All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

この言葉を聞いた美月の顔色は、さらに険しくなった。以前、紗雪があの男と付き合っていたことで、鳴り城の人々に笑いものにされたというのに、今になってもまだ懲りていないのか?美月は内心で忸怩たる思いを抱えつつ、ため息をついた。そして、緒莉に向かって言い聞かせるように口を開いた。「緒莉は優しい子よ。でも、この件には関わらなくていい」「紗雪ももう立派な大人よ。自分の行動には自分で責任を持たなければならない。いつまでも私たちに頼ってばかりはいられないのだから」緒莉は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は何も言わず、ため息混じりに頷いた。「わかったよ、母さん。紗雪がちゃんと考えて行動してくれたらいいな......お母さんにこれ以上心配をかけないでほしいの」その言葉には、美月を気遣う気持ちが滲み出ていた。美月はしっかり者の緒莉を見つめながら、無意識のうちに紗雪と比べてしまう。ほんの一瞬だったが、そのわずかな違和感を、緒莉は見逃さなかった。紗雪、たとえあなたが二川グループに入ったとしても、母はずっと私の味方よ。その頃、紗雪は車を発進させようとしていたが、ちょうどその時、プロジェクトマネージャーから新しい書類が送られてきた。マーケティングの状況に合わせて、改めて資料を整理し直すよう求める内容だった。紗雪は簡単に目を通し、すぐに思い出す。このデータ、前にすでに調査してまとめたはず。しかし、その資料は、先日二川家に戻ったときに部屋に置き忘れてしまった。彼女は小さく息をつき、結局は取りに戻ることにした。また一から整理し直すのは、さすがに手間がかかりすぎる。時計を見る。今の時間なら、おそらく美月はまだ帰っていない。よし、さっと行ってさっと帰ろう。紗雪は車を高級住宅街へと滑り込ませ、慣れた手つきで駐車場に停めた。陽の光が燦々と降り注ぎ、屋敷は静寂に包まれていた。緒莉も今日は家にいないのか?ふと疑問に思う。彼女は身体が弱く、普段は家で静養していることが多いはずなのに。首を傾げつつ、紗雪は玄関へ向かった。鍵を解除し、扉を押し開けた瞬間、ソファに無造作に寝転がる男の姿が目に飛び込んできた。安東辰琉。紗雪の義兄であり、緒莉の夫だ。彼は頬を赤らめ、ぼんやりとした目をしている
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第72話

「聞いてくれ、紗雪。頼む、もう一度だけチャンスをくれ」紗雪はすっかり呆れ果てた。「放して!」「気持ち悪くないの?忘れたの?あんたには緒莉がいるってことを」緒莉の名前を聞くと、辰琉の瞳に暗い影が落ちた。しかし、酒に酔った勢いのまま、彼は構わず紗雪を抱き寄せた。「でも、最初に婚約していたのは俺たちだったじゃないか」「実は俺、お前のことも結構好きなんだ」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の全身に嫌悪感が走った。彼女は必死に抵抗したが、男女の力の差は歴然としていた。ましてや、相手は酒に酔っている。どれだけもがいても、辰琉の腕から逃れることはできなかった。「緒莉にバレたら、絶対に許されないわよ」紗雪は彼の紅潮した顔を睨みつけ、心の底から込み上げる嫌悪感を押さえられなかった。「あんたたちの婚約は、もう世間にも知られているのよ。今さらこんなことして、誰にも顔向けできないわ」辰琉の体が一瞬こわばったが、それでも腕の力を緩めることはなかった。「紗雪、頼む......彼女の話はもうしないでくれ......」今の彼には、まともに考える力など残っていなかった。彼の意識のすべては、紗雪の存在に支配されていた。彼女の細い体を抱きしめた瞬間、ふんわりとしたバラの香りが鼻腔をくすぐり、思わず陶然とする。それだけではない。紗雪は性格こそ気が強いが、その整った顔立ちや完璧なスタイルは、まさに辰琉の理想そのものだった。「もう一度やり直さないか?紗雪さえ望むなら、俺たちは昔に戻れる」辰琉は真剣な眼差しを向け、より強く彼女を抱き寄せた。紗雪がどれだけ拒絶しても、彼は決して手を離そうとしなかった。紗雪は仕方なく、彼の足を思い切り踏みつけた。辰琉は痛みを感じながらも、それでも諦めようとはしなかった。「俺は本気なんだ......」「二人とも、何をしてるの!」突然、驚きと怒りの入り混じった女性の声が響いた。二人が振り向くと、そこには緒莉と美月が立っていた。さっきの叫び声は、美月のものだった。一方、緒莉はすでに目を真っ赤にしていた。彼女は何も言わず、美月の隣で震えるように立っていた。その姿は、まるでひどく傷ついた被害者のようだった。紗雪は一瞬、驚きの表情を浮かべた。しかし次の瞬間、まだ状況を
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第73話

緒莉の声を聞いた美月は、さらに胸を痛めた。なんていい子なのか。自分の妹と婚約者がこんな場面を見られてしまったのに、それでもなお妹を慰めようとしている。そんな中、不意に辰琉が口を開いた。「緒莉、これは俺のせいだ」その言葉に、部屋にいた三人の女性の視線が一斉に彼へと向けられる。紗雪も思わず彼を見つめた。目の奥には驚きの色が浮かんでいる。この男、自分がしたことを認めるつもりなのか?緒莉は嗚咽を漏らしながら声を振り絞った。「辰琉、どうして......」美月もまた、不満げな表情を浮かべた。まさか、彼女は紗雪を誤解していたのか?だが次の瞬間、辰琉は深い後悔の表情を浮かべ、こう続けた。「今日は酒を飲んでしまって、ソファに横になっていたんだ......少し意識がもうろうとしていた」その一言を聞いた途端、紗雪の心に警戒が走った。違和感を覚えたのも束の間、彼の口からさらなる言葉が紡がれる。「まさか紗雪が俺のそばに来て、色々と言い出すとは思わなかった......緒莉が婚約を奪ったと責めるようなこととか」辰琉は顔を上げ、目尻に微かに赤みを帯びた無垢な表情を見せた。まるで何も知らない被害者のように見せかけながら、美月に向かって言葉を続ける。「おばさん、すべては俺の問題だ。俺がしっかりしなかったせいだ。でも俺は緒莉を本気で愛している。紗雪がいなかったとしても、俺は緒莉を選ぶ」「辰琉......」緒莉は感動したように辰琉を見つめ、二人はまるで心を通わせる恋人同士のようだった。その光景は、まるで紗雪が邪魔者であるかのように見えてしまう。紗雪の顔は、瞬く間に怒りで染まった。──やっぱり、この男の口からまともな言葉が出るわけがない。自分は一体何を期待していたんだ?馬鹿馬鹿しいにもほどがある。「本当にそれが本心?」紗雪の目は鋭く光を帯び、真っ直ぐに辰琉を射抜いた。彼は視線を逸らし、彼女と目を合わせようとしない。それでも、口でははっきりと答えた。「当然だ。俺とお前の姉は、ずっと安定した関係を築いてきた。俺が緒莉を捨ててまでお前を選ぶ理由なんてどこにもない」「それに、お前は過去三年間、西山の後ろについていたじゃないか。そのことは皆が知っているんだぞ?」紗雪は呆れ果て、思わず笑い声が漏れそう
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第74話

辰琉は大股で緒莉のそばへ向かい、心配そうに声をかけた。「緒莉、大丈夫か?」「もともと体が弱いんだから、そんなに泣くなよ。緒莉が泣くと、俺まで辛くなる......」彼は何度も保証するように言葉を重ねた。「安心しろ、俺と紗雪は何もない。緒莉の顔を立てて妹みたいに思ってるだけだから」美月もまた緒莉のそばで彼女の体調を気遣っていた。そうして二人の対比が、紗雪をまるで悪役のように見せていた。その瞬間、紗雪は悟った。彼らと争わなければ、それで済むと思っていた。けれど、こいつらは次から次へと彼女の前に現れ、しつこく絡んでくる。「なるほどね、安東」紗雪は赤い唇をつり上げ、嘲るように微笑んだ。「本当にしぶといね。ここまで来ても、まだ認めないんだ?」「俺に何を認めろって言うんだ?緒莉の様子を見ろ!もうわがままはやめてくれ!」辰琉の言葉に、美月も紗雪を非難するような視線を向けた。緒莉と比べれば、確かに紗雪が無茶を言っているように映る。「もういい、こんな時にまだ言い争うつもり?」美月はただ、この騒ぎを早く終わらせたかった。しかし、紗雪はスマホを取り出し、余裕の笑みを浮かべた。「母さん、私が何を言うと思う?あなたに見せるのよ。この場で、本当の真相をね」その一言に、辰琉の顔色が変わった。彼の視線は紗雪の手元のスマホに釘付けになり、焦りが滲んでいた。まさか......紗雪は彼の狼狽を見逃さなかった。「そう、そのまさかよ」「本当にそこまでするつもりか?」彼女の目には冷たい光が宿った。「これはあんたが望んだ展開じゃないの?すべてはあんたが蒔いた種よ、お義兄様」緒莉は不安げに辰琉を見つめた。ただのスマホに、どうして彼はこんなに動揺しているのか。まさか......辰琉、嘘をついていた?美月もまた、彼の様子に違和感を覚えた。室内の視線が、一斉に紗雪のスマホに集まる。彼女はゆっくりと眉を上げ、迷うことなく録音を再生した。「頼む、もう一度だけチャンスをくれ」「実は俺、お前のことも結構好きなんだ」「俺は本気なんだ」辰琉の声が、はっきりと流れ出す。その中には、紗雪が何度も拒絶する様子も含まれていた。スマホ越しにも、彼女がいかに毅然と断っていたかが伝わる。辰
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第75話

辰琉は紗雪の鋭い視線をまともに受け止めることができなかった。まずは緒莉を見て、必死に弁解しようとする。彼女を宥めることが、今一番大事なことだと分かっていた。「緒莉、聞いてくれ、説明させてくれ!」しかし、緒莉は彼の手を勢いよく振り払った。いつもの儚げな表情も、もはや保つことができない。「録音まで流れたのに、まだ何を言い訳するつもり?」緒莉の瞳には、怒りと疑念だけが残っていた。「あの音声が辰琉の声じゃないって言いたいの?」「俺は......」辰琉は何かを言おうとし、一瞬目を輝かせた。そうだ、これは紗雪が加工した音声だと言えば......だが、紗雪はすでに彼の反応を読んでいた。「お義兄様、録音だけじゃないよ。さっきの会話、ちゃんと画面収録もしてるから」紗雪は美しい瞳を細め、妖艶に微笑んだ。だが、その笑みはまるで棘を持つ薔薇のように、人を刺すほど鋭い。「安心して、私はそんな細工をする時間なんてなかったよ。それに、これはそもそもあんたが自分の口で言ったことじゃない?」辰琉は完全に言葉を失った。紗雪の言葉が、彼の反論の余地を徹底的に封じたからだ。緒莉の表情も、さらに険しくなる。辰琉のこの行動は、彼女の顔に泥を塗るも同然だった。ましてや、先ほどまで母の前で婚約の話をしていたというのに。考えれば考えるほど、彼女の羞恥心は怒りへと変わっていった。辰琉は緒莉を見つめ、何か言おうと手を伸ばす。だが緒莉は彼を無視して、大股で前へと進んだ。一切振り返らず、まるで彼の存在すら見えていないかのように。彼女は紗雪と美月の前で、涙声で言った。「ごめんなさい......お母さん、紗雪......私、私が間違ってた......」「もう......顔向けできない......」美月は、そんな緒莉の姿を見て、少しだけ心を和らげた。「緒莉も知らなかったんだから、そんなに責めることはない」彼女の声は、いつもよりも優しかった。しかし紗雪は、その母の優しさを前に、心がすっかり冷え切っていた。辰琉の時はあれほど厳しかったのに。緒莉が謝った途端、「責めることはない」?その差は、あまりにも明白だった。美月もまた、横目で紗雪の表情を捉え、彼女が何を考えているのかを悟り始めた。とは
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第76話

何せ、美月は昔から強気な人だった。二川グループの会長でありながら、女性でもある。そんな立場でいる以上、株主たちはまるで獰猛な獣のような存在だった。その中で生き抜くのがどれほど困難だったか、容易に想像できる。だが、美月はこれまで紗雪の前でそんな苦労を語ったことは一度もなかった。彼女が口にするのは、会社を継げという言葉ばかり。できるだけ早く独り立ちするようにと。記憶の中の母は、厳格で強圧的な人だった。何事も完璧を求め、妥協を許さなかった。だからこそ、母が誤りを認めるのは、これが初めてだった。紗雪はしばらく黙ったまま、美月を見つめた。美月もまた、不安げに彼女の反応を待っていた。やがて、美月は目を伏せた。長いまつげの影に、その落胆が隠れた。よく考えれば、自分はあまりにも酷かった。なぜ、ちゃんと話を聞きもしないで辰琉の肩を持ったのだろう?自分の実の娘と、ただの赤の他人。なぜ、よりによって娘ではなく、他人を信じる選択をしたのか?この瞬間、美月はようやく気づいた。自分は紗雪に対して、あまりにも多くの誤解を抱えていたのだと。「私は、一度もあなたを恨んだことはないわ」紗雪はふっと微笑みながら、美月を見つめた。その眉目は穏やかで、どこか優しげな色を帯びている。「母さんがどれだけ大変だったか、ちゃんと分かってる。ひとりでここまで来るのに、たくさんのことを乗り越えてきたでしょう?だから、私は恨んでなんかいないし、厳しくされるのも理解してる」美月は驚いたように唇を開いた。紗雪の顔立ちはどこか自分と似ている。その強気で冷徹な雰囲気は、商談の場で敵を容赦なく叩き潰す自分の姿と重なった。まるで、自分の若い頃を見ているようだった。美月の目に、薄く涙が滲んだ。ゆっくりと紗雪に歩み寄る。その動きを察し、紗雪のほうが一歩先に近づいた。「......?」紗雪は、不思議そうに美月を見上げる。だが、次の瞬間、美月は彼女をそっと抱きしめた。肩にそっと頭を預け、静かに呟く。「......そうね。私が間違ってたわ」「私を理解してくれて、本当に嬉しい」紗雪の体が、一瞬だけ硬直した。母とこんなに近い距離で触れ合うのは、どれくらいぶりだろうか。何でもひとりでやってきた。母がしてくれ
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第77話

紗雪の言葉を聞き、美月は満足げに頷いた。「待ってるからね。事前に知らせてちょうだいね」紗雪は軽く頷いたものの、内心では少し気がかりだった。京弥にそんな時間があるのかどうか......何せ、彼にはまだ初恋を相手にする必要があるかもしれないのだから。「そうだ、母さん」紗雪がふと思い出したように口を開いた。美月は眉を軽く上げ、続きを促す。「に......いや、安東の件、どうするつもり?」紗雪は一瞬「義兄」と言いかけたが、すぐに言い直した。あんな男に義兄なんて呼び方はふさわしくない。「安東」という名前を聞いた瞬間、美月の目つきが冷たくなり、かつての女傑の顔に戻った。「この件は心配しなくていい。ちゃんとケリをつけるわ」そう言った後、美月は少し迷ったようだったが、結局言葉を続けた。「さっき、緒莉も言ってたけど、自分が甘かったって」「緒莉も騙されてたのよ。だから、受け入れるまで時間が必要なの」結局のところ、緒莉も被害者なのだ。そう言いたげな美月の瞳には、微かな哀れみが宿っていた。その「哀れみ」を、紗雪は見逃さなかった。やはり、美月は緒莉を庇うのか。ついさっきまで、緒莉は「私が婚約を奪った」などと言っていたのに。ついさっきまで、美月を含む全員が自分を疑いをかけたのに。紗雪の心には、じわじわと苦さが広がる。もし、あの録音がなかったら?もし、証拠がなかったら?今日の出来事は、一体どうなっていたのだろう。「わかったわ」美月は紗雪の表情が沈んだのに気づき、何か言おうとしたが、それよりも先に紗雪が口を開いた。「もう遅いから、そろそろ帰るね」「母さんも、早く休んで。今度は、彼と一緒に会いに来るよ」美月は去っていく紗雪の背中を見つめながら、今日の出来事を思い返し、目を細めた。紗雪が車を走らせる間も、頭の中には二川家での出来事がぐるぐると渦巻いていた。緒莉は、どんな言い訳をしてこの件を誤魔化すつもりなのか。辰琉もまた、「人違いだった」などとでも言うつもりだろうか?そう考えると、紗雪は思わず笑ってしまった。緒莉、がっかりさせないでよ。あんな男と、年を越すつもり?その頃。屋敷の外では、辰琉が緒莉の後を追っていた。緒莉は目的もなく歩き続けていた。どこ
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第78話

緒莉はもともと理不尽なことを我慢する性格ではなかった。辰琉は内心ぎくりとした。緒莉という女性について、彼は今のところ満足していた。家の者たちも常に緒莉を褒め、彼女のことを気に入っていた。緒莉は紗雪ほどの美貌ではないものの、鳴り城の名家の令嬢であり、辰琉にとっても誇れる存在だった。そんな彼女を本当に捨てるとなると、当然惜しいと感じる。そう考えた彼は、緒莉の肩をぐっと引き寄せ、優しく宥めるように囁いた。「全部あの女が俺を誘惑したせいだ。俺の心にいるのは、ずっと緒莉だけだよ」「もう馬鹿なことを考えるな。俺たちはもう婚約してるんだ、一生一緒にいるつもりだ。俺の心の中には緒莉しかいない」辰琉は整った顔立ちをしており、特にその瞳は誰を見ても深い愛情が込められているように感じさせる。そんな彼の優しい態度に、緒莉はつい信じてしまった。彼女は深く息を吸い込んでから言った。「いいわ。じゃあ、もう一度チャンスをあげる。でも、お母さんにはどう説明するつもり?」「紗雪の録音が公開されちゃったし、適当にはごまかせないわよ」辰琉は紗雪の得意げな顔を思い出し、顔色が曇る。「心配するな。おばさんのことは俺がうまく説明する」「俺たちが協力すれば、おばさんだって俺たちの仲を引き裂こうとはしないさ」緒莉は一瞬考え、それもそうだと納得したのか、それ以上何も言わなかった。辰琉は微笑みながら提案する。「レストランを予約したんだ。一緒に食事に行こう」緒莉は小さく頷く。瞳にはまだ涙が滲んでいた。辰琉はそっと彼女の涙を拭い、優しく囁く。「もう泣くな。泣かれると俺まで心が痛む」まるで何事もなかったかのように、二人は元通りの関係に戻った。......紗雪が家に帰ると、部屋の中は真っ暗だった。「京弥さん、まだ帰ってない?」彼女はほっと息をつく。ちょうどよかった。どう彼と向き合うべきか、まだ考えがまとまっていなかったのだ。道中ずっとそのことで頭を悩ませていたが、今の状況なら余計なことを考えずに済む。彼は、そもそも帰っていないのだから。紗雪は気楽な気持ちで電気をつけた。次の瞬間、ソファに座る京弥の姿が目に入り、思わず驚いて身を引いた。「ちょっと、家にいるなら電気くらいつけなさいよ!」彼女は眉をひそ
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第79話

「考えすぎだよ。ただ最近、仕事が忙しかっただけ」紗雪は京弥の顔を見たくなくて、「早く離して。お風呂に入るから」と言った。しかし、京弥は腕を緩めることなく、じっと紗雪を見つめた。まるで何かを隠しているのではないか、そんな気がしてならなかった。だが、紗雪が口を開かない限り、彼にも探る術はない。彼は眉をひそめ、さらに問い詰めようとした。このままでは二人の関係がぎくしゃくしてしまう。以前のような関係に戻りたいのに、今の紗雪は何かを誤解しているようだ。「さっちゃん、俺たちの間に誤解があってほしくないんだ」京弥は紗雪の首元にそっと顔を寄せ、静かに囁いた。「だから、何かあるなら、ちゃんと俺に話してほしい」彼の声は低くて柔らかく、まるでチェロの低音のように心を揺さぶる。紗雪の心臓が一瞬跳ねた。しかし、あの夜、彼が躊躇なく去っていったことを思い出し、結局、何も説明したくなくなった。何を問い詰めたところで意味があるのだろう。どうせ、ただの契約結婚にすぎない。お互いに利用しているだけなのだから。「本当に何でもないわ」紗雪の瞳は冷静そのもので、淡々と告げた。「母さんが、次は一緒に食事をしようって言ってた」「あなたが気乗りしないなら、断っておくわ」「いや、行くよ」京弥は即座に答えた。「義母さんの誘いだし、当然行くべきだろう」義母さん。その言葉を京弥の口から聞いた瞬間、紗雪の耳が微かに赤く染まった。「じゃあ、後で都合のいい日を伝えるわ」二人は自然と話題を逸らし、それ以上は何も触れなかった。紗雪は、この微妙な距離感がちょうどいいと思っていた。わざわざ真実を知る必要なんてない。今のままで十分だ。紗雪はシャワーを浴びた後、先にベッドに入った。しばらくして、京弥も洗面所から戻ってきて、静かに隣に横たわる。彼はそっと紗雪を抱き寄せた。彼女の体が一瞬こわばるのを感じ、京弥の瞳がわずかに暗くなる。紗雪は、また何か仕掛けてくるのではないかと身構えたが、彼はただ腕を軽く添えるだけで、それ以上は何もしてこなかった。それを確認すると、紗雪はほっと息をついた。初恋の存在を知ってからというもの、彼との関係をそれ以上進める心の準備がまだできていなかった。翌朝。京弥はい
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第80話

この顔を見て、紗雪は拒絶の言葉を口にすることができなかった。「わかった、気をつける」京弥は瞬間、薄い唇を持ち上げ、目尻にまで笑みが広がった。「椎名奥様、連絡待ってます」紗雪は軽く「うん」と応え、そのまま会社へ向かった。男性は彼女の後ろ姿をじっと見つめ、完全に視界から消えるまでその場を動かなかった。それからようやく車を発進させる。会社に着くと、紗雪の表情はすっかり仕事モードに切り替わる。淡い色のフィットしたスーツを身にまとい、髪をきっちりとまとめ、額をすっきりと見せていた。軽くメイクを施し、精悍な雰囲気が増し、職場のエリート感がより一層漂っている。彼女が通り過ぎるたびに、同僚たちは挨拶を交わし、紗雪は微笑みながら軽く頷くだけだった。誰もが彼女の美貌を称賛し、感嘆する。自分のデスクに着くと、昨日柴田が指示した事項と、二川家から持ち帰った資料を統合し始めた。細く高い鼻筋には縁なしのメガネがかかり、桜色の唇はそっと結ばれ、真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。パソコンの光が彼女の顔に淡い影を落とす。周囲がどれほど騒がしくても、紗雪は自分の世界に完全に没頭していた。今はただ、企画案を完成させ、椎名のプロジェクトで実績を上げることだけを考えている。それが、彼女の今の目標だった。紗雪は昔から冷静で、独立した考えを持っている。京弥の件も、すでに頭の中から追い出した。ダメなら、ただのルームメイトとして割り切ればいい。紗雪は静かに息を吸い込み、再び資料に集中した。資料を統合することで、椎名の会社理念をより深く理解することができた。椎名が目指しているのは、リラクゼーションと養生を兼ね備えた高級温泉サービスだ。このプロジェクトを勝ち取るには、伝統的なやり方ではダメだ。新しいアイデアを提案しなければ、多くの建築会社の中で頭角を現すことはできない。紗雪はしっかりと唇を結び、母との賭けを思い出した。今回こそ、絶対に勝つ。仕事に集中していた紗雪の前に、柴田が資料を持って現れた。彼はデスクの上に書類を置くと、話しかけた。「二川さん、この資料を椎名グループに届けてくれ」「椎名から声明が出た。まずは初版の企画書のフレームワークを審査するそうだ」紗雪は少し戸惑った。「もう資料を
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