私は大きく息を吐いて、気持ちを切り替える。お風呂を溜めようと立ち上がった。 先ほどひと通り、スタッフの方から入浴に関しての説明は受けている。 お湯は自分で溜めても、スタッフを呼んでもどちらでも構わないとのことだった。 寮は光熱費は自腹だったから、いつもシャワーで済ましていて、とにかく節約生活だった。 自分しか入らないのにお湯を張るなんて、贅沢すぎる。 今日はしっかり湯船に浸かりたいなぁ……。溜まった疲れを取りたい。 私は個人宅のようなお風呂を想像していたんだけど、想像以上に大きなお風呂に歓喜の声をあげた。 二人でも入れそうな大きさだったのには驚いた。 その上、なんとジャグジーまであるらしい。 シャンプーや、リンス、ボディソープにトリートメントまで置いてあった。 タオルや、アメニティグッズも揃《そろ》っていた。 な~んにも心配いらない。 さすが高級ホテルだなぁ……。いや、違った。ここはクリニックだった。 ホテルと唯一違うのはあちこちに、ナースコールボタンがあるところぐらいか? 私はお風呂に栓をして、お湯張りボタンを押す。 そうだ! 着替え! 龍太郎がわざわざ準備してくれてたんだよね。 あいつ、変なところで気が利くよね……。でも足りるかなぁ? そもそも女性が必要なものって、あいつわかるの? 私は先ほど、光太郎から受け取った紙袋を持ってきて、ベッドの上に中身を出した。 たくさんの衣類やらが所狭《ところせま》しと飛び出した。 龍太郎のことだから、高いものを買ってきたんじゃないかと不安になったけど、ヨニクロの肌着が数枚に、ルームウェアが二枚入っていた。 靴下、洗顔などは有印だった。有印の洗顔や化粧水はとてもありがたかった。 愛用品だ。 あれぇ? 意外に庶民的だな……。龍太郎もこういう店で買い物をするのか……へぇ。 このぶんもきちんと龍太郎に支払いしなきゃな。 でも、下着がさっきから見当たらないんですけど? その時、私の視界にヨニクロでも有印でもない、可愛くラッピングされている袋が目に入った。 赤いリボンで奇麗にそれは特別に包装されていた。 え、なにかな……? いやな予感がした……。 リボンをほどいて、私は中身を確認した。その予感は見事に的中した。
結局、プリンを二つとお饅頭を食べた私はお腹がパンパンになり、罪悪感に駆られながらも、横になりたい衝動に抗うことができず、ベッドに寝転がり、入院のしおりを見ていた。 ……ふ~ん、ここって19床しかないんだ……。そうだよなぁ、クリニックって言ってたしなぁ。 この部屋から一歩も出ていなかったため、外観もわからなかったが、入院のしおりの表紙の写真はクリニックっていうより、真っ白で洋風な建物……まるでリゾートホテルみたいだ。 なになに……。 『まるで高級ホテルにいるかのような贅沢時間——。テラスで美しい花を眺め、美味しいご飯とゆったりとした時間を楽しみながら、治療をしませんか?』 ……謳《うた》い文句がすごいな。 私はパラパラとしおりを捲《めく》る。待合室も豪華だなぁ。これ? 本当にクリニックか? 照明もソファも、まるで超高級ホテルのロビーじゃないか。 しおりにはシェフが料理をする姿や、豪華で煌びやかな食事、天然温泉、ゴージャスな部屋、たくさん花が植えられたテラスのような空間が載っている。 セレブ病院が存在するってのは聞いたことがあるけど、本当にあったんだ……。 なになに……。 『私たちのクリニックは、全室が特別室。ニーズに合ったお部屋を提供します。美味しいお食事を食べながら、スタッフと楽しく治療をしていきましょう』 全室が特別室?? ここが特別じゃなかったんだ! ヒッ!!! 私は部屋の料金と食事料金、その他の料金を見て、私は鳩が龍太郎《まおう》に睨《にら》みつけられたみたいな顔になった。 なななんちゅう、料金だ!! こんなの払えない! とんでもないセレブ病院だ。 ここに一週間も入院するのか……? ウソでしょ……。 私は自分の入院費用をスマホで簡単に計算した。実際はもっとかかるはずだ。 自分の顔の色がどんどんなくなるのを感じた。 どどど、どうしよう。こんなとんでもない特別料金を、私は龍太郎に払ってもらうのか? それはできない。できるわけがない。 彼は家族でもない。他人だ。……でも、ここに連れてきたのもあいつだ。 私は葛藤《かっとう》を繰り返した。 一旦は龍太郎に払ってもらって、分割で返す。分割なら払える額だ。なんとかなる。 私は盛大なため息をついた。もうしおりもあまり見たくないが、ここ
「あ、あのそれで治療費と、ここの個室料金はいくらですか?」 私は光太郎の返事が待ちきれない。 たぶん治療費は入っている保険でどうにかなるだろうが、このオプション的な特別個室料金は、保険では賄《まかな》えない。 確実に自腹だ。たった今、会社を辞めることにした人間にはきつい。 「ああ。ここのお金は要らないよ。体調が悪い中、龍太郎に連れ回されたんでしょ? そう聞いてるけど……。自分のせいだって」 光太郎の返事は意外なものだった。 龍太郎は自分のせいだと思ったらしい。 「いや、それは違います。私に原因がありますから、入院費用は自分で払います。保険がある程度はきくと思うし……」 「え~、でも龍太郎がねぇ、自分で払うって言ってるし……。どうしても払いたいなら、龍太郎に払えばいいんじゃない? 僕はどっちでもかまわないから」 龍太郎、どうしてそこまで……。 日頃から、自己管理ができてなかった私の責任だよ。 「それでさ、過労になりそうな原因は? 思い当たることがあるかなぁ? 過労も甘く見てると命を落とすからね」 命……。光太郎の言葉は私の胸に刺さった。 「まぁその……プライベートで色々あって悩んで、それが仕事にも影響を与えて、悪循環を生んでしまったんです。最近夜勤の後も、ぜんぜん寝れてなくて……」 「そうかぁ。悪循環かぁ。う~ん……」 光太郎は腕組みしながら、考え事をしている。モデルみたいに奇麗な肌だ。 「なら、もういっそ、夜勤のない仕事に変えて、環境を整えるようにした方がいいね。なんてったって身体が一番だし」 光太郎はあっけらかんと言い放った。 「そうですね。夜勤のある仕事はさっき辞めました。私も自分の生活を見直してみます」 さすがに左遷《させん》のことは言えない。自分が悪いのはわかってるけど、これ以上、惨《みじ》めになりたくない。 「あ、そうなんだ。いいんじゃない、まぁ人生色々あるし。英断だと僕は思うよ」 光太郎はけろりと言葉にする。 「これからは自分の体をもっと大切にします。はい」 このひとと龍太郎、性格、ぜんぜん似てないな。龍太郎はこんな感じじゃないもんな。なんていうか、口下手な部分があるっていうか……。 「それで、次の仕事は? なにか当てがあるの?」 光太郎はなにか含んだ言い方をしてきた。 「
龍太郎に耳を甘噛みされた—— しかも一度じゃなく、三度も……噛まれた。 龍太郎の息が首元にかかった。 背中がぞわりとした。全身が自分のこもった熱に反応してしまう。 それがイヤじゃないから、危険だ! このままだと、こいつのペースに乗せられる! 私は龍太郎を突き飛ばした。 「もうッ! な、なにするの! し、信じられない!!」 身体の力が抜ける。私はその場にヘナヘナと座り込んだ。 「ふっ」 龍太郎が私のそんな姿を見て、満足そうに口の端に笑みを浮かべた。 「だいたい、なに? お仕置きって⁉︎ 私、龍太郎にそんなことされるようなことしてない!」 「なに言ってんだ⁉︎ おまえ、田村がおまえに気があるの知ってて、この部屋で二人きりになったよな?」 突然、なに言いだすの? 二人きりになった? 「意味がわかんない。係長はただお見舞いにきてただけでしょう⁉︎ それに会社のこととか、そういう話しかしてない……」 私は反論した。突然告白もされたが、龍太郎にわざわざ話すことでもない。 「じゃあ、なんでさっき手を握りあってたんだよ! それに返事ってなんだ?」 うわ、やっぱり聞かれてた。 なに、もしかして入り口のところにずっといたの?? 「そ、それは……」 私は返答に窮した。なにこのひと、メシ友も独占したいタイプなの? 本当に友達がいないのか……。 私の中にある疑問が生まれつつあった。ほんとに私、メシ友なの……? 「まったく……! 油断も隙もないな。いいか、今度あの男がきても二度と、二人きりになるなよ⁉︎ そんなことしたら、今度は今日みたいに軽い罰じゃ済まさないぞ」 龍太郎はまるで私がひどく悪いことをしたかのように、大きくため息を吐いた。 ……え、な、なんなの、それ。今日のが、軽い罰? 「あの、なんで罰を受けなきゃならないの?」 私は納得できなくて尋ねた。だって、このひとの彼女でもなんでもない。 「いいか⁉︎ おれはな、おまえが妙な男に変なことをされないように、心配してやってるんだからな⁉︎ 」 龍太郎は少し語尾が荒かった。 え……? こいつがそれを言う? 今しがた私、こいつに変なこと(罰)されたばかりですけど……。 「おまえ、さっきだっておれが入ってきてなかったら、大変なことになって
なっ! 胸の音⁉︎ そ、それはつまり、龍太郎に聴診されるってこと⁉︎ 「安心しろ。昨日もおれが聴診した」 龍太郎はなんでもないことのように言う。 うわぁぁぁぁっ!! 既済《きさい》だったんだ~!! 手遅れだぁ!! 信じられない。信じられない、信じられないよ~! こいつ、なにしてくれてんだ~! ブラもパンツとおそろいで、ベージュの色気のないものだよ、どうせ!! 見られたんだろうか? この貧相な体を……。いいや、こいつは絶対に見てる! 見ていないはずがない! 「おまえ、今、色々考えてるだろうが、おれは医師で、おまえはここでは患者だぞ?」 龍太郎の冷静な声に、私は我に返った。 あ、……龍太郎は仕事をしているだけだ。 私は龍太郎にそういうことされるのは、耐えられないぐらい、死にたいぐらい恥ずかしいけど、龍太郎にとっては、いつものことで、なんでもないことなのかもしれない。 「じ、じゃあ、鈴山さん、また顔を出すね。返事はまた今度でも。剣堂先生、うちの鈴山をよろしくお願いします」 係長は荷物をまとめて慌てて、病室から出て行った。 「うちのか……」 龍太郎はぽつりとつぶやいたが、すぐに看護師に指示を出し、看護師さんが私の血圧やら、体温、脈などを測っていた。 「熱は下がったな。……若干血圧が低いな。まぁ、許容範囲か。これは様子見でいいか……」 龍太郎が一人でぶつぶつ言い出した。仕事モードらしい。 「さて、鈴山さん、肺の音を聴きますね」 龍太郎が聴診器を手に持っている。 龍太郎に背中に手を入れられるの私? 超恥ずかしいんだけど……! やがて聴診器が背中に入れられた。龍太郎の手が時折触れて、聴診器が当てられていく。 緊張でガチガチに固まってしまう。手が当たった時がもう最高に恥ずかしい。 「鈴山さん、大きく息を吸って、吐いて」 私は龍太郎に言われたとおり、『大きく吸って吐いて』を何回か繰り返した。 「呼吸音に異常はなしですね」 龍太郎が背中から聴診器を抜いた。 ……龍太郎って、仕事中はすごく真面目なんだな。 「今度は前ですね。心臓の音を聴きます」 私は恥ずかしさを我慢して、病衣の下から入ってくる龍太郎の手と、聴診器を受け入れた。 聴診器とともに、龍太郎の手も微かに当たっ
「鈴山さん、僕ら会社はね、君のことを考えて異動はどうか、という話をしているんだ。けっして君が必要ないとか、そういうのではないことは、理解してほしい」 係長の眉が下がっている。本当はこんなこと言いたくないはずだ。 ……わかってる。わかってるけど、係長の顔を今は見れない。見たくない。 「あの鈴山さん、こういう時にこそ、僕がなにか君の力になれないかな?」 係長の緊張が混じった声が私の耳に届く。 「……いえ、理解はしています。皆さんの私への配慮も感謝しています。ですが、少し待ってもらえませんか? 突然のことで、私も戸惑っていて……。心が追いつかないというか……。係長には、今までこれ以上ないってぐらい助けていただきましたし……。なので、これ以上は……もう十分です」 私はなるべく感情が読み取られないように、平静を装いながら話した。 「鈴山さんの体調次第でかまわないんだけど、来週あたりにでも、返事をもらえたらいいんだけど……」 係長がさらに困った顔をしている。 ……来週か……。私が抜けた後の穴埋めが必要なのだろう。 製造には行きたくない。今よりも流れ作業だ。それにお給料も違ったはず。せっかく役職まで登り詰めたのに? でも会社を辞めたら、寮に入っているから、住む場所もなくなる。 自分にはなにもなくなる—— あの飲んだくれの父親と、暗い顔をして奴隷のように働く母のもとに帰るの? 弟はほとんど家にいないし、あそこは私にとって息苦しい場所。 製造……。こうなったのは自分せいだ。この際、どんな仕事でもいいじゃないか……。 ——お前、自分が楽しいと思える生き方しろよ。 龍太郎の声が頭の中に聞こえた。楽しいと思える生き方……。 ……新しい自分になりたい。 そうだ、苦しくても、しんどくても、自分で生き方は選ばなきゃ……。 もう十分、頑張った。あそこにいる限り、絢斗に縛り続けられる。 「……係長、私、仕事辞めます……」 顔を上げると、悲しい顔をした係長の姿が私の瞳に映った。 「そうか。そうだよね……。体調が悪い時にこんな話を、本当にごめん……」 「いえ、もとはといえば、自分が悪いですから。突然ですみません!」 私は頭を下げた。 「いや、有給がかなりあるから、来月末退社で大丈夫だよ」 係長が静かに言った。