All Chapters of Memorable ~思い出と嘘の間で始まる愛~: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第一話

「結婚しよう?」ちょっとそこまで付き合って?そんな誘い方でこんな言葉を口にするあなたが嫌い。それでも私は、この提案を拒むことができない。「古都、俺のこと好きだろ?」「そんなわけありません」必死に紡ぐ否定の言葉さえ、飲み込むこのキスに抗えない自分が一番嫌い。小さいころからずっとそばにいるあなたは、私にとって一番遠い雲の上の人。それなのに、どうしていきなり戻ってきてそんなことを言うの。私は使える駒に過ぎないのでしょう?あなたを嫌いになりたい。◇◇◇「なんとおっしゃいましたか?」私は目の前のその人に、小さくため息をつきながら言葉をかける。生まれ持ったダークブラウンのきれいな髪は、ゆるくカールされていて、それを無造作ながらも計算し尽くしてセットしていた。髪と同じ色をした、吸い込まれそうなアーモンド色のキリッとした二重の瞳が、楽しそうに私を見つめている「だから、結婚しようって」いつも軽薄な彼は、女性を見れば口説かずにはいられないという使命を持って生きているような人間だ。久しぶりに再会した私は、また始まったと思い、穏やかな春の日差しが心地よい庭へと視線を向けた。ここは旧財閥である大友グループの屋敷。腕の良い庭師が手がけた見事な薔薇園が広がっている。大きな噴水が真ん中にあり、その周りを囲むようにレンガで作られた小道が伸びていて、いつ見ても美しい。そんなことを思いながらも、やはり聞き間違いではないと感じ、私は優雅に紅茶を飲むその人を改めて見た。「誰が誰とでしょうか?」「誰って、誰がいるんだ。お前と俺だよ」表情を変えることなく、紅茶に視線を向けたまま告げられたその言葉に、私は大きくため息をついた。目の前のお坊ちゃま――大友秋久は、由緒正しい家柄に生まれ、頭脳だけでなく、高い身長と見事な容姿まで持ち合わせている。神はどれほど不公平なのだろう、とつい思わずにはいられないほどの完璧な人間だ。昔からプライベートも派手で、隣にはモデルや女優など、数多くの女性が付き添っていた。そんな人がいったい何を血迷ったのか――そう思うのは仕方のないことだ。「申し訳ありませんが、私たちって、結婚するような間柄でしたか?」気持ちを高ぶらせないよう意識しながら声を発すると、秋久は「違うな」とだけ、はっきり答えた。その言葉に唖然とし、私はただ彼を睨みつけた
last updateLast Updated : 2025-09-09
Read more

第二話

「古都、なんでいきなりそんな話し方をするようになったんだ?」じっと表情を崩さずにいた秋久が、わずかに真剣さを帯びた顔を見せて言葉を発した。「子供のころは、よく関係を理解できませんでした。ですが、今は違います」淡々と、まるで仕事をこなすかのように答えると、秋久は納得したのか、ため息まじりに「ふーん」とだけ口にした。「それで、私、仕事のしすぎで頭がおかしくなったんですかね? 今、理解できない言葉を言われた気がしたのですが」自分で淹れた紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと口に運ぶ。芳醇な香りのアールグレイ――秋久のために用意した高級な茶葉だが、やはり格別で、私は大きく息を吐いた。いきなりアメリカだかどこからか帰ってきた秋久に、父も母も慌てふためいていた。だが、当の本人は淡々と、いつも通りの軽い印象を崩さず、その場にいた皆の毒気を抜いたのは言うまでもない。「理解できないの? 古都、大人になったんじゃなかった?」小気味よい陶器の触れ合う音を響かせて、秋久はティーカップを置き、少しからかうように言った。内心ではわずかに腹立たしさを覚えたが、努めて冷静に彼へ視線を向ける。「旦那様たちがいないのに、どうしてお帰りに? 本当の用事はなんなのですか?」秋久の両親はいまヨーロッパに、弟の正久は都内で一人暮らしをしているため、実質この屋敷にいるのは使用人だけという状況が、この一年ほど続いていた。それでも屋敷の維持管理は忙しく、秋久の昔からの冗談に付き合っている暇などない――そう思うと、私は少し苛立ちを覚えながら彼を見据えた。「だから言ってるだろ? 俺と結婚してって」「もう、いい加減にして……」つい昔のようにため口が出てしまい、慌てて口をつぐむ。昔はこんなにつかみどころのない人ではなかったのに、いつからこんな飄々とした性格になり、本心を見せなくなったのか、もう思い出すことさえできなかった。しばらくの沈黙が続き、なぜか居心地の悪さを覚えた私は、この場から逃れるように立ち上がった。「古都さ、お前、本当はこの家の仕事をしたくなかったんだろ?」「え……?」その言葉に、背を向けていた私は、ゆっくりと秋久の方へと振り返った。さっきまでとは違う真剣な表情に、私は言葉を失った。――いつから、そんなことを見破っていたのだろう。「本当は他に興味があったんだろ?」「何を言
last updateLast Updated : 2025-09-09
Read more

第三話

「だな。お前は薄情だもんな」珍しく辛辣な言葉に、私は言いすぎたかもしれないと思いつつも、この茶番を一刻も早く終わらせたい気持ちで黙り込んだ。「それでも、これは決定だから」「え?」かなり間の抜けた声を上げてしまったと思い、慌てて秋久を仰ぎ見る。そこには、戻ってきて初めて真剣な表情を見せる彼がいた。「親父たちも了承済みだ。お前の両親には、いまから話をしてくる。古都には先に伝えておいたからな」「ちょっと! 秋久!」何年ぶりかに思わず名前を呼んでしまった。だが後悔する間もなく、そのまま秋久は屋敷の中へと足を進めてしまう。――秋久と結婚? 何のために?その言葉が本気だと分かっても、私には理解できなかった。ただ茫然と立ち尽くしていると、秋久に伴われた両親がこちらへ向かってくるのが見えた。「古都」静かだが反抗を許さぬ響きを帯びた父の声に、私は思わず身がすくむのを覚えたあまり感情を表に出さず、ずっとこの大友家に仕えてきた父とは、仲が良いとは言えなかった。むしろ上司と部下、あるいは子弟関係とでも言ったほうが適切かもしれない。母も同じだ。常に秋久や正久を一番に、三番目が私――それが当たり前だった。「はい」静かに声を発し、私は姿勢を正す。「秋久様から話を聞いた。しっかりお役に立つように」「え……?」意味が分からず答えようとしたそのとき、今度は母が私を見た。「秋久様のご迷惑にならないようにね」私の意志とは無関係に、秋久との結婚が決まった瞬間だった。どうして? 何のために?そう思わずにはいられなかったが、私との結婚はやはり形だけのもので、私はただ再び利用されたに過ぎない――その事実を、すぐに思い知らされることになる。翌日。本当になぜ悲しいかわからなかったが、ベッドに入ると涙がこぼれてしまったことで瞼は重く、冷やさずに寝てしまったことを悔やんでももう遅かった。カーテンをゆっくりと開けると、日の光がやたらとまぶしくて目を細める。ただの職場だと思っていた本邸も、秋久がそこにいるときは、まるで違う世界に変わってしまう――そう痛感させられる気がした。そんなことを考えていても、今日も仕事は山のようにある。主人不在のこの時期は、前にいたハウスキーパーやメイドの数も減り、いまや父がこの家で全権を握っている。そのため、私もさまざまな場所の仕事を
last updateLast Updated : 2025-09-09
Read more

第四話

「ご無沙汰しております」何か失態を見せてはいけないと思い、私はそれだけを答えるにとどめたが、秋久はすぐに話を切り出した。「何かあれば俺に報告してくれ、今日は彼を紹介したかっただけだ」秋久が山脇に視線を送ると、彼はわずかに複雑な表情を浮かべたのち、静かに立ち上がった。「それでは専務、会社でお待ちしておりますので、可能な限りお急ぎください」少し棘のある言い方に私は驚いたが、秋久はまるで気にも留めないように手をひらひらと振るだけだった。「二人とも座ってください」父と母に向かって秋久がそう声をかけたものの、厳格な父は頑なにそれを拒んだ。どうしてここまで妄信的に人に尽くせるのだろうと胸の内で思ったが、私は何も言わず、ただ自分の手を見つめることしかできなかった。父が座る気のないことを悟ったのか、秋久は小さく息を吐いてから私に視線を向ける。「古都、今日中に仕事の引き継ぎをしてくれ」「今日中!?」そんな急な話をされるとは思ってもおらず、私は驚いて思わず声を上げたが、すぐに父が口を挟んできた。「古都! なんだその返事は、『分かりました』だろう。お前の仕事は私たちが把握しているから問題ないと秋久様にも申し上げてある、今日一日いただけることになったんだぞ」なぜこんなことで怒られなければならないのか理解できず、理不尽だと思ったが、父に何を言っても無駄だということは痛いほど分かっている。「はい」静かに返事をして俯くと、秋久が淡々と話を続けた。「あと、それが終わったら荷物もまとめておいてくれ。今日の夕方には人をよこす。荷物は多いか?」「引っ越しをするということですか?」結婚といっても、私のような平凡な女性と結婚するという事実さえあれば十分だと思っていた私は、その言葉に驚きを隠せなかった。秋久が海外から戻り、どうするつもりなのか聞かされてはいなかったが、当然この屋敷に住まうものだとばかり思っていたのだ。「この屋敷から会社も、空港も遠い」空港……それほど頻繁に海外へ行くということなのだろう。確かにこの屋敷は郊外の閑静な住宅街にあり、都心からはやや距離があるものの、通えないわけではないと私は思った。けれど、私には何一つ口を挟む権利などなかった。「荷物はそんなにありませんので、大丈夫です」「分かった」父と母が同席しているせいなのか、秋久が仕事モードに入っ
last updateLast Updated : 2025-09-10
Read more

第五話

「古都さんがいないと寂しいです」 「新しい子たちが入ったら、砂羽がいろいろ教えてあげてね」四歳下の砂羽は、私にとって妹のような存在だった。だからこそ砂羽と離れるのは寂しかったが、それもまた仕方のないことだと自分に言い聞かせるしかなかった。「古都さん……」今にも泣き出しそうな砂羽を、私はぎゅっと抱きしめ、無理にでも笑顔を作ってみせた。秋久が連れてきた人たちは皆優秀で、しかも父がいるため、実際には私が引き継ぎをする必要などほとんどなかった。だから私は早めに離れの自宅へ戻り、実感の湧かないまま大きなスーツケースを用意することになった。それは初任給をもらったとき、なんとなく購入したものだったが、一度も使うことはなく、まさかこんな形で初めて使うことになるとは夢にも思わなかった。感傷的になりそうな気持ちを抑え込みながら、淡々と身の回りの物を詰めていく。洋服はシンプルなものが多く、あの秋久の隣に立つには不釣り合いかもしれないと思いつつ、持っていかなければ着るものがないのだから仕方がない。数着の服を丁寧に詰め込み、最後に誰にも打ち明けていない日記を底に隠すようにしてしまった。こんな形で、長年住み慣れた家を出ることになるとは思ってもみなかったが、心のどこかで少しだけほっとしてしまった自分を戒める。何不自由なく育ててもらいながら、そんなことを考えてしまう私は最低だ――そう自分に言い聞かせた。ぼんやりしているうちに、気づけば外は夕方に染まり、そろそろ秋久の使いの者が迎えに来る頃かもしれないと思いながら、スーツケースを手に部屋を出ようとしたところで、ドアがノックされた。「はい?」この部屋をこんなふうに訪ねてくる者などいるはずもなく、戸惑いながら返事をすると、すぐにドアが開いた。「秋久様……」まさか、と思って見上げた相手に思わずそうつぶやくと、秋久はすぐに顔を歪めた。「古都、お前それだけはやめろ。嫁に『様』なんて呼ばれる旦那って、いったい何なんだよ」呼び名のことを咎められるとは思いもせず、私は言葉に詰まった。すると秋久はそのまま私のそばへ歩み寄り、床に座り込んでいた私のスーツケースへと手を伸ばす。「これだけ?」 「ああ、はい」返事をしたものの、秋久に荷物など持たせるわけにはいかないと奪い返すように手を伸ばしたが、その動きを彼に阻まれてしまった。「古都」
last updateLast Updated : 2025-09-11
Read more

第六話

とても快適で広々とした車内だったが、秋久と二人きりという状況はどうにも居心地が悪く、私は窓の外の景色に視線を逃していた。結婚の話が出るまでは、特に会話に気を遣う必要もなく、ただ使用人として徹していればよかったので気楽だったのに、今は仕事であることに変わりはないと自分に言い聞かせても、すぐそばに秋久の体温を感じるというその事実が、私の心を落ち着かせてはくれなかった。「古都、とりあえずここは仮住まいだから」「はい」住む場所など小さな部屋一つあれば十分で、荷物もこのスーツケースひとつきり。そう思いながら返事をして数分が経つと、車は都心にありながらも緑の木々に囲まれた場所へと入っていった。徹底したプライバシー管理がなされているらしく、外からは中の様子が一切見えないようになっている。門が自動で閉ざされると、視界の先に現れたのは、グレーとブラックを基調としたモダンな低層階の建物で、そのエントランスはまるで高級ホテルを思わせるような造りだった。静かに車が停まると、すぐに建物の中から落ち着いた紳士然としたスーツ姿の男性が歩み出てきた。「大友様、お帰りなさいませ」柔らかで完璧な笑みと洗練された身のこなしから、この道のプロであることが一目で分かる。「戻りました。古都、こちらはコンシェルジュの金沢さんだ。話してあった妻の古都だ」「奥様、どうぞよろしくお願いいたします」金沢さんがにこやかに挨拶をすると、私は慌てて頭を下げた。「よろしくお願いいたします」"奥様"という響きが信じられず、胸の奥で不思議なざわめきを感じながら、私は二人の会話をぼんやりと聞いていた。「先ほど、すべての業者の搬入も終わっております。問題ないかご確認をお願いいたします」そう言って金沢さんが手にしていたファイルを秋久に差し出すと、秋久は目を通してうなずいた。「古都、行こう」その声で意識を現実に引き戻され、一瞬遅れながらも笑顔を張り付けて金沢さんに会釈し、私は秋久と共に歩き出した。「一番奥だから」一見して高級感にあふれるマンションは、迷路のように廊下が入り組み、隣人と顔を合わせないように設計されているのだろうとすぐに分かった。芸能人でも住んでいそうな場所だと思いながらも、そう考えれば秋久もまた似たような人種なのだと、半ば納得するように思い直す。道順を覚えながら奥へと進むと、ブラックで普
last updateLast Updated : 2025-09-17
Read more

第七話

「全然いいよ。忙しければどこかで買ってきてもいいし、それに、徐々に敬語もやめろよ。落ち着かない」まさか秋久の口からそんな庶民的な言葉が出るとは思わず、驚きがそのまま顔に出てしまったのだろう。彼は小さく笑みを漏らすと、当然のように私の髪へと手を伸ばし、軽く撫でた。その行為だけで心臓が強く跳ね、私は思わずその場に立ちすくんでしまう。「古都、家の中を案内する。俺もまだ全部は確認していないから、一緒に見て回ろう」促されるままに歩みを進めれば、広々としたリビングには大きなソファと透明感のあるガラステーブルが置かれ、壁には存在を主張しすぎないように埋め込まれた大画面のテレビが静かに構えていた。さらに奥へ目をやれば、マンションの内部にあるとは思えない中庭が広がり、その向こうには和室まで設けられており、現代的でありながらも落ち着きを感じさせる造りになっていた。廊下に出てすぐの部屋は秋久の書斎兼ワークスペースで、扉を開ければ機能的なデスクと整然と並んだ資料が目に入る。「俺の仕事は時差の関係で夜に入ることも多いから、その時は古都を起こさないようにするからな」「お仕事……お忙しいですよね?」線を引かなければならないと必死に思い、敬語で距離を保とうと意識していたのに、それが必要ないとあっさり告げられてしまうと、途端にどう話していいのか分からなくなり、言葉を探す自分が滑稽に思えた。言葉遣いばかりに気を取られていたせいで、秋久の真意を理解するのが少し遅れ、別々の部屋で休むのにどうしてそんなことを言うのかと尋ねようとした瞬間、彼は私の戸惑いなど意に介さぬように次の扉を開け放った。「ここが二人の寝室だ」さらりと告げられた一言に、私は絶句したまま足を止めるしかなかった。「古都?」怪訝そうに振り返った秋久の声に、私は恐る恐る顔を上げ、ぎこちなく彼を見返した。「二人の……?」どうにか口をついて出た言葉に、自分でも驚くほど声音が震えていて、その場の空気ごとおかしくなってしまったように感じた。視線の先には、真新しいキングサイズのベッドが堂々と置かれ、バスルームまで備えられた部屋は一流ホテルを思わせるように高級な家具で整えられている。けれど問題は調度品の豪華さではなく、明らかに「二人の寝室」として用意されたその空間と、何よりもベッドが一つしかないという事実で――私は困惑の渦に
last updateLast Updated : 2025-09-17
Read more

第八話

数秒間、互いに見つめ合っているのか、それともにらみ合っているのかすら判別できず、胸の奥で響く心臓の鼓動がやけに大きく耳に届き、私は必死に抗うように視線を逸らそうとした。だが次の瞬間、顎をすくい上げられ、逃げたはずの視線を強制的に戻される。「秋……」どういうつもりかと声を荒げようとした矢先、不意にふわりと触れるようなキスが落とされ、私はその場で動きを止めた。瞳を閉じることもできず、ただ唇に触れるその感触だけが全身を支配し、頭の中を真っ白にしていく。優しく触れるだけの短い口づけは、最後に小さなリップ音を残して離れた。呆然と立ち尽くす私に、秋久はいたずらっぽい笑みを浮かべながら軽く言葉を投げた。「古都、ファーストキス? あ、違うか」その無神経な一言に我に返り、どうして今キスなんて――という怒りがこみ上げ、思わず睨みつけると、秋久は意外すぎる言葉を口にした。「古都のファーストキスは俺だったもんな」「え?」大学時代、おままごと程度の付き合いをした彼氏がいて、形だけのキスを交わしたこともある。だから私のファーストキスはそのときのはず――秋久とだなんて、いつのこと? あり得ないと思いながらも、記憶の奥を必死に探る自分がいた。そんな私を置き去りにするように、秋久はあっさりとクローゼットから出て行ってしまい、私はキスをされたことも、この部屋に肝心のベッドがなかったことも、何ひとつ言葉にできないまま、呆然と立ち尽くしていた。「古都、いつまでその中にいるつもりだ?」自分で押し込めておきながらよく言う、と心の中で毒づきながらも、居心地の悪さに耐えきれず私はクローゼットから外へ出た。すると秋久は、まるで先ほどの出来事などなかったかのようにブラインドのボタンを押し、音もなく上がったブラインドの向こうには、広々としたテラスと緑に囲まれた庭が姿を現した。「屋敷の庭みたいにはいかないけど、これだけあれば十分だろ?」何が十分なのかも、彼が何を考えているのかも分からず、私の頭は混乱と苛立ちと戸惑いで今にも破裂しそうだった。 なにも言えずテラスを見ていた私だったが、秋久の気配を感じて振り返った瞬間、後ろからそっと抱きしめられた。「秋久……」何を伝えたいのか分からず思わず名前を呟くと、彼はただ優しく私の髪を撫でた。秋久が近づいてくるたび、胸の奥がざわつき、私はどうしても戸惑
last updateLast Updated : 2025-09-18
Read more

第九話

「そんなわけない。それに……私のファーストキスは、別の人だし」かすれるようにそう呟いた瞬間、秋久にくるりと向きを変えられ、今度は長く深いキスを奪われた。今までのように軽く触れるだけのものではなく、しっかりと唇を塞がれ、空気を求めて思わず口を開いたところへスルリと舌が差し込まれる。驚きに肩が大きく跳ねたものの、やがて抗うこともできず、何も考えられなくなっていった。どれほどの時間が経ったのか分からないまま、ようやく唇が離れ、私は荒い呼吸のまま呆然と秋久を見つめる。「それはつまり、誰かとキスをしたことがあるってことだな?」「それは……」答えること自体に何の問題もないはずなのに、なぜか言葉にできず、不穏な空気を察して私は視線を逸らした。「古都、荷物を片付けたらリビングに来いよ」それだけ告げ、秋久は何も言わずに部屋を出て行った。「なんなの……」零れ落ちた呟きは、広すぎる空間に吸い込まれるように消えていった。恥ずかしさと訳の分からなさにしばらく放心していた私だったが、このまま部屋にとどまっているわけにはいかないと気を取り直し、リビングへと足を運ぶと、そこに秋久の姿はなく、胸の奥から安堵の息が漏れた。立て続けに押し寄せてくる出来事に気持ちの整理などつくはずもないが、それでも私は彼の身の回りの世話をするのが自分の役目だと無理やり言い聞かせ、自然とキッチンへ向かっていた。冷蔵庫を開ければ、思っていた以上に豊富な食材が整然と並んでいて、何を作るべきかと一瞬迷う。屋敷には常に料理人がいたし、海外にいた秋久にもメイドや専属シェフがいただろう。そんな彼に、まさか親子丼と味噌汁のような簡素な夕食を差し出すわけにはいかない。壁の時計に目をやれば、すでに針は十九時を回っており、のんびり悩んでいる時間はないと覚悟を決め、手早く準備に取りかかった。まずは炊飯器に研いだ米と出汁、醤油、刻んだ人参や枝豆、キノコを入れ、炊き込みご飯のスイッチを押す。昔からエビが大好物だった秋久は、今も変わらず好きなのだろうか――そんなことを思いながら、私は野豆腐と海老の煮物を作り、肉料理としてはシンプルに焼いた牛肉に柚子胡椒のソースを添えることに決めた。さらに彩りを添えるように、三つ葉と水菜のサラダも用意する。アルコールを出すべきかどうか考えを巡らせていると、ふいにリビングに足音がして、ラフ
last updateLast Updated : 2025-09-19
Read more

第十話

「うん、うまい」「えっ、それまだソースが……」思わず声を上げたが、さっきの話題が強引に打ち切られたことにほっとし、私は努めて冷静を装った。「なくても十分だ。それに、俺は食事は何でもいい。だから古都も無理するな」気合を入れて準備をしていた私の気持ちを察したのか、秋久はそう言いながら、自然な仕草で私の肩に顎を預けてきた。「でも、今までずっと料理人がいたでしょう? やっぱり頼んだほうが……」「古都が大変か?」意外な問いに、返事の仕方がわからず、私は思わず横目で彼の顔をうかがった。「確かに、これだけ広いと掃除も大変だろうな……。けど、食事だけは古都が作ったものが食べたい」独り言のように、けれどどこか本音めいた声音で告げられ、私は混乱したまま口を開いた。「秋久がそれでいいなら、私は構わないよ? こんな私の料理でよければ……掃除も、日中やることなんてないし、家事ぐらいしないと落ち着かないから」そう言った瞬間、秋久は少し考えるように目を伏せ、それから静かに手を伸ばし、私の額にかかる髪をそっとかき上げて唇を触れさせた。どうしてこうもスキンシップが多く、距離を詰めてくるのだろう。長く海外で生活していたせいなのか、それとも夫婦を装うための演技なのか――あるいは計画の一環として意識的に私との距離を縮めているのかもしれない。いくら考えたところで答えなど出るはずもなく、私は心の中でひとり問いを繰り返すしかなかった。「家政婦の件は、追々考える。海外に行くこともあるかもしれないしな」確かに、秋久はこれまで日本にいないことが多いと言っていた。「わかった」短く返事をすると、秋久はすでに興味を切り替えたようにリビングへと戻っていき、私はその背中を見送ったあと、小さくため息を吐いた。用意した料理はどうやら秋久の口に合ったらしく、彼の手によって次々に皿が空になっていく。「古都、本当に美味しいよ」「よかった」素直な称賛に安堵し、ようやく自分も料理を口に運んだ。それにしても、これから先、私はしばらくこの家で掃除や家事をして過ごしていればいいのだろうか。秋久の本当の考えが見えないまま、ただ時間だけが流れていくようで、不安と疑問が胸に積もっていった。秋久がふと、少しだけ申し訳なさそうな顔をして口を開いた。「古都、悪いけど近いうちに俺と一緒にパーティーに出席してもらう
last updateLast Updated : 2025-09-22
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status