知らないまま、愛してた

知らないまま、愛してた

last updateLast Updated : 2026-10-28
By:  酔夫人Completed
Language: Japanese
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新月の夜、花嶺桔梗は純潔を失い、家族と婚約者に捨てられた。そして彼女は家政婦の東国美香として生きていくことを決めた。

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Chapter 1

1-1

……嫌だ。

嫌だ。

やめて。

痛い。

やめて。

放して――。

「いやああああああ!」

喉を引き裂くような悲鳴をあげて、私は突き飛ばされたような衝撃で目を覚ました。

遅れて、全身がびくりと跳ねる。

呼吸が乱れている。

夢だ。

でも、それを理解する前に、両手で自分の体を触っていた。

布の感触。

パジャマを着ている。

肌に触れるのは、柔らかな生地だけ。

周りを見る。

ベッドサイドの照明が、ナイトモードで部屋を淡く照らしていた。

胸の奥で膨らんでいた何かが縮む。

張り詰めていた感じがなくなると同時に、涙が出てきた。

止めようがなくて、流れるままにする。

夢だった。

押し寄せるのは、安心と、この現実から逃げきれないという絶望。

.

悪夢のような、でも現実にあった出来事。

あの夜から、二ヶ月。

忘れなければならない。

忘れてしまえ。

そう自分に言い聞かせ続けた日々は、いま思えば、少しだけ効果があった。

夜の暗さに対する恐怖は、ほんの僅かだけど薄れていた。

眠れる時間も、少しずつでも長くなっていた。

それなのに。

どうして今になって――。

「なんで……こんなことに……」

震える声が、静まり返った部屋に落ちる。

理由は分かっている。

分かってしまっているからこそ、それを否定したくて堪らない。

.

ずっと生理が来ていなかった。

忙しさやストレスのせいだと自分に言い聞かせていた。

でも。

頭の奥底で、ずっと警鐘が鳴っていた。

もしかして。

その思いがずっとあった。

そして、確かめてしまった。

ネットで妊娠検査薬を購入した。

念のために、二本。

妊娠検査薬は保険みたいに、ただ念のために確かめるつもりで用意しただけだった。

結果を見たとき、「やっぱり」と思ったから。

手が震えていた。

でも、一本目の妊娠検査薬には、朝の陽の光の中ではっきりと陽性反応が出ていた。

でも、「違う」って思った。

間違いだって。

祈るように。

こんなはずはない。

不良品に間違いないって。

だから夜寝る前に、もう一本を使った。

結果は変わらなかった。

妊娠している。

……ああ、嫌だ。

記憶の底に詰めこんでいたのに。

堰をきって、濁流のように押し寄せてくる。

◇◇◇

月のない夜だった。

小さな緑色の非常灯だけが光る部屋の中。

あの暗闇の中、私がはっきりと感じていたのは、他人の体温とその重さ。

むしり取るように乱暴に下着を奪われた。

聞こえるのは、獣の唸り声のような、理性を欠いた凶暴な呼吸。

逃げようとした。

逃げられなくて、叫んだ。

――煩い。

その一言のあと、大きな手で口を塞がれた。

怖かった。

恐怖に、喉が締めつけられた。

手が離れても、もう叫ぶなんてできなくて。

ただ願い事を呟くように、小さく「やめて」と繰り返すだけだった。

相手は男で。

自分は女で。

ホテルの部屋。

ベッドの上。

何をされているのか分からないほど幼くはなかった。

だからこそ、理解してしまって。

ただ、怖かった。

必死に足を閉じようとしたけれど、簡単に開かれた。

抗うほど押さえつけられ、自由は奪われていった。

そして、男は躊躇なく私の中に入ってきた。

押し込んでくるものに、体が引き裂かれるように感じた。

痛みと衝撃。

呼吸もまともにできないほどわけが分からなかったのに、体の中にあるものだけははっきりと認識していて。

あり得ない。

これは悪い夢だ。

そう思いたいのに、体の中が蹂躙される痛みが容赦なく現実を突きつけてきた。

.

揺さぶられ続けながら、何度も意識が遠のいた。

それでも気を失わなかった。

逃げたいという本能が、意識を繋ぎ止めていたに違いない。

いっそのこと、気を失ったほうが楽だったかもしれない。

憶えていることは断片的で、それも霞がかったように曖昧だ。

それなのに、痛みと感触は体に刻み込まれて、鮮明に分かっている。

何度も繰り返された侵入。

体の中に感じる異物感。

気色の悪い熱。

満足するような、生ぬるい息。

他人の身体の重み。

終わりは突然だった。

何度やめてと言っても止まらなかった男の動きが止まった。

次の瞬間、男の体が伸し掛かってきた。

押し潰される恐怖に反射的に男の体を押しのけた。

意識がなかったのか、驚くほど簡単に離れていった。

ただ逃げたくて。

這いずって。

ベッドから転げ落ちて、硬い床に体を打ちつけた。

それで少し冷静になれた。

まだ部屋は暗いまま。

何もない中で響くのは自分の呼吸音。

それともう一つ、これまでの暴力が嘘のような穏やかな寝息。

男は眠っていた。

そう理解した瞬間、感じたのは恐怖ではなく、今まで感じたことのない激しい憎悪。

殺してやる。

いま思えば信じられないけれど。

あのとき確かにそう思った。

自分を踏みにじった男を、このまま生かしておきたくないと思った。

けれど、やっていない。

私には男を殺す方法がなかった。

その覚悟を持っていなかった。

先の想像ができるっていいことだと思う。

私があのとき考えたのは、人を殺して捕まることではない。

殺せなかったときのこと。

殺しそこなったとき、この男はどうするか。

また同じことが繰り返されるかもしれない。

今度は殺されるかもしれない。

死にたくない。

その気持ちが殺意を押し潰した。

そのあとは、ただ悔しかった。

逃げることを選ぶ自分が歯がゆく、歯を食いしばりながら、床の上を手探りで靴を探した。

服は乱れていたものの、下着以外はほとんど身に着けたままだった。

剥ぎ取ったあと男がどうしたのか分からない下着を暗闇の中で探すのは諦めた。

乱れた服を整えた。

冷えた汗で湿った感触に吐き気がした。

全てを覆い隠すようにコートのボタンを留めた。

そこで初めて、コートすらも脱がされていなかったことに気づいた。

非常灯のおかげで出口は分かった。

扉に手を伸ばす直前、何かを蹴飛ばした。

自分の鞄だった。

それに気づいた瞬間、安心した。

スマートフォン。

財布。

逃げられる。

もうこの男に捕まることはない。

私は部屋を飛び出した。

◇◇◇

そして、いま。

あの朧気な夜は確かにあったのだと。

それが、私の中に存在している。

逃げたはずなのに。

現実だったのだと。

二ヶ月の時を経て、あの夜が追いついてきた。

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みのり
みのり
最初からハードモードですが、 物語はスピード感あって読みやすいです 伏線の回収も2回からあ〜なるほどと思いました。 謎の呪いは面白かった
2026-03-16 18:17:09
3
1
274 Chapters
1-2
「まさか、あそこまでするなんて……」自分しかいない部屋の中。乾いた呟きは、自分でさえ他人事のように聞こえた。.あの夜に起きたことは、偶然でも、不運でもなかった。仕組まれていた。そして仕組んだのは継母の玲子さんと、その娘で異母妹の桜子。家族なのに、と裏切られたようにも思う。同時に、中途半端に繋がっていたのが良くなかったのだろうと諦めている。でも、それらは全て、いまにして思えばの話。あのときは何も感じなかった。二人が仕組んだとも思わず、ただ巻き込まれただけの、自分の不運だと思った。何を疑うべきかも分からず。ただあの男から逃げること、家に着けば安心できると、それだけを考えていた。◇◇◇『すぐに来なさい』名乗りもせず、命令から始まった電話。玲子さんからだと画面に表示されていたから、無駄なことをせず黙って聞いた。桜子が酔ったから。パーティー会場のホテルに部屋をとった。父と玲子さんも参加していたではないか。そのまま桜子の面倒をみればいい。言いたいことはいくらでもあったが、黙って聞いていた。玲子さんとの話は会話ではない。命令で、断るという選択肢は存在しない。私は応じるしかない。向かったホテルは、名前を聞くだけで緊張してしまうような格式の高い場所。場違いにならないように、桜子が気に入らないと言って寄越したワンピースを着ていた。あのときの私は、少し浮かれていたように思う。桜子のお下がりのワンピースは私の好みでもなかったけれど、普段と違う華やかさに心が浮き立った。アクセサリーはないからと言い訳をして、いつもより少し濃いめにメイクした。.「花嶺です」フロントで名乗ると、向こうはすでに事情を聞いていたのだろう、何の確認もなく部屋の番号を教えられた。教えられた部屋は高層階。エレベータを降りて、廊下の静けさと広さに息を呑んだ。部屋と部屋の間隔は広かった。スイートルームを取ったのだと分かって、悔しさのような、苦いものを噛んだ。花嶺家にはもう、何の計画もなく高級ホテルのスイートルームに泊まれるような余裕はないのに。父は、花嶺家がお金に困ることなんて一度もなかったとよく自慢していた。それが事実だということは知っていた。それと同時に、父の代になってから急激に傾き、今では必死に取り繕わなくては『資産家』の顔をできないことも
last updateLast Updated : 2026-04-27
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1-3
一難去ってまた一難。その言葉は、あの夜の私のためにある。部屋から逃げ出した。何度か転んだ。誰かに声をかけられたかもしれない。ホテルを出るまでのことは覚えていない。ホテルを出て、最初に感じたのは冷たい風。息を吸って、肺が冷えて。ただ、早く家に帰りたいとだけ思った。停まっているタクシーに乗った。行き先を聞かれて、町の名前を言う。その声は自分でも驚くほど平坦だった。タクシーの中は静かだった。ルームミラー越しに一度だけ目が合ったから、無関心ではなかっただろう。すぐに目を逸らされたから、見て見ぬふりをされたのか。.花嶺邸の門を潜ったとき。掃除が大変で、取り壊すことも考えていた立派な門に、あのときは安心させられた。外の世界は厚い門扉の向こう。もう安全だ。全て忘れてしまおう。なかったことにしてしまおう。そう自分に言い聞かせた。誰にも見られたくなかったから、玄関を通り過ぎて、勝手口から入った。あの人たちが来ることはない使用人のスペース。昔は住み込みの使用人もいたけれど、今は通いで二人だけ。どちらも帰ったあとで、誰もいない空間にホッとした。使用人のスペースと家人のスペースの境にある自分の部屋に行こうとしたときだった。「遅かったわね」玲子さんの声がした。「お父様が『来い』だって」桜子もいた。酔っ払ったのではなかったのか。だから私を呼び出したのではないか。そんなことを思いながら顔を上げると、玲子さんと桜子は満足げな顔をしていた。この瞬間を待ち構えていたのだと分かった。.いま思えば、よくあのタクシーは私を乗せてくれたものだ。髪の毛はぐしゃぐしゃ。化粧は涙と、何度も擦ったせいでボロボロ。暴力の痕は、私が忘れたい現実を否応なく露呈させていた。そんな姿を見て、二人は満足していた。――当然だ。そのために、あれを仕組んだのだから。私は、何かを言うべきだと思った。怒りをぶつける言葉でも、謝罪を求める言葉でも。しかし声は喉の奥で絡まり、音にならなかった。あの男にされたこと、自分の体に起きたことが、恥ずかしかった。知られたくなかった。◇◇◇二人に連れてこられたのは父の書斎。入りたくなかったけれど、背中を突き飛ばされて、たたらを踏みながら部屋の中に入った。そこにいたのは父だけではなかった。錦野 柾(にし
last updateLast Updated : 2025-12-12
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1-4
私と柾さんの婚約はなくなった。私の不貞を理由としたため、父は慰謝料を支払うと申し出た。しかし、柾さんはそれを断った。その代わりに柾さんが口にしたのは。「桔梗さんではなく、桜子さんを私の婚約者とすることで収めませんか?」あまりにも露骨で、『ちょうどいい』と言わんばかりの都合のいい提案。柾さんの提案に驚いていたのは父だけだった。父は何も知らない。玲子さんと桜子がやったことも。実際に不貞を働いていたのは、柾さんと桜子だったことも。玲子さんは驚く素振りすら見せなかった。むしろ『当然』と言うような顔をしていた。桜子は気後れしたように振る舞っていたが、その口元は喜びで歪み、期待を隠しきれていなかった。このために、二人は全てを仕組んだ。玲子さんと桜子は、私と柾さんの婚約を壊したかったのだ。◇◇◇柾さんは由緒ある錦野家の長男。花嶺家と錦野家の間には古くからの付き合いがあり、私と柾さんの婚約は錦野家側から打診されて成立した。錦野家が花嶺家を援助する形の、契約のような婚約だった。祖父が存命だった頃に婚約を打診されたのなら、対等な縁が結べたかもしれない。だが祖父が亡くなり、祖母もまた祖父を追うようにこの世を去った。後を継いだ父には当主としての器量がなく、かつてあった花嶺家の栄光は失われていった。「家が壊れていくところをお二人に見せずに済んでよかった」いまは亡き母がぽつりと漏らしたように、花嶺家は衰退し続けていた。そして、その崩壊を寸でのところで止めたのが、錦野家からの縁談。当時、花嶺家には私と桜子がいた。そして縁談は、『花嶺家の娘』ではなく『花嶺桔梗』、私を名指ししていた。恐らく、錦野家の狙いは落ちぶれた花嶺家ではない。きっと、私の母の実家。柾さんはどこまで理解しているのだろうか。おそらく、ほとんど知らなかったのではないかと思う。だからこそ、あれほど軽やかに「代わりに桜子を」と言えたのだろう。そして、父も分かっていない。婚約の条件を私と一緒に聞いたはずだけど、忘れているのだろう。だから、父は代わりに桜子との婚約を希望する柾さんの申し出を断らなかった。ほとんど迷うことなく受け入れた。そこにあったのは花嶺家の存続を守るための冷静な判断ではなかった。溺愛する愛娘、桜子の望みを叶えたいという単純な感情。いえ
last updateLast Updated : 2026-04-27
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1-5
私と柾さんの婚約がなくなった後、私は父に謹慎を命じられた。表向きの理由は「反省を促すため」だったが、私を外に出さないことで、柾さんの婚約者が変わった原因は私にあるのだと周囲に示そうとしていた。母の実家である西園寺家の目を気にした、いかにも父らしい保身の判断だったと思う。私もそれに抵抗しなかった。あの夜のことを誰にも知られたくなかった。あのときは私と父の利害が一致した。.謹慎処分となって、私は部屋から出ることができなくなった。最初の数日は時間の感覚が曖昧で、与えられた食事を機械的に口に運ぶだけだった。あのとき病院に行き、アフターピルを処方してもらうべきだったと、今では後悔している。あの夜の事実はなくならないが、アフターピルを飲んでいれば今の状況、妊娠だけは避けられたのかもしれないのに。でも、あのときの私はそんな判断すらできなかった。あの夜の記憶を思い出さないことに必死だった。ただ何もなかったことにしたくて、考えることすらやめていた。当時の私にはそれが限界だった。結局、過去を変えることはできない。あのときこうしていればと考えても、何も生まれない。ただ無駄な思考を繰り返すだけだ。◇◇◇謹慎期間はいつまでと明確に決められていなかったが、長くは続かないと分かっていた。理由は簡単。あの三人は日頃から、衣食住も仕事も、全て私に依存していたから。無料で使える便利な家政婦。そう言って笑っていたのは玲子さんと桜子。けれど、二人はその言葉の裏にある現実に気づいていなかった。私がいなければ、花嶺家は回らない。お金もないから使用人も最低限。数日も経たないうちに、家の中は乱れ始めた。食事の時間も大きくずれるようになった。掃除は行き届かず、家の中は薄暗くなった。父の仕事は、書類の整理さえ滞っていた。彼らは家事というものを『そんなこと』と軽んじて笑っていたが、『そんなこと』さえ自分たちでは満足にこなせないのだ。結局、謹慎は形だけのものとなり、私の日常は元に戻った。家計を管理し、父の仕事を手伝った。玲子さんの代わりに付き合いのある夫人たちへ手紙を書き、桜子の代わりにお茶会の準備を整える。やるべきことは以前と何一つ変わらない。ただこれまでと違っていたのは私の内側。あの夜、私の中の何かが決定的に失われたのだと思う。怒りも、悲しみ
last updateLast Updated : 2025-12-19
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玲子さんから渡された小切手は、家を出てすぐに現金に換えた。その手際の良さは、長年あの家の金を扱ってきた経験の賜物だったのだと思うと、少しだけ皮肉だった。ためらっている余裕はなかった。小切手は、口座に残高があって初めて意味を持つものだ。ためらっている間に資金が消えれば、ただの紙切れになってしまう。だから私は、家を出てすぐに換金の手続きを急いだ。家計も資産管理も、すべて私に任されていた。だからこそ、私は知っている。玲子さんの口座の残高も、毎月どれだけ浪費しているのかも。そして、玲子さんの金銭感覚も分かっていた。私が玲子さんに要求した金額は、衝動的に決めたものではない。あの夜、玲子さんが身につけていたドレスと宝飾品に掛けたお金と変わらない額。それらを買うとき、玲子さんは「この程度のお金」と笑っていた。だから、同じくらいにした。玲子さんが迷いなくサインできるように。案の定、玲子さんは私が請求した金額を、はした金だと嗤うように了承し、小切手にサインした。玲子さんは知らない。パーティーのたびに「この程度のお金」と繰り返す玲子さんの浪費を支えてきたのは私。あれを捻出するために、私がどれほど帳簿とにらめっこをし、削れる支出を探し、頭を下げ、やりくりを重ねてきたのか――玲子さんは一度も考えたことがないだろう。あの家にとって、その額は決して軽いものではない。むしろ、綱渡りのように保っていた家計にとっては致命的な一撃に近い。それでも私は躊躇しなかった。あれはあの二人が犯した罪の対価ではない。関係の清算。私は自分の中でそう位置づけていた。.家を出てからもうすぐ二ヶ月。自分の口座の残高が無くなったことに気づく頃だろう。いつ気づいただろうか。クレジットカードが弾かれた瞬間か。それとも、支払いの督促状が届いたときか。あるいは、何気なく通帳を開いたとき?いや、玲子さんが自分の通帳を理由なく開くなんてあり得ない。口座残高を見て、玲子さんはどんな顔をしたのだろう。想像すると、わずかに皮肉な感情が胸をかすめる。見られなかったことを、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまう自分がいる。◇◇◇手に入れたお金で、私はまず生活の拠点を確保した。選んだのは、家具や最低限の設備が整っているウィークリーマンション。長期的な住まいではないが、当面の
last updateLast Updated : 2026-04-27
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花嶺桔梗。この名前には、ずいぶんと誰かにとって都合のいい虚飾が貼り付けられている。都内の名門お嬢様学校に通い、そのまま都内の短大へ進み、卒業後は優雅に遊び暮らしている。花嶺桔梗はそんな女性だと噂されている。そのどれもが、事実ではない。私はもっと地味で、もっと現実的で、そして誰にも顧みられない存在だった。都内の名門お嬢様学校?確かに、私はそんな学校に通う予定だった。母の母校なので、通いたくもあった。だが、父からお金がないと言われ、代わりに私は県立の高校へと進学した。都内の短大にも行っていない。大学に行きたいなら自分で行けと父に言われ、母の遺したわずかな遺産と奨学金を頼りに、私は地方の国立大学へ進学した。華やかさとは無縁の選択だったが、後悔はなかった。自分で選んだから。それに、家族の世話という役割から解放された。14歳のときに母が亡くなり、そのあと直ぐに父が玲子さんと再婚した。それからは年中無休で家のことをやってきた。朝食の準備、洗濯、掃除、買い出し。父の仕事の補助。玲子さんの代わりの雑務。桜子の気まぐれな要求の処理。日常として当たり前に存在していたそれらがない大学生活は楽だった。でも、大学を卒業すればまた元に戻る。それを分かっていたから、大学生活で多少自由な時間を得ても「自由だ」とは思えなかった。◇◇◇大学に行って良かったと一番に思うのは、華乃と出会えたこと。同じ学部で、学生専用アパートでも隣同士。最初はただの隣人だったけれど、生活のリズムや価値観が妙に噛み合い、自然と会話が増えていった。やがて利害が一致し、大学生活の後半の二年間はルームメイトとして共同生活を送った。振り返れば、不思議なほど穏やかな生活だった。互いに干渉しすぎず、必要なときには支え合う。そんな関係が、私にとってどれほど救いになっていたのか、当時は自覚していなかった。.華乃はシングルマザーの母親に育てられた。お母さんが仕事と家事と育児に追われる姿を間近で見てきた経験が、華乃の価値観を形作っている。家事は誰か一人が背負うものではなく、仕組みとして外部化できるものだと華乃は考えた。その発想から華乃は大学在学中に準備を始め、卒業と同時に『コンシェルジュ・ド・ハウス』を立ち上げた。家事代行を軸に、顧客の生活全体を整えるサービス。その構想
last updateLast Updated : 2025-12-12
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2-1
「おはよう」朝の静けさが柔らかく破られ、私は手を止めずに軽く顔を上げた。ちょうど朝食の仕上げに取りかかっていたところだ。キッチンには焼き上がるパンの香ばしい匂いと、出汁のほのかな香りが混じり合っている。リビングの扉を開けて入ってきたのは、この家の主人である菊乃井和美(きくのい かずみ)様。70歳を過ぎている方だけど、立ち姿には年齢を感じさせるような衰えがない。背筋はすっと伸び、足取りも軽やか。無駄のない動きには長年積み重ねられてきた品格が滲んでいる。和美様は体調に不安があるようで、私はこの家の住み込み家政婦として雇われた。ただ私がここに来てから一度も体調を崩されたことはなく、和美様はいつも凛としていらっしゃる。「美香さん、コーヒーをいただける?」穏やかでありながらもよく通る声が、室内に落ちる。「かしこまりました」私はそう応じながら、改めて自分の名を胸の中でなぞる。東国美香(とうごく みか)――ここでの私の名前。本来の名前を捨てると決めて、新しい名前を考えた。奇抜なものにすれば面白いと華乃は冗談めかして言っていたけれど、あまりに現実離れした名を名乗る気にはなれなかった。だから私はどこにでもありそうで、それでいて自分に馴染む名前を選んだ。.和美様が椅子に腰を下ろしたのを確認してから、私はコーヒーの準備に取りかかる。豆を挽く音が静かに響き、やがて立ちのぼる香りが空間を満たしていく。和美様のお父様はイギリス人で、ご結婚前は、朝は紅茶を飲まれていたという。でも、いまはコーヒー。10年ほど前に亡くなられた旦那様の影響だという。そうした小さな嗜好の変化の中にも、誰かと過ごした時間の名残があるのだと思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなる。「いい匂いね」その言葉とともに、和美様の表情がふっと緩んだ。普段の和美様は、その端正なお顔立ちも相まって厳かな貴婦人といった印象が強い。けれど、こうして何気ない瞬間に見せる柔らかな笑みは、その印象を一瞬で覆すほどに温かい。いわゆる“ギャップ”というものなのだろうか。そんなことが頭をよぎるが、それを軽々しく当てはめることが躊躇われるほど、和美様は魅力的な方だ。.淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、トレイに載せて運ぼうとした。そのとき。リビングの扉が勢いよく開いた。「お祖母様、おはようご
last updateLast Updated : 2026-04-28
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2-2
「ドラマを見てたら、そこに映ったパンがとても美味しそうだったの」朋美様が笑う。「ランニングついでに買ってこようかなって、パン屋を検索したの。でもね、見れば見るほど思ったのよ。美香さんの作るパンのほうが絶対に美味しいって。気づいたらもう、口の中が完全に美香さんの手作りパン状態だったの」思わず笑みがこぼれそうになる。その表現は少し大げさで、けれどどこか真っ直ぐで、聞いているこちらまで温かい気持ちになるものだった。「気持ちは分からなくもないわ。美香さんのお手製のパンは本当に美味しいもの」和美様も穏やかに頷き、カップを手に取りながら同意する。その声音には誇張はなく、ただ事実として認めている落ち着きがあった。「だよね。美香さんのパンに比べたら、他のなんて『ハン』か『バン』よ。何かが足りないか、もしくは何かが余計」朋美様の独特な言い回しに、和美様の口元がわずかに緩む。「美味い例えだわ」くすりと小さく笑うその様子は、普段の厳かな印象とはまた違い、年齢を忘れさせる柔らかさがあった。.二人のやり取りを聞きながら、私はトースターから取り出したパンを皿に並べる。こんなふうに自分の作ったものを自然に褒めてもらえることに、いまだに少しだけ戸惑いがある。かつては、どれだけ手間をかけても当然のように受け取られ、少しでも気に入らなければ文句を言われるのが当たり前だった。評価されることも、感謝されることも、そこにはなかった。だからこそ、今こうして交わされる何気ない言葉一つひとつが、静かに胸に染みていく。「余計な手間というならば、お祖母様もじゃない」朋美様がふと思い出したように言葉を重ねる。「何のこと?」和美様が首を傾げる。「アイロン掛けされた新聞よ! こんなの、美香さんが来るまで見たことなかった」その指摘に、和美様は「そうね」と軽く笑みを浮かべる。「こうすると読むときにインクが手につかないし、紙が乾いてパリッとした質感になるの。イギリスでは当たり前のことよ、と言いたいところだけれど、もう昔の話ね。私が最後に見たのも、お祖父様のお屋敷でだったわ」「お祖母様のお祖父様って、何時代の話よ」朋美様が半ば呆れたように言いながら、今度は私へと視線を向ける。「美香さん、面倒じゃない? 私、朝からアイロン掛けとか絶対に嫌なんだけど」その問いに、私は手を止めるこ
last updateLast Updated : 2025-12-19
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2-3
「蓮司が来ているの?」和美様の問いかけに、私は頷いた。桐谷蓮司(きりたに れんじ)。蓮司様は和美様のお孫様で、朋美様のお兄様。ご兄妹のお母様は和美様のご息女で、名家である桐谷家の次期当主となる方に嫁いだ。桐谷家は旧財閥の流れを汲む家系で、現在もなお政財界に強い影響力を持ち続けている。現当主はご兄妹のお祖父様で、次期当主の長男である蓮司様は『次の次の当主』という位置づけになる。しかし、その立場に甘んじているわけではなく、蓮司様は桐谷グループにおいて専務という重責を担い、日々遅くまで働いているらしい。御曹司というのは同じなのに。まだお祖父様が現役で、自分は次期当主でもないからと『社交』という名目で遊び歩いていた――もとい、華やかな場に顔を出してばかりいた柾さんとは比べることすら失礼に思える。……いけない。また思い出してしまった。頭の中に浮かびかけた言葉を、私はそっと押し込める。ここで過去を引きずる必要はないし、何より、この家の空気を濁す理由にはならない。.「蓮司様は、昨夜の12時少し前にこちらにいらっしゃいました。お二人を起こしたくないと仰られていましたので、お声がけは控えさせていただきましたが……」そう説明しながら、内心では少しだけ迷いが残る。起こすべきだったのか。花嶺家では、深夜に起こせば叱責された。しかし、家によって「当然」とされる基準は異なる。菊乃井家の別邸――この家の主人は和美様だ。菊乃井家の本邸はすでに息子夫婦へと譲られている。和美様はここで「気楽な隠居暮らし」とご自身では仰っているが、この家の中には確かな秩序と配慮が行き届いている。私が派遣されたのも、体調を崩された和美様をご家族が気遣い、夜間に何かあった場合に備えるためだった。以前は通いの家政婦がいらしたそうだが、状況に応じて柔軟に体制を変えられた。この判断にも、この家の堅実さが表れているように思えた。.「いいえ、美香さんの判断で問題ないわ。起こされても、どうせまた眠るだけだもの」和美様はあっさりとそう言い、軽く笑みを浮かべる。その言葉に、胸の奥がわずかに軽くなる。「美香さん、今後も同じようなことがあったら……夜10時を過ぎたら、孫たちのために何かする必要はないわ」「でも……」思わず言葉を返しかけた私を、和美様はやんわりと制する。「孫たちはこ
last updateLast Updated : 2026-04-28
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