LOGIN新月の夜、花嶺桔梗は純潔を失い、家族と婚約者に捨てられた。そして彼女は家政婦の東国美香として生きていくことを決めた。
View More……嫌だ。
嫌だ。
やめて。
痛い。
やめて。
放して――。
「いやああああああ!」
喉を引き裂くような悲鳴とともに、私は突き飛ばされたみたいに目を覚ました。
全身がびくりと跳ね、呼吸が乱れる。夢だと理解するより先に、両手が勝手に自分の体を確かめていた。
布の感触。パジャマ。乱れていない。肌にまとわりつくのは、見慣れた柔らかな生地だけ。視線を横に滑らせると、ベッドサイドの間接照明が淡く部屋を照らしていた。
その温かな光に触れた瞬間、胸の奥に張り詰めていた何かがふっと緩み、同時にどうしようもなく涙が込み上げてきた。
夢だった――そう思えた安堵と、現実から逃げきれないという絶望が、同時に押し寄せていた。
.
あの悪夢のような夜から、二ヶ月。
忘れなければならない、忘れてしまえと自分に言い聞かせ続けた日々は、確かに少しだけ効果を持っていた。
夜の暗さに対する恐怖は、ほんのわずかだが薄れ、眠れる時間も増えていた。
それなのに、どうして今になって――。
「なんで……こんなことに……」
震える声が、静まり返った部屋に落ちる。理由は分かっている。分かってしまっているからこそ、否定したかった。
.
ずっと生理が来ていなかった。
忙しさやストレスのせいだと、自分に言い訳を重ねてきた。
でも、頭の奥底ではずっと警鐘が鳴っていた。
「もしかして」という言葉が、消えずに残り続けていた。
そして、逃げ切れなくなった私は、ついに確かめてしまった。
ネットで購入した妊娠検査薬。念のために二本。まるで保険みたいに用意したそれは、最初から答えを知っていたかのように、無慈悲な結果を突きつけた。
朝、震える手で使った一本目は、はっきりとした陽性を示した。
違う、間違いだと、祈るように思った。こんなはずはない、不良品に間違いないと思った。
だから時間を置いて、もう一本を使った。
結果は変わらなかった。
線は、消えなかった。
むしろ、逃げ場を塞ぐように、くっきりとそこに存在していた。
私は、妊娠している。その現実を認識した瞬間、記憶の底に押し込めていたものが、濁流のように溢れ出してくる。新月の夜、光の一切ない部屋。視界を奪われた暗闇の中で、唯一はっきりと感じていたのは、他人の体温と重さだった。
乱暴に下着を引き剥がされた感触。耳元で荒く響く呼吸。獣のような、理性を欠いた息遣い。逃げようとした。
叫んだ。
けれど、「煩い」と一言で口を塞がれ、その声は外へ届くことなく潰えた。
恐怖が喉を締めつけ、言葉は次第に形を失っていく。「やめて」と繰り返すのが精一杯だった。
何をされているのか分からないほど幼くはなかった。
だからこそ、理解してしまう恐怖があった。
必死に足を閉じようとしても、力任せにこじ開けられる。抗うほどに押さえつけられ、逃げ場は奪われていく。そして、男は躊躇なく押し入ってきた。
体が裂けるような痛み。息が止まるほどの衝撃。まともに呼吸もできないまま、内側を蹂躙される感覚に、思考はぐちゃぐちゃに掻き乱された。
何度も意識が遠のいた。
それでも完全に途切れなかったのは、逃げたいという本能が、最後まで私を繋ぎ止めていたからだと思う。いっそ気を失えたらどれほど楽だったか。それでも、現実は容赦なく続いた。
記憶は断片的に曖昧なのに、最も気色の悪い感触だけは、鮮明に体に刻み込まれている。何度も繰り返される侵入と、内側に残される異物感。自分の体が、自分のものではなくなるような感覚。やがて、男は満足したのか、突然私の上に重みを預けてきた。
押し潰される恐怖に悲鳴を上げ、必死で押しのけた。
体勢を崩した私はベッドから転げ落ち、硬い床に打ちつけられた。
静寂の中に響くのは、自分の荒い呼吸と――もう一つ、信じられないほど穏やかな寝息。男は、眠っていた。
その事実を理解した瞬間、胸の奥から込み上げたのは、恐怖ではなく、激しい憎悪だった。
殺してやりたい。そう思った。
自分の人生を踏みにじった存在を、このまま生かしておくことが許せなかった。
けれど、現実の私は人を殺す術も覚悟も持っていなかった。
どうすればいいのか分からない。中途半端な行動で男を起こしてしまえば、再び同じことが繰り返されるかもしれない。その恐怖が、怒りを押し潰した。
悔しさに歯を食いしばりながら、私は逃げることを選んだ。
奪われた下着は見つからない。暗闇の中で探す余裕もなかった。
乱れた服を整え、冷たく湿った感触に吐き気を覚えながら、コートで全てを覆い隠す。出口へ向かう途中、扉の前で何かを蹴飛ばした。
自分の鞄だった。
それに気づいた瞬間、胸の奥に小さな安堵が灯る。これさえあれば、ここから離れられる。私はそれを掴み、振り返ることなく部屋を飛び出した――。
.
そして今、その夜の結果が、確かな形となって私の中に存在していた。
逃げたはずの現実が、二ヶ月の時を経て追いついてきたのだ。
ナターシャが遠くなる。そんな予感と、なんとなくの確信。俺が、自分でも、かなり驚くくらい自然に出た。ああ、これは、当たる。ナターシャは、遠い存在になる。距離の話、ではない。物理的な話、でもない。手の届く範囲から、手が触れられるところから、離れていく、外れていく。そして、一年後は?今はまだ、同じ学校に通って、同じ時間を過ごしている。でも、いずれ、別々になる。違う世界の中で、生きるようになる。そのとき、自分は——隣に、いられるか?胸の奥が、鈍く痛む。情けない、と思った。俺のほうが、一歳上というだけ。先に大学生になるだけ。痛感させられた。ナターシャは、俺の隣に立つために前に出たのかもしれない。でも、その結果は、恐らく……もしかしたら、ナターシャは俺では足りなくなるかもしれない。俺は、その結果を怖がっている。「……ほんと、ダサいな」苦笑が漏れる。苦笑が反響して、俺の自嘲的な笑いが、世間が俺を嘲笑う声に聞こえる。「ダッサいし……小さい!」ダサいことは、本当に思っていること。これが俺の本音だ。俺の、今の、限界なのだろう。でも、できるだろう?俺は、ナターシャを手放したくない。ナターシャを、誰にも渡したくない。ナターシャの隣は、自分のものだと、俺が、そう思わないでどうする。思っていたんだ、なんてあとから言っても意味はない。それこそ、ダッサい。いまさらって、取り返しのつかない事態になってから、「実は」なんて言っても遅い。ナターシャは俺のものだと、言い続けなければ意味がない。身の程知らずだと言われようと、言ってやる。それに、いま、身の程知らずとどれだけ嘲笑われようと、それを黙らせられるだけの力をこれからつければいい。親の七光り?それなら、それ以上に光って見せればいい。父さんと母さんを目標にして、その一歩先にいけばいい。目標が明確ならば、それだけやりやすいってものだ。いま、いまの俺では届かなくなるから手を引っ込めるなんて、自分が傷つきたくないだけ。それじゃ、ダメだ。小さくなるな。ナターシャは、自分の人生を生きるために、出た。そこに、ナターシャの行く先に、俺がいけばいい。遅れたなら、走ればいい。そのとき、そこに、自分がいるために。順番を間違えるな。「ふう……」スマホの画面は、もう違う動画を
動画は、俺の迷いなんてそっちの気で進んでいく。摺りの工程が淡々と進む。必要な道具を選ぶ手には迷いがなく、瞬く間に色が重なっていく。色と色の境の、細く紙に乗る線だけが白い。あとは色、色、色。見慣れているはずのナターシャの技術は、ナターシャ越しの映像だと違って見える。……すごいな。率直に、そう思った。贔屓目じゃなく、これは、評価されると思ったら国内だけじゃない。——海外でも評価される。簡単に、想像はつく。石川明梗。ナターシャの動画に、人間国宝で海外でも知名度の高い石川先生の名前が付く時点で、ナターシャの動画は立ち位置が違う。スケールが、最初から世界を見ている。日本国内の話じゃ済まない話だ。「……やめろよ」つぶやきが、無意識に溢れたと気づいたのは、狭い非常口に反響した自分の声。眉が、眉間による。想像が、勝手に先に進んでいく。海外メディアの注目。インタビュー。コラボレーションのオファー。ナターシャの名前が広がる。顔が知られる。ナターシャという存在が、世界に根付いていく。ナターシャは、頑固だ。進むと決めたら、進む。(……その中で、あいつは)ナターシャが、傷つくことはある。言葉は、評価のためだけのものではない。嫉妬や抗議。評価される分だけ、ナターシャは理不尽に叩かれる。持ち上げられる分だけ、落とされる。ナターシャは、強いけど、無敵じゃない。「……くそ」スマホを握る手に、力が入る。俺はナターシャを守りたい。これは、昔からなんにも変わらない。今すぐにでも、この全てを遮断して、ナターシャをかっさらって、俺だけの、俺しか知らない場所に隠してしまいたい。 誰の目にも触れない場所にナターシャを閉じ込める。ナターシャのことは、俺だけが知っていればいい。——そんな衝動。ああ、俺は父さんと同じだ。母さんは、常に父さんの庇護下にある。父さんが傍にいなくても、護衛の長谷川さんとか、親戚の誰かとか、父さんの影響力の中にいる。それでいいらしく、笑っている母さん。それでいいと思ってもらうため、母さんが望む環境をせっせと作っている父さん。二人は、二人そろってそれでいいと思っているからできる関係。でも、俺たちは違う。それは、できない。ナターシャが、望んでいない。ナターシャは、自らの意思で、世界に向けて一歩を
「桐谷! お前の幼馴染の二年生の、えっと、花岡ナターシャだっけ。あの動画すげえな」……これでもう、何度目だろう。ナターシャが出る新しい動画が公開されたのは、昨夜のことだった。昨夜、公開と同時にその動画を見ようとした。でも、見れなかった。ナターシャの顔を見てから、その顔に後悔がなければ、見ようと決めた。朝食の席は、その話になると分かっていた。だから、母さんにそう言っておいたら、母さんは俺の部屋に朝食を届けてくれた。手間をかけさせてしまったと謝る前に、茉白と莉乃を止めらそうにないからと逆に謝られてしまった。妹たちと顔を合わせないように、部活を理由にして先に出かけた。家は母さんの根回しのおかげで静かだった。でも、学校は賑やか。校門をくぐった瞬間から、違和感があった。騒めき。興奮。いつも無機質な校舎が、まるで生きもののように活気づいていた。「花岡ナターシャだ」誰かの呟きに、それを震源地として人が一斉に動く。彼らの視線を辿ると、ナターシャがいた。二年生のタイをつけた女の子たちと話している。その顔は……うん。「桐谷?」「トイレ」.トイレに行く振りをして、階段を上にのぼる。
「やりたいことやってるだけでしょ?」軽い口調。でも、場を制する力がある。「……そうだけど」斜め前の子が、彼女の雰囲気に臆する。「ならさ、それでいいじゃん。騒ぎすぎだよ」その一言で、ざわつきが少し収まった。助けてくれた?そう思った瞬間——。「でもさ」彼女は、私をまっすぐ見た。「これから大変だよね」表情は、笑っている。でも、その目は笑っていない。「こういう目立った活動って、桐谷先輩の迷惑になるんじゃない?」そうなのか。彼女は誠司が……。——これは、試されている。私は、視線を逸らさなかった。「うん、そうかも」「へえ、分かっているんだ」少しだけ、興味を持ったような顔。「でも誠司のお母さんも動画配信をしていて、この動画も、その繋がりだったから……私が何をしたって、あまり変わらないと思う」「……コネ、じゃん」その言葉には、棘があった。棘を、隠していなかった。でも、完全な敵意ではない。私の変化に戸惑っている。距離を測りかねている。声に出したのが彼女というたけで、これは周りの人たちも同じだろう。「コネだよ。それでも、やると決めたから頑張っているの」
「玲子さん、なんでそんなに私を憎むんです」「……憎んで、なんて……そんな……」「嘘です」「……何の根拠があって、そう言うのかしら?」「あなたの私を見る目、私を憎んでいます」動揺を装う玲子さんの目が、本当の動揺で揺れた。「なんで……」「私には分かります。なぜなら、私もあなたを憎んでいるから。いまの玲子さんの目、私の目を見ているみたいです」
「桔梗の動画チャンネルがすごいことになっている」「登録者数の伸びもあれだけど、これ時価にしたらいくらになるのかな」パソコン画面の向こう、自分のタブレットの画面を見る武司の顔が青い。きっと、俺の顔も青い。「いずれ人間国宝といわれている石川明梗初のデジタルアートが、個人の動画サイトのプロフィール画像って、おいおいおい、蓮司、知らなかったのか?」「知らなかった」いや、正確には分からなかった。「桔梗からは石川先生が丸を描いてくれたとは聞いていたが、まさかアイコン画像とは思わなかった」
蓮司さんたちとの、「新たな関係」を私は望んでいない。私は、蓮司さんの妻でいたい。この家族の一員でいたい。 トラウマ、みたいのはある。あの夜のことを思い出して、また暗闇が駄目になった。真っ暗な中にいると、ただ怖いと感じる。あれは蓮司さんだったんだと思っても、「それはそれ」と脳が判断してしまっているように、蓮司さんだから大丈夫にはどうしてもならない。暗闇という条件下で湧き上がる恐怖心はまだいい。問題は、突然湧き上が
「そろそろ二人目かしら」……二人目。最近、「二人目」という言葉だけやけに大きく聞こえてくる気がする。言っている人は悪くない。夫婦仲を疑う、探りではない。下卑た揶揄いでもない。好意的な、夫婦仲がいいからって、ただの感想みたいに言っているだけ。夫婦仲が認められることは、単純に嬉しい。素敵な旦那様ですねと言われても、蓮司さんは胸を張ってYESと言える人だ。そして蓮司さんも、素敵な奥様ですねという言葉に、迷いなくYESと言ってくれる。蓮司
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