「隼人……赤ちゃんが欲しいの。私なんか、あなたには釣り合わないってわかってる。でも、他の人と適当に生きていくなんてできないの。だから……せめてこの子だけは、私と一緒にいてくれたら、それでいいの」ぼんやりと意識が戻ったとき、私は隼人の書斎にいた。耳に入ってきたのは、女の甘えた声と、男のかすれた息。半開きのドアの隙間から見えたのは、床に散らばるビールの空き缶、そしてソファで寄り添うふたり。その片方は――私の婚約者、真壁隼人(まかべ はやと)だった。あの光景はまるで時間が止まったかのようで。怒りなのか、衝撃なのか、自分でもわからなかったけど、足はぴくりとも動かなかった。隼人は手にしていたパッケージを破くのをやめ、そのまま低くつぶやいた。「結婚しても……お前には会いに行くよ」「でも、今とは違う……それでも、いいの?これが……最後のお願いなんだ。叶えてくれる?たった一度でいい……思い出として、お互いの心に残しておきたい」女は体を起こして、ぎこちなく唇を重ねる。その目尻からは、未練がましい涙が一筋こぼれていた。その顔を見た瞬間、私はようやく気づいた。――彼女は、綾瀬美優(あやせ みゆ)。隼人の初恋の人だった。頭の中で、何かが崩れ落ちる音が響いた。隼人と大学で出会った頃から、私は知っていた。彼の心には、決して癒えない傷があることを。それは、高校の頃に別れた初恋の彼女、綾瀬。家柄や身分の違いから、卒業と同時に彼女は姿を消した。隼人は深く落ち込み、何も手につかない日々を過ごした。私と出会ったのは、ちょうどそんなときだった。ようやく立ち直りかけた彼の笑顔が、私は嬉しかった。だけど、綾瀬の存在は――ずっと彼の中に残っていたんだ。……誰だって、触れられたくない過去がある。それでも、今愛しているのが「私」なら、それでいいって、思ってたのに。家柄は釣り合っていたし、恋愛も順調だった。父が隼人を好まなかったから、婚約から結婚の準備まで、私は七年かけて歩いてきた。その七年間、隼人は私を大切にしてくれて、「結婚までは」と一線を越えることもなかった。……なのに。結婚式まで残り一ヶ月というところで、私はこの目で、彼の裏切りを見た。「隼人……私のこと、愛してた?」綾瀬は涙声で隼人に抱きつきながら
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