LOGIN夫・直人の会社「INUI Jewelry」でジュエリーデザイナーを務める珠希は、 直人の裏切りで、仕事も居場所も子どもも喪った。 追放された珠希の前に現れたのは、直人の商売敵である氷室財閥の御曹司・氷室雪臣。 「誰も愛せぬ氷の男」と噂される、寡黙で謎めく男だった。 「僕と、結婚しませんか」 差し出されたのは、珠希がかつてデザインした一本の指環。 ――しかも、競合であるINUI Jewelryの商品だった。 なぜ彼が、それを持っているのか。なぜ、珠希に手を差し伸べるのか。 一方、直人は珠希を失い、その存在の大きさに気づき始めて――。 これは一年限りの契約結婚から始まる、壊れかけた二人の人生が環り合う逆転純愛ロマンス。
View More「直人さん……! 直くん……お願い、ドアを開けて……」
パタ、パタ、と地面に染みができていく。涙ではない。降り始めた夕立だった。 痛んできた腹部と、肩を叩きつける雨が焦燥感を駆り立てる。 ――赤ちゃんが………このままだと、赤ちゃんが……。 ポケットをまさぐるが、スマホが入っていない。あるのは、たった一枚の千円札。 「……お願い……誰か、助けて……」 ◇ ◇ ◇ 一時間ほど前――。 薄っすらと蝉の声が届く。窓から差し込む日差しが、瓶の中のオイルを光らせた。 ……白トリュフのオイル。 なんでも、乾(いぬい)家ではもう何年も前からサラダにはこの白トリュフのオイルを使っているのだと、結婚当初、義母が鼻を鳴らして言っていた。 この家に来たからにはマヨネーズなんてベタベタしたものを使わないでちょうだい、と一言添えて。 「よし……急いで仕上げちゃお」 間に合わなければまた怒鳴られる。 珠希は台所で料理を進めながら時計を一瞥する。 十六時三十分。 ジュエリーに仕立てる前の裸石――ルースの展示会へ出かけている直人が帰宅するのは、十八時頃のはずだ。このまま順調に仕上げれば間に合う。 サラダに白トリュフのオイルをかけ回しながら、小さく頷いた。 乾 珠希(いぬい・たまき)は、今日で二十七歳になる。 同時に夫の直人(なおと)と一緒になって三年目の結婚記念日を迎えた。大学時代、同期として出会った彼と、まさかこんな未来を過ごすとは一度も想像したことがなかった。 今日、珠希は仕事を休んで、普段よりも少し手の込んだ料理を作っていた。 誕生日だからではない。結婚記念日だからでも、ない。 そう、他でもない、やっと授かることができた子どものためにだ。 不妊治療は一年半続いた。直人はこの期に及んで医師の説明を鼻で笑っていたが、直人側の――男性不妊によって、人工授精を繰り返しても妊娠は一度も成立しなかった。 顕微授精まで進んで、ついに、赤ちゃんの心拍を確認することができたのだ。 お腹に手を当てると、少しだけ頬が緩む。 今日は、お腹に来てくれた赤ちゃんのために、腕を振るう。冷蔵庫を見ると、自然と目が細くなった。しかし珠希は、再びサラダボウルの中へ視線を落とす。 ――今日こそ、直人さんとお義母さんに赤ちゃんのことを伝えなければ……。 妊娠初期での流産のリスクは医師から聞いていたし、ぬか喜びをさせたくなくて、直人と義母に言い出せないでいた。 それでも、これ以上隠しておくのも厳しい。つわりが徐々に悪化してきているからだ。 そのとき、ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。 予定よりだいぶ早い帰宅に思わず肩が跳ねる。目を瞬かせる珠希は蛇口をひねって軽く手を洗った。 そして、パタパタ、とスリッパを鳴らしながら玄関へ向かう。 「おかえりなさ――」 声を掛けようとした珠希の動きが止まった。 見覚えのある白いパンプス。目線を上げると、これまた既視感のある女性らしいプロポーション。 直人と義母の隣に、桃沢ルリカ(ももさわ・るりか)が、片眉を下げて立っていた。 ルリカは、直人が社長を務め、珠希がジュエリーデザイナーとして在籍する会社――INUI Jewelryへ入社してきたばかりの若手。確か、部署は宣伝部。 「桃沢さん……?」 「はぁ~、もう最高よ。片岡梅之丞の勧進帳のお話ができるなんて」 「わたしも嬉しいです、歌舞伎大好きですから」 「本当、あなたって気が合うわ」 珍しく声を弾ませている義母が、靴を脱ぎ、手に持っていた三越の紙袋を珠希の胸元に押し付けてきた。 袋の隙間から覗く代物に、冷や汗が伝う。蜂蜜だ……。先週、買ってくるように義母から頼まれていたのに、仕事や不妊治療の件ですっかり忘れてしまっていた。 「ふん、蜂蜜すらまともに買ってこれない嫁より、最初からルリカちゃんが嫁いできてくれていたら、どれだけ良かったか」 息継ぎもせず、義母が続ける。 「これだから母子家庭の娘なんて嫌だったのよ。……突っ立ってないで、お客さまにお茶くらい出しなさい」 申し訳なさそうな顔で「お気になさらず」と会釈をしてきたルリカに、珠希は口を開きかけて、何も言えずに唇をかみしめた。 隣で、舞台衣装よろしくといったメタリック生地の派手な銀色のジャケットを脱いで、無言で突き出してきた直人。その腕を、珠希は震える手で握った。 「どういうこと? なんで、桃沢さんがうちへ?」 「妊娠したんだ」 「え」 「桃沢さ――いや、ルリカが。俺の子を」 ――桃沢さんが直人さんの子を……妊娠? 待って。なにを言っているの。だって、直人さんは……。 「そんな。冗談でしょ、直人さん」 「だから今日ルースの展示会は行ってない。お前あとで青山石商に詫びの電話入れとけ」 耳奥で爆ぜる鼓動の音に紛れてかろうじて聞こえてきた直人の台詞に、吐き気がこみあげてくる。精神的なものなのか、つわりなのか、そのどちらでもあるのか。 珠希の手を払い除けた彼の目は、いつも以上に冷たかった。 そんな珠希にさらなる追い打ちをかけたのは、義母の金切り声だった。 「なにこれ! 作り途中じゃないの。しかも、また脂っこい、品のない!」 珠希が慌てて台所へ戻ると、作りかけの料理を義母が生ごみへ捨てている最中だった。「余計な洗い物ばっかり増やして!」そう怒鳴っていた義母の手の甲の皺に、リゾットのトマトソースが跳ねる。 「あぁ、お義母さま。よろしければわたしが片づけますわ」 無造作にルリカが台所へ入ろうとしたとき、珠希は咄嗟に手を伸ばしていた。 ――桃沢さん、危ない……! この家へ嫁いできたばかりの頃を思い出していた。 他人に台所へ入られるのを非常に嫌がる義母は、台所へ上がった家政婦を木ベラで叩いたことがあったのだ。 珠希が台所へ上がれるようになったのも、嫁いで半年が経った頃の話だった。 「きゃあ!」 引き留めようとしたはずだった。しかし。珠希の手がルリカに触れる直前に、どういうわけか、彼女は叫びをあげながら、自らその場へ倒れこんだのだ。 「赤ちゃんが……!」 「あぁ、ルリカちゃん! ちょっと珠希さん……あなた今、突き飛ばしたの? どういうつもり!」 「ち、違います……! 桃沢さんが台所へ入るのを、止めようとして――」 ふと後ろから肩を握りつぶされるほど強く掴まれ、振り返る。怒りを目に湛えた直人がそこに立っていた。 何が起きているのかも分からない中、彼に腕を捕らえられ、強引に玄関まで引きずられていく。 その最中、義母と共に台所に立ち、口の端を吊り上げるルリカの姿が僅かに見えた。 「痛い……直人さん、離して!」 「珠希、お前はもう二度と帰ってくるな! ルリカの中には俺の子がいる! いつまでも出来ないお前と違うんだよ!」 外へ乱暴に突き飛ばされ、硬い玄関ポーチに腰を打ち付けた。 待って、という珠希の声に被せるように閉められたドアが色褪せて見える。 「直人さん……! 直くん……お願い、ドアを開けて……」 パタ、パタ、と地面に染みができていく。涙ではない。降り始めた夕立だった。 痛んできた腹部と、肩を叩きつける雨が焦燥感を駆り立てる。 今すぐどうにかしなければいけないのに、意識がもうろうとしてきてしまった。 ――赤ちゃんが………このままだと、赤ちゃんが……。 ポケットをまさぐるが、スマホが入っていない。あるのは、たった一枚の千円札。 珠希はふらつく足取りで住宅街を抜け、大通りへ移動した。 ふと足裏に痛みが走り、スリッパが脱げてしまっていることに気がついた。破れたストッキングに赤い血が滲んでいる。 「……お願い……誰か、助けて……」 道路を走るタクシーに手を上げかけるが、目に飛び込んできた『送迎中』の文字に珠希は力なく地面に崩れ落ちた。 いつだって、肝心なときに運は味方をしないのだ。 激しく痛みだす腹部を押さえながら、声を押し殺すようにして泣いた。泣いたって、なにも変わらないのに。 道路の少し先。歪む視界の片隅で、停車したタクシーの後部座席から黒い傘がパッと開く。氷室家の本邸を訪れるのは、顔合わせの日以来だった。そのときはまだ、HIMUROへ入社もしていなかった。ほんのひと月ほど前の出来事だというのに、なんだか懐かしく感じてしまう。 応接室には、雪臣の祖父・雪茂だけでなく、父の秋夫と継母の日美呼、そして異母弟の悠乃介も揃っていた。以前、日美呼にも実力を見せてもらいたいと言われていた以上、全員の同席は予想できたことだった。 雪臣が二人で必ず作り上げると宣言した『期待を超えるジュエリー』を、ようやく形にすることができた。雪茂がどう評するかは分からない。けれど、雪臣と二人で作り上げた、全力の二本に変わりはなかった。 ソファの隣へ腰かけていた雪臣が、テーブルの中央に小さなリングケースを置いた。 「これが、僕と珠希さんの答えです」 雪臣がそっと蓋を開く。 雪茂はすぐには手を伸ばさなかった。身を乗り出し、ケースの中をしばらく眺めている。 「おお、これは……! 雪臣、でかした――」 最初に口を開いたのは、秋夫だった。その声に被せるように、日美呼が喋り出す。 「さすが、雪臣さんと、元・INUI Jewelryの珠希さんですわね。一本ずつはとても素晴らしい。……しかし。邪道とまでは言いませんけれど、これでは、老舗・HIMURO MOTOMACHIに相応しい、二本で一組の結婚指輪に見えないのではないかしら」 雪臣と何度も話し合い、互いの手に合わせて作った指輪だ。形が違うことにも、説明できる理由がある。 「同じ形に揃えることが、私たちにとっての一組ではないと考えました」 珠希は、リングをひとつずつ示した。 「私のリングは、婚約指輪の石座に当たらない形です。雪臣さんのリングは、杖を握るときに負担になりにくい幅と厚みにしました。それぞれ一本で完成し、並べると二つの曲線が新しい流れを作ります」 「なるほど。つまりはお二人だから成立する特注品という意味ですわよね? ねぇ、あなた」 「あ、あぁ……そうかもな……」 納得していない顔の日美呼が秋夫に視線を向ける。秋夫は困ったように眉を下げていた。 「HIMUROのデザイナーとしての実
研磨機の回転音が、アトリエに低く響いている。 母と雪臣が初めて顔を合わせてから、二週間あまりが経った。 あの日のことが、二人の間で話題に上ることは特になかった。それでも雪臣は、ときおり母の体調を珠希に尋ねてきた。特別な扱いをするわけではない。けれど、彼が母ときちんと向き合ってくれたという実感は、珠希の中に確かに残っていた。 婚姻前の記念として、雪茂から制作を求められたジュエリー――珠希と雪臣、二人の指輪も、完成へと近づいていた。修正後のCADデータを確認してから、原型の出力、細かな調整、鋳造と、これまでいくつもの工程を重ねてきた。 そして今日、二本のマリッジリングは、ようやく最終研磨の日を迎えることになったのだ。 なにかがひとつ進むたび、契約の話でしかなかった結婚が、少しずつ現実味を帯びてきた。隣にいる雪臣は、今、なにを思っているのだろうか。 「綺麗……」 ほんの小さな環を前に、思わず呟いた。職人がリングを研磨用の円盤へ慎重に当てるたびに、白く曇っていた地金の表面に、少しずつ光沢が生まれていく。 「仕上がりました」 職人が布の上へ並べた二本は、形こそ違うが、表面の高低差がひと続きの流れを作っている。 「雪臣くん、左手、貸してくれる?」 雪臣は近くの椅子に腰を下ろし、杖を右手に持ち替えて、ゆっくりと左手を差し出した。珠希がその手を取った瞬間、彼は反射的に手を引っ込め、右手から杖が滑り落ちた。カツン、と床を叩く音が響く。 「ど、どうしたの? 大丈夫?」 「申し訳ない」 珠希が床から杖を拾って渡すと、雪臣はただ気まずそうに下を向いていた。 「もう一度」 珠希は雪臣の手を取り、リングを薬指へ通した。 「平気そう? きつくない?」 「…………」 左手の薬指に嵌った指輪をじっと見つめている雪臣の瞳が、小さく揺れ動く。 「雪臣くん?」 「あぁ……大丈夫だ」 「よかった。私の方も確認してみよう」 珠希は婚約指輪を一度外すと、マリッジリングを自分の薬指にさっと嵌め、その上から再び婚
ついに迎えた、珠希の母親と会う約束をしていた日曜日。 午後、雪臣は左手で杖をつき、右手に小さな花のアレンジメントを抱えて、珠希と共に氷室メディカルセンターの廊下を歩いていた。 「あっ、田代先生……!」 珠希の声に廊下の先を見ると、産婦人科医の田代沙耶が売店のビニール袋を片手に、こちらに向かって歩いてきていた。 「珠希さん。久しぶりですね。その後、お身体は大丈夫ですか」 「はい。おかげさまで、少しずつですが回復しています」 「それは何よりです。……そして、どうしたんですか、氷室さん」 眉を顰め、雪臣の頭の先からつま先まで怪訝そうに眺めてきた田代。隣の珠希が苦笑する。 「どうもしていない」 「花、潰れますよ」 黄色と白の花を囲む透明のフィルムが、右手の中で音を立てた。雪臣は慌てて指の力を緩める。 「……まぁいいです。それでは、珠希さん。また、なにかあればいつでも診察にいらしてください」 「あ、はい。ありがとうございます」 すたすたと通り過ぎていく田代の背を見送り、雪臣は小さく息をついた。 「雪臣くん、そんなに気を張らなくても大丈夫だよ」 「張ってない」 反射的に否定したものの、実際、雪臣は緊張して昨日ほとんど眠れなかった。 何度か改装されてはいるが、ここは雪臣が幼少期の大半を過ごした病院だ。廊下の造りも、病室の扉が並ぶ景色も見慣れている。けれど今日は、かつての患者としてでも、氷室家の一員としてでもない。珠希の婚約者として、彼女の母親に会うために来たのだ。 そう意識するたび、家のように見慣れたはずの場所が、まるで別の世界のように感じられた。 「お母さんの病室、ここ」 入院棟の三階……廊下の突き当りで珠希が立ち止まった。雪臣は杖のグリップを握り直す。 娘さんを必ず幸せにします――とは言えない。 今日まで色々それらしい挨拶を考えてはいたが、納得できる言葉は、やはり見つからなかった。 「入るね?」 「…………」 雪臣が頷くと、珠希が扉を開けた。
金曜日の午後。 ルリカは、大型商業施設『シカクイ』本社の正面入口を見上げていた。 シカクイの店舗は、お客として何度も利用したことがある。しかし本社を訪れたことは一度もなかった。 「大丈夫……」 ルリカは自分に言い聞かせるように、握った拳を軽く胸にあてがった。 シカクイ最大規模の店舗である『渋谷シカクイ』には、HIMURO MOTOMACHIがテナントとして入っている。若年層の来店が多く、顧客によるSNSでの拡散も見込める場所だった。 ――渋谷シカクイの次の催事で、INUIを目立たせることができれば……上手くいく。 今日、企画を決める必要はない。後日販売促進部の担当者と直人を会わせる。そこまで繋げることに、集中する。喋る内容や所作の一つひとつも、この数日の準備で何度も頭に叩き込んだ。焦らず用意した通りに進めれば、きっと間違えない。 ルリカは宣伝部の社員証を受付で見せ、約束の相手を呼び出してもらった。 案内された応接室には、四十代ほどの男性と、若い女性社員が待っていた。二人から名刺を受け取り、ルリカも慌てて自分の名刺を差し出す。 「まぁまぁ、どうぞおかけください」 男性社員の方に促され、ルリカは緊張で声を震わせながら、「失礼します」と席についた。 「早速ですが、本日は、どのようなご提案でしょうか」 女性社員が手帳を開きながら言った。その声がどこか冷めているような気がして、ルリカの心拍数が上がっていく。 ――しっかりしなきゃ。 「はい。次の渋谷シカクイのブライダル催事に、INUI Jewelryを入れていただきたいんです」 ルリカは持参した資料をテーブルへ置き、事前に練習してきた言葉を順番に話し出した。ジュエリーだけではなく、館内のドレス店や写真館、飲食店も参加するブライダルフェア。メインアトリウムへ期間限定の売り場を設置し、館内を回遊する仕組みを作る。 男性社員はルリカが渡した資料へ目を落とし、難しい顔をした。 「ですが、弊社の渋谷の館にはHIMURO MOTOMACHIさんが長く出店されています。同じ宝飾品を扱うINUIさ
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