All Chapters of 彼女が世界を離れたあとで: Chapter 11 - Chapter 20

30 Chapters

第11話

「ちがう!私じゃない!私じゃ……!」向音は涙を流しながら、必死に首を横に振った。「私、自分がどれだけ苦しんだか知ってる。同じこと、他人にさせるわけないでしょ?自分がされて嫌なことは他人にもしないって、そんな当たり前のこと、私が分からないとでも?」けれど尚真はもはや正気ではなかった。理性を手放し、怒りと不信に呑まれた目で向音を睨みつける。彼は向音の顎を力強く掴み、無理やり目を合わせさせた。「言え。どこだ?遥香に何かあったら、俺はお前を殺す」その一言に向音は笑った。涙が男の指先を伝って落ちていく。その瞳には怒りも恐れもなく、ただ哀しみと諦めだけがあった。「私が一度あなたに命を与えたのよ。それなのに今度はその命を奪うって。そんなこと、どうして平然と言えるの?」彼女の視線は揺るぎなく彼を射抜いていた。「その女のためなら、あなたはどんな言葉でも吐けるのね!橘原尚真、あなたは本当にひどい男よ」彼はゆっくりと手を離した。白い頬には赤い指の跡がくっきりと残った。「私じゃないって言ったら、信じる?」彼女の声は、もう何も求めていなかった。虚ろな目で数歩後ずさりし、部屋の隅へと身を寄せた。尚真は何も答えず、黙ってタバコを吸い、そのままドアを乱暴に開けて出て行った。その後、尚真からの連絡は一切なかった。向音はただ、システムのカウントダウンを待ち続けた。だが、心の奥に渦巻く不安は、どうしても拭いきれなかった。そして、その不安は——現実となって姿を現した。数日後。「向音さん、好きな人に疑われる気持ちって、どう?」遥香が不意に現れ、微笑みながら言った。「あんたの仕業?」向音は冷静に問い返した。「そうよ。だから何?」遥香は唇の端に悪意の笑みを浮かべた。「尚真さんが、信じるのは誰か……分かってるよね?」耳元に顔を寄せ、囁くように言った。「尚真さん、あなたにプレゼントを用意してるんだって。楽しみにしてなよ。きっと気に入るよ」そう言い残し、遥香は黒いカイエンに乗って去っていった。それは尚真のお気に入りの車だった。向音は尚真に連絡を取らなかった。ただ静かに出発のその日を待っていた。システムからの帰還指令まで、残り2日。部屋を売り、荷造りも終えた。その日も食材を買うためにスーパーへ行くつもりだった。けれど、スーパ
Read more

第12話

涙すら出ないほどに彼女の体力は奪われていた。向音は目を閉じたまま、何の抵抗もできずに、黒服の男たちに連れて行かれるままになっていた。そして——意識を失った。次に目を覚ましたとき、そこは見覚えのある部屋だった。そして、あの男の顔。「向音。誘拐されるって、面白い体験だった?」嘲るような笑み。けれど、その目には一片の情もなかった。向音の心がひゅっと冷えていく。彼が自分にとって一番の傷を知っていて、それでも何度も何度もその傷を抉ってきた。「私じゃないって、何度言えば信じてくれるの?どうして、どうしてあなたは……」嗚咽混じりの声が崩れた旋律のように空間に響いた。「それでもまだ、悪いって思わないのか?」尚真が顔をしかめ、語気を強めた。「遥香の誘拐がお前の仕業じゃないって、どうして信じられる?」彼の中で遥香はまるで純白の花だった。そして、向音は泥に塗れた傷だらけの薔薇に過ぎなかった。向音は、ふっと乾いた笑みを浮かべた。「私のこんな姿を見て、楽しい?気が済んだ?この前は気持ちを試したって言ってたよね。じゃあ今回は何のため?遥香のために私を罰したかっただけ?」尚真の顔に驚きが走った。「なんで、それを……?」彼の視線が、迷子のように彷徨い始める。尚真はさっきまでの傲慢さが嘘のように一瞬で気勢を失った。顔は蒼白になり、震える声で言った。「向音、聞いてくれ。俺は、説明するから」「説明?何を?」「私のこと、汚いって思ってたってこと?それとも、私を傷つけるためにわざわざ人を使ったってこと?」向音が一言発するたびに、尚真の目からは少しずつ光が失われていった。「違う、あれは俺も想定してなかった。まさか、あいつらが本当に——」「もういいの。尚真、私はあなたに心底、失望した」目を閉じたまま、向音はゆっくり言った。「もし時間を巻き戻せても、私はやっぱり、あの日、あなたを救うと思う。でも、それだけ。それ以上は……もう、ないわ。手に入る愛はあなたにとって価値がないものだったのね」尚真の瞳から色が消えていく。やがて彼は膝を床につけ、突然叫んだ。「向音、行かないでくれ!!全部俺が悪かった!ちゃんとやり直すから!復縁しよう!頼むから、もう一度だけ信じてくれ!遥香とのことはただの遊びだった!お前が本命だっ
Read more

第13話

尚真はひどく寝苦しい夜を過ごしていた。夢の中で、彼は必死に向音を追いかけていた。何度手を伸ばしても彼女には届かない。彼女は笑っていた。けれど、その笑顔には一切の光がなかった。「向音!」夢の中で叫んだ瞬間、尚真は息を呑んで目を覚ました。胸が騒がしくてたまらない。ふいに、どうしようもなく向音に会いたくなった。この目で、彼女がそこに静かに横たわっているのを確かめなければ、どうしても心が落ち着かない気がした。だが、扉を押し開けたその瞬間——ベッドの上には、誰もいなかった。冷たく整えられた布団だけが、彼女の消失を静かに物語っていた。その刹那、尚真の世界が音を立てて崩れ落ちた。頭を鈍器で殴られたかのような衝撃に、足元がふらつき、虚ろな目で部屋中を見渡した。尚真はふらつきながら窓辺に駆け寄り、数十階の高層から下を覗き込んだ。喉が詰まったように息苦しくなった。「探せ——!今すぐ、どこでもいい、向音を探せ!!」屋敷中が騒然となった。使用人たちは目を合わせることもできず、蜘蛛の子を散らすように駆け出していった。尚真の頭の中は真っ白だった。心が故障したエレベーターのように急降下し、底なしの奈落へ落ちていく。家中を隅々まで探しても、向音の姿はどこにもなかった。彼女は、どこに行ったんだ?その頃、遥香もまた異変に気づいていた。「あの女、まさか本当に——帰ったの!?」この世界がまた自分ひとりになったと気づいた時、遥香は苛立ちながらも、どこか安心していた。「まあ、いいわ。私、今好感度50%。あと少しで、100%まで上げれば、私も帰れる!」そう思った瞬間、足取りが自然と軽くなり、尚真の元へ駆け寄った。「尚真さん、何探してるの?」彼はすがるように肩を掴んだ。「遥香、昨夜——向音が出て行くの、見てないか?」「い、痛いよぉ……そんなの知らないよぉ……!きっと、向音さんなりに考えがあったんじゃないかな?今は私が傍にいるから、いいでしょ?」遥香は尚真の暗い表情に気づくことなく甘えるように言った。「そうだ、遊園地行こう?ねぇ、行こうよ?」彼女は甘えて男の腕を揺すろうとしたが、尚真はその腕を力任せに振り払った。「向音がいないのに、遊びに行く気か?」尚真の目は血走っていた。「遥香、お前、いい加減にしろ」一気に好感度が20%も下落
Read more

第14話

すべて、知っていたのか。遥香の胸の奥がパリンと音を立てて砕け散った。あと少し、あとほんの少しで……この世界から解放されるはずだったのに。永遠に孤独な亡霊のように、この世界で彷徨い続けた年月。自分以外の攻略者なんて、もう現れないと思っていた。だからこそ、機会が与えられたことにしがみついた。でも、今——すべてを失った。「じゃあ、なんで……なんで最初から私を責めなかったのよ!?なんで優しくしたの!?希望を持たせたの!?」彼女の声はすでに悲鳴に近かった。「どうしてなのよおおお!!」尚真は鼻で笑った。「簡単なことだよ。向音の気を引きたかっただけさ」「比較対象がいなけりゃ、本音は分からないだろ?どれだけ俺のことを愛してるのか、測るためにお前を使った」全ては試すためだけだった。彼女は向音が自分をどれほど愛しているのかを確かめるための、ただの道具に過ぎなかったのだ。なんて馬鹿げた話だろう。彼の愛は疑い深く敏感すぎて普通の人間には到底耐えられない。遥香はその結果を知り、まるで世界が崩れ落ちるような衝撃を受けた。目に涙を浮かべ、顔は真っ赤に染まっていた。頭の中は、最後の一線が切れそうなほど混乱し、まともに思考ができなくなった。「あなた、前はそんな人じゃなかった……」彼女は泣きながら、息を詰まらせるほどに喋っていた。言葉の一つ一つが繋がるかどうかもわからないほど、息も絶え絶えだった。「ちゃんと大事にするって、言ってくれたよね?私に、ちゃんと名分をくれるって言ったじゃない!」彼女は無力に尚真の胸を叩き続けた。「嘘つき!最低……ひどい人!!」「あなた、私を愛すると言ったじゃない!!」尚真の目から最後の情がすっと消えた。彼は彼女の手を冷たく振り払い、そのまま床へ突き飛ばした。遥香は冷たい床に崩れ落ち、ただただ泣き続けた。過去の甘い記憶がすべて嘲笑に変わった。もし、この世界から出られないなら、彼と一緒にいればいいと思ってたのに。全部、茶番だったんだね。何かが完全に切れた。遥香は狂ったように笑い始めた。「なにが……そんなに可笑しい?」尚真が眉をひそめた。彼女は、嗤うように言い放った。「あなたが、滑稽だから」「どういう意味?」「自分のこと、愛に殉じた男だとでも思ってるの?向音さんのこと、本当に愛してたって思ってるの?
Read more

第15話

遥香は地下室に監禁された。尚真の目はまるで地獄から這い上がった修羅そのものだった。彼は無言で遥香の腕を掴み、そのまま地下室へと引きずり込んでいった。「話せ。全部だ」遥香はシステムの警告が頭をよぎる中、黙ることしかできなかった。「お願い……許して……私、本当は——」けれど、尚真の心には、もはや一片の同情すら残っていなかった。三日三晩、水すらまともに与えられず、彼女の体はすでに限界だった。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。尚真は、なおも沈黙を貫こうとする遥香を見て、ついに自ら手を下した。塩水に濡らされた鞭を手にし、何の躊躇もなく——彼女の細い身体を一打、また一打と叩きつけた。きめ細やかな肌の遥香に、この拷問が耐えられるはずもなかった。地下室には夜を通して彼女の悲鳴が響き渡った。それはまさに地獄の音だった。そして——尚真は血まみれになった遥香の顔を見下ろしながら、冷たく呟いた。「まだ口を割らないのか?」次の瞬間、彼は金属製の箱を手にした。中にはぎっしりと詰まった無数の画鋲。彼はその箱を彼女の口元に近づけ、淡々と告げた。「俺の我慢にも限界がある。今、話さなければ——もう後はない。それとも、もっと別の罰を受けたいのか?」その言葉に、背後に控えていた男たちがニタニタといやらしい笑みを浮かべた。遥香の体が小刻みに震えた。箱の中の鋭い画鋲が彼女の唇に触れた瞬間——遥香は恐怖で言葉を失い、喉の奥から掠れた声を絞り出した。「やだ……やだ……!!お願い……言う!言うから!!」彼女は完全に折られた。すべてを話すしかなかった。「システム」、「攻略任務」、「物語の世界」と「向音が帰還したこと」……すべて、吐き出した。 尚真は深く息を飲んだ。覚悟はしていたつもりだった。だが、「自分の世界」がたった一冊の本の中に過ぎなかったと知ったとき、その価値観は音を立てて崩れ落ちた。「向音はどこに?どこへ戻った?」尚真は声を荒げた。「会わせろ!彼女に会わせてくれ!」「任務なんてずっと前に終わってるわよ。ただ元の世界へ帰ったのは今になってからってだけ」その言葉を聞いた瞬間、尚真の頭の中にあの雨の日の光景がよみがえった。「行かないで」と叫んだあの夜。彼の喉がぎゅっと締め付けられた。「会いたい!会いたいんだ……!」尚真
Read more

第16話

向音は、再び病院のベッドで目を覚ました。ぼんやりと天井を見つめながら、彼女は隣に横たわる月島梨乃(つきしま・りの)の寝顔に気づいた。窓の外では鳥がさえずり、柔らかな朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。すべてが、あまりにも現実的だった。ああ……私は戻ってきたのだ。ここは尚真のいない世界。そっと体を起こそうとしたその瞬間、彼女は驚いた。手足が軽く内側から活力が湧いてくる。まるで、ただ一晩ぐっすり眠っただけのようだった。ほんの数年前まで、生きるのも辛かった体が——今は嘘のように自由に動いた。心の奥に、まだ微かにあの世界の感触が残っていた。辛いこともたくさんあったけれど、それでも「システム」に感謝している。あの世界での経験があったからこそ、いま、こうして健康という何よりの宝を手に入れることができた。二年間の昏睡。でも、まだ何もかもが間に合うのだ。「向音! 向音っ!!」目を覚ました彼女を見つけた梨乃は、涙ながらに飛びついた。号泣しながら彼女の病衣を涙で濡らしていく。「よかった!本当によかった!もう二度と目覚めないかと思ったんだよ。このバカ……向音がいなきゃ、私どうしたらいいのよ……!」彼女の涙を拭いながら向音はようやく微笑んだ。誰もが奇跡だと言った。死の淵にいた少女が突然目を覚まし、すぐに退院していったことは病院の中でも大きな噂となった。けれど、それが奇跡なのではない。彼女だけが知っていた。それは神様ではなく、「システム」が与えてくれた、最後のチャンスだったということを。そして、あのときの自分。愛に執着し、希望にすがり、あらゆる感情に溺れかけていた過去の自分を、ようやく手放すことができたのだ。物語の世界に長く滞在した報酬として、彼女は「溢出ポイント」を与えられた。それは、現実世界での自由と安心をもたらす充分な資産だった。退院後、梨乃と共に新しいマンションへ引っ越した。契約書にカードで一括払いする姿を見て梨乃は目を丸くした。「向音、いつの間にこんな金持ちに!?ちょっと怪しいルートじゃないでしょうね!?」彼女はにこりと微笑んだ。「秘密だよ」新しい生活は穏やかだったが、心に残る影はまだ完全には消えなかった。ひとりで外出することができなかった。どこへ行くにも、誰かの存在が必要だった。夜に外へ
Read more

第17話

その夜、向音は一睡もできなかった。どうか、見間違いであってほしい——そう何度も心の中で願ったが、あの瞳、あの背中……十年間、誰よりも近くで見つめ、愛してきた人の姿を……彼女が間違えるはずがなかった。まさか尚真がこの現実世界にまで現れるなんて。脳裏をかすめたのは彼の隣にいたあの女——遥香の姿だった。そういうことかと、彼女はすぐに察した。眉間に皺を寄せながら向音はそっとため息を漏らした。もし彼がただ赦しを乞うためだけにやってきたのだとしたら、もし彼がこのまま想いを貫こうとすれば、好感度が回復しない限り——死ぬ。そして同時に「物語の世界」も崩壊してしまう。彼女は、かつて攻略者だった。だからこそ、システムのルールを知っている。けれど、どうして彼はいつも赦されると思っているのだろう。もう、疲れきってしまった。過去の出来事が次々と胸に蘇った。その一つひとつがこう告げてくる——二度と、あの場所へは戻るな。冷めきった茶を口に含み、彼女はまたひとつ、静かに息を吐いた。ここしばらく、彼女は家に籠っていた。梨乃が出勤するたびに、向音は二階の窓から手を振るのが日課になっていた。けれど、なぜだろう。どこかで誰かに見られているような気がしてならなかった。胸の奥に、じわじわと広がっていく不安。彼女が外出を避け続けていることに、尚真も次第に焦りを感じはじめていた。この世界での彼の身分は、かつての「橘原家の御曹司」などではない。今の彼はどこにでもいるような小さな会社の社長にすぎない。昔の自分なら、目もくれなかったような企業。今の立場を誇れるなどとは到底言えなかった。それでも——向音と同じ世界に生きている。そのたったひとつの事実だけが、彼をかろうじて支えていた。彼がこの世界に転移してきた本当の理由。それは、ただ彼女に会いたかったからだけではない。向音の「愛」が本物だったのか、それとも任務のためだけの演技だったのか。その答えを知るまでは、どうしても納得できなかった。長い間、彼女の愛を疑い続け、試し続けてきた自分。それがもし偽物だったとしたら、そんな現実到底受け入れられるはずがなかった。自尊心と猜疑心が彼をじわじわと蝕んでいく。「まだ、時間はある。あと五年」尚真は焦らなかった。自らの経営手腕を活かして会社を切り盛りしながら、静かに、慎重に
Read more

第18話

一晩中、尚真は眠れぬ夜を過ごした。そして夜が明けた頃、彼はようやく何かを悟ったようだった。向音が自分を避けている理由。それをようやく理解し始めたはずだった。けれど、システムの警告と「好感度」という数字の存在が、その微かな自覚すら、彼の行動から奪い去ってしまった。尚真の人生には、思い通りにいかないことなど、これまでほとんど存在しなかった。仕事も、生活も、すべて自分の手の中で掌握してきた。唯一、思い通りにならないのが——向音だった。彼女が元の世界に戻ってから、彼は弱さを見せればきっと何かが動くと思っていた。けれど彼女は、ただ静かに「ありがとう」と言っただけで、背を向けて去っていった。まるで、ただの他人のように。それが、尚真にとって初めて味わう敗北だった。その後、一ヶ月にわたり、彼はあらゆる手段を使って彼女に会おうとした。高級レストランの予約、贈り物、家の前に花を置く——だがそのすべては、ことごとく無視された。しかも、彼女と顔を合わせるたびに、向音の表情が曇るとともに、「好感度」が数ポイントずつ減っていく。その現象に、尚真は苛立ちを募らせ、ついには自宅の家具をすべて叩き壊した。「十年も俺を愛してたんだろ……なのに、どうしてそこまで冷たくできるんだ!?」彼には理解できなかった。同じ頃。向音が八度目のバラをそっと処理したとき、梨乃はついに気づいた。「ねえ、もしかして、前に助けてくれたあのイケメン、あんたのこと狙ってない?」手慣れた様子で花束を処分しながら、彼女は尋ねた。「ねえ、ちゃんと伝えてる?あんた、バラの花粉にアレルギーあるって」向音はうつむいたまま、小さな声で答えた。「伝えたよ。でも、覚えてないの。彼が」その一言に、梨乃は呆れたようにため息をついた。「女の子の好みも覚えてないで、よく告白とか言えるよね」傷は、とうの昔に塞がった。けれど、触れられるたび、うっすらと疼く。彼の「つもり」の愛、自己満足の「挽回劇」。それらは、むしろ彼女の嫌悪を深めるだけだった。だが、向音はそれをいちいち説明するつもりはなかった。本当に想う人のことは、教えなくても分かる。分からないなら、教えたって無駄なのだ。そして尚真はかつて、覚えていたはずのことすら、今はもう何一つ覚えていない。一方、尚真は、上がる気配のない「32
Read more

第19話

向音は、長い時間をかけてようやく心を決めた。そしてその夜、梨乃に対して、半分冗談めかしながら、尚真との過去を語った。もちろん、システムや物語の世界のことは話せなかった。だから彼女は、自分が受けた深い傷をなるべくぼかし、事実の一部を曖昧にした。それでも、話を聞いた梨乃は大粒の涙をぼろぼろとこぼした。「なんでそんな目に遭わなきゃいけないのよ!」「昏睡してた二年間、一度も見舞いに来なかったくせに、何が復縁よ!ほんっとムカつく!顔だけはイケメンだと思ってたのに、まじで最低のクズだったじゃん!」嗚咽しながら怒る梨乃に、向音は苦笑しつつ頭を撫でた。「もういいの。私はもう、彼と復縁する気なんてないよ。確かに、昔は本気で好きだった。でも、それは過去の話。あなたに心配かけたくなかった。でも、やっぱり大事な友達だから、隠していたくなかったの」梨乃は、向音の胸に顔をうずめながら泣きじゃくった。「次に会ったら、あたし絶対ぶん殴ってやるから!」その言葉に、向音はそっと微笑んだ。同じ頃。尚真はバーのカウンターで一人グラスを傾けていた。仕事を終えた夜、彼はまたシステムに問いかけていた。「なあ、教えてくれ……どうして向音は、俺のことを許してくれないんだ?」この世界での彼は、何者でもなかった。大企業の御曹司でもなければ、権力者でもない。ただの小さな会社の社長として、毎日地道に業務をこなし、取引先を巡って頭を下げる日々。ここには、自分の家族も友人もいない。向音だけが、唯一の繋がりだった。「もう、どうしたらいいのか分からない……近づけば逃げられる。贈り物をしても、好感度は下がる。何をしてもダメなんだ」グラスの中の苦い酒が、彼の喉を焼いた。「まさか……このまま俺は、この世界で抹消されるのか……? そんなの、あんまりじゃないか……」その呟きに、システムが淡々と答えた。「不公平だとお考えですか?すべての攻略者は、そうやって歩んできました。なぜ、他の人が耐えられたことを、あなたは耐えられないのですか?」尚真の心臓に、鋭く刺さる言葉だった。まるで、かつて自分が誰かに放った残酷な正論のようだった。「彼女がなぜ許してくれないかを考えるより、あなたがどれだけ彼女を傷つけてきたか、まずは思い出してください。愛を試す道具にして、疑念で真心を踏み
Read more

第20話

梨乃は帰宅後、今晩酒場の前で尚真に出会った話を、誇張して向音に話した。彼女が腹を立てている様子を見て、向音は苦笑しながら言った。「あなた一人で彼に立ち向かうなんて、怖くないの?これからは安全に気を付けなきゃね」「私はどうしてもあの悔しさが収まらないのよ!」梨乃は口が悪く、向音はいつも彼女が社会で損をしないか心配していた。「もう過ぎたことだから。そんな人のことで気分を悪くしないで」二人はしばらく寝ながら話していたが、突然梨乃が旅行に行きたいと思い立ち、言った。「ねえ、向音、海辺に行こうよ!」「いいね、いつ行く?」「もうすぐ給料日だし、それから一緒に行こう!」二人はベッドで旅行計画を立て、ついでに散財してしまった。向音はその幸せな瞬間が信じられなかった。システムが次の瞬間、物語の世界の任務が崩れたと言って、自分をあの世界に戻さなければならないのではないかと恐れた。だが、システムはすでに言っていた。「任務は完了しました。これから先の因果は、あなたには関係ありません。残りの人生を、どうぞお楽しみください」その時、突然、知らない番号からメッセージが届いた。「向音、少し会って話せるか?前回は俺が傲慢に話しすぎた。冷静に話す機会をいただきたい。もしよければ、明日の午後四時、金村茶屋で会おう」向音は少し考えた後、「分かりました」とだけ返信した。自分が行くとも行かないとも言わなかった。ただその事実を知っているだけだった。以前、彼女はその曖昧な答えを頼りにして、何度も失望を重ねてきた。彼女は唇の端を上げた。「尚真、あなたが教えてくれたこと」向音はそのメッセージを削除し、すぐに頭の中から追い出すことにした。翌日、彼女は梨乃とともに最高級のショッピングモールで贅沢な買い物を楽しみ、二人のボディーガードに荷物を持たせながら、華やかな雰囲気の中を優雅に歩き回った。その一方で、尚真は返信を受けて待っていた。彼は三時にレストランに早く到着し、向音が好きだろうと選んだ料理を一テーブルに並べた。しかし、料理が何度も温め直され、夜の灯りがともる頃、店が閉まるまで向音は現れなかった。彼はまるでしぼんだ風船のように、レストランの隅で時計の針が11時を指し示すのを見ていた。彼の姿は寂しく落ち込んでいた。心の中で言葉が出
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status