、正しいとも間違ってるとも言いきれない気がするんだよね」里香は無言になった。かおるはそんな彼女の様子をうかがいながら、静かに言った。「里香ちゃん、一番つらいのは、彼が何も言わずにいなくなったことなんじゃない?何の説明もなく」里香は唇をぎゅっと噛んだ。「別に気にしてない」そう言って、立ち上がり、階段を上がっていった。「あっ!」かおるは慌てて後を追い、里香の顔を覗き込みながら言った。「ねえ、月宮に話してみよう?」「やめて!」里香はかおるを睨みつけ、「聞かないで。月宮にも言わないで。今は彼に会いたくないし、何も聞きたくないの」「わかった、わかった、話さないし聞かない。他のこと話そう!」かおるは彼女の感情が不安定な様子に気づいて、急いでそう言った。妊娠中の里香は気分の起伏が激しく、さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣き出すこともあった。だから、まわりの誰もが彼女の気持ちを気遣っていた。夜。秀樹、賢司、そして景司が帰ってきて、かおるの姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。かおるの明るく飾らない性格はみんなに好かれていて、家族も彼女のことを気に入っていた。賢司は彼女の薬指に光る指輪をちらりと見て、表情を