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第903話

Author: 似水
星野は聡をじっと見つめた後、すぐにその場を離れ、店の奥へと歩いていった。

少しして出てきた時には、もう仕事用の服を脱いでいた。そのまま彼は聡の手を握り、ミルクティーショップを出た。

聡は彼の長く整った指を眺め、その視線を彼の顔に移して疑問を口にした。

「どこに連れて行くつもり?」

星野は答えた。

「病院です」

聡の口から発せられる言葉を信用していなかった。だからこそ病院に連れて行ってきちんと検査を受けさせるつもりだった。そして本当に妊娠しているとわかったら、その子をどうするかを相談するつもりでいた。

その言葉に聡はさらに微笑みを深め、突然彼の手を振り払いながら、にこやかに見つめて言った。

「もちろん嘘をついたのよ。妊娠なんてしてないわ」

星野の顔色が目に見えて険しくなり、彼女の前に大股で詰め寄ると、両手で彼女の肩をつかみ、冷たい声で問い詰めた。

「こんな風におちょくって楽しいですか?」

肩に微かな痛みが伝わったが、聡はまったく気にしていなかった。手に持っているミルクティーのカップすら揺らすことなく、答えた。

「ええ、楽しいわ」

怒りが心の中で燃え広がり、星野の目には怒意が浮かび上がった。

「あんた、本当に恥知らずですね。僕はあなたのことを全然好きじゃないです。これ以上しつこく付き纏ったところで、僕にはあんたが安っぽく思えるだけです!」

星野の言葉は極めて辛辣で、胸の中にあった怒りもさらに増幅し、ぶつけどころがないまま暴れ回っていた。

聡の笑みが少し薄くなったが、怒る様子は見られず、その唇の端には諧謔的な笑みが浮かんでいた。

「星野くん、私はただ君と遊びたいだけよ。どんなにひどい言葉を浴びせられたとしても、怒ったりしないわ。私が飽きるまでは逃げられないわよ」

聡はまるで闇夜の魔女のように、悪趣味な言葉を口にしながら、自分の星野に対する気持ちを宣告していた。

まったく躊躇がなかった。

星野はますます腹を立てた。

遊ぶ?

ただ遊びたいだけ?

この女、頭がおかしいのか?

星野は聡から手を放し、二歩後退した。すると両手でズボンを力いっぱい拭き取り始めた。まるで何か汚いものに触れたかのように。

「あんた、本当に狂ってます」

そう言うと、星野は背を向けてその場を立ち去ろうとした。このことを里香に伝えることに決めたのだ。

「星野
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