All Chapters of 縁が終わっても、これからの人生はきっと花咲く: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

翌日、龍生は早くから起き上がり、自らエプロンを結んで魚をさばき始めた。 その魚はわざわざ飛行機で空輸させたもので、まだ湿った潮の匂いを漂わせていた。 彼はどこか上の空で鱗を落としていたが、頭の中に浮かぶのは昨夜の千夏の瞳ばかりだった。 かつては潤んで輝いていたその瞳が、まるで枯れた池のように静まり返り、何の感情も映していなかった。 「チッ――」 注意が逸れたせいで、包丁が指先を切り裂いた。 龍生は眉をひそめ、立ち止まったまま、まるで何かを待つかのように動かなかった。 料理をすることなど滅多になかったが、千夏が妊活の真っ只中だった頃、彼女は心身共に疲弊しきり、立つことさえ難しかった。 そのときも彼は胎芽の結果に気を取られ、料理をする時、同じように指を切ってしまったのだ。 だが痛みよりも先に感じたのは、千夏の温もりある指先だった。 ピンク色の絆創膏を当てながら、彼女は少し呆れ、少し甘えるような声で言った。 「どうしてそんなに不注意なの?」 龍生が顔を伏せると、青白い顔色がかえって千夏の唇を一層やわらかく艶っぽく見せ、耐えきれずに彼は口づけを奪ったのだった。 血がまな板に落ち、鋭い痛みに現実へと引き戻される。 冷えきった家に、もう千夏の姿はどこにもない。 胸の締めつけは強くなる一方で、今すぐにでも会いたい衝動に駆られる。 だが、魚のスープはまだ出来上がっていなかった。 そのとき突然、スマートフォンが光を放ち、龍生の心臓は大きく跳ねた。 期待が一気に広がり、思わず笑みがこぼれる。 「やっぱり千夏は、俺のことを愛してるんだ……」 そう呟きながら画面を開くと、そこにあった名前は千夏ではなく愛莉だった。 【龍生、ちょっと出血してるみたいで……病院に付き添ってくれませんか?】 彼が千夏へ送ったメッセージは、相変わらず既読さえつかないままだった。 龍生の笑みは凍りつき、胸の奥に苦さが広がっていく。 彼は思わず、台所の写真を撮って千夏に送った。 だが、そのメッセージはいつまでたっても既読にはならない、千夏に、ブロックされたかもしれない! 龍生の心は一気に崩れ去り、慌てて病院へと駆けつけた。 かつて千夏が横たわっていた病室は、今はすっかり空になっていて、見知らぬ夫婦が寄り添いな
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第12話

龍生は思わず彼女を支えたが、次の瞬間、感電したかのように彼女を突き飛ばした。愛莉は押されて一瞬固まった。「龍生……どうしたの?」「こんな姿を千夏に見られたら、また怒られてしまう」彼は小声で呟いた。「千夏はきっと俺に腹を立てて、家出したんだ」「家出」という言葉を聞いて、愛莉の目に一筋の興奮が走った。あの邪魔な女はついに出て行った。自分が夢見ていた橋本夫人の座が目前に迫っている。龍生が立ち去ろうとするのを見て、愛莉は慌てて追いかけ、彼を引き止めた。「龍生!」引き止められた龍生は初めて目の前の女性をじっくりと観察した。彼女の顔色は良く、数歩駆け足で走るほどの体力もある。あの息づかいさえも作り物で偽物に見えた。自分が見た青白く痩せこけた千夏と比べれば、この上なく健康そのものだった。愛莉は彼の視線に怯えながらも、笑顔を作って近づいていった。「龍生、この間はお世話になって本当にありがとう。あなたがいなかったら、私のようなシングルマザーはどうしたらいいか分からなかったわ」龍生は突然千夏のことを思い出した。自分がいない間、彼女はどうやって過ごしていたのだろう?彼が拒否しないのを見て、愛莉は自分の柔らかい胸を龍生の腕に擦り付けた。「あなたにどうお礼をしたらいいか分からないわ……」彼女は潤んだ目で、情熱的に龍生を見つめた。「上野さんって本当にわがままね。こんな風にあなたを置いて出て行くなんて。でも、家には女主人が必要でしょう?もしあなたが必要なら、私が……」「出て行け!」龍生は冷たく言い放ち、イライラと腕を引き抜いた。自分はなぜ前にこんなに偽善的な女だと気づかなかったのだろう?愛莉は初めて彼のこんな姿を見て、驚いて涙をこぼした。今度は本物の涙だったが、龍生は振り返りもせずに立ち去った。彼は千夏に会いたくてたまらなかった。自分が本当に間違っていたことを伝えたかった。もう一度やり直せるなら、千夏と子供をきちんと大切にすると。しかし龍生はあらゆる人に尋ねても、皆から「知らない」という返事しか得られなかった。彼には理解できなかった。なぜ千夏はこんなに冷酷で、やり直すチャンスさえ与えてくれないのか。彼は無力な子供のように地面に崩れ落ち、頭を抱えて泣いた。今回、彼は完全に崩壊した
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第13話

龍生は千夏を探し続けることを諦めなかった。彼は秘書を会社の業務から外し、専属で千夏を探す手伝いをさせるほどだった。日々が過ぎていき、龍生の心は日に日に苦しみに苛まれていった。絶望寸前だったその時、秘書から朗報が届いた。春菜の別の電話番号が見つかったのだ。龍生は緊張しながらその番号に電話をかけた。短い呼び出し音の後、相手が出た。「龍生、何の用?」春菜の声は小さく、何かを邪魔しないようにしているようだった。龍生は自分の番号だと分かっていながらも電話に出てくれたことに少し興奮して尋ねた。「千夏を探してるんだ。彼女がどこにいるか知ってるだろう?電話を彼女に代わってくれ、話したいことがあるんだ……」「はぁ、橋本社長はまだ現実が見えてないの?あなたはもう振られたのよ」春菜の声は極めて冷たかった。「あなたの電話に出たのは、もう千夏に関わらないでほしいと伝えるためよ」春菜と壁一枚隔てた部屋で、千夏はぐっすりと眠っていた。これは彼女にとって久しぶりの安らかな時間だった。龍生の胸の内には怒りがこみ上げていた。彼は千夏のことを考えすぎて、もう狂いそうだった。「何が関わるなだ!彼女は俺の妻だぞ!」この言葉は同様に春菜の心に火をつけた。彼女は幼い頃から甘やかされて育った。千夏のことで、彼女は初めてこんなに悔しい思いをしていた。「龍生、あなた本当に男として失格よ。今は事業が成功して、毎日忙しいとか時間がないとか言い訳ばかり。でも覚えてる?あなたが何も持っていなかった時、誰があなたの側にいたか。あなたを支えるために自分の学業やキャリアを諦めて、あなたの会社のために接待で酔いつぶれるまで飲んで契約を取ってきたのは。その人は愛莉なの?」彼女は爆竹のように言葉を次々と吐き出した。「千夏が他の人と一緒になっていたら、とっくに子どもにも恵まれてたわ。全部あなたのせいで、彼女はあんなに苦しい思いをして検査を受けて、体外受精をして、私の腕よりも長い針を体に刺されて。あの時、永遠に彼女を大切にするって言ったよね。今はどう?あなたのアシスタントが未婚で妊娠したって非難されるのが心配なの?千夏が一人で産婦人科に行った時、近所の人たちが陰で彼女を売春婦だとか、誰のが父親か分からない子どもを妊娠したとか噂してたの知っ
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第14話

龍生は心の高ぶりを必死に抑えながら、部屋のドアの前に立った。彼はもうすべてが終わったと思っていた。中島家の絶大な権力をもってすれば、千夏を隠してしまうなど朝飯前のことだった。そして千夏が自分がまた春菜を脅そうとしていたことを知れば、きっと自分にがっかりするだろう。「千夏……ただいま」龍生はドアに向かって小さな声で言った。ドアを開ける勇気が出なかった。これがただの夢ではないかと恐れていた。ドアがきぃと音を立てて開いた。龍生は驚きと喜びでドアの外を見た。「千夏、君がこんな冷たく俺を置いていくはずないって分かってたよ」彼の言葉が終わらないうちに、愛莉の姿が見えた。「なぜ俺の家にいる?」龍生の顔色は鉄のように青ざめ、彼女の皮を剥いで筋を抜きたいほどの怒りだった。彼は急いで部屋の中を見回し、千夏の姿がないことを確認した。愛莉は彼の様子に気づかず、ますます甘く微笑んだ。「上野さんがいないから、家はきっと寂しいだろうって思って。龍生はお仕事が忙しいし、家に気配りができる人がいないといけないじゃない。ちょうど時間があったから、家の掃除を手伝おうと思って……」彼女の賢淑な妻のような態度を見て、龍生は吐き気を覚えた。愛莉はまだ空気を読めず、口を開いた。「テーブルに龍生の好きな料理を作ったわ。味見してみる?」龍生の視線は彼女の身体に落ちた。彼女は以前千夏のものだった小さなウサギのエプロンを着て、テーブルには千夏専用のウサギのお茶碗が置かれていた。彼の心臓が痛んだ。あの茶碗は付き合って三周年の記念日に自分がプレゼントしたものだった。当時の龍生は起業したばかりで、仕事もうまくいっておらず、従業員に給料を払うのも大変な時期だった。高価なプレゼントは買えなかったが、千夏に何も贈らないわけにはいかなかった。会社の女性社員の勧めで、龍生は手作りのギフトを選んだ。二人で陶芸工房へ行った。千夏はあまり器用ではなく、顔中が泥だらけになった。彼女は少し恥ずかしそうに舌を出し、その可愛らしい仕草が龍生の心を虜にした。「龍生、手伝って」龍生は深い眼差しで見つめた。「何と交換してくれる?」結局、その茶碗は龍生が作ったもので、千夏がうさぎ年生まれだったので、ウサギの茶碗にした。家に帰る
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第15話

「オオカミ少年の話は、何度も繰り返せば意味がなくなるんだ」龍生は冷ややかな目で、床にうずくまっている女を見下ろした。 「病気になったら医者に行け。俺は病気なんて治せない」愛莉は痛みに耐えられず、立ち上がることさえできずにうめき声を漏らしていた。 「痛い……助けて……」だが龍生は傍らに立ったまま、助ける素振りすら見せない。 こんなの、千夏が味わった苦しみの何万分の一にもならない。 「愛莉。お前はクビだ。これからはできるだけ遠くへ消えろ!」愛莉は雷に打たれたような衝撃を受けた。 なぜ千夏が去ったあと、龍生の視線も愛情も二度と自分には向けられなくなったのかを理解できなかった。 けれどそれ以上に恐怖だったのは、この仕事を失うことだった。 仕事のない未婚の母親に、子どもを養うことなんてできるのだろうか。 愛莉の目が赤く染まり、彼女は声を震わせて懇願した。 「龍生……私、お腹に子どもがいるの。本当に困っているの……どうか、助けてください……」しかし龍生はもう、何を言われても心に響かなかった。 家の扉を開け、背を向けた。 「俺が帰ってくる時、ここにお前がいないことを願う」彼はもう、愛莉の言葉を正面から受け止められなかった。 その一言一言が、千夏をどう扱ったかを突き付けてくるからだ。 ひとりで健診に通った千夏。 つわりに苦しみながら、独りで結婚式の準備を整えた千夏。 龍生の胸は千本の針を飲み込んだように悔恨で満たされた。 彼は力尽きるようにその場に倒れ、かすれ声で千夏の名を繰り返した。 ……A国。 千夏はヨーロッパ風の古い家の玄関前で、少し緊張した面持ちで立っていた。 「そんなに深呼吸したって仕方ないでしょ。もうすぐ日が暮れるよ」 春菜はくすくす笑いながら、千夏の背を軽く押した。 千夏は手に持つ贈り物袋をぎゅっと握り締めた。 「喜んでくれるかな……私、両親と一緒に過ごしたことってないから……」千夏は孤児院で育った。そこは決して楽な場所ではなかった。 食べ物も飲み物も取り合いで、痩せ細った彼女は人混みにすら入れなかった。 空腹に耐えるのが当たり前になり、ある日、飢えに負けて壁を乗り越え、ゴミ箱を漁ろうとした。 その時、彼女は初めて龍生に出会った。
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第16話

龍生はいくら頭を絞っても、千夏の行方を掴むことはできなかった。 だが、その胸の奥で募る千夏への想いは日ごとに強くなるばかりだった。 「橋本社長……中島家の勢力が強すぎて、どうしても調べがつきません……」 秘書はおどおどと声を洩らした。 「お前ら、全員役立たずか!」 龍生は机の上の物を乱暴に薙ぎ払い、床に叩きつけた。「千夏は生きてる人間だぞ!どうして霧みたいに消えるんだ!」 電話を切ると、そのまま机に突っ伏し、力なく身を投げ出した。 部屋の隅には、すでに山のように酒瓶が積み重なっていた。 千夏に再び会えるのは、夢の中だけだった。 ある時は大学時代の千夏。小鹿のような瞳に、愛おしげなきらめきを宿していた。 ある時は社会人になりたての千夏。会社を立ち上げる龍生を支えるため、いつも疲れ果てた眼差し。 そして最近は、夢の中で彼女は妊娠中の姿になっていた。 冷ややかな眼差しは静かで、波ひとつ立たぬ湖のよう。 そこには愛も憎しみもなく、ただ赤の他人を見るかのような視線だけがあった。 「酒を持ってこい」 龍生は夢の中で酔いつづけ、千夏と共にいられることだけを願っていた。 そんな彼に、秘書からのチャット通知が届いた。そこには辞表が貼りつけられていた。 送った自分のメッセージは赤い感嘆符に変わっている。 彼はもう長い間、会社に顔を出していなかった。人が辞め、また辞めていった。 だが龍生にとってはどうでもよかった。千夏がいなければ、すべてに意味がない。 ふらつきながらも身を起こし、無理やりスーツを羽織ると、タクシーに乗ってバーへ向かった。 案内された個室に入ると、その向こうから愛莉の声が聞こえてきた。 「もちろんわざとよ。あの写真はわざと間違えて渡したの。病院で転んだのもわざと」 少し酒に酔った愛莉の得意げな声が響いた。「わざとじゃなきゃ、どうやって彼と千夏をケンカさせて、私の味方につけられるの?」 隣の友人が不安そうに訊ねる。 「でも、今は追い出されちゃったんでしょ?」 「大丈夫。この子さえ堕ろせばいいの」 愛莉は声をひそめて、しかし残酷な響きを滲ませた。「そうすれば龍生はきっと私に同情して、元に戻ってくれる。この子がいなくなったら、今度は私が龍生の子供を産めばいい
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第17話

警察が駆けつけた時、愛莉の顔はすでに腫れ上がり、元の顔が分からないほどだった。 彼女のお腹の子も結局助からなかった。 龍生も警察に連れて行かれ、事情を聞かれることになった。友人が駆けつけ、助け船を出そうとする。 柵の向こうで、龍生は椅子に崩れるように座り込んでいた。 警察に手錠を掛けられても抵抗せず、すべての質問にただ機械的に答えるだけ。 幸いなことに、愛莉は金銭で示談に応じる意思を示していた。 「俺は同意しない」 龍生は冷たく言い放った。机に繋がれているのがまるで自分ではないかのように。 彼が金に困っていないことを知っている友人は、こんなに即座に拒絶されるとは思わず、慌てて柵を掴んだ。 「龍生、お前にはまだ未来がある!なんでわざわざ牢に入ろうとするんだ……」 「もうない……」 龍生の視線がようやく彼に向き、絶望をにじませて口を開いた。 「すべてもうなくなった。千夏がいなくなって……俺が生きてても意味なんてない」 その言葉に、友人はようやく彼の本心を悟り、信じられないものを見るような目をした。 「どうせ俺はもう終わりだ。それなら放り出してもいいじゃないか。あの女にもふさわしい代償を払わせるべきだ」 龍生が完全に腹をくくったのを悟り、友人は深いため息を漏らした。 「……龍生、正直言うとお前が立ち直れると思って黙ってたんだ。千夏の居場所を見つけたんだ」 灰色に沈んでいた龍生の目に、一瞬で光が宿った。震える指先で、それが幻ではないと確かめようとする。 友人がスマホを差し出す。 画面に映っていたのは、昼も夜も想い続けてきた女――千夏だった。 千夏は庭で花枝を静かに剪定しており、その優しい横顔にピンクの薔薇が映えて、唇が鮮やかに紅を帯びていた。 龍生は興奮して立ち上がり、今すぐにでも画面の中へ飛び込んで抱きしめたい衝動に駆られた。 警官に怒鳴られて、ようやく冷静さを取り戻す。 その後の手続きは驚くほど順調に進んだ。龍生は愛莉が出した条件をすべて受け入れ、夜になる頃には警察署を後にすることができた。 「ありがとな」 肩をポンと叩いた友人が言う。 「なに言ってんだ、ダチの間で感謝なんていらねぇよ。大事なのは、もう自分の過ちに気づいたなら、まずは千夏さんに謝ることだ。調べてみ
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第18話

隣人の名前は宮崎哲也(みやざき てつや)だった。 千夏はどうして彼が母国の名前を持っているのか、不思議に思った。 「俺はハーフだからさ」 哲也は口元に穏やかな笑みを浮かべ、紳士的に招き入れた。 「上野さん、除草剤は倉庫にあるんだけど、ちょっと見つけにくくてね。もしよければ、先に中に入って待っていてくれない?」 薔薇を救いたい一心で、千夏の警戒心はすっかり薄れていた。 彼女は頷き、ウィンディが作ったパンをテーブルに並べた。 哲也はお茶を淹れてくれた。その所作は滑らかで、美しくて見惚れてしまうほどだった。 千夏は彼の節ばった指を目で追い、思わず耳まで赤くなる。 「上野さん、これはの抹茶だよ。飲んでみて」 千夏は焦って小さく返事をし、赤くなった顔を隠すように急いで茶碗を抱えた。 美形に惑わされるなんて、と心の中で自分を咎める。 かなりの時間を待った後、哲也は申し訳なさそうに眉を寄せて謝った。 「もしかして勘違いしたかも……見つからなかったんだ。もしよければ、上野さんの連絡先を教えてくれない?見つけたら送るから」 彼の笑みに千夏の頭はぼんやりとしてしまった。 気づけば、帰り際にたくさんのお礼の品を抱えて庭の門へ立っていた。 その瞬間ようやく、除草剤を受け取っていないことに気がついた。 代わりに、自分の連絡先を渡してしまっていたのだ。 スマホには哲也から可愛いラグドールのスタンプが届いた。 「ラグドール:ごめんね」 そのラグドールの目は、哲也の優しい水色の瞳を思い出させる。 千夏はそっと、子猫の頭を撫でるスタンプを返した。 日々は穏やかに流れていった。 千夏は勉強と庭の世話に忙しく、時々、礼儀正しく見えて実は甘えん坊な「大きな猫」を相手にしなければならなかった。 過去の辛い記憶は次第に薄れ、まるで最初から無かったかのように思えた。 だが、忘れかけていたその時――千夏は龍生と再会してしまう。 学校の門前、人混みの中で龍生は立ち尽くし、やつれた目で千夏を見つめていた。 次の瞬間、彼は周囲に構わず駆け寄り、千夏を強く抱きしめた。 捨てられた犬のように哀れな姿で、声を低くして必死に許しを乞う。 「千夏……やっと見つけた……」 千夏は眉をひそめて彼を見つめた。その変わ
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第19話

千夏は首を横に振り、きっぱりと衣の裾を彼の手から引き抜いた。 龍生は黙って彼女の手を見下ろし、赤く充血した目をした。 千夏には理解できなかった。 彼女は最初から最後まで、一度も龍生の本当の姿を見たことがない気がした。 裏切ったのは彼であり、自分を散々傷つけたのも彼だ。 けれど、この瞬間だけは龍生の目がひどく悲しげで、まるで世界全部を失おうとしているようだった。 「千夏……」 かすかな嗚咽が聞こえたが、千夏は何も答えなかった。 もう大人なのだから、時には答えがないことこそが最良の答えなのだ。 千夏の衣の裾が彼の手をかすめて過ぎていった。 その感触で、龍生は千夏を失ったことを悟った。 口論でも、冷戦でもない。 二度と交わることのない平行線になってしまい、永遠に自分の人生から失われたのだ。 千夏が振り返らずに去ろうとするのを見て、龍生は慌てて二歩踏み出し、彼女を引き止めようとした。 だがその腕を、突然伸びてきた手が押さえ込んだ。 千夏が振り返ると、そこに哲也が立ちはだかっていた。 「女性をしつこく追い回すのは礼を欠く行為ですよ」 いつもは穏やかな蒼い瞳に、今は千夏が見たことのない底知れぬ光が潜んでいた。 龍生は二人を疑わしげに見比べた。 「千夏……お前がどうしても別れたいって言い張ってたのはさ……新しい男をもう見つけてたからなんだろ?」 声が次第に危うく、恐ろしい響きを帯びていく。 「まさか俺の子を妊娠してた時から、こいつと関係を持ってたんじゃないだろうな?」 千夏は唇を強く噛みしめた。 妊娠のことを隠すつもりはなかった。けれど、こんなふうに恥をかかされて口にされることになるなんて――! 「パァン!」 鋭い平手打ちの音が響いた。千夏は驚いて顔を上げる。 哲也が龍生に強烈なビンタを叩きつけ、その後ポケットから白いハンカチを取り出し、まるで汚れでも拭うかのように丁寧に手を拭った。 「この一発は、このお嬢さんの代わりです。 男なら、自分の行いを恥じるべきだ」 龍生の目が怒りでさらに赤く染まる。 「お前は誰だ、何様のつもりで千夏のことに口を出す!」 哲也は口元に柔らかな笑みを浮かべ、さりげなく千夏を抱き寄せた。 「お前が言ったじゃないか。俺は千夏の今の恋
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第20話

千夏は一瞬言葉の意味をつかめずに固まった。 彼女は小さな声で言った。 「あなたも見たでしょう、私には厄介な元彼がいるの……それに……」 龍生が言っていた言葉を思い出し、千夏は気まずさに目を閉じた。 次の瞬間、温かな腕に包み込まれる。 頭上から響いたのは哲也のくぐもった声だった。 「大丈夫だよ。俺は千夏が好きだ。そんなこと気にしない。これからの人生を一緒に過ごしたい。お願い、俺と付き合ってくれないか」 千夏の頬が濡れていた。彼女は慌てて拭った。 しばらくして、千夏はかすれた声で口を開いた。 「ごめんなさい。今はまだ一緒にはなれない。前のことをきちんと終わらせないと。 それを片付けたら……あなたの告白に答えるわ」 哲也は彼女の髪を優しくくしゃりと撫で、それ以上は聞かずに家まで送ってくれた。 家に戻った千夏は、一人で長く考え込む。 新しい恋を始めるなら、過去との繋がりを完全に断ち切らなくてはならない。 そうしなければ、自分もかつての龍生と何も変わらないではないか。 千夏はブラックリストからあの番号を探し出し、メッセージを送った。 【龍生、明日の午後、角のカフェで会いましょう。ちゃんと話さなきゃいけないことがあるの】 翌日午後、龍生は約束通りに現れた。 彼は鮮やかな赤いユリの花束を抱え、千夏が好きだったスーツに着替えていた。 メッセージを見たときの龍生の胸をよぎったのは高揚だった。 まるで恋を始めたばかりの少年のように、髪を整え、服も選び直す。 「もしかして、これはチャンスかもしれない」 そんな淡い期待まで抱いていた。 カフェへ向かう道すがら、彼の心には千夏に伝えたい言葉があふれていた。 だが、いざ目の前にすると全て消え去り、視線を交わすだけになってしまった。 千夏はその花束をひと目見て、落胆を隠さずに言った。 「龍生……どうしてユリなの?」 龍生は緊張でネクタイを引き緩め、息を吐く。 ぎこちなく説明した。 「赤いユリの花言葉は、情熱的な愛なんだ…… 千夏、考え直したんだ。君はまだあの男とは付き合ってないんだろ?だったらもう一度チャンスをくれ。大学の頃みたいに……君が近づいてくれないなら、俺が努力して歩み寄るから」 かつて千夏は、その甘い言葉に
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