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結婚相手を選び直し、そして元彼の後悔が始まる

結婚相手を選び直し、そして元彼の後悔が始まる

By:  川辺Completed
Language: Japanese
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結婚式を一ヶ月後に控えたある日――隼人は、自動車修理工場で偶然、心残りだった元カノと再会した。 心に押し込めていた感情は、一瞬であふれ出した。 ふたりはそのまま彼の部屋に向かい、ソファからベランダ、そして寝室へと、情熱をぶつけ合った。 「これが結婚前に天から与えられた最後のご褒美なんだよ」と、隼人は仲間たちに語った。 「美優のことは忘れられない。でも、結衣の家柄の方が、俺にはふさわしい」 「彼女が俺と美優のことを知るはずないし、結婚は予定通りだ」 「結衣は俺を愛してる。それが彼女にとっても一番いい選択なんだよ」 その言葉には迷いがなく、確信に満ちていた。 でも、彼は一度も、私の「最良の選択」なんかじゃなかった。 高熱に倒れて目を覚ました私は、家族の勧めに従って、花婿を替えることにした。

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Chapter 1

第1話

「隼人……赤ちゃんが欲しいの。

私なんか、あなたには釣り合わないってわかってる。でも、他の人と適当に生きていくなんてできないの。だから……せめてこの子だけは、私と一緒にいてくれたら、それでいいの」

ぼんやりと意識が戻ったとき、私は隼人の書斎にいた。耳に入ってきたのは、女の甘えた声と、男のかすれた息。

半開きのドアの隙間から見えたのは、床に散らばるビールの空き缶、そしてソファで寄り添うふたり。

その片方は――私の婚約者、真壁隼人(まかべ はやと)だった。

あの光景はまるで時間が止まったかのようで。怒りなのか、衝撃なのか、自分でもわからなかったけど、足はぴくりとも動かなかった。

隼人は手にしていたパッケージを破くのをやめ、そのまま低くつぶやいた。

「結婚しても……お前には会いに行くよ」

「でも、今とは違う……それでも、いいの?

これが……最後のお願いなんだ。叶えてくれる?

たった一度でいい……思い出として、お互いの心に残しておきたい」

女は体を起こして、ぎこちなく唇を重ねる。その目尻からは、未練がましい涙が一筋こぼれていた。

その顔を見た瞬間、私はようやく気づいた。

――彼女は、綾瀬美優(あやせ みゆ)。隼人の初恋の人だった。

頭の中で、何かが崩れ落ちる音が響いた。

隼人と大学で出会った頃から、私は知っていた。彼の心には、決して癒えない傷があることを。

それは、高校の頃に別れた初恋の彼女、綾瀬。

家柄や身分の違いから、卒業と同時に彼女は姿を消した。

隼人は深く落ち込み、何も手につかない日々を過ごした。私と出会ったのは、ちょうどそんなときだった。

ようやく立ち直りかけた彼の笑顔が、私は嬉しかった。

だけど、綾瀬の存在は――ずっと彼の中に残っていたんだ。

……誰だって、触れられたくない過去がある。

それでも、今愛しているのが「私」なら、それでいいって、思ってたのに。

家柄は釣り合っていたし、恋愛も順調だった。

父が隼人を好まなかったから、婚約から結婚の準備まで、私は七年かけて歩いてきた。

その七年間、隼人は私を大切にしてくれて、「結婚までは」と一線を越えることもなかった。

……なのに。結婚式まで残り一ヶ月というところで、私はこの目で、彼の裏切りを見た。

「隼人……私のこと、愛してた?」

綾瀬は涙声で隼人に抱きつきながら尋ねた。

隼人はほんの少しのためらいも見せず、しっかりと彼女を抱き返した。

「愛してたよ」

「じゃあ、婚約者の彼女と比べて……どっちを、より愛してるの?」

「……結衣はお前とは違う」

その会話が耳に突き刺さり、頭の中が真っ白になった。怒りと悲しみが心を埋め尽くしていく。

私は――きっと今すぐにでも飛び出して、ふたりを平手で叩き、そのままスカッと背中を向けて出て行くべきだった。

……なのに、私はただ、書斎に隠しておいたサプライズを静かに片付けることしかできなかった。

どれだけ時間が経ったのかもわからない。ソファからベランダへ、そしてついには書斎の前のカーペットにまで場所を移し、扉の取っ手に誰かの手がかかった音がした。

そして、綾瀬は隼人に抱きかかえられて、寝室へと消えていった。

私はそっと書斎のドアを開けた。

散らばった服と酒の缶、破かれたコンドームのパッケージ……そのすべてを踏み越えて、私は隼人の家を後にした。

どうやって家に帰ったのか、記憶は曖昧。

覚えているのは、帰宅後に高熱を出して倒れたことだけだった。

家庭医と母が、ベッドの傍で三日間も付き添ってくれていた。

「結衣……ほんとに、隼人くんと結婚するつもりなの?うちにはもっといい相手がいるのよ。あの子はね、あんたのお父さんもあまり――」

「もう、隼人とは結婚したくない。

日取りはそのままでいい。お父さんの言う通りにして。

相手は誰でもいい。隼人じゃなければ、それでいいの」
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第1話
「隼人……赤ちゃんが欲しいの。私なんか、あなたには釣り合わないってわかってる。でも、他の人と適当に生きていくなんてできないの。だから……せめてこの子だけは、私と一緒にいてくれたら、それでいいの」ぼんやりと意識が戻ったとき、私は隼人の書斎にいた。耳に入ってきたのは、女の甘えた声と、男のかすれた息。半開きのドアの隙間から見えたのは、床に散らばるビールの空き缶、そしてソファで寄り添うふたり。その片方は――私の婚約者、真壁隼人(まかべ はやと)だった。あの光景はまるで時間が止まったかのようで。怒りなのか、衝撃なのか、自分でもわからなかったけど、足はぴくりとも動かなかった。隼人は手にしていたパッケージを破くのをやめ、そのまま低くつぶやいた。「結婚しても……お前には会いに行くよ」「でも、今とは違う……それでも、いいの?これが……最後のお願いなんだ。叶えてくれる?たった一度でいい……思い出として、お互いの心に残しておきたい」女は体を起こして、ぎこちなく唇を重ねる。その目尻からは、未練がましい涙が一筋こぼれていた。その顔を見た瞬間、私はようやく気づいた。――彼女は、綾瀬美優(あやせ みゆ)。隼人の初恋の人だった。頭の中で、何かが崩れ落ちる音が響いた。隼人と大学で出会った頃から、私は知っていた。彼の心には、決して癒えない傷があることを。それは、高校の頃に別れた初恋の彼女、綾瀬。家柄や身分の違いから、卒業と同時に彼女は姿を消した。隼人は深く落ち込み、何も手につかない日々を過ごした。私と出会ったのは、ちょうどそんなときだった。ようやく立ち直りかけた彼の笑顔が、私は嬉しかった。だけど、綾瀬の存在は――ずっと彼の中に残っていたんだ。……誰だって、触れられたくない過去がある。それでも、今愛しているのが「私」なら、それでいいって、思ってたのに。家柄は釣り合っていたし、恋愛も順調だった。父が隼人を好まなかったから、婚約から結婚の準備まで、私は七年かけて歩いてきた。その七年間、隼人は私を大切にしてくれて、「結婚までは」と一線を越えることもなかった。……なのに。結婚式まで残り一ヶ月というところで、私はこの目で、彼の裏切りを見た。「隼人……私のこと、愛してた?」綾瀬は涙声で隼人に抱きつきながら
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第2話
結婚の解消と、両家の提携終了の知らせは同時に隼人の元へと届けられた。でも彼は、それをただの「わがままな冗談」だと思い込んでいた。私はというと、使用人に探してもらった幼少期のアルバムを手にしたまま、無意識に彼からの電話に出てしまった。通話がつながると、耳に飛び込んできたのは風の音と、少女の楽しげな笑い声だった。「結衣、お前がここ数日、体調も気分も悪かったのはわかってるよ。でもさ、こんな冗談で俺を困らせないでくれよ。叔父さんの会社の資金繰りが詰まったとき、うちの援助がなかったら、お前はもう『菊間家のお嬢様』じゃいられなかった。こっちは俺たちの結婚式の準備で忙しいんだ。落ち着いたら会いに行くから」隼人は勝手にそう言って、返事を待つかのように電話を切らずにいた。けれどそのスピーカー越しに、またしても聞こえてきたのは――綾瀬の声。「隼人〜!もう一周いこ!今度こそ勝つんだから!」私に聞かれるのを恐れたのか、隼人は慌てて通話を切った。ツー……ツー……と音だけが残る受話器を見つめながら、私は思わず笑ってしまった。――そんな嘘、三日前なら信じてたかもしれない。でも、今となっては誰が信じるものか。「結婚式の準備で忙しい」なんて言っておいて、実際は美優とバイクレースを楽しんでるくせに。心の中でそんな隼人を笑い飛ばしていたところに、親友からメッセージが届いた。【今夜、年に一度の同窓会があるけど、来る?】隼人と顔を合わせるのが嫌で最初は迷ったけど……よく考えれば、私はなにも悪くない。なんで私があのふたりのせいで逃げるようなことしなきゃいけないの?隼人が来るとも限らないし。そう思って、私は出席を決めた。会がちょうど中盤に差し掛かった頃だった。突然、部屋のドアが勢いよく開いた。隼人がバイクのヘルメットを片手に、堂々と入ってきた。隣には、あの綾瀬の姿。「美優、一緒に盛り上がろうよ」「みなさん初めまして。隼人の高校の同級生、綾瀬美優です〜。たまたまこの大学の同窓会があるって聞いたから、見学しに来ちゃいました〜。どうか気にしないでくださいね〜」綾瀬は黒髪を高い位置でポニーテールにまとめていて、タイトなレザーパンツとショート丈のベストがその抜群のスタイルを際立たせていた。笑顔は明るくて、まるで全世界を
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第3話
綾瀬は、気まずい空気に気づいたのか、ぎこちなく笑いながら私に手を差し出してきた。「こんにちは、あなたが結衣さんね?私、綾瀬美優って言うの。誤解しないでほしいな。隼人が本当のことを言わなかったのは、結衣さんに心配かけたくなかっただけ。私たち、今はただの友達なの」差し出されたその白い手を見た瞬間、私は込み上げる吐き気をどうにもできなかった。あの夜の不快な匂いが、突然鼻腔を突き上げてくる。その手で隼人の背中を撫でながら「赤ちゃんが欲しい」とせがんでいたあの姿が、フラッシュバックのように目の前に蘇った。私が何も返さずにいると、綾瀬は今度はその手で私の腕を取ろうとした。その瞬間――私は思わずその手を払った。「触らないで」手を振り払われた綾瀬はその場で固まり、涙を浮かべた瞳で隼人のほうを見つめた。「結衣!いい加減にそのお嬢様気取りはやめろよ!さすがに、それはやりすぎだろ!」隼人は私が怒り出した理由がわからないまま、怒鳴りながら私の腕を引いて綾瀬に謝らせようとした。けれど私は、そばにあったバッグをそのまま手に取り、彼を振り払った。「触らないで!汚らわしい、気持ち悪い」私はふたりの手元に目を落とし、吐き気を必死にこらえながら、感情のない声で言った。もうこんな場所には一秒たりともいたくなかった。そう思って踵を返し、そのまま出て行こうとしたそのとき――隼人の怒気混じりの声が背中に突き刺さった。「結衣!そこまでやるか?美優に謝らないなら、うちが菊間家に出してる資金も、結婚式の話も、全部無期限で延期するからな!」その脅すような口ぶりに、私は一瞬だけ足を止めた。そんな私をよそに、綾瀬は隼人の胸元に手を当て、穏やかな声で言う。「……隼人、もういいよ。私が修理工場で働いてるから、結衣さんに『汚い』って思われるのも仕方ないし。私のこと、責めないで」私は鼻で笑った。その声音には、完全な軽蔑が込められていた。「――願ったり叶ったり、よ。誰と結婚しようが、勝手にすれば?」隼人は知らなかった。たとえ真壁家の援助なんてなくても、菊間家はびくともしないってことを。資金繰りが厳しいって話も、実は私が父にお願いして、隼人に「恩を売るチャンス」を与えた作り話にすぎなかった。だから、真壁家が支援しよ
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第4話
翌日――綾瀬から突然連絡が来た。どこで私の連絡先を知ったのかは分からない。市内中心のカフェで会いたいと言ってきたので、たまたま近くにあるドレスショップへ行く予定だった私は、そのついでに立ち寄ることにした。カフェに着き、席について彼女を待っていると、スマホに立て続けに通知が届く。送ってきたのは玲奈。彼女の彼氏が撮ったという、昨日のバーでの第三者視点の動画だった。背景を見るに、パーティーが終わった後も残っていた隼人の昔の友人たちが数人、酒を酌み交わしていたらしい。その中で、ひとりが驚いたように声を上げた。「……おまえ、美優と寝たのか?」隼人は手にしたビール缶を弄びながら、小さな声で「うん」と答えた。「でも結衣とは七年付き合って、もうすぐ結婚ってときに、それはないだろ?」「忘れられなかっただけだよ。それに……酔ってたし、別に本気じゃない……目が覚めたときには『ただの友達』に戻るって。大丈夫、結衣にはバレない。仮に知ったとしても、俺が今の彼女にとってベストな選択肢だってことに変わりない。結婚して家族になるのは結衣で、美優とは……まあ、これは結婚前のちょっとしたお遊び。遅れてきたご褒美みたいなもんさ」「……マジで最低だなおまえ」そのあまりの発言に、録画していた人間も耐えきれなかったのか、途中で席を立って映像は途切れた。その後、玲奈からのメッセージも添えられていた。【隼人なんかのために時間使ってるの、ほんと意味ないよ】【考え直して正解だったって心から思う!こんな下半身で動く男に一生縛られたら、何が起きるかわかったもんじゃない】私はその言葉を目で追っている最中だった。ふと、目の前の席がかすかに動いた。顔を上げると、そこには……綾瀬が、にっこりと笑って座っていた。「……結衣さん。お願いがあります。隼人のそばから、離れてください」突然すぎる申し出に、私は思わず口にしていたコーヒーをむせてしまい、思考が一瞬止まった。……なんなのこれ、ドラマの台詞?嘘でしょ。まさか、自分の身にこんなベタな展開が降りかかるなんて思ってもみなかった。「……今、なんて言った?」綾瀬は少しの間黙り込んだあと、昨夜のあの明るく堂々とした態度とは打って変わって、どこか怯えたような、陰のある表情を見せた。「本当は、あなたと
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第5話
私は勢いよく隼人の手を振り払った。そして、そばにあった紙ナプキンを取って、彼に触れられた手首を忌々しげに拭った。「まだ婚約破棄の通知受け取ってないわけ?私の結婚が、あんたと何の関係があるのよ。病気なら病院へ。人の言葉が理解できないなら、学校からやり直してきなさい」隼人は眉をひそめ、明らかに動揺していた。まるで目の前で罵倒している私が、かつて自分に優しく微笑んでいた「結衣」とは信じられないとでも言いたげに。でも私はもう、後ろを振り返らない。手を振り払ったあとは、そのまま早足で店を後にした。結婚式まで時間がない。悠真との婚礼衣装も決めなきゃいけないし、会場の再調整や招待客の試食、やることは山ほどあった。悲しみや裏切りへの思いを抱いている余裕なんて、今の私にはない。一番大切なのは――私自身と、家族の未来。そう思いながら店の出口に向かっていたそのとき、背後から隼人の声が耳に届いた。「彼女、お前に何を言ったんだ?」「結衣さんは……私に、もう隼人に関わらないでって」……は?思わず足が止まった。信じられない思いで振り返ると同時に、私はカウンターにあった給水ポットを手に取った。そのまま、ふたりめがけて――ぶっかけた。完全に虚を突かれたふたりは、水浸しになって呆然。私は少し後ろを振り返って、皮肉たっぷりに言ってやった。「なんか今日は背中に重たいもん背負ってる気がしたけど……まさかの、責任丸かぶり。はっ、やってらんない」そう吐き捨てて、その場を颯爽と立ち去った。ドレスショップでは、ちょうど私の採寸が終わったところ。今度は悠真の番だった。その間、私はアシスタントの案内で、新作ドレスの試着をすることに。――なのに。まさにドレスを合わせている最中、あの水もしたたる残念なカップルが、堂々と店に入ってきた。「なあ、ここに着替えられる服ってあるか?ふたり分、急ぎで――」隼人はそう言いかけて、視線を向けた先にいた私と目が合った。その目に一瞬だけ宿った「驚きと戸惑い」を、彼はすぐに打ち消すように目を逸らした。その口元が動いた。「……まったく、手のつけられないヒステリック女だな」「クソでも食ってろ、目の節穴犬」「えっ?」と、アシスタントがぽかんとする。私はくすっと笑って肩をすくめた
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第6話
私は静かに微笑んだだけで、何も言わなかった。隼人は最初から、私のことなんて本気で見ていなかった。もし、少しでも気にかけてくれていたなら気づけたはずだ。私と悠真が、十五歳まで同じ敷地で育ったことに。その後、私の家は南へ行商に、悠真の家は北で政界に進み、道が分かれた。それだけ。もしそれがなければ――そもそも私は、隼人なんかと出会ってなかった。「……結衣と僕は、小さい頃からずっと一緒だった。だから、結衣と結ばれたことは、人生で一番の幸運だったと思ってる。それに、伯父さんと伯母さんにも――結衣の将来を任せてもらえたこと、本当に感謝してる」その言葉に、隼人は鼻で笑った。「はっ、そんなのありえない!お前が愛してたのは俺だろ!結婚式の準備だって、全部お前が自分でやってたじゃないか!簡単に諦めるなんて、お前らしくない!……病気のときに会いに行かなかったから?それとも、あの席で美優をかばったことがそんなに気に食わなかったのか?俺は、そんなくだらないことで終わらせるようなお前じゃないって信じてた!」隼人は取り乱したように叫び、綾瀬がそっと袖を引いても気づかない。「……隼人、やめてよ。みんな見てるんだから……あとで落ち着いてから、結衣さんとふたりで話せば……結衣さんなら、きっとわかってくれるって……」でも、隼人は必死に記憶をたどっていた。最近、何かおかしかっただろうか?何か兆しは?……思い返しても、思い当たる節がない。それもそのはず。彼はただ、表面だけを見て、私の心を一度も覗こうとしなかった。――確かに、私はかつて、隼人を愛していたのかもしれない。私たちの関係は、穏やかで衝突も少なく、彼は気配りもできて、良い恋人だった。恋から結婚へと続く道は長かったけれど、大きなドラマもなかった。だからこそ、私は彼の心の痛みに無理に触れることもせず、ただそっと寄り添ってきた。だけど。……それは「愛されている」とは違ったんだ。結婚のことで、私は何度、父とぶつかってきただろう。ただでさえ親の反対を押し切ってのことだったのに、それでも私は隼人と一緒にいたくて、何度も何度も言い返した。知らない誰かと新しく感情を築くのが怖かった。半端な人生をもう一度やり直す勇気なんて、なかったから。だからず
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第7話
隼人は、私がここまで冷たくなるとは思っていなかったのだろう。急いで言葉を重ねようとしていたその表情が、ぴたりと凍りついた。目には、どこか懇願にも似た光が揺れていた。「……結衣」その呼び方――まるで、ふたりが付き合い始めた頃みたいだった。あの頃、彼が綾瀬のことを思い出して落ち込んでいたとき、私はいつも隣で慰めていた。校庭の芝生に並んで座って、私は一生懸命彼を笑わせようとしていた。そして彼は、こう言ったんだ。「……結衣、君に出会えて、本当によかった」私は時計に目を落とし、ため息をひとつついた。「……隼人、もう終わりよ。あなたにチャンスは残ってない。どうしても綾瀬を忘れられないなら、それでいいじゃない。彼女と幸せになればいいのよ。もう、私の前に現れないで。初恋の人が戻ってきて、心の空白が埋まった。そこまで深く愛してない婚約者が、自分から去ってくれた。それってあなたにとって最高の結末でしょ?なのに、どうして私が『裏切った側』みたいな顔をされなきゃいけないの?お互い、大人としてきれいに終わりにしましょう。社交の場でまた顔を合わせることもあるんだから、みっともない真似はやめて」私は一度、彼を上から下まで見て、くるりと背を向けて車に戻った。隼人は、綾瀬と上手くいかなかったことに後悔してる。けれど、彼は綾瀬の出自を心の底では見下していた。そして私の愛と献身には、あぐらをかいていた。どうせ、私は離れないと思っていたのだろう。――でも、本当に私が離れて初めて、彼は気づいた。それが、手遅れという形で。彼はようやく、自分の姿を見つめ直したのかもしれない。三日三晩の張り込みのせいで、仕立てのいいスーツは皺だらけ。顔には無精ひげ、髪も乱れて、かつての「エリート・真壁隼人」の面影はどこにもなかった。今の彼を路地裏に放り出せば、ただの仕事を失った中年男にしか見えない。そう思っているうちに、運転手がアクセルを踏み、隼人をバックミラーの中へと置き去りにした。――あれから、私はもう隼人と会うことはなかった。ただ、父から時々耳にしたのは、真壁家がまるで必死になっているかのように、次から次へと私たちの会社に案件を持ってくるという話。でも、私たち菊間家にとって、彼らの援助なんて必要ない。私たちは
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第8話
翌日、玲奈から密かに送られてきたのは、真壁家の「家の恥」が外に漏れたというニュースのスクリーンショットだった。綾瀬はどこからか真壁夫人の連絡先を手に入れ、市内のカフェで密会を持ちかけたらしい。事前に記者を雇い、「真壁家の孫を路頭に迷わせるはずがない」という母性に賭けて、うまく話がまとまれば、すぐにでも「真壁家との婚約」をニュースとして世間に流すつもりだったようだ。……が、甘かった。真壁夫人は、そんな程度の手には乗らない。彼女は、テーブルに置かれた妊娠検査の報告書に目もくれず、そのまま無造作にゴミ箱へと投げ捨てた。「綾瀬美優、うちから金を受け取って姿を消した時点で、あんたの役目は終わってる。どこの誰かもわからない腹の子なんかで、私が『孫』だと認めるとでも?笑わせないで。うちの子ももう二十八。お遊びくらい見逃してやるけど、だからってうちの門をくぐれると思った?本気でそう思ってるなら、まず七年前に渡した二千万円、耳揃えて返しなさい。それから話を聞いてあげてもいい。それができないなら、さっさとその妄想も一緒にゴミ箱に捨ててきなさい」その言葉に、綾瀬は顔を引きつらせながらも、必死に食い下がった。「奥様、本当に私のお腹の子は息子さんの子なんです。どうしても信じられないなら、息子さん本人に訊いてください、あるいは結衣さんにだって……!それに……今日のこのやり取り、記者が撮ってます。もし真壁家の名声を守りたいなら――」その言葉が終わる前に。パチン――!真壁夫人の平手打ちが、綾瀬の頬に鋭く走った。「……つまり、あんたのせいで、うちの子と結衣の婚約が潰れたってことね?」綾瀬は、何が起きたのか理解できず、呆然とした顔でその場に立ち尽くした。――でも、私たち業界の人間なら、誰もが知っている。真壁家の当主が若い頃、かなりの遊び人だったこと。そしてそのせいで、真壁夫人が妊娠中に何人もの「関係者」が押しかけてきた過去があること。それ以来、真壁家の当主もさすがに改心して、多少は真面目になったらしい。その結果、真壁夫人は「愛人」と「脅し」がこの世で一番嫌いなのだ。綾瀬は、その地雷を思いきり踏み抜いたのだった。真壁夫人は、鋭い視線で周囲を一瞥しただけで、ボディガードたちがすぐに動いた。近くに潜んでいた記者、
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第9話
玲奈が飛びつくようにして私を抱きしめてきた。「はいはいはいっ!うちの結衣は、もう素敵なお婿さんを見つけたんだから、あの男の話なんてもう二度としない!」そんな彼女の一言で、心にかかっていたもやもやがすっかり晴れた気がした。そしてその晩、私は久しぶりに深く、ぐっすりと眠れた。翌日の結婚式は、驚くほど完璧だった。すべての儀式を終えたあと、悠真は私をそのまま優しく抱き上げ、まるで壊れものを扱うようにそっと胸元へ抱き寄せた。ふたりの距離が近づくと、彼が吐く息の中に混じったほのかなアルコールの香りに、私まで少しだけ酔いが回る。「……結衣、愛してるよ。君を娶れることが、この人生でいちばんの幸運なんだ……それは、お世辞なんかじゃない。厳しい家庭で育ってきた僕にとって、君は唯一の、あたたかな光だった。正直、人生の中で君ともう一度巡り会えるなんて思ってなかった。でも――こうしてまた、君と結ばれることができて、本当に……よかった。……もしかしたら今の君は、僕との結婚を『ビジネス』だと割り切ってるかもしれない。でも、もし君がそばにいてくれるなら……一年でも、二年でも、十年でも、僕は待つよ。君が心を開いてくれるその日まで、ずっと……」その静かでまっすぐな告白に、私は胸がぎゅっとなって、思わず目を逸らした。いつの間にか、部屋の空気がほんのり熱を帯び始めていた。悠真の大きな手が私の腰にそっと触れた瞬間、ぞくりと身体が反応する。……きっと、今夜は眠れない夜になる。三日後――私はハネムーンへ向かう飛行機に乗り、その機内でようやく、結婚二日目のニュースを目にした。主要な見出しには「菊間家と朝霧家の政略結婚」の記事。けれど、ひっそりとページの片隅に、別の見出しがあった。隼人が、結婚式のために仕立てたオーダースーツ姿で暴走運転をしていたところ、パパラッチに追突され、多重事故を引き起こした……と。その記事によると、隼人は事故で右足の筋肉と骨が深刻に損傷し、断脚手術の可能性もあるという。さらに、真壁家ではその事態を受けて、長年外に隠していた隠し子を家に迎え入れ、新たな後継者として育てる方針を固めたらしい。「能力のない者には、家は任せられない」そう判断したのだろう。私はそのニュースを記した機内誌を閉じ、視線
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