All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 891 - Chapter 900

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第891話

彼女は安東グループと長年にわたり協力関係を築いてきたのに、まさか目の利かない受付に止められるとは思ってもいなかった。そう考えると、美月の胸の奥に怒りが再びこみ上げてきた。この何年もの協力も、安東家の者たちは心に留めていなかったのか。そうでなければ、受付が自分をこんな扱いするはずがない。美月の胸中には元々鬱積した怒りがあった。そこに受付の一件が重なり、ますます血が頭に上った。山口はすぐに空気を読んで、ボディーガードに目配せした。ボディーガードは即座に前に出て、左右から受付を抑えた。相手が女性だからといって、手加減することはなかった。その光景に、会社ロビーにいた人々は皆呆気にとられた。こんな時代に、まだヤクザまがいのことがあるのか?法律違反じゃないのか?受付の女性も慌てふためき、必死に抵抗を始めた。「何をするのですか!今すぐ離して!ここは安東グループよ。場所くらいわきまえなさいよ!」受付はすぐに冷静さを取り戻し、数人に向かって強気に脅しをかけた。だが美月は唇を吊り上げ、秘書とボディーガードを従え、さらに受付を引きずるようにして、そのままエレベーターへと進んでいった。以前ここに契約の件で来たことがあるので、道順は当然分かっている。一行の前に立ち塞がる者は誰一人いなかった。なにしろ、あの二人のボディーガードは体格も大きく、ただ立っているだけで威圧感があった。一目見ただけで、誰も逆らう気になれない。ましてや揉め事を起こすなど無謀だ。皆、噂話は好きでも、自分の身が一番大事だ。人々はただ美月が社長室に直通するエレベーターへ向かうのを見送るしかなかった。やがて一行がエレベーターに乗り込むと、ようやく誰かが後から気づいたように声を上げた。「今の人......二川グループの会長じゃなかったか?」その言葉に、周囲の者は一斉に彼を見つめ、信じられないという表情を浮かべた。「本当に?」「本当だ......」その人物は最初、自分の目を疑っていた。だが考えれば考えるほど違和感が強まる。相手はサングラスをかけていたが、隣の秘書の顔は見覚えがある。加えて、あの強烈な存在感。それで記憶が繋がったのだ。その分析を聞いた周囲は、皆一様にため息を漏らした。これは大変なこ
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第892話

孝寛はその様子を見て、目の奥に陰りを落とした。頭に浮かんだのは、出来の悪い息子と、家の中にいるあの冴えない妻。外にすでに私生児がいるとはいえ、それと女遊びを続けることに何の関係があるだろう。こういうことは一度あれば二度目もあるものだ。孝寛の笑みは次第に深まり、軽く咳払いして低い声で言った。「優奈、このエアコン、温度ちょっと高くないか?暑いだろ?」「優奈」と呼ばれた秘書は身を震わせ、一瞬でその意図を理解した。彼女はわざととぼけて言った。「そうですね、でも昨日もだいたい同じ温度でしたよ?エアコン、壊れちゃったんでしょうか......」そう言って、優奈は服の胸元を少し引き下げた。隠しきれない景色が、いっそう露わになる。その光景に、孝寛の目は赤く染まった。彼はこうして察しのいい部下が大好きだ。まさか一言で、自分の真意を理解してくれるとは。やはり金の力は絶大だ。金で人の心を試すなど、ほぼ確実に思い通りになる。孝寛はもう遠慮せず、優奈を腕に抱え込んで膝の上に座らせた。五十を過ぎてはいるが、きちんと身なりを整え、金も権力もある。そんな彼の隣を狙う者は今も少なくない。「優奈みたいにすぐに気持ちを汲んでくれる子が好きだよ。俺が一言言えば、意味が分かるんだから」孝寛は笑い、その目尻の皺がいっそう深く刻まれた。優奈はわざと怯えたように言った。「会長、こんなこと......奥様に知られたら、私......」孝寛は鼻で笑った。「心配するな。これは俺たち二人だけの秘密だ。安心しろ、絶対に損はさせない」「そ、それは......」優奈は怯えたように彼の服を掴み、表情は拒んでいるようでいて、その心の中では歓喜が溢れていた。まさかこんなにうまく事が運ぶとは思わなかった。ここ数日、彼女はずっと機会をうかがっていたのだ。しかし、その間は安東奥様が会社に張りついていて、下手に動くことができなかった。今日になってようやく、大胆に仕掛けることができた。人生は一度きり、チャンスは自分で掴むもの。会長があの言葉を口にした瞬間、心の中でどれほど歓喜したことか。すべてが順調に進んでいたその時――突然、オフィスのドアが蹴破られた。秘書の優奈は悲鳴を上げ、二人は慌てて身を離した。だ
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第893話

孝寛は優奈に目配せをして、早く下がるように合図した。そして自分は美月に視線を向け、笑みを浮かべながら言った。「二川会長、今日はどうしてこちらに?」老練な彼は、美月の言葉には正面から答えず、あえて話題をそらした。さもなければ、秘書との件が外に漏れれば、耳目に入るだけでも評判が悪い。下手をすれば株価にも影響しかねない。会社のためにも、ここは何としても揉み消さねばならない。さらに家には「あの冴えない妻」が待っている。そちらも相手をしなければならないのだ。そう思うと、孝寛の目は暗く沈み、美月に向ける視線には危うい色が宿った。この女は、最初から圧をかけるような態度で乗り込んできた。ただ者ではないのは明らかだ。一体、何があったのか――視線を巡らせると、相手はなんと自社の受付まで連れてきていた。その瞬間、孝寛の心臓がドクンと鳴った。彼は二川グループが女に仕切られているのを内心快く思ってはいなかった。だが実際、この数年で彼女から受けた恩恵は少なくない。加えて、自分の息子と緒莉が婚約していることもあり、世間では両家を一体と見なしていた。それがあってこそ、安東グループは今日の発展を遂げたのだ。美月は自然な仕草でサングラスを外し、紅い唇をわずかに吊り上げた。「もちろん、安東会長用があって来たのよ」「そ、それは......」孝寛は受付を指さし、声を少し震わせた。「どういうことでしょうか。彼女はうちの受付です。二川会長、我が安東家の立場を考えたことがありますか?」受付の口はまだ塞がれていて、涙で赤くなった目だけが覗いている。孝寛は彼女を特別に庇いたいわけではない。だが受付は安東家の顔そのもの。ここで体面を失えば、安東家の威信は地に落ちる。そうなれば、この後の話し合いなど成り立たなくなるのだ。美月は彼の驚きを意にも介さず、淡々と告げた。「私をここまで無礼に扱う以上、安東会長に代わってしっかりしつけておかないと。だからわざわざこうして、主人である安東会長に見せに来たのよ」その言葉に、孝寛の顔色は一気に蒼ざめた。美月の、笑みを含んだ目と視線が交わると、言葉を失う。仕方なく、乾いた笑いを漏らした。「二川会長、いくらなんでも、ここは安東グループの中です。多少、
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第894話

しかし彼女は気づいていなかった。孝寛の顔色がどんどん険しくなっていることに。明らかに、受付と二川会長のどちらを取るかといえば、彼が選ぶのは後者に決まっていた。なにせ後者のほうが、会社にさらなる昇進の機会をもたらしてくれるからだ。取るに足らない受付一人など、切り捨てても構わない。「黙れ。今すぐ出て行け」怒りを押し殺した声で、孝寛は受付を怒鳴りつけた。受付はびくりと震えたが、それでも孝寛に自分の潔白を訴えたい気持ちがあった。あまりにも理不尽だった。ただ仕事をしていただけなのに、こんな仕打ちを受けるなんて。「私は普通に仕事をしていただけでした。それが間違いだというのですか?」受付は美月を指さしながら言った。「悪いのはこの女の人。彼女があまりにも横暴だから、こんなことになったんですよ!」さらに何か言おうとした瞬間、堪忍袋の緒が切れた孝寛が、彼女を思い切り蹴飛ばした。「出て行けと言っている。聞こえなかったのか!」入口を指差しながら怒鳴った。「さっさと失せろ!」受付はなおも言いかけていたが、その一言で口をつぐみ、何も言えなくなった。まさか、孝寛がこんな態度を取るなんて。彼女は当然、庇ってくれると思っていた。だが蓋を開けてみれば、冷たく突き放され、挙げ句「出て行け」とまで。まさしく、利用し終えたら切り捨てるというやつだ。怒りに満ちた孝寛の顔を見て、受付はこれ以上留まることはできないと悟った。これ以上粘れば、自分が惨めになるだけだ。彼女は肩を落とし、這うように出口へ向かって扉を開けた。案の定、廊下には人だかりができていた。突然開いた扉に、皆ぎょっとして一斉に自席へ戻る。だが、受付の惨めな姿を見て、誰もが中で何が起きているのかますます興味をかき立てられた。受付は顔を覆い、泣きながらその場を走り去った。もう一秒たりとも、この場所にはいられなかった。誰かが気を利かせてドアを閉め、外の世界は一瞬にして遮断された。その一部始終を見ていた美月の目には、まるで芝居を見ているかのように映っていた。もとより彼女は、こんな人間や出来事に深入りするつもりなどなかった。知りたいことを聞き出した今、ここに留まるのは時間の無駄でしかない。孝寛が振り返ると、そこには高みから見下
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第895話

だがこの老いぼれは、こんな時にまだ秘書といちゃついている。まったく呆れたものだ。「そんなに待てないって言うなら、もう回りくどい言い方はしないわ」美月は口元に嘲りを浮かべた。「焦っているのはこっちだって同じよ。うちの娘は、あんたの息子のせいであんな目に遭ったんだから」「どういう意味ですか?」孝寛は眉をひそめ、美月を訝しげに見た。彼女の言葉など一言も信じていなかった。「長年の付き合いがあるからって、勝手に汚名を着せるのはどうかと思いますが?」その一言で、美月の堪忍袋の緒が切れた。「じゃあ聞くけど、今そちらの息子はどこに?本人をここに連れてきなさい。直接問いただしてやるわ」死んでも認めない態度の孝寛を見て、美月は額の奥がずきずきする思いだった。以前はこんなに図々しい人間だとは思わなかったのに。最初に手を組んだときは、表向きはすべて順調そうに見えていたのに。だが今は、目の前の孝寛の厚かましさに、ただただ呆れるばかりだ。何があったのか知らないが......安東グループはもう二川の後ろ盾がなくてもやっていけるとでも思っているのか?そう考えると、あまりに浅はかで笑えてきた。孝寛は肩をすくめ、無関心を装った。「うちの息子は今家にいません。他のことも聞いたことありませんね。ですが、たとえ奴がいるとしても、さっき二川会長の話は認められませんね」吐き捨てるように鼻を鳴らし、徹底的に争う構えを見せた。美月も負けじと鼻で笑った。「やっぱりね」「山口、資料を」「はい」山口は用意していたファイルを取り出した。どう見ても、最初から準備してきたのは明らかだ。孝寛は最初こそ一笑に付していたが、美月の自信に満ちた態度を前に、だんだん焦りが滲んできた。まさか、本当に何かあるのか?自分の息子の素行については、薄々承知している。たとえば小松崎真白の件、家族が二人がかりで隠し通してきた。もしそれが明るみに出れば、ただでは済まないだろう。それに加え、「娘はあんな目に」という言葉。それはいったい何を指すのか。額の汗を拭いながら、孝寛はしぶしぶ声を絞り出した。「二川会長、これはきっと何かの誤解です。何せうちの息子は今、海外にいますよ?」美月は冷たく笑った。「海外にいる
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第896話

彼女は書類を孝寛に突きつけ、そのまま容赦なく彼の胸に叩きつけた。「信じられないなら、読んでみなさい」孝寛は前からその資料に興味を抱いていた。美月にそう言われると、もはや態度がどうこうなど気にしていられず、書類を手に取りじっくり読み込んだ。そしてようやく気づいた。これは、中央病院の件ではないか。それに、海外へ行ったとき、紗雪に正体不明の薬剤を打とうとしていた?しかも国外で捕まり、刑務所に入れられていたとは......最後の一文については、二川会長も耳にしたことはあった。だが、まさか本当に海外で拘束されていたとは思わなかった。しかも、こんな件で。もしこれが世間に公表されたら自分は美月にどう顔向けすればいいのか。そう考えると、孝寛の頭は一気に痛みだした。美月は彼が資料を受け取ると、その表情から目を離さなかった。そして気づいた。息子が刑務所に入ったことを聞いても、大して驚いた様子がない。つまり、この老いぼれは最初から知っていたのだ。その瞬間、美月の瞳には怒気が濃く宿った。だが彼女は必死に感情を抑え込んだ。ここは外だ、ここで理性を失えば笑いものになるだけだ。彼女はかつて一つの大企業を束ねてきた女だ。この程度で冷静さを欠いたら、まさに自らの威厳を地に落とすことになる。美月は問いかけた。「それで、安東会長。この件をどう考えているの?ここにすべて書かれているわ。加害者はそちらの息子。まだ言いたいことがあるかしら?」美月の言葉は一本一本、針のように孝寛の胸に突き刺さる。この瞬間、彼は自分がどれほど恥をかいているのかを痛感し、居場所すら見失いそうだった。やはり、この息子は役立たずだ。ほんの少し目を離しただけで、これだけの騒ぎを起こすとは。笑うしかない。「わ、私は......」乾いた唇を舐め、居心地悪そうに口を開いた。「二川会長、これは......きっと何かの誤解です」「これだけはっきり書かれていたのに、まだ誤解だと思ってるの?」美月は組んだ脚をわずかに揺らし、赤いハイヒールが床を鳴らした。その姿は女の強さと威厳を全身で示していた。圧倒的な気迫は、孝寛をも上回っていた。しかも今回は、彼に情けをかけるつもりなどさらさらなかった。その気迫はな
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第897話

「実を言うと、数日前に息子から確かに電話があった」その言葉に、美月はわずかに背筋を伸ばし、どこか興味を示した。「それで?」続きを話すように視線で促す。何せ、A国での出来事に関する細かい部分は、緒莉からそこまで詳しい話は聞いていない。紗雪の方も「目を覚ました」としか言っていなかった。だから今は、本当に何も知らず、ただ好奇心が勝っている。孝寛はどこか言い訳がましい口調で言った。「息子は、ある事情でA国の刑務所に入れられて、何とか助けてほしいって頼んできたんです。でも、私だってどうにもならなかったんですよ」「助けなかったの?」美月は目を細め、何か引っかかるものを感じた。普通なら、辰琉は彼ら夫婦にとって唯一の息子。見捨てるなんてことがあるだろうか。美月の半信半疑の表情を見て、孝寛は心を決めて態度を変えた。「助けないなんてそんな......」慌てて愛想笑いを浮かべる。「唯一の息子なんですから、見殺しにするわけないじゃないですか」「なら、彼は今どこに?」美月が掴んでいる情報では、辰琉はいまだ刑務所にいるはずだ。しかも精神状態もかなり悪化していると聞いている。孝寛は、そのことを知っているのか。孝寛は額の汗を拭った。「まだ出してはいません。二川会長もご存じの通り、あの子は私の唯一の息子。私にだって、失いたくないですよ」口ではそう言いながら、心の中では冷めきっていた。息子なんて、金も健康もあればまた作ればいい。大事なのは地位を揺るがさないことだ。「だからこそ、刑務所に入ったと聞いた時、腹立たしい気持ちの方が強かったんです。そこで少し痛い目を見せて、性格を抑えさせた方がいいと思って......しばらく置いてから出そうと」美月はその醜悪な顔を見て、心の底から吐き気がした。手を軽く差し出すと、山口はすぐに意図を理解して、バッグから別の書類を取り出した。それを受け取った美月は、そのままテーブルに叩きつけた。「では、これも」怪訝そうに手に取る孝寛。態度には不満が滲んでいたが、相手は会社にとって大口の投資主でもある。機嫌を取らないわけにはいかない。その様子を横で見ていた山口は、ますます呆れ返る。今さら怯えたような顔をして......安東家が誰のおかげ
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第898話

しかし次の瞬間、孝寛の顔色は一気に恐怖に染まった。慌てて書類を投げ出し、縋るような目で美月を見た。「二川会長、これは一体......」「そのままの意味よ」美月は机上の書類に視線を落とし、指先で軽く叩いた。「わざわざ整理したものよ。安東グループが独立できると思うなら、こちらのプロジェクトは全部解除しましょう。もう付き合ってられないわ。それから......」そう言って美月はすっと立ち上がった。「うちの娘の件、早く答えを出してちょうだい。事を荒立てるつもりはないけれど、いざ拗れたらどちらの会社により大きな影響が出るか......」美月はゆっくりと身を屈め、孝寛の耳元に顔を近づけ、不気味に囁いた。「安東会長は利口な方よね、私の言いたいことは分かるでしょう?」言い終えると、肩を軽く叩き、そのまま秘書やボディーガードを連れて出て行った。孝寛に口を開く隙すら与えず。弁解をしようとした矢先、扉が「バタン」と大きな音を立てて閉じられた。その勢いだけで、美月の怒りが尋常でないことは明らかだった。とはいえ、もしこれが他人の身に起きても同じように怒るだろう。何しろ、二人の娘が傷を負わされたのだから。孝寛は机の上に積まれた書類と証拠を見つめ、ただ頭を抱えるしかなかった。どうしてここまで来てしまったのか。もともと自分は何も知らなかった。すべてはあのろくでなしの仕業だ!なのに今はまるで「子の罪は親が償え」と言われているような状況ではないか。苛立ちは募るが、今はもう一歩ずつ進むしかない。とにかく、辰琉と連絡を取らなければ。あのろくでなし、好き勝手にやらかしておきながら、今は姿をくらましている?させないぞ!すぐに電話をかけるも、画面には「通話中」と表示されたまま、誰も出ない。やがて自動で切れてしまったが、相手は出る気配すらなかった。孝寛は首を傾げる。ついこの間までは「刑務所から助け出してくれ」と必死に叫んでいたはずだ。なのに今は電話に出もしない?これで助けろという方がおかしい。何考えてるんだ!罵りながら、二度目の電話をかける。その頃、紗雪たちは顔を見合わせながら、日向の手にあるスマホを見つめていた。日向の表情にも困惑が浮かんでいる。「これ、出た方がいいの
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第899話

今さら電話をかけてきて何のつもりだ。清那のぼやきを聞きながら、紗雪は最後に一言だけ吐き捨てた。「出なくていいわ。私たちに大して関係ないもの」なにせ辰琉は今、警察に拘留されている。そのことも以前、きっと父親には話しているはずだ。後になって警察だって当然把握しているだろう。そうでなければ、辰琉の精神状態があそこまでおかしくなるはずがない。紗雪の瞳には嘲りが浮かんでいた。すべてには筋道がある。父親が自分の息子を放置したのなら、彼女が執着する必要などどこにもない。日向も素直に紗雪の言葉に従った。彼女が「出る必要はない」と言ったのなら、きっと出る意味などないだろう。皆が心の中で分かっていることだ。「じゃあサイレントにしておくよ」日向は笑みを浮かべた。「こんなことで気分を悪くする必要なんてないからさ」清那は頷いて同意し、前髪がふわふわ揺れる。「せっかく戻ってきたのに、安東家のことなんてもううんざりよ!」紗雪は赤い唇を弧にして持ち上げた。「ええ、私にも他にやることがあるの。あの親子の痴話喧嘩に付き合う暇なんてないわ」辰琉がどうなろうと、それは自業自得。彼女には関係ない。彼女は被害者であり、この件はどう処理しても彼女の自由。その横で京弥が自然に紗雪の荷物を持ち、もう片方の手で彼女の手を取った。ただ並んで立っているだけで、目を奪われる光景。見る者に心地よさを与えるほどの絵面だった。二人の仲睦まじい様子に、清那は思わず茶化す。「ちょっと!こっちはまだ独身の二人がいるんだけど?」紗雪はむしろ京弥の手をさらに強く握り、軽く彼の肩に身を預けた。「清那も早く彼氏を見つけてよ。大丈夫、私も手伝うから」京弥はわずかに驚いた顔をし、肩に伝わる温もりを感じながら、胸の奥に確かな安堵を覚えた。そんな二人の様子に、清那は顔をしかめる。鳴り城に戻ると、それぞれが自宅へと帰っていった。日向は紗雪と京弥の背中を見つめ、心に思いが渦巻く。言いたいことはあったが、どこから切り出せばいいのか分からない。もし口にすれば、それは二人を邪魔することに他ならない。まさに第三者そのものだ。清那は日向の心の内を見抜き、肩を軽く叩いた。「もう、見てても仕方ないでしょ。それよりお
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第900話

しかし、誰ひとり近寄ろうとはしなかった。誰の目にも、孝寛の機嫌が最悪なのは明らかだ。今近づいたら、火に油を注ぐだけだ。孝寛は床に砕け散ったスマホを見下ろし、心の中で舌打ちした。「まったく......辰琉は一体何をしているんだ。帰りたいと騒いでいたくせに、今度は電話すら出ないとは......これで帰れると思ってるのか」もし今日、美月が押しかけてこなければ、こんな厄介事を抱え込むこともなかったはずだ。正直、この息子など要らないとすら思っていた。机の上に散らばる資料を見やり、孝寛は堪えたように呼吸を整えると、再び秘書を呼び入れた。部屋へ入ってきた優奈は、散乱した光景を一目見ると、視線を泳がせることもできず、ただ小さく頭を垂れた。「社長、お呼びでしょうか」孝寛は椅子に腰掛けていた。表情は落ち着きを取り戻していたものの、その不機嫌さは隠しきれていない。それを察した優奈は、ますますおどおどとした態度を見せ、言葉も動作も慎重になった。さっきまでは互いに危うい関係になりかけていたというのに、今はまるで別人のようだ。孝寛は短く「ああ」と返しただけだった。優奈の怯えた様子を見て、思わず胸元のボタンを引き寄せた彼女の仕草に、途端に白けた気分になる。少しでも状況が変わればすぐに腰が引ける。顔立ちがそこそこだから目を引くだけで、他は何の取り柄もない。「A国の刑務所を調べろ。辰琉の番号がどこの警察署からかかってきたのかもだ。それが分かったら、その署長の番号を俺に教えろ」優奈は一瞬驚いた。どうして急にそんな調査を......けれど、彼女の胸にはまだ別の熱がくすぶっていた。せっかく手に入りかけた権力を、このまま手放すなんて惜しい。他人が十数年かけても届かないものを、自分はたった一度ベッドを共にするだけで掴めるかもしれないのだ。優奈は小さく唇を噛み、そっと身をかがめて孝寛に近づいた。「会長、さっきのお話......ちょっと分からなかったのですが。どこの警察署を調べればよろしいのでしょうか?」身を寄せた瞬間、彼女の淡い香りが孝寛の鼻に入り込む。最初に抱いた欲望が再び頭をもたげた。無自覚な顔でこちらを見上げる優奈を眺め、孝寛は内心で失笑する。こうも欲しがるなら、満たしてやろうじゃないか
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