All Chapters of 私が来たとき、春が街を満たした: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

晄夜は、翡翠のバングルが入った小箱を、そっと助手席のグローブボックスに収めた。けれど、グローブボックスを閉じようとしたその瞬間、一枚の書類が視界に入った。これは、いつからここに?彼はしばし凝視し、記憶をたどってみたが、どうしても思い出せない。手を伸ばしかけたそのとき、携帯が振動した。ディスプレイには、「藤原瑤子」の文字。「晄夜、両親もう帰ったよ。友達が退院祝いしてくれるって!あなた、もう仕事終わった?よかったら一緒にどう?」軽やかな誘いに、晄夜は一瞬も迷わず「行けない」と答えた。通話の向こうで彼女の声色が沈みかけたが、彼は「会議がある」とさらりと口実をつけて電話を切った。そして静かにグローブボックスを閉じ、車を走らせて帰路についた。いつもならぬくもりに満ちていた別荘。けれどこの日は、不思議なほど静まり返っていた。玄関を開けた彼は、リビングをぐるりと見渡して、多くの物がなくなっていることに気付いた。何ヶ月も前にテーブルに置いたままだったネクタイ、食卓にあった水の入ったグラス、ソファに並んでいたクッション……どれも、清香が少しずつ買い足してきた、暮らしの温度のようなものだった。かつての彼なら、そんな些細なものなど目に入らなかっただろう。だが今、それらがないことが、妙に胸を突いた。彼はすぐに執事を呼んで、問うた。「家の中、いろんな物がなくなってる……何があった?」執事は恭しく一礼して、淡々と答えた。「奥様が、すべて処分なさいました」答えを聞いた彼の胸に、何かが静かに沈んだ。けれど言葉にはせず、ただ黙っていた。そんな彼を見つめながら、執事は少し躊躇いながらも、そっと口を開いた。「旦那様、本当に奥様と離……」けれどその「離婚」という二文字が空気を割る前に——「晄夜っ!!雪の日は家にいるって賭けてたんだ、ほらやっぱりな!!」ドアが勢いよく開き、数人の友人たちがどかどかと雪を踏み鳴らして現れた。肩を組み、騒ぎながら彼を引っ張り出そうとする。さっきまで執事の口からこぼれそうになっていた「あの言葉」は、笑い声と喧騒の中にかき消されていった。「飲みに行こうぜ!久々にパーッとやらなきゃな!」とはいえ、彼らは晄夜の身体を気遣い、差し出すのは白湯ばかり。彼はそれをひと口だけ飲み、ふ
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第12話

「えっ?いきなり何の話だよ?」突拍子もない発言に、全員がきょとんとした顔を見合わせた。だが「盛り上がるようなものがある」と聞くや否や、興味津々に車へと乗り込んだ。道中、「どこに行くんだ?」と何度も尋ねられたが、彼は一言も答えず、時折ちらりと晄夜の様子をうかがうだけだった。到着したのは、誰一人として訪れたことのない、場末のバー。車を降りる直前、その友人は晄夜の背を軽く押しながら、普段とは違う慎重な口調で言った。「晄夜さん……ずっと気になってたことがあってさ。今日、ようやく確信が持てたから、お前に見てもらいたい。これから何を見ても、俺を責めないでくれ。全部……お前のためだから」子どもの頃から「兄弟同然」に育った仲間が、そんな真剣な口調で話すのは珍しかった。その異様な気配に気づいたのか、晄夜の表情からも自然と笑みが消えていた。彼はしばらく扉を見つめ、そして意を決したように手を伸ばした。扉の向こう——眩いネオン、轟く音楽、熱気に包まれた空間の中心。明るいスポットライトの下では、一組の男女が人目も憚らず激しくキスを交わしていた。離れていても、晄夜にはすぐにその女性が誰か分かった。瑤子だった。彼女は男に体を預け、頬を紅潮させ、指先で相手の背中を撫でていた。あの奔放で気ままな彼女とはまるで別人のようだった。入口に立ち尽くした男たちは、言葉を失い、ただその場で固まっていた。一方、バーの中は盛り上がりの真っ只中。「退院したばっかでこれって……30分くらいキスしてないか?」「いや〜、恋人同士なんだからラブラブでいいんじゃん。お前が羨ましいだけなんじゃないの?」「ねえ、瑤子ってもう半年も今の彼氏と付き合ってるんでしょ?まだ飽きてないのかな?今回はどれくらい続くと思う?神谷晄夜の時より長く続くかな?」「瑤子の本音なんて、誰も分かんねーよ。ただの遊びだろ。あの神谷晄夜だって3年前にフラれてたし、今回もどうせ犬みたいにじゃれ合ってるだけじゃね?」無遠慮な言葉が飛び交う中、晄夜の仲間たちの顔には次第に怒りの色が浮かび始めた。ついに我慢の限界を超え、何人かがホールに突入。一人が音楽を止め、もう一人が照明を明るくし、残りはステージに上がって2人を取り囲んだ。突如の騒動に、場の熱気は一気に冷めた。ようやく状
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第13話

三年ぶりに、晄夜は再び人々の視線を一身に集めていた。だがその表情は驚くほどに静かだった。誰もが予想したはずの怒りも失望も痛みも、そして羞恥すらも——彼の顔には一切、浮かんでいなかった。そこにあったのは、ただすべてを悟った人間だけが持つ静けさと、幕が下りた舞台の余韻のような穏やかさ。人の波の向こう、彼の視線はただまっすぐに、舞台の中央に立つ蒼白な顔の女性に向けられていた。長年、想い続けながらも最後まで手の届かなかった人。かつて、彼を祝福の場にひとり残して消えた——あの日の「花嫁」。いま、彼女はまるで見知らぬ誰かのように遠かった。まるで初めて出会った相手のように。けれど彼は、その女性を十八年も知っていたはずだった。「一字一句、最後まで聞かせてもらった。嘘をつかず、本音を語ってくれて……ありがとう。瑤子」ざわめきの中、晄夜の声はどこまでも穏やかだった。まるで、ありふれた天気の話でもしているかのような静けさで。その様子を見ていた兄弟たちは、ふと三年前のあの場面を思い出した——清香が初めて彼らの前に現れた日のことを。全く同じ、感情を抑えた表情。まるで風のない湖面のような声音。そして、まったく同じ文字数で語られた一言。「私は現在独身です。もし異論がなければ、私があなたの花嫁になります——晄夜」そう静かに告げた彼女の姿が、今、まざまざと蘇る。彼もまた静かに視線を落とし、唇にかすかな笑みを浮かべた。あの日、清香はどれほどの想いと決意を抱えて、彼の隣に立ったのだろう。どれほど無音の中で心を振り絞ったのだろう。彼は、三年という歳月を費やして、ようやく彼女の愛の大きさと深さを知ったのだ。だが、もう迷う必要はなかった。まだ、やり直せる。彼は価値のない過去に、もはや一秒も費やすつもりはなかった。静かに踵を返し、その場を去った。その足取りは、これまでになく真っ直ぐで迷いがなかった。車に戻ると彼はスマホを開き、送信せずにいたメッセージをようやく送信した。「ピン」という通知音が鳴った。彼は反射的に目を落とす——そこに映ったのは、見慣れたインターフェースに浮かぶ、無情な赤いビックリマークだった。「友達追加が必要です」の表示。間違いない。表示名もアイコンも清香のものだった。だが——な
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第14話

リビング、寝室、書斎、バスルーム——家じゅうのすべての部屋を探し尽くしても、晄夜は清香の痕跡を何一つ見つけることができなかった。その様子を見かねた年老いた執事は、ようやく長く心に引っかかっていた疑問を口にした。「旦那様……なぜ、奥様との離婚に同意されたのですか?」離婚?その言葉を聞いた瞬間、晄夜の世界がぐらりと傾いた。離婚——そんな話、清香の口から一度も聞いたことはなかった。それなのに、なぜ皆が当然のように「自分が望んだ離婚」だと信じているのか。彼は混乱のまま、必死にこの数週間の記憶をたどった。あのカフェでのまどかの妙な反応。机の上に置かれたまま、ろくに確認もせずにいた航空券。そして今朝、彼女が言い残した意味深な言葉——「欲しかったもの、もう渡したよ」あの時、ちゃんと耳を傾けていれば。後悔と焦燥が胸を焼く。彼はすぐに秘書に連絡を取り、清香の行方を調べさせると、自らも車に飛び乗った。まず向かったのは、彼女が結婚前に暮らしていた古いアパート。だが、そこには鍵がかけられ、扉も窓も封じられていた。近所の住人の話では、彼女は昨日一度戻ってきて、多くの私物を処分していたという。まるで、遠い旅路へ出る人のようだった——と。その時、秘書からのメッセージが届いた。「社長、確認したところ、奥様は半月前にサンフランシスコ行きの航空券を購入されており、本日午前中の便で出発されました。現在、すでに到着しているかと思われます」引っ越しではなく、国外への旅立ち。そう理解した瞬間、晄夜の胸に冷たい風が吹き抜けた。なぜ彼女は、突然離婚を決め、何の前触れもなく彼の元を去ったのか。彼の隣に立つことは、かつてあれほどまでに願っていたことではなかったのか?彼はすぐさまアメリカ行きの航空券を手配させると、再び車内に戻り、運転席にもたれてスマートフォンの画面を見つめた。そこに表示された、ブロックされたチャット画面。沈黙の中に赤く浮かぶ「!」マークが、やけに鮮烈だった。低電力の警告が出たスマホを充電しようと、彼はグローブボックスを開いた。その視界の端に、ずっと触れずにいた封筒があった。彼は迷わず、それを手に取り、封を切った。封筒の中には、きちんと製本された一冊の書類。そして最初のページには、くっきりと五文字が並んでいた
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第15話

飛行機がサンフランシスコに到着したのは、ちょうど現地時間の午後だった。到着ゲートの外で、清香は久しぶりに恩師 高瀬詩織(たかせ しおり)と再会した。大学4年のとき、高瀬先生はA大学を辞めて起業の道へ進んだ。それから3年の努力を経て、彼女は見事にシリコンバレーで確固たる地位を築き上げた。清香が今回アメリカ行きを決めたのも、彼女からの仕事のオファーがきっかけだった。30代前半にして実力と実績を兼ね備えた女性で、大学時代から学生と分け隔てなく接していた詩織。社会に出てからもその気さくさは変わらず、清香を見つけるなり、にこやかに手を振って声をかけてきた。「清香!久しぶり!」スーツケースを引いて歩み寄る清香も、笑顔で応えた。「高瀬先生、お久しぶりです!」「もう先生じゃないんだから。よかったら、詩織さんって呼んで」その親しみやすくて温かい人柄に、異国の地で少し不安を感じていた清香の心も、ふっと軽くなった。彼女は素直に「詩織さん」と呼び、2人は一緒に車へと向かった。車中では、大学時代の思い出や、別れの日のことなど、話が尽きなかった。「清香、半年前に大学院を卒業したとき、アメリカに来ないかって誘ったよね?あのときは断ったのに、急に気が変わったのはどうして?」清香の目が一瞬だけ揺れたが、すぐに平静を取り戻し、言葉を選びながら話し出した。「その頃は、自分がこれから何をしたいのかも分からなくて……家の事情もあって、海外に行く気持ちにはなれなかったんです。でも今は、少し気持ちが整理できて。将来が見えないなら、まずは一歩踏み出してみようって。歩いていく中で、新しい目標が見つかるかもしれないって思ったんです」詩織もまた、かつて同じような道を歩んできたひとりだった。社会に出たばかりの頃は誰もが戸惑うものだとよく知っていたからこそ、彼女の今の気持ちが痛いほど分かり、静かにうなずいた。「うん、分かるよ。人生ってそんなもんだよね。私だって大学で何年か教えたあと、このままじゃだめだって思って、外の世界を見に行ったの。清香、あなたはまだ若い。迷うのは当然のこと。大事なのは、迷いを恐れずに、前へ踏み出せるかどうかだよ」実体験に裏打ちされたその言葉に、清香の胸の中の不安が少しずつ解けていった。アパートに到着すると、詩織は部屋の中を案内
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第16話

清香は駐車場で詩織の車を見つけた。助手席のドアを開けて乗り込んだそのとき、何気なく後部座席に誰かがいるのが目に入った。だが礼儀としてじっと見つめることはせず、詩織がそのうち紹介してくれるだろうと軽く考えた。シートベルトを締めた直後、隣の詩織は何も言わなかったが、背後から聞き覚えのある声がした。「よく眠れたか? 清香」その声を聞いた瞬間、清香は反射的に顔を上げた。ルームミラー越しに映ったのは、見慣れたあの顔——晄夜だった。一日ぶりの再会。彼はひどく疲れて見えた。きっと、ほとんど眠っていないのだろう。それでも彼の瞳は澄んでいて、強い意志が宿っていた。言いたいことが次々に胸に浮かんできたが、何から口にすればいいのかわからず、結局、何も言えなかった。車内には、重たい沈黙が落ちた。1分ほど経ってから、ようやく詩織がその空気に気づき、後ろを振り返って場を和ませようとした。「清香、こちらは大学の同級生だった晄夜さんよ。覚えてる?さっき空港に着いたばかりなんだけど、久しぶりに会いたいって連絡があったの。せっかくだし、同級生同士でご飯でもと思って声をかけたんだけど、気にしないでね?」清香は——正直、気にしていた。けれど何も知らない詩織の前で本音を見せるわけにもいかず、無理に笑みを作って答えた。「詩織さんのご配慮なら大丈夫です。ただ、時差ボケがまだ抜けてなくて、ちょっと頭がぼーっとしてるだけです」詩織は安心したように微笑み、「無理しないでね」と声をかけたあと、後部座席の晄夜にも向き直った。「晄夜、大丈夫? 無理せず一度休んでからでもよかったのに。無理してない?」晄夜は、すでに三十時間以上眠っていなかった。だが今は、それどころではない。彼は静かに首を振った。「問題ありません」「じゃあ、まずは食事にしましょう。レストランはもう予約してあるの。そういえば、二人って学生時代そんなに親しかったっけ? 卒業してからサンフランシスコで再会だなんて、すごい偶然よね?」偶然、なのだろうか?清香はうつむいたままだったが、背後から注がれる熱い視線には気づいていた。彼がここにいるということは、自分を探して来たのだと直感していた。神谷グループのトップに立つ彼。常に賞賛と称賛に包まれ、何不自由なく育った選ばれし
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第17話

この食事会は、約一時間ほど続いた。その間ずっと、詩織が両者の間に入って会話を繋ぎ、場の空気を保っていた。清香は終始黙々と食事に集中し、晄夜は胸の内に積もった言葉を飲み込むばかりだった。食事も半ばを過ぎた頃、会社から急な呼び出しが入り、詩織は慌ただしく席を立った。師弟の再会は、思いがけず、離婚した元夫婦の静かな対話の時間へと変わっていた。レストランに漂っていた和やかな雰囲気は、たちまち静寂に包まれる。清香は最後のひとかけらのステーキを口に運び終えたあと、差し出されたナプキンには目もくれず、自ら新しいものを引き抜きながら、淡々と、それでいて率直に言った。「言いたいことがあるなら、今、全部言って」その言葉に、晄夜の手は空中で止まり、彼女の視線と真っ直ぐに交差した。わずか一日しか経っていないのに、目の前の彼女は、三年間隣にいた妻とはまるで別人のように思えた。変わったのは彼女なのか、それとも、最初から彼が彼女の本当の姿を見ていなかったのか。思い返しても、三年間の結婚生活で、彼は彼女の表情をどれだけ見ただろう。心の揺れにどれだけ寄り添っただろう。彼女はいつも、静かな湖のようにそこに在った。風も波も立たぬその水面を、彼はただ当たり前のように眺めていたにすぎなかった。だが、気づけばその湖の水は動き出していた。迷いなく、静かに、そして決然と、自分の手が届かない場所へと流れていった。慌てて追いかけたとき、ようやく彼は知った。その水は思っていたより深く、優しく、そして強い流れを持っていたことを。自分の都合で留めておけるようなものではなかったのだ。かつての「安らぎ」は、思い上がりに過ぎなかった。目の前に立つ新しい清香。その存在に戸惑いながらも、晄夜は彼女が離婚を決意した理由が、自分にあることをよくわかっていた。だから、まずは真摯に謝罪した。「清香……ごめん。この三年間、夫として何もできなかった。君にちゃんとした家庭を与えられなかったし、君の思いにも応えられなかった。本当に、申し訳ない」彼の言葉には嘘はなかった。けれど清香の心は、もはやその謝罪で揺れるような柔らかさを持っていなかった。彼女は分かっていた。自分たちの関係は、始まりから間違っていたのだと。愛されていない相手と一生を共にする——その選択
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第18話

レストランを出た後、清香はまっすぐ自宅へは戻らず、詩織のもとを訪れた。彼女が一人でやって来たのを見て、詩織は少し意外そうに眉を上げた。「晄夜は?」「詩織さんが帰ったあと、彼も急な用事があるって。私、数日後に正式入社だから、先に会社の雰囲気を見ておきたくて」詩織はそれ以上詮索せず、ちょうど業務も一段落していたことから、彼女を連れて社内を丁寧に案内してくれた。仕事が終わる頃にはすっかり日が落ちており、二人はそのまま夕食を共にした後、清香はアパートへと戻った。スマートフォンを開くと、晄夜からの友達申請が届いていた。その瞬間、彼が別れ際に言った言葉が脳裏をよぎった。「君が本気で離婚を望んでいるなら、僕はそれを尊重するよ。僕には君の想いに応える資格がなかった。本当にごめん。ただ、三年間も夫婦だったんだ。たとえ別れても、友達として繋がっていられないかな?」友達?果たして彼と、そんな関係が必要なのだろうか。清香の中では、「きれいに別れて、二度と関わらない」——それが唯一の選択肢だった。だから、申請はその場では承認しなかった。夜10時、そろそろ休もうとしたとき、またしても申請が届いた。今度はメッセージ付きだった。【離婚協議書の件で、いくつか相談したいことがある】その文言を見て、彼女はすぐに申請を承認した。晄夜は余計な前置きもなく、赤字で修正された協議書のファイルを送ってきた。開いてみると、財産分与の項目が折半に変更されていた。つまり、離婚後、彼の資産の半分を清香が受け取ることになる。思わぬ資産には不安を覚え、彼女は即座に音声メッセージを送った。【財産については、もとの内容のままでいいです。こんなに多くいただいたら、さすがに気が引けます】予想通りだったのか、彼からはすぐに返信が届いた。【君が金目当てで僕と結婚したんじゃないことくらい、ちゃんとわかってる。これは償いでも恩返しでもない。ただの法的な分配だ。君が受け取るべき正当な権利なんだ】いくら説得しても彼の考えは変わらず、彼女はついに折れた。好きにして。そう心の中で呟き、チャットを閉じた。時は流れ、彼女は本格的に仕事に打ち込み、少しずつ職場の空気にも慣れていった。1ヶ月後、手元に届いたのは、正式な離婚届と、それに付随する莫大な資
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第19話

清香は、詩織の意図を正直に言ってまだ掴みきれていなかった。入社してわずか数ヶ月の自分が、この重要なプロジェクトに同行する理由はなんなのか——考えれば考えるほど、答えは一つしか浮かばなかった。自分が「晄夜の元妻」であること。それ以外に、彼女が連れて行かれる理由など思いつかなかった。だが、晄夜は自分を愛していなかった。離婚のときも、ためらいなどひとつもなく、潔く別れを受け入れ、その後も一度たりとも連絡はなかった。そんな彼が、どうして「彼女のために」何かを譲歩するだろうか。誤解を避けるためにも、正直に話しておこう。清香は静かに口を開いた。「詩織さん、私……もう離婚しています。それを隠していたわけではなく、関係ないと思って話していなかっただけです。でも今回のプロジェクトは大切な案件ですから、ちゃんと伝えておこうと思って。私と晄夜は、ただ籍を入れていただけの関係でした。彼は私を愛していなかったし、私たちの間に夫婦の絆なんてなかった。離婚も円満に終わっています。彼は情には厚いけれど、肝心な場面ではきちんと線引きのできる人です。もし私を同行させれば交渉がうまくいくと考えているなら……それは期待しすぎかもしれません」自らの口でその結婚の真実を語る彼女の姿に、詩織は言いようのない違和感を覚えた。彼女を椅子に促し、ふと問いかけた。「それでも、本当に……晄夜はあなたに気持ちがなかったと思う?」清香は少しも迷わずはっきりと頷いた。その揺るぎない瞳を前に、詩織の脳裏にサンフランシスコを離れる直前の晄夜の姿が蘇った。「先生……実は僕と清香は、夫婦でした。正確には、今は離婚しています。僕の不甲斐なさが原因で、彼女に見限られてしまいました。清香の意志は固くて……これ以上彼女を苦しめたくなかったので、僕は彼女の決断を尊重しました。でも、僕はまだ彼女とやり直したいと本気で思っているんです。ただ今は、少し距離を取るべきだと。だから、彼女が滞在している間、どうかそばで見守ってあげてほしいんです。お礼として、ROプロジェクトのご相談に乗ります」いくら時間が経っても、あの時の晄夜の落ち込んだ顔と、真剣そのものの声は詩織の記憶から消えることはなかった。晄夜のような男が、たいして感情も残っていない元妻のために、IT業界の大手企業がこぞって
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第20話

空港に降り立ったとき、清香の胸の内はかつてこの地を去ったときとはまるで別人のように澄み渡っていた。彼女はスーツケースを引きながら、詩織と笑顔で会話を交わしつつ、ゲートをあとにする。何気ない話に花を咲かせていたその時、詩織が遠くに両親の姿を見つけ、手を振って合図を送った。詩織はにこやかに清香を両親へ紹介し、両親は「ぜひうちに」と快く招待してくれたが、久しぶりの家族団らんに水を差すまいと、彼女は丁寧に辞退した。別れを告げ、一人で空港の外へと出た彼女を待っていたのは、激しく降りしきる雨だった。車の姿は見えず、配車アプリを開こうとしたその瞬間、黒い車が目の前に滑り込むように停まった。驚いて顔を上げると、傘をさして近づいてくる人影があった。晄夜。数ヶ月ぶりに見る彼の姿は、以前よりもほっそりとしており、緑のトレンチコートを纏ったその佇まいは、まるで静かに風に揺れる竹のように清冽だった。まさかの再会に、清香は思わず足を止めた。彼は一言も発さず、まっすぐ彼女のもとに歩み寄ると、どこか読み取りづらい感情を湛えた瞳で静かに言った。「久しぶりだね、清香。元気にしてた?」その声に彼女は反射的に数歩後ずさり、距離を取った。「まあ、それなりに」感情のこもらないその言葉に、晄夜は僅かに表情を曇らせた。けれど、それも当然のことだと彼はすぐに悟った。二人はもう法的にも他人だ。彼は気を取り直して、彼女のスーツケースに視線を落とした。「雨がひどいから、ホテルまで送るよ」スマホに表示された「配車済み」の通知を見せながら、清香は首を横に振った。「もう車を呼んだので、大丈夫です」「じゃあ、この傘を持って。荷物が濡れてしまうだろ?」なぜ彼がこんなにも親切にするのか、彼女の胸には不思議な違和感がこみ上げてくる。「別にあなたの助けはいりませんし、もう私たちに関係なんて必要ないと思いますけど。神谷社長は、どうですか?」鋭く切り込むその一言は、まるで心の奥に突き刺さる針のようだった。袖口の中でわずかに震えた指を隠すように、彼は苦笑を浮かべながらも無理に声を保つ。「離婚しても……友達にはなれないかな?」彼女はスマホをしまい、鞄から傘を取り出すと、遠ざかってくる車に目をやった。「結婚する前から、私たちはただの同級生で
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