All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 901 - Chapter 910

910 Chapters

第901話

「わかりました。必ず全力を尽くします」そう言って、優奈は孝寛に色っぽい視線を投げかけた。明らかに、さきほどの出来事に二人とも満足していた。孝寛はただ口元に笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。女というのは、甘やかしすぎればすぐに図に乗る。その理屈をよく理解しているからこそ、孝寛はこういう女にはどんな態度で接すればいいのか心得ていた。大企業を仕切る以上、ある程度の冷徹さは欠かせない。今最も重要なのは、辰琉がどこの刑務所にいるのかを突き止めることだ。早く引き出さなければ、この会社自体が危うい。もし美月が資金を引き上げれば、被害はさらに大きくになる。それに、安東と二川を比べれば、当然ながら二川という老舗の方が格は上だ。比べられれば比べられるほど、安東の立場は弱い。だからこそ、孝寛は一刻も早く辰琉を連れ戻す必要があると考えていた。このまま引き延ばすわけにはいかない。美月の提示した条件は明白だ。彼女に説明をしなければならない。だが、今となってはどう言い繕えばいいのか、まったく見当もつかない。結局のところ、辰琉こそが一番の鍵を握る存在だ。それ以外に打てる手など、孝寛には思いつかなかった。だが、ただ黙って死を待つなど到底できない。この会社は自分が一から築き上げ、長年連れ添ってきたものだ。他人に差し出すことも、倒産を見届けることも、絶対に受け入れられない。ならば、あの逆子を差し出すしかない――他に方法はもう残されていない。一方その頃、孝寛と一夜を過ごした優奈は、まるで羽が生えたように軽やかな足取りで歩いていた。周囲を見渡す目つきも、どこか人を見下すようなものに変わっていた。愚かな人たち。死ぬほど働いたところで、社長に取り入る一度には及ばない。無駄なことをして、何になる。そう思うと、ますます胸がすく。彼女にとっては、孝寛と関係を保っていさえすれば、将来に何の不安もなかった。優奈は顎を上げ、堂々と歩いていた。だが、そんな彼女を快く思わない者もおり、ひそひそと声が上がった。「ねぇ、この人......なんだか様子がおかしくない?」その一言に、周囲も首をかしげ始める。確かに、以前の優奈も嫌味なところはあったが、今ほど傲慢ではなかった。「そうだよ。も
Read more

第902話

必要はないからだ。どうせこれから先、一緒に働くこともないだろう。それに、昨日やって来たあの女のことも、みんなちゃんと目にしている。この会社だって、今後どれだけ持ちこたえられるか分からない。それに、優奈の考えが甘すぎる。ただの無駄使いだ。そう思えば、みんな顔を見合わせて笑い、もうそれ以上は何も言わなかった。その後、秘書がすぐに会長の指示通り、辰琉の現在の居場所を突き止めた。彼女が孝寛のところへ報告に来たとき、その視線はとろけるようで、声までねっとりとしいた。「会長~辰琉様の居場所を見つけました。こちらは署長さんの電話番号です」優奈は番号を渡すとき、ついでに彼の手を撫でた。その意味するところは、二人とも分かっていた。だが、孝寛には今そんなことに構っている暇はない。やるべきことが他にある。会社がなくなってしまえば、ここで秘書と戯れても何の意味もないのだ。もし全てを失えば、秘書の気持ちなどどう変わるか、彼には嫌というほど分かっていた。だからこそ、より慎重に会社を守り抜かねばならない。「ああ、ありがとう」そして彼は少し語気を強めた。「余計なことばかり考えるな。片付け終わったら、ちゃんとご褒美してあげる」その言葉に、優奈の頬はぱっと赤く染まり、俯いて小さく答えた。「はい......分かりました」彼女にはそんなつもりはなかったのに、まるで飢え渇いて仕方がない女のように言われてしまった。会長と付き合い始めたばかりなのだから、もっと関係を深めておきたいと思っただけなのに。でなければ、このまま時間が経って二人が疎遠になったらどうするのか。そういうことまで考えてしまうのだ。せっかく手に入れた富を、他人に渡すなんて絶対に嫌だ。それに、何であれ自分で守らなければならない。そうでなければ、今までの努力が何の意味もなくなってしまう。そう思えば思うほど、優奈の瞳には野心が溢れ出していた。そして考え込んでいたせいで、彼女はオフィスに立ち尽くしたまま、出て行かなかった。孝寛は、本来ならすぐに署長へ電話するつもりだった。だが優奈がまだそこに立っているのを見て、すっかり気分を損ねた。「まだここにいるのか?」眉間に皺を寄せて言う。「他にやることはないのか?そんなに暇?」
Read more

第903話

「......分かりました、下がります」声は詰まり、せめて孝寛が二言三言でも慰めてくれるのではと期待していた。だが実際には、相手はちらりと見ることすらなく、優奈の一人相撲に過ぎなかった。胸の奥が少し苦しくなり、表情もどこか虚ろになる。扉が閉まる音を聞いたあとでようやく、孝寛の表情は少し和らいだ。張りつめた顔には、喜怒哀楽がほとんど読み取れない。彼は女好きではあるが、大事な場面では分別をわきまえている。とりわけ会社の存続がかかった局面では、男女の関係よりもはるかに優先すべきだ。若い女は好むが、分別のない女に何の価値がある?孝寛は鼻で笑った。女というのは厄介だ、金を与えれば済むものを。いちいち情だの愛だのを求めてくる。女の気持ちなど推し量る暇はない。会社の問題だけで頭が痛いのだ。彼はひとつ溜息をつき、すぐに署長へ電話をかけた。ちょうど署長はオフィスで最新の案件資料を眺めていた。京弥が帰国したと知った時は、しばらく胸を撫で下ろしたほどだ。もうこれ以上、自分を難しい立場に追い込む者はいない。これでようやく、落ち着いて署長の職に専念できる。もっとも、京弥の側近からも「今西という警官は悪くない」と耳にした。署長はその後、真剣に考え、結局その言葉に従い、今西を昇進させた。今や今西は副隊長だ。京弥の顔を立てる必要がある。思えば、あの時拘置所に案内したことで、今西が彼らを満足させたのだろう。でなければ、わざわざ後で署長にそんな話を伝えるはずもない。署長も当然そのことは理解していた。今西はうまく好機を掴んだのだ、と。だが、意外でも何でもない。機会というものは、そういうものだからだ。その力で大物の目に留まった以上、署長としてもチャンスを与えないわけにはいかない。誰だって上を目指す。その望みを叶えられる者になら、彼はチャンスを与える気があった。自分の地位を守り抜ける限りにおいて。あとのことは、その本人の運次第だ。署長は先を見通す力のある人物だ。今西を副隊長に据えてからというもの、彼は署長への感謝を隠さなかった。もちろん、今西自身もその地位が大物と繋がっていると分かっていた。副隊長の座を得た瞬間、彼は匠の言葉の真意を悟った。すなわち、自分がす
Read more

第904話

何をするにしても、結局は署長の言うことを聞かなければならない。彼の言葉に、誰も軽々しく逆らうことはできない。だが、隊長だけはどうしても飲み込めなかった。何しろ以前は今西ときちんと話をつけていて、競争するつもりなどまるでなかったからだ。なのに今は?約束を反故にされたようなものだ。そのせいで、最近の隊長は今西に対して露骨に当たりがきつくなった。しかし今西の方は、そんなことは一切気にしていなかった。自分の今の立場さえ守れればそれで十分だと思っていた。それに、辰琉という人物を見張るのも自分に課せられた役目だ。これは大物と約束したこと。だからこそ他の些末なことでは簡単につまずくはずもない。特に隊長など、相手にする価値もない。今西は一度も本気で彼を眼中に置いたことがなかった。署長もまた、この二人の表の争いと裏の駆け引きを把握していた。部下からも何度も耳にしていたが、署長にとっては取るに足らない小競り合いにすぎない。競争があれば進歩がある。署内の人間をより強く、より競争力あるものにしたいなら、自らにプレッシャーを与える必要がある。それくらいのことは内部で解決できる。だから署長がいちいち気を揉む必要などなかった。よほど度を越したことさえしなければいい。むしろ、こうした競争は歓迎すべきものだとさえ思っていた。そう考えると、署長の笑みはさらに深くなった。やはり、京弥には感謝しなければならない。と、その時、けたたましい着信音が署長の思考を遮った。スマホを見ると、見慣れぬ番号が画面に踊っている。「この時間に、一体誰だ?」首をかしげる。しかも番号の発信地はどうも国内ではないらしい。少し躊躇したものの、相手のしつこさに、結局は応答することにした。どうにも重要な要件があるような気がしたのだ。受話器の向こうからは、切羽詰まった男の声が飛び込んできた。「もしもし、A国警察署の署長さんですか?」署長は思わず動きを止める。間違いなく自分に用がある。「ああ、君は?」その答えに、電話口の男――孝寛は安堵の息をついた。優奈が間違えずに繋いだことに、少しばかり感心すらする。そして、彼は要件を単刀直入に口にした。「K国安東グループの会長です。お聞きしたいの
Read more

第905話

そう考えると、署長は思わず笑い出しそうになった。まったく、この一家は本当に面白い。これだけ大きな問題を起こしておきながら、釈放してくれとはよく言えたものだ。しかも相手は自分ではない。絡んでいるのは大物であって、署長が数言で片づけられる話ではない。孝寛は困惑した。相手の言っていることがまるで理解できない。ここまで話を持ちかければ、少しは頭の回る者なら釈放するはずだろう。だが、この署長はそんな気配を少しも見せない。その一点がどうしても腑に落ちなかった。「すみません。息子は一体何をしたから収監されたのです?」彼は、せいぜい女関係が原因だろうと思っていた。しかし美月があれほど怒りを露わにしたのは、どうにも説明がつかない。彼女は口を開けば息子のせいだと繰り返していたが、実際のところ孝寛は事態をよく把握していなかった。今こうして署長に言われてみて、初めて何かがおかしいと感じ始めた。署長はその問いかけを聞いて、ますます可笑しくなった。息子は獄中で狂気じみているというのに、実の父親は自分の子が何をやらかしたのかすら知らない。まったく、笑うしかない話だ。署長は笑いを堪えきれず、声にまで愉快さが滲んだ。「仕方ない、丁寧に説明してやろうじゃないか」その言葉に、孝寛の胸がどきりと鳴った。直感的に、聞かされる内容は到底受け入れられないものだと悟った。加えて美月の態度も思い出し、ますます不安が募る。だが署長は一切間を与えず、淡々と事の顛末を語り出した。「だから我々はあのスマホの中身の解読を待っている。その後で、君の息子にはさらに別件で罪が科されることになるだろう。それに、彼の精神状態も今は極めて不安定だ」その言葉に、孝寛は思わず腰を浮かせた。これまで辰琉を見放そうと思っていた。安東家の名を背負っている以上、彼に手を出せる者はいないだろう。だがまさかここまで厄介なことになっているとは思いもよらなかった。確かに辰琉には良い感情は抱いていない。だが、どうあっても自分の息子。目の前で命を落とすような事態は黙って見過ごせない。愛着がないわけではない。大成を望むわけではなくとも、壊れていく姿を見るのは耐えがたい。「署長......話し合いの余地はありますか?」その
Read more

第906話

孝寛はまだ納得がいかずに言った。「ですが、彼は私の息子です。父親として当然心配します」「それはどういう意味だ」署長の声にはすでに苛立ちがにじんでいた。彼は堂々たる署長であり、部下の数も少なくない。たかが一人の容疑者のために、こうして相手と延々言い合いをしなければならないのか?それでは、この先誰にでも付け入る隙を与えることにならないか?「もういい」署長の口調にははっきりとした不快感がこもった。「何を言っても無駄だ。この件は俺一人で決められることではない。はっきり言えるのは、君の息子が『大物』を怒らせた、ということだけだ。せいぜい神に祈ってろ」そう言って、署長は電話を切ろうとした。だが、孝寛は慌てて声を上げた。「待ってください!署長の個人口座を教えていただけませんか?私はただ息子に一目会いたいんです。それだけでいいんですから!異国の地で一人ぼっちなんて、親としてどうしても心配なんです。それにあの件も、まだ結論が出ていないじゃありませんか」その言葉に、署長の心も少し揺れた。確かに、相手の言うことにも一理ある。この件はまだ最終的な判断が下されたわけではないのだ。ならば、そこまで神経質になる必要もないだろう。どう転んでも、まだ融通の利く余地は残されている。それに、すべてを自分が決めるわけではない。物事の成り行きは、自分の思惑とは無関係に進むことも多い。署長の声色は少し柔らぎ、先ほどまでの強硬さは影を潜めた。これなら急ぐ必要もないし、しかも二重に利益を得られる。悪い話ではない。「一理あるな」署長は頷いた。「だが、詳しいことは言えない。とにかく『大物』が後ろにいるんだ。そのことだけは頭に入れておけ。本当に息子に会いたいのなら、不可能ではない。誰かをこちらに派遣してもいいし、君自身が来てもかまわない」「ビデオ通話じゃダメなのか?」孝寛は眉をひそめた。今さら息子の顔を見る気など、あまり起きなかった。あの出来損ない、あんなことをしておきながら事態を収める力すらないのか。それでどうして自分の息子だと胸を張れる?ふざけるにもほどがある。孝寛は息子に対して常に厳しく接してきた。厳しくしなければ、大きなことは成し遂げられないと分かっていたからだ。将来、
Read more

第907話

「それに、仮に電話をしても、きっとまともに話せないだろう」その言葉を聞いて、孝寛はもう何を言えばいいのか分からなくなった。元気だったはずの自分の息子が、本当にここまで壊れてしまったのか?彼はずっと、まだ何か望みがあると信じていた。だが今は、もう他に思うこともできなかった。署長は孝寛が何を言っても、一言も返さなかった。「こちらの事情を察してくれ。我々もどうやって彼と意思疎通すればいいのか分からないんだ。今の彼は完全に錯乱している」何度も拒まれるのを聞いて、孝寛も理解した。相手は本当にどうしようもないのだと。そうである以上、どれだけ言葉を重ねても無駄だった。ただの徒労にしかならない。ならば、時間を浪費する必要もない。「わかりました。約束したものは必ず届けさせます。ただ息子のことはどうか......」署長は口では了承しながらも、心の中では依然として京弥の言葉を思い返していた。どちらが重要で、どちらに力があるか、彼にははっきり分かっている。孝寛に対しては、できる範囲のことだけして金を受け取ればいい。それで十分だ。電話を切ったあと、孝寛の心は落ち着かず、顔色も冴えなかった。握ったスマホをゆっくりと強く握りしめる。このまま座して待つわけにはいかない。やはり誰かをA国へ派遣し、辰琉を連れ戻さねば。できなくても、せめて何が起きているのか真実を確かめるべきだ。これ以上引き延ばしても、双方にとって何の得にもならない。孝寛も愚かではなかった。どちらが重く、どちらが軽いかは分かっている。今最も大切なのは、美月の動きを抑えること。それ以外のことは後回しにして構わない。A国。署長は電話を切って、ようやく胸を撫で下ろした。今の時代、人をごまかすのは難しくなっている。もう少しで、京弥の正体まで探られるところだった。素早く切り上げたのは正解だった。とはいえ、辰琉の件については、確かに何らかの説明が必要だ。彼はもう長い間、警察署に拘束されており、それもまた問題だった。署長は考えた。緒莉の口を割らせることのできる人間を探す必要がある。京弥も言っていた。「緒莉は口が固い。注意しろ」と。確かに彼女から何かを吐かせるのは容易ではなかった。だが、ここまで来れ
Read more

第908話

だから、彼女も無駄に時間を費やすことはしなかった。研修警察は頭をかきながら、本当に彼女がそう考えているのかどうか理解できなかった。そして署長からの電話を目にして、内心では少し驚きを覚えた。彼はちらりと緒莉に目をやり、それから外に出て電話を取った。その一瞬の視線も、緒莉にははっきりと見えていた。やはり相手は年齢が若いせいで、多くのことを隠し切れないのだろう。一目見れば、そこに何かがあるとすぐ分かってしまう。研修警察が彼女を一瞥したということは、この件が必ず自分と関わっている証拠だ。だが具体的に何なのか、今の緒莉の頭の中は混乱し、ごちゃ混ぜになったから整理がつかない。今の彼女は厳しく監視されすぎていて、ほとんどのことに関与することができなかった。A国の情報にしても、この研修警察を通じてしか知り得ない。自分の置かれている立場があまりに受動的すぎた。けれど、そうでなければ彼女自身どうすればいいかも分からなかった。緒莉は小さくため息をつき、スマホを取り出してメッセージを確認した。しかし、美月からの連絡はまだ来ていなかった。その様子に、緒莉の瞳の奥に一抹の怨みがよぎった。ここまで追い詰められているというのに、美月は本当に自分を気にかけていないのか?自分は本当に美月の娘なのだろうか?紗雪が病で入院した時には、あの美月だって電話をかけてきたのに。どうして今はこんなふうになってしまったのか。納得できず、悔しい気持ちはある。だが今の彼女にできることは、ただ待つことだけだ。その頃、研修警察は大股で外へ出て電話を受けた。署長からの電話に、胸の内では落ち着かない気持ちを抱えていた。なにしろ、彼が署に来てからの数か月は、常に直属の上司の指示だけを受けて動いてきた。越権して何かをすることなど一度もなかったし、そもそもあり得ないことだ。だからこそ、この電話が彼を緊張させた。それでも唾を飲み込み、通話ボタンを押した。「もしもし?」署長は「ん」と短く答えた。実はこの研修警察について、彼には特別な印象はなかった。ただ「真面目で手堅い」という程度の認識にすぎない。顔だってよく覚えていなかった。部下が多いのだから、それも当然のことだ。もし全員の細かいことまで覚えていなければ
Read more

第909話

簡単に断ち切ることができる。あとは別の方法を考えればいい。「引き続き頼む」署長はうなずき、内心少し安心した。実のところ、そこまで詳しく聞いたわけではないのに、残りのことはすべて坂井が自分から説明してくれた。つまり、彼は主体的にこの件に取り組んでいるということだ。緒莉の美貌に完全に溺れているわけではない。署長はさらに緒莉の身体の状態について尋ねた。研修警察は包み隠さず答える。「今は特に......ただ声帯の回復が難しくて、今後どうなるかはまだ分かりません」「そうか」署長はその場でしばし呆然とし、心の中では少し残念に思った。聞いた話では、緒莉の声はとても美しいものだったらしい。だが、すべてがあまりにも突然で、彼らが反応する暇もなく、辰琉に隙を与えてしまった。起きてしまった以上は、後から埋め合わせをするしかない。そこで署長は遠回しをやめた。「坂井、午後に彼女を警察署に連れて来い」研修警察は署長の意図をすぐには理解できなかった。「署長、それはどういう......?」頭が追いつかず、ここに長く居すぎて、もう署長の顔すら忘れかけていた。急に呼び戻されて、内心少し戸惑う。「そのままの意味だ」署長は率直に言った。「すでに証拠を握っていている。彼女にも関係しているんだから、詳しく訊く必要がある。怪我をしているが、それでも容疑者であることに変わりはない。その立場を忘れるな」坂井はうなずき、署長の言わんとすることを理解した。同時に心の中で小さく喜んだ。ようやく病院に缶詰めにならずに済むのだ。消毒液の匂いはもう嗅ぎ飽きていたし、とっくに出て行きたいと思っていた。「分かりました。今すぐ彼女に荷物をまとめさせます」署長はその答えに満足し、心底ほっとした。「待っているぞ」坂井は真剣に「はい」と答えた。二人が電話を切ったあとも、彼の顔には笑みが残っていた。まさかこんな日が、思ったよりも早く来るとは。やはり、人は常に前向きな気持ちを持つべきなのだろう。だが、緒莉の方がどう言うかは分からない。坂井はほんの一瞬だけ迷ったが、すぐに首を振り、気を楽にした。問題ない。相手の意志など関係ない。彼女の立場はあくまでも容疑者だ。それ以上は、考える必要す
Read more

第910話

もし軽々しく動いてしまったら、その後で不利な立場に立たされたらどうする?そんな経験をあまりにも多くしてきたからこそ、彼女はすでに恐怖を覚えるようになっていた。こうした気持ちは、研修警察には決して理解できないことだった。だからこそ、緒莉はわざわざ説明する必要もないと思った。ただ、相手の口から言葉を引き出せればそれでいい。坂井は帰れると知ってから気分が良くなっていた。だが、緒莉がぐずぐずと拒むような言葉を口にすると、彼の心の中には次第に苛立ちが募っていった。坂井は我慢できずに言い放った。「早く言われた通りにしてください。あなたの立場はまだ容疑者ですよ。協力をお願いします」緒莉は坂井が急に荒々しい態度に変わったことに、一瞬反応できずにいた。ただベッドに横たわったまま、呆然と彼を見つめる。どうもおかしい。今までの研修警察はこんな風ではなかったはずだ。特別優しくしてくれたわけではないが、少なくとも頼めば応えてくれた。あの今西の前でも、庇うような態度を見せていた。当時は確かに彼女を守ろうとしてくれていたのに。なのに今、どうしてこんなに急に変わったのだろう?坂井はついに堪忍袋の緒が切れ、吐き捨てるように言った。「そこで寝て、俺に荷物をまとめさせる気か?恥ずかしくないのか?」その言葉に、緒莉の胸の奥に羞恥と怒りが込み上げてきた。彼女はいつこんな屈辱を受けたことがあっただろう?家では美月が大切にしてくれた。会社に行っても、あの古株たちは難癖をつけこそすれ、少なくともこんな風に呼びつけたりはしなかった。今の相手は、ただの警察官。しかも、ただの研修警察。そんな人間に、いったいどんな度胸があるというのか。緒莉は深く息を吸い、言葉を返そうとしたが、そのとき研修警察が棍棒を手に持って立っているのが目に入った。それを見た瞬間、彼女は一気に気力を失った。もういい。この単純な力任せの人間と張り合う必要はない。頭の単純な相手は、後でゆっくり処理すればいい。「分かりました、自分でやります。すみませんでした」緒莉は立ち上がり、穏やかにそう言った。坂井は再び主導権を握った気になり、鼻を鳴らす。「じゃあさっさとやれ、時間を無駄にするな」「はい」緒莉は素直にうなずき、警
Read more
PREV
1
...
868788899091
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status