元々、二川家の次女が会社に来たのは、基層から経験を積むため。ただの形だけだと思われていた。どうせ、口だけの話だろう、と。豪門の子供は皆、生まれた時からお金持ち。家の資産もあるし、仕事をすると言っても、ほとんどは見せかけのものにすぎない。しかし、紗雪はプロジェクトマネージャーが知っているそういった人間とは、まるで違っていた。いや、それどころか、彼の認識を根本から覆すほどだった。そもそも、彼女ほど真剣に仕事に向き合う人は滅多にいない。二川家はもともと裕福で、彼女は二川グループでのんびり過ごすこともできたはずだ。だが、紗雪の真剣な姿勢は、彼の目にはっきりと映っていた。それだけではない。彼女は誠実で、人当たりも穏やかだ。そう考えると、プロジェクトマネージャーは紗雪を見る目に、さらに温かみを増した。紗雪は周りがどう思おうと、ただ自分のやるべきことをやるだけだった。彼女の背筋はまっすぐに伸び、古い木のように、ひとりで大きな空を支えていた。その姿を見ると、不思議と安心感を覚える。「じゃあ、君に任せるよ」プロジェクトマネージャーは改めて言い聞かせるように言った。「二川さん、椎名のプロジェクトの重要性は、君が一番よくわかっているはずだ」紗雪は力強く頷き、目には堅い決意の光を宿した。「全力を尽くします」彼女のその決意は、オフィスの他の人々にも伝染した。誰もがこのプロジェクトに十二分の気持ちを込め、紗雪のように真剣に取り組むようになった。前田の件以来、もう誰も紗雪を侮ることはなかった。それどころか、彼女は「分別のある人間」として、一目置かれるようになった。そんな職場の空気の中で、紗雪もまた、落ち着いて仕事に打ち込めた。午後、彼女は整えた資料を持ち、椎名へと向かった。オフィスの皆が彼女を励まし、背中を押してくれた。会社の車に乗り、目的地に着く。そびえ立つ高層ビルを見上げると、周囲には都心部の建築物が立ち並んでいる。その景色を見て、紗雪は改めて、椎名の規模と実力に圧倒された。ずっと前から、この会社が凄いことは知っていた。しかし、こうして実際にその場に足を踏み入れると、また別の畏怖を感じる。紗雪はきゅっと赤い唇を引き結び、心の中で気合を入れた。そして、しっかりと歩みを
そうだ、彼女は書類を届けに来たのだ。椎名とのプロジェクトこそが最優先事項であり、他のことは二の次。優先順位を見失ってはいけない。それに、ほんの一瞬の出来事だった。紗雪は、自分が見間違えた可能性があるのではないかと疑った。しかし京弥の顔立ちを、彼女が見間違えることなどあるだろうか?ふと、紗雪の脳裏にあることがよぎった。椎名グループの名は、京弥の「椎名」と同じだ。このことに思い至ると、紗雪は目を細めた。不思議なほど、多くの出来事が偶然とは思えなくなってきた。彼女の記憶の中にあるのは、母の誕生日会での京弥の豪胆な振る舞い、そしてあの本物の玉の瓶。辰琉でさえ大金を積んで手に入れたのが偽物だったことを考えれば、本物の玉の瓶がどれほどの価値を持つのかは想像に難くない。椎名家は確かに裕福だが、それでもあれほどの金額を出すことはそう簡単ではないはず。紗雪は考え込んだまま、15階の会議室へと向かった。もしかしたら、本当に見間違えただけなのかもしれない。だが、次の瞬間。「チン」エレベーターの扉が開いた。紗雪が顔を上げると、彼女の視線はある人物の瞳に吸い込まれた。足が、ぴたりと止まる。エレベーターの外、人々の中心に立つ京弥が、漆黒のスーツ姿で彼女を見つめていた。洗練された装いは、彼の凛々しさと気品をより際立たせている。そして、彼の瞳には熱を帯びた感情が宿り、彼女には到底、読み解けない何かが滲んでいた。「きょ、京弥さん?どうしてここにいるの?」先に声を発したのは紗雪だった。京弥が椎名にいる。それは本当にただの偶然なのか?それとも、彼と椎名の社長には、何かしらの繋がりが?紗雪の目には、探るような色が浮かぶ。その意図を察したのか、京弥の瞳が一瞬だけ暗く揺れた。そして彼は、周囲の者たちに無言の視線を送る。傍らにいた匠が、素早く社内チャットにメッセージを打ち込んだ。【ボスの正体をバラすな】京弥の趣味は妻とのロールプレイ。優秀な部下であれば、それに無条件で協力するのが当然である。人々の間を抜け、京弥はゆっくりと紗雪の前に立つ。そして、冷静な声で説明を始めた。「うちの会社と椎名は、多少の取引がある。だから、形だけの顔出しに来ただけだよ」
紗雪は特に何も言わなかった。会社の人々がこちらを見ているのを感じ取り、それ以上話を続けることはしなかった。「じゃあ、仕事を頑張って。私はこれを渡さないといけないから」そう言って、手に持っていた書類を軽く掲げ、届け物があることを示した。京弥は目の前の彼女をじっと見つめた。普段の奔放な雰囲気とは異なり、今日はどこか真剣な表情をしている。「分かった、頑張って」彼は何気ない様子で言った。「さっちゃんなら、何をやってもうまくいくさ」紗雪は彼の深い瞳と視線が交わると、なぜか含みのある言葉に聞こえた。だが、はっきりとした意味は分からない。「椎名」という名前の件。紗雪は少し俯き、長いまつげが思考を隠すように影を落とした。まあ、京弥の家がどれだけ裕福だろうと、おそらく本家ではなく分家に過ぎないだろう。椎名の実権を握る、あの伝説の椎名さん。そんな頂点の存在に、自分のような普通の人間が関われるはずがない。そう考えると、さっきまでの不安もすっと消えた。単に、自分で勝手に怖がっていただけなのだろう。「うん、頑張るよ」考えがまとまると、紗雪の京弥を見る目には、先ほどまでの警戒心がいくらか和らいでいた。彼をすり抜けるようにして会議室へと向かった。紗雪は、初版の企画書のフレームワークを椎名のプロジェクト責任者に手渡した。彼は書類を受け取ると、淡々とした口調で言った。「はい、確かに受け取りました。結果が出たらまたお知らせします」だがしばらく経って、誰かが責任者の耳元で何かを囁いた。すると、彼の態度が一変した。突然立ち上がり、紗雪をじっと見つめると、声のトーンが明らかに二段階ほど上がった。「二川さん、企画の展開プランについて簡単に説明していただけますか?上層部に詳細を報告するので」紗雪はわずかに眉を上げ、すぐに悟った。ここにいるビジネスマンたちは、皆商売の場数を踏んできた人間だ。そんな彼らが、この責任者の態度の変化を理解できないはずがない。紗雪自身も、何が起こったのかは分からなかったが、周囲の視線を受けても微動だにしなかった。むしろ落ち着いた口調で、堂々と説明を始めた。周囲の反応は様々だった。驚きの表情を浮かべる者、羨望の眼差しを向ける者、嫉妬を滲ませる者。だが、
その言葉に、周囲の人々は皆納得したようだった。紗雪を見る目にも、さらに一層の賞賛が加わる。どうやら、今回のプロジェクトで二川グループには十分な勝算があるようだ。派遣された代表者も、言動にしっかりとした節度が感じられる。紗雪は人々の視線に気づいたが、ただ微笑みながら軽く頷いた。彼女はビジネスの世界がいかに冷酷かを知っている。落ち目になると追い討ちをかけられる。ここにいる人々とは、表面的な関係を維持できればそれでいい。礼儀を守り、敵を作らず、無用な争いを避けることが肝心だ。会議室を出ると、外で京弥が待っていた。「もう終わった?」「うん、後はもう帰るだけ」京弥は自然な仕草で紗雪のバッグを受け取った。紗雪は一瞬だけ動きを止めたが、特に何も言わなかった。無料で荷物を持ってくれるなら、それに越したことはない。ふと周囲を見回すと、立っているのは京弥ただ一人だった。他の人々は皆それぞれの仕事に戻り、彼のために空間を作っている。その光景を見て、紗雪は少し不思議に思った。改めて、目の前の京弥をじっくり観察する。この顔立ちなら、もし二川グループに来たら、好奇心で周りに人が集まりそうなものだけど……椎名ではそんな様子はまったくない。会社の管理がしっかりしているということなのか。紗雪の視線に気づいた京弥は、どこかおかしそうに微笑んだ。「どうした?そんなに真剣に俺の顔を見て」「イケメンだからね」思わず口をついて出た言葉に、次の瞬間、自分でも驚いた。顔がじんわりと熱くなり、頬に薄紅が差す。何言ってるんだ。京弥は喉の奥から低い笑い声を漏らした。思わず右手を握り、薄い唇に当てる。明らかに機嫌がいい。角で様子を見ていた匠は、その笑顔に驚愕した。この人は、本当に彼が知ってる社長か?普段、会議で一度でも機嫌のいい顔を見るのは至難の業だ。もしミスをすれば、徹底的に叱責されるのが常。これはもう奇跡レベルの光景だ。視線を横にずらし、匠は紗雪をじっと見た。なるほど、原因は彼女にあるらしい。紗雪は京弥の笑顔に、思わず心臓が跳ねた。彼はまさに「高嶺の花」。その笑みは、まるで雪が溶けるように柔らかく、普段の冷静な雰囲気とはまるで違っていた。「知ってる、俺がイケメ
もともと、紗雪は特に気にしていなかった。どうせ京弥の周囲には十分なスペースが空けられているし、注目を集めるようなことでもない。しかし、その言葉が口をついた瞬間、彼女は初めて気づいた。周囲が、無数の目が自分たちを凝視している。「特にないね。もう聞かないで」この場から、一刻も早く逃げ出したい。その頃、匠の周りでは、社員たちが小声でひそひそと話していた。「ちょ、あの人って、もしかして椎名奥様?」「確実にそうだろ!社長自ら料理を作るなんて、もう確定じゃん!」「いやいや、うちの社長が料理できるとか、ありえる?」「マジかよ……ずっと絶対に手の届かない存在だと思ってたのに。いや、やっぱり手の届かない存在だったわ。だって彼女も女神レベルだよね」「てかさ、神様は社長にどの才能を与えなかったわけ?」表向きは仕事をしているフリをしながら、実際は全員が目と耳を総動員させて、紗雪と京弥の動向を見守っていた。紗雪はその視線の圧に耐えられず、落ち着かない。それに気づいた京弥は、ゆっくりと視線を上げ、周囲を鋭く見渡した。無言の警告。次の瞬間、社員たちは一斉に視線を逸らし、何事もなかったかのようにモニターに集中する。終わった。彼らの脳裏には、ただその一言だけがよぎる。紗雪は京弥の視線の動きには気づかず、ただため息をついた。「先に帰るね。仕事が残ってるから」「駐車場まで送るよ」紗雪は断ろうとしたが、京弥がじっと見つめてくる。そのまっすぐな眼差しに、なぜか「いらない」と言えなかった。まあ、彼も特に用事があるわけじゃないし......そう考え、結局うなずいた。二人は並んでエレベーターへと向かう。彼らが去った後、社員たちはようやく息をついた。社長は、女性に興味がないじゃなかった。ただ、本当に好きな人に出会ってなかっただけ。二川さんに対するあの優しさ、見たことないレベルだった。匠もまた、心の中で密かに感慨を抱いた。二人の後ろ姿、見れば見るほどお似合いだ。並んで歩く姿は、どちらも気圧されることなく、二川さんの雰囲気すらも社長に見劣りしない。「散った散った。もう仕事に戻れ。今日のことは他言無用だ」そう言いながら、匠は重要なことを思い出した。「社長はチャットでしっかりと通達
紗雪はそんな人だった。道中、彼女の視線は一度も京弥の方を向かなかった。京弥は紗雪が上の空なのに気づき、不思議そうに尋ねた。「さっちゃんはさっき、俺のことをイケメンって言ってたよな?」「なのに、ずっと俺の方を見もしない」その言葉を聞いて、紗雪の耳たぶに薄紅が差した。さっき椎名での気まずい場面が思い出される。そもそも、あれはただの口から出まかせだったのに、なんで何度も蒸し返されなきゃいけないのか。紗雪は怨念を込めた眼差しを京弥に向けた。「いくらカッコよくても、もう寝た仲でしょ。もう見飽きたの」ふてくされたように、適当に言い放った。すると、京弥の足がぴたりと止まり、無表情のまま紗雪をじっと見つめた。紗雪はまだ気づかず、そのまま前へと歩を進める。心の中では、彼がしつこくあの恥ずかしい話題を持ち出すことに、密かに苛立っていた。車の前に着いたとき、紗雪はようやく隣にいたはずの人物がついてきていないことに気がついた。不思議に思いながら振り返ると、京弥が少し離れたところに立っていた。「なに?送るって言ったのに、ここまで来て、もう送る気ないの?」「送るのが嫌なら、バッグだけ返して」早く会社に戻らなければならないのに、ここで時間を無駄にするわけにはいかない。紗雪は不満げに京弥を見た。だが、彼の目に潜む危険な光には気づかなかった。まるで鋭い鷹のような視線が、彼女に釘付けられている。次の瞬間、京弥は素早く紗雪の元へ歩み寄り、彼女の手から鍵を奪った。そのまま車のドアを開けると、彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、後部座席へ押し込むようにして乗せた。紗雪がようやく状況を把握したときには、すでに京弥に後部座席へ押し倒されていた。「ちょ、何するのよ!私、会社に戻らなきゃいけないんだけど!」彼を押し返そうとするが、びくともしない。京弥は邪気を含んだ微笑みを浮かべ、彼女の耳元で囁く。「さっちゃん、俺のこと、もう見飽きたって?」低くセクシーな声が、まるで引っ掛けるように彼女の心をくすぐる。「怒ったの?本当のこと言うのもダメなの?」紗雪は真剣な顔で京弥を見上げた。「もちろん、いいさ」男は冷たく笑った。紗雪が「じゃあ早くどいてよ」と言う間もなく、次の瞬間、驚きの声が漏れた。「
京弥は息継ぎの合間にその言葉を囁いた。言い終わるや否や、紗雪が反応する前に、大きな手がそっと彼女の瞳を覆う。次の瞬間、再び身を屈めた京弥が唇を奪いにくる。紗雪が一息つく間もなく、その呼吸はまたしても奪われた。後部座席の中、絡み合う二つの影が途切れることなく揺れる。......二川グループ。紗雪が戻ってくると、デスクの隣にいた同僚がすぐに駆け寄ってきた。椎名の様子を聞こうとしたが、目に飛び込んできたのは紗雪の腫れた唇。「紗雪!?」同僚は驚愕し、思わず声を上げた。「どうしたの、その唇!?めちゃくちゃ腫れてるけど……!」彼女は丸顔で、普段からおしゃべり好きだが、仕事には真面目な性格。それに、よくお菓子を分けてくれる優しい子だった。紗雪も彼女に対して好感を持っていた。唇をそっと指でなぞると、触れただけでズキズキと痛む。紗雪の瞳が一瞬だけ陰ると、何でもないように言った。「大丈夫よ。犬に噛まれただけ」その言葉を聞いた同僚は、一瞬返す言葉を失った。だが次の瞬間、目をキラキラさせながら、少し意味深な笑みを浮かべた。「ふ~ん?でも、紗雪ってすごく美人だし、きっと彼氏もめっちゃイケメンなんでしょ?」紗雪の眉がピクリと動く。「彼氏?ただの狂犬よ、狂犬!!」怒ったように語気を強めると、同僚はくすくすと笑い出した。「紗雪がこんなにムキになるなんて珍しい~。いつも仕事一本なのに!」紗雪は言葉に詰まり、思わず黙り込んだ。そう、だったのか?でも、以前は彼女だって自由だったはずだ。バイクを乗り回し、遊び回り、無邪気に笑っていた頃があったはず。同僚は彼女の沈黙に気づいたのか、それ以上は何も言わず、机の上にいくつかお菓子を置いた。「はい、これ。じゃあ私はちょっと水汲んでくるね」「うん、ありがとう」机の上には、紗雪が好きな味のお菓子が並んでいた。そのやり取りを、少し離れたところから林檎が見ていた。彼女の目は嫉妬と憎悪に満ちていた。紗雪さえいなければ、彼女の人生は順調だったのに。俊介がいた頃、林檎は部門内で特別待遇を受けていた。仕事の配分も軽く、楽をしながら同じ給料をもらえていたのだ。それどころか、俊介は彼女を課長にすると約束していた。給料も上がり、もっ
紗雪は、その人物に目を向けた。ちらりと見ただけだったが、どこかで見た記憶がある。確か、前田と一緒に買い物していた女性……名前は浅井林檎だったはず。その瞬間、俊介があの日、自分に向けていたいやらしい視線が脳裏に蘇り、紗雪は胃の奥がひっくり返るような不快感を覚えた。すぐに視線を逸らしながら、心の中で考えを巡らせる。もしかして、林檎は前田の仇討ちでもするつもり?そんなの笑わせる。どうしようもないクズ男なのに、そんな人間を本気で気にかけるやつがいるとは。でも、考えてみれば納得できる話だった。どうせ彼らは、互いに利用し合っていただけなのだろう。紗雪は肩をすくめ、特に気に留めることなく仕事を続けた。プロジェクトマネージャーがオフィスに来たとき、紗雪は最後のエンターキーを押し、ファイルを保存した。「二川さん、ちょっとオフィスに来てくれる?」「はい、すぐ行きます」紗雪は立ち上がり、マネージャーの後についてオフィスへ向かった。ドアが閉まると同時に、林檎の表情が一変した。「クソ女め」心の中で毒づくと、その顔には隠しようのない憎悪が滲み出る。なるほどね。今度はマネージャーに取り入ったってわけか。どうりで俊介を追い出せたわけだ。「チッ……自分は不正な手段でのし上がったくせに、俊介を切り捨てるなんて、どの口が言うのよ」しばらくして、もうすぐ退勤時間になろうとしていたが、紗雪とマネージャーはまだオフィスから出てこなかった。林檎は焦れたように席を立ち、コーヒーを取りに行くふりをしながら、紗雪のデスクへ向かう。遠目で確認すると、彼女のパソコンがロックされていない。その事実に気づいた瞬間、林檎の胸が高鳴った。紗雪が会議で話していたプラン、まだ形になっていなかったはず。もし林檎が先に形にしたら、それはこっちの手柄になる。昇進も、給与アップも、全部浅井林檎のものにできる。そうなれば、俊介に頼る必要なんてない!林檎の目に欲望の光が宿る。そして、抑えきれない衝動に駆られ、そっと手を伸ばそうとした、そのとき。「何してるの?」鋭い声が響いた。振り向くと、丸顔の同僚・円(まどか)が険しい表情でこちらを睨んでいた。「そこ、紗雪のデスクでしょ?何か用があるなら、本人に直接聞いてみたら
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「
紗雪の対応があまりにも素早く、秘書は心の中で驚きと同時に安堵の色を浮かべた。彼女は最近昇進したばかりで、紗雪のことをそこまでよく知らなかった。今朝ニュースを見たときは、「もう終わりだ」と思ったくらいだった。だが、思った以上に紗雪はしっかりとした手腕を持っていた。その姿を見て、秘書の中でも不安が少しずつ薄れていった。しかし。二人がようやく一息つこうかというその時、さらなる事態があっという間に爆発した。まさかここまで早く連鎖反応が起きるとは、誰も想像していなかった。しばらくして、秘書はもう自分一人では収拾がつかなくなり、またしても紗雪の元へ駆け込んだ。「大変です、会長!」「先ほど見ていただいたメーカーだけでなく、その後も次々と多くの業者が納品契約を解除してきています。このままだと、今手がけているプロジェクトすべてが一時停止になりそうです!」紗雪の手がペンを持ったまま止まった。ようやく彼女も、事態の展開の早さに気づいたのだった。まるで背後に巨大な手が動いているような、そんな不穏な流れ。彼女は直感的に、これがただの風評被害ではないと感じていた。だが今は真相を探る暇もない。最優先すべきは、大手メーカーたちとの関係をどうにかして維持すること。プロジェクトが一日でも遅れれば、その分人件費と時間が無駄になる。もし納期を守れなければ、椎名にどう顔向けすればいいのか。これが最初の取引なのに、もうこんな泥を被る羽目になるとは。「まずは納品メーカーをなだめて。あと、ネットでデマを流してる連中を突き止めて。指をくわえて見てるだけってわけにはいかない」「わかりました、すぐに調査します!」秘書は慌ててその場を去った。今の彼らには、一秒たりとも無駄にできない。時は金なり。一歩間違えば、すべてが崩れていくだけ。これが大企業の背負う重圧。紗雪はネット上に出回っている情報を注意深く読み返した。何か見落としている気がしてならない。だが、それが具体的に何なのか、今の彼女には思い出せなかった。今はとにかく、秘書がメーカーと連絡を取るまで待つしかない。二川グループにとって、メーカーとの信頼関係は命綱だった。それを失えば、彼女一人で背負いきれるような損失では済まされない。しばらく
伊澄は昨日耳にした「スピード婚」という言葉を思い出し、心の奥がまるで蟻にかじられているかのようにムズムズした。今の彼女の唯一の願いは、二人が一刻も早く離婚することだった。そうすれば、兄を説得して、彼女の京弥兄と一緒に鳴り城に留まれるのだ。「そんなことはどうでもいいでしょ。私は今、共通の敵を倒すことしか考えてないわ」その言葉を聞いた加津也は、それ以上言うのをやめた。今の彼にはよくわかっていた。自分のこの協力者も、早く紗雪を潰したいと思っているに違いない。「そうですか」加津也はそう言って、一本のタバコを取り出し、伊澄に向かって美しい煙の輪を吐いた。「あとは、いくつかメディアと繋いで、この件を事実として世間に認識させればそれでいいです」伊澄は彼の口から吐かれる煙の香りと、その見事な煙の輪を見て、少し不機嫌そうに言った。「私の前でタバコを吸わないで」「それと、あなたが言ってることってそんな簡単にできるの?」加津也は軽く笑い、彼女にタバコを禁じられても、ゆっくりとその一本を吸い終えた。「はい。あとはもう、成り行きを見守ればいいだけです」「最後の勝つ組は、私たちになるでしょう」その自信に満ちた笑みを見て、伊澄の胸中にも少し安心が広がる。「私たちの初めての協力に、うまくいくことを願ってるわ」「はい。必ず勝利を」加津也は、今の伊澄が何を求めているかをよく理解していた。二人は視線を交わし、その瞳の奥には、同じく野心の炎が見え隠れしていた。......二川グループ。紗雪はオフィスで最近の業務に追われていた。そのとき、秘書が慌てた様子でドアをノックしてきた。「ドンドンドン」という音からも、その切迫感が伝わってくる。紗雪は眉をひそめ、胸の中に嫌な予感が広がった。「入って」返事を聞くや否や、相手は一切の躊躇もなく扉を開けて中に入ってきた。「会長、大変です!」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は不快そうに言った。「大変って、どんな?」「これを見てください」息も整わないまま、秘書は手にしていたタブレットを彼女に差し出した。右目のまぶたがピクッと跳ね、紗雪の中の不安がさらに強まる。タブレットを受け取り、彼女は素早く内容に目を通した。瞳孔が、わずかに収縮する。「
「大丈夫か?」優しく、そしてどこか心配そうな男性の声が響いた。紗雪は額を押さえながら顔を上げると、無表情なまま問いかけてくる京弥の姿が目に入った。「大丈夫」京弥の顔を見ると、それ以上の言葉はもう出てこなかった。そう言って、彼女は身をかわして中へと歩を進めた。だが、京弥が紗雪の手首を掴む。彼の瞳の奥に、一瞬だけ傷ついたような光が差す。「紗雪......ちょっと話さない?」二人はそのまま、しばらく無言で向き合っていた。まるで、お互いにこの均衡を壊したくないとでも言うかのように。けれど紗雪には分かっていた。もう二人の関係は、以前のままではいられないのだと。伊澄が現れてから、彼らの時間は止まってしまった。「京弥さん......これは私自身の問題。あまり深く考えないで」紗雪は無理やりに笑顔を作った。「それに......私たち、元々スピード婚だったでしょう?お互いの親のためだったのよ。そんなに感情にこだわる意味なんてある?」その言葉に、京弥は彼女の顔から嘘の痕跡を探そうとした。だが、彼女の演技はあまりにも完璧で、違和感のかけらも見つけられなかった。「紗雪......それは、本心から?」紗雪は鼻で笑った。「本心かどうか、まずは自分に聞いたら?」そう言って、彼女は彼の手を振り払って部屋の奥へと歩いて行った。部屋の中にいた伊澄は、その様子を見て心の中で花火が上がるほど喜んだ。まさか、二人がスピード婚だったとは。しかもただの親の都合。これはチャンスだ。彼女の攻略難易度が一気に下がった!やっぱり......京弥兄は、最後には自分のものになるに決まってる!「二川紗雪......後から来たあんたごときが、私に勝てると思ってるの?」「あんたが破滅する日が待ち遠しいよ!」伊澄はその勢いのまま、加津也にメッセージを送った。「そっちはもっと頑張って。こっちは全力で合わせるから」その頃、加津也は初芽とベッドの中で交わっていた。メッセージに気づいた瞬間、動きを止める。「......え?」初芽が不満げに身を寄せる。加津也の目が一瞬暗くなるが、共通の敵のためにと気を取り直してメッセージに返信した。その様子を見て、初芽は内心で拳を握りしめながら悪態をついた。こんな
彼もすぐに手を差し出し、二人は軽く握手を交わした。それで、この協力関係は正式に成立した。なぜだか分からないが、伊澄はそれまで心の奥にあった不安が、手を握ったその瞬間、不思議と静まっていくのを感じた。加津也も続けて言った。「安心してください、神垣さん。失望させません。なんたって、共通の敵を持っているんですから」伊澄は手を引き、礼儀正しくも距離感を保った笑みを浮かべた。「そういうことなら、誠意を見せなさい。そっちはどう動くつもり?」加津也は彼女が手を引いたことに特に気を悪くすることもなく、表情を崩さずに笑みを保ったまま答える。「神垣さんの会社は二川グループとライバル関係にあります。だからこそ、海ヶ峰社からの情報には説得力があるんです」伊澄は眉を少し上げる。「続けて」「我々がやるべきことは単純です。二川グループが最も気にしているのは名声。だから、まずは外部からプレッシャーをかけて、それから内部を崩すのがベストです」「そうすれば、あとは一気に片がつきます」加津也の笑みには含みがあった。伊澄はその話を真剣に咀嚼しながら、確かに一理あると判断した。「なるほどね。じゃあ、手助けが必要なときは、直接言ってちょうだい」加津也の計画を聞きながら、伊澄は彼のやり方をある程度認めた。心の中で冷たく笑う。本当に信じられない。この世には紗雪を憎んでいる人間がこんなにもいるなんて。普段からあの人のキャラがよっぽど嫌われてるのね。だからこんなにも敵が集まる。「ちょうど一つ、頼みがあります」加津也はそう言いながら、彼女のそばまで歩み寄る。伊澄は急に距離を詰められたことで、思わず眉をひそめた。「なに?話をするなら、離れて話して。近づかないで」彼が突然立ち上がっただけでも、彼女の警戒心は強くなった。なにせ、この男は紗雪の元カレ。もし彼に何かされたら、自分は京弥哥にどう言い訳すればいい?そんな彼女の反応を見て、加津也は眉を軽く動かして、小さく笑った。「まだ私のこと、信用していないんですね。もうパートナーなんですから、信頼関係は大事ですよ」「始まったばかりで信頼できるわけないでしょ」伊澄は鼻で笑った。「初対面の相手にいきなり信頼なんて、そんな都合のいい話あるわけないじゃない」加津也
紗雪は深く息を吸い込んだ。加津也の存在がすでに仕事にまで影響を及ぼしている。これ以上放っておくわけにはいかない。次はもっと手厳しくやらなければ。前回警察に突き出したくらいじゃ、きっと十分な教訓にはならなかったのだろう。あの男は、痛い目を見てもすぐに忘れてしまう。紗雪は手首のブレスレットをくるくる回しながら、細めた目で次の一手を思案し始めた。......「西山加津也?」伊澄はその名前を聞いた瞬間、一瞬ぽかんとした。頭の中には、その人物に関する記憶がまったく浮かんでこなかった。秘書が説明する。「はい、その人は西山家の御曹司です」「どうしても神垣さんと直接話がしたいと訪ねてきていて、彼の手元には神垣さんが欲しがっているものがあると言ってました」それを聞いて、伊澄の興味が湧いた。彼女は立ち上がり、秘書を見つめた。「本当に、そう言ったの?」「ええ、自信満々に話してました。今は応接室でお待ちです」伊澄は赤い唇を上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、どんな人物なのか見てやろうじゃない。私の興味を引くものがあるって言うなら、相当のものじゃないとね」そう言って、彼女は応接室へと向かった。どうやら加津也は、彼女の注意を引くことに成功したようだ。応接室に入ると、伊澄はそのまま彼の正面に腰を下ろした。気取らない態度で問いかける。「あなた、私の興味を引くものがあるって言ったわね?」加津也は彼女の清楚で可愛らしい容姿と、瞳の奥に潜む野心を見て、この人物はなかなかの協力者になると直感した。「もちろんです。神垣さんが二川グループと競っている関係だって、よく耳にしています」伊澄の目が一瞬だけ光を帯びたが、すぐに表情を引き締める。「それは聞いた話だけでしょう?証拠もない話を鵜呑みにしてもらっちゃ困るわ」加津也は薄く笑みを浮かべ、紗雪と一緒にいたときの写真など、証拠を差し出した。「神垣さんが狙っているのは彼女でしょう?私のターゲットもまさにその彼女です」「敵の敵は味方だって、よく言うじゃないですか。手を組んでみるのも悪くないと思いませんか?」伊澄は写真を見つめ、目が輝いた。だが次の瞬間、何か引っかかるものを感じた。もし二人が以前恋人関係だったのなら、なぜ今になって彼女を陥れようと
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪