All Chapters of 長く思い、長く恋う: Chapter 1 - Chapter 9

「佐倉（さくら）さん、もし今のうちに骨髄移植のための医療費――一百万円を用意できなければ、余命はせいぜい二週間です」私は黙って、医者に渡された余命宣告のカルテを見つめていた。そして婦人科で、十年ぶりに元夫――今やフォーブスランキング一位の社長一ノ瀬奏真（いちのせ そうま）と再会した。彼は高城知花（たかぎ ちか）の腕を優しく支え、手には妊娠のエコー写真を持っていた。私を見た瞬間、彼の目は明らかに驚きに見開かれ、すぐに嫌悪の色が浮かんだ。「なんでお前がここにいる？」十年経っても、その顔立ちはあまり変わっていなかった。ただ、その身からにじみ出る気品が増していた。「どうした？十年ぶりなのに、言葉も出ないのか？」私は余命宣告のカルテをそっと隠しながら、彼を見つめて言った。「まさかこんな偶然があるなんて。今や数千億の資産を持つ社長様になったあなた、四百万ほど貸してくれない？」奏真は嫌悪の眼差しで私を見つめた。「佐倉澪（さくら みお）、お前は相変わらずだな。腐りきってる」知花は奏真の腕に寄り添いながら、私を見て哀れむように言った。「あなたって、奏真が白血病になったときに捨てていった元妻よね？」「たった四百万？それじゃ私のイヤリング一つ買えないわ」奏真は知花を優しく抱きしめながら囁いた。「君に出会えてよかった。子どもも授かって……」私は笑いながら、こぼれそうな涙を懸命に隠した。もう二人の幸せそうな姿なんて、見ていたくなかった。くるりと背を向けようとしたその時――奏真が私の腕を掴んできて、一歩も動けなくされた。「お前、俺に言いたいことはないのか？」治療したばかりの腕の点滴痕がズキズキと痛み、冷や汗が滲む。思わず、私は彼の手から逃れようとした。彼は突然手を離し、私はその場に崩れ落ち、額を強く打って血が滲んだ。その瞬間、知花は驚いて手を引っ込めた拍子に、手首からブレスレットが滑り落ちた。同時にカルテも床に落ちたが、彼が拾うより先に、私は素早く手を伸ばしてそれを掴んだ。顔についた血を拭いながら呟く。「一ノ瀬社長に突き飛ばされて転んだんですから、もう二百万円請求してもおかしくないですよね？」奏真は怒りに満ちた視線で私を睨み、顔にキャッシュカードを叩きつけてきた。「十年経っても、金のためなら手段を選ばないんだな

私は止まらない鼻血をティッシュでぬぐいながら、力なく呟いた。「ちょっと……体調が悪くて……」奏真の声は、相変わらず嫌悪に満ちていた。「佐倉澪、また金のために嘘をついてるのか？」「お前の口座に一百万円入ってる。今すぐ届けろ」私は少し間を置いて、笑って返信した。「へえ、さすが……気づくの早いわね。すぐに伺います」窓の外は激しい雨が降っていた。私は傘もなく、ずぶ濡れになりながら長い距離を歩いてやっとタクシーを拾った。でもマンションの下に着いてから、ずっと知花に電話しても出ない。仕方なく奏真にかけ直した。「今は寝てる。起きたら薬を渡して。無理なら、そのままずっと待っていればいい」雨が止むまで延々と待たされた。ようやく知花が現れ、冷笑を浮かべながら言った。「ごめんなさいね、寝ちゃってたわ。薬はもういらないから。奏真はね、私がちょっとでも苦しむのを見るのが嫌なの。いつも私と赤ちゃんにべったりよ。だから、あなたは早く帰って。ここにいるだけで目障りなんだから」彼女は満足げにドアを閉めた。私はその薬をゴミ箱に投げ捨て、帰る途中で倒れた。気づいたときには、すでに二日間も昏睡状態だった。医者は私に告げた。感染がかなり進行しており、余命は七日もないと。スマホを開くと、着信は五十件以上。「どうした？また他の金持ちにでも逃げたか？」「今すぐこの場所に来い」医者には、もう退院してはいけないと忠告された。でも私は点滴を自分で引き抜いて、病院を後にした。体の痛みで、歩くのもやっとだった。一歩ごとに倒れそうになりながら、ようやくたどり着いた先で、奏真が私に言った最初の言葉は――「ライト板を持って、俺たちのウェディング撮影に協力しろ」私は灼熱の太陽の下に立ち、幻覚のように美しい景色の中にいた。昔の彼も、スーツ姿でこんな風に私を見ていたっけ。十二歳のとき、奨学金でキャンディーを買ってくれた。十六歳、地下の闘技場で命がけの試合をして、誕生日のネックレスをプレゼントしてくれた。十八歳、彼がくれたバラの花は、今も私のクリスタルケースに大切に保管してある。二十二歳、スーツを着て、照れくさそうに「一生そばにいる」と言ってくれた。ほらね。人は死ぬ前に、走馬灯を見ると言う。私は違うシーンに切り替えよう

奏真は雷に打たれたようにその場に立ち尽くし、手にしていた指輪が床に落ちた。「……死んだ？そんなはずない！」「嘘だ！」看護師は冷静に、一枚の死亡診断書を差し出した。「佐倉様はご病気により、三日前に息を引き取られました」奏真の体が硬直し、まるで魂が抜けたように、かすれた声で呟いた。「どうして……澪が……彼女は、俺の幸せをまだ見てないんだ」知花は焦り、彼の腕を掴んだ。「奏真、縁起のいい時間が過ぎちゃうわ。式を先に挙げましょうよ。澪がこんな日に亡くなったなんて、きっとあなたを困らせたくて、わざと知らせてきたのよ」彼女は奏真の手を握り続けた。だが彼はその手を振りほどき、ほとんど懇願するような声で尋ねた。「彼女の遺体は、今どこにある？」看護師は時計を見て答えた。「火葬まで、あと二時間ほどです」その場にいた誰もが状況を理解できず、ただ驚いた顔で奏真を見ていた。彼は突然正気を失ったかのようにランボルギーニに飛び乗り、火葬場へと猛スピードで向かった。胸が裂けそうなほどの苦しみに襲われ、佐倉澪の死を受け入れることができなかった。彼はふらつきながら、火葬場へと辿り着いた。彼はブラックカードを叩きつけるように差し出し、声を枯らして叫んだ。「誰であろうと――佐倉澪の遺体には、一指たりとも触れさせるな！」その迫力に、職員たちは息を呑み、ただ奏真を遺体安置室へと案内するしかなかった。納棺師の手で丁寧に整えられた澪の姿は、生きていたころとほとんど変わらなかった。奏真は震える指先で彼女の頬をなぞり、嗚咽交じりに呟いた。「澪……金が欲しいだけだったんだろ？もういい、嘘はやめて……目を覚ましてくれ。全部渡す、いくらでも払うか……」火葬場の職員は、魂の抜けたような一ノ瀬奏真の姿を見て、そっと声をかけた。「一ノ瀬様……佐倉様はもう旅立たれました。どうか、ご自愛ください――」奏真は、火葬場の職員たちをすべて追い出した。彼は誰一人として佐倉澪に近づくことを許さなかった。誰にも、彼女を連れ去らせはしない――彼は澪の遺体を自宅の別荘に運び、クリスタルの棺に安置した。そして、葬儀社のスタッフが彼女の遺品を持ってきた。小さな箱に収まるほど、彼女の持ち物は少なかった。葬儀社のスタッフは語った。「彼女は半地下のアパートに住んでおられ

病院は、三日間連続でネット上の誹謗中傷にさらされた末、ついに声明を発表するに至った。「ネット上の一部の噂が、当院の運営に支障をきたしており、事実に基づき、以下の通りご説明させていただきます」「佐倉さんの死因は、骨髄感染によるものです。彼女は移植を必要としていましたが、適合するドナーが見つからず、感染が悪化しました。そもそもその感染は、かつて彼女は一ノ瀬さんに骨髄を提供しましたが、術後処置が不十分だったことによるものでした。結婚祝いとして贈られた彼女の最後の贈り物も、ただ祝福の気持ちからでした」「彼女は亡くなる直前まで、真実を公にしないでほしいと私に何度も頼みました。ですが、死後なお名誉を傷つけられ、安らかに眠れない現状に、私が沈黙を保つわけにはいきません。彼女が一ノ瀬氏から受け取ったお金はすべて慈善団体へ寄付されています。虚偽の情報を広めた方々は、故人に対して謝罪すべきです」奏真はそのニュースを見た瞬間、胸が鋭く裂かれるような痛みに襲われた。全身に広がるその痛みは、四肢の隅々まで染み渡り、涙で視界が滲んでいく。愛した妻――彼女は、自分の手によって死に追いやられてしまったのだ。今、自分は彼女の「世界に残された最後の遺品」にすぎない。声明が公開されると、世間は騒然となった。そこに記されていた寄付の日付は一ノ瀬奏真との離婚協議書の日付と、まったく同じだった。細かい経緯が明らかになるにつれ、真相も徐々に浮かび上がってきた。実は、ウェディングフォトの撮影現場で澪が地面に落ちたお金を拾う姿を撮影し、それをネットに流したのは高城知花だったのだ。さらに彼女は多くのネット工作員を雇い、意図的に世論を操作していた。彼女は澪のアパートにまで行き、壁にペンキを塗って嫌がらせを行い、住めなくさせた。そして彼女の知人が録音した通話記録も流出した。それは、澪に関する通話だった。「重い病気のあの人が、どうして私と張り合えるの？彼女の情報、全部調べさせたの。もうすぐ死ぬってさ。ま、あのとき澪が自分から身を引いてくれて助かった。おかげで私は奏真を手に入れられたんだから。私は最初から知ってた。奏真が一ノ瀬家の行方不明だった一人息子だったってことを。彼を見つければ、莫大な報酬がもらえるってね。でも、そんな一度きりの報酬なんてどうでもいい。

彼女は命までも捧げた。けれど、待っていたのはあまりにも残酷な結末だった。一ノ瀬奏真の会社の株は急落し、彼が契約していたすべての広告も打ち切られた。SNSは罵詈雑言で埋め尽くされた。しかし彼は全く気にせず、全株を底値で売却し、会社を閉鎖。手元に残った四億円でキャンピングカーを購入し、佐倉澪の遺体を安置した冷蔵棺を載せた。あんなに綺麗な彼女が、暗闇を誰よりも怖がっていた。墓の中になど、どうして閉じ込められるだろうか。かつては、彼女が授業を終えると、仕事が終わると、必ず迎えに行った。夜には一緒に料理をし、彼女は必ず最初の一口を奏真に差し出した。小さな賃貸アパートから始まり、少しずつ広い部屋へと引っ越していった。そして、自分たちの会社を持ち、初めての大金を手に入れた日。彼は自らの手で、彼女の指にピジョンブラッドのルビーの指輪をはめた。彼女をそっと抱き寄せながら、優しく囁いた。「これからの人生、ずっと君を幸せにする」だが、運命は残酷だった。彼の先天性白血病が発症したその日から、全ての幸福が止まった。彼は、かつて太陽のように明るかった彼女が、日に日にやつれていく姿を、ただ見つめるしかなかった。彼女は彼のために、会社さえも手放した。けれど、輸入薬や莫大な手術費を前にしては、それも焼け石に水だった。彼女はお金を工面するために、皿洗いや宅配のアルバイトまでした。どんなに疲れていても、食事は欠かさずに運んできてくれた。その体は、まるで骨と皮だけのように痩せ細っていた。そしてついには、彼に骨髄を提供した。医者は言った――「佐倉さんは本当に強い方です。骨髄の提供は、麻酔なしで行われるものですが」彼女は、何よりも痛みに弱い方だったのに。奏真の胸は、まるで刃物で切り裂かれるような痛みに襲われ、涙は止めどなく溢れた。二人の夢は、いつかお金に余裕ができたら、小さな民宿を開くことだった。旅人たちの話に耳を傾けて、世界の美しさを感じながら暮らす。奏真は澪を連れて、北の砂漠、北極のオーロラ、星空が海に映る場所、そして満開の花火が上がる空へと旅をした。告白をした、あの夜のように。最後にたどり着いたのは、チューリップが一面に咲く場所だった。そこからは、美しい日の出が見えた。まるで海のように。