実家の会社が破産したその日、安藤悠介(あんとう ゆうすけ)はまるで待っていたかのように、初恋の女を家に招き入れた。そして、私の前に一枚の離婚協議書を突きつけた。「五日後、俺は美咲と結婚する。長いこと彼女に後ろめたい思いをしてきた。もう裏切れない。素直に応じるなら、お前がこの家に残ってもいい。俺と彼女で暮らすのは許す」実家が潰れたばかりだっていうのに、彼はやけに急いでいた。一日たりとも無駄にする気はないらしい。私は黙って彼を見つめた。彼の目は氷みたいに冷たく、まるで見知らぬ人を見る目だった。結婚して五年。私は彼の心を少しも動かせなかったのだ。俯いて、震える手でサインした。「……わかった」どうせ、ここに長居する気もなかった。これから悠介が誰と一緒になろうと、もう私には関係ない。彼は眉をわずかに上げた。思ったよりあっさり応じたのが意外だったのだろう。署名を確認すると、協議書を手に立ち上がる。「じゃあ、時間があるときに役所へ出しに行こう」そう言って、振り返りもせずに部屋を出て行った。そうだ、彼は私と余計な話をいっさいしない人だった。姿が消えたあと、私はスマホを取り出し、五日後の南行き航空券を予約した。離婚届が受理されたら、私たちはきっぱり別れ、それぞれの人生を歩んでいく。五年前。父の会社の忘年会で、私は父が一から育てた悠介に一目惚れした。翌日、彼は父を通じて私のLINEを聞いてきた。半年も経たないうちに、私たちは自然な流れで結婚した。それを運命の出会いだと信じていた。高橋美咲(たかはし みさき)が、ネットに自分の結婚写真を載せるまでは。その日、悠介は泥酔していた。体調を崩しそうな彼を心配して、私は乾杯を早めに切り上げ、新居へ連れ帰った。ベッドまで支えようとしたとき、彼はいきなり私を突き飛ばした。後ろのデスクに体を打ちつけ、花瓶がぐらりと揺れて床に落ち、足元で粉々に砕け散る。心臓が凍りついて、体が動かなかった。いつも穏やかな彼の目は血走り、私を睨みつけて怒鳴った。「綾音……俺はお前が憎い!お前なんかに関わらなきゃよかった!親父さんに借りを作って、言いなりになって結婚を押し付けられることもなかった。美咲が他の男と結婚するのを見ずに済んだんだ!」
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