All Chapters of 妻に18回も入籍をすっぽかされた俺: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

結婚式挙げてから三年間、パイロットの妻・小林遥(こばやし はるか)は一度も俺・高梨蓮也(たかなし れんや)と入籍してくれなかった。今日は、遥が千回目のフライトを無事に終えた記念すべき日だ。そして、俺と入籍すると十七回目の約束をした日でもある。しかし、祝賀パーティーで、俺が彼女の直属の上司に酒を注がれている時、彼女は男のパイロットの後輩・九条恭弥(くじょう きょうや)と互いに料理を取り分け、酒を酌み交わしていた。俺が高熱を我慢して意識を失いかけるほど飲んでいるのに、彼女は全く俺を見ようともしなかった。会社の多くの同僚はため息をつき、舌打ちをし、俺を見る目に同情の色を浮かべていた。誰の目にも明らかだった。俺が体調の悪さを我慢して酒を飲み続けていたのは、誰のためだったのか。しかし、祝賀パーティーが終わった後、本来なら俺と役所に入籍しに行くはずの遥は、またしても約束を破った。彼女はレストランの入り口に車を止め、片手で車に乗ろうとする俺を制止した。「恭弥が私の代わりに飲みすぎてしまったから、彼を送って帰るわ。あなたはタクシーで帰ってちょうだい。午後の入籍は間に合わないかもしれないから、また今度ね」そう言うと、彼女は俺の反応を全く気にせず、急いで車を降り、慎重に恭弥を助手席に座らせた。恋人になって八年、結婚式から三年。これは、遥が恭弥のせいで入籍を延期した十七回目の出来事だった。往々にして、こんな時の俺は、取り乱して声を荒げ、彼女に詰め寄っていたはずだ。いったい誰が彼女の夫なのか。さっき、誰が彼女の代わりに酒を飲んだのか。だが今回は違った。ただ、微笑んで言った。「……ああ、気をつけて」遥はそれを聞いて一瞬驚いたようだった。今日の俺の落ち着いた態度に戸惑いを見せたが、すぐに冷たい表情に戻り、こう言った。「夜に帰る時、お土産を買って埋め合わせするわ」そう言うと彼女はすぐに車を発進させた。出発前、わざわざその後輩のために窓を閉めた。酔っ払った彼が風に当たらないように気を遣ったのだろう。以前の彼女なら、車に酒の匂いが残るなんて絶対に許さなかった。俺が代わりに酒を飲んだ日には、真冬でも幌を開けたままだった。窓を閉めるなんてありえなかった。今になって思う。きっとあの気遣いは、ただ車に乗っていたのが俺だったからに過ぎ
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第2話

午後、俺は会社に直行し、上司に退職願を差し出した。「お前が辞めること、奥さんは知っているのか?」上司は目を丸くした。無理もない。俺はこの航空会社で七年連続、トップクルーの評価を受けてきた。ここに残れば、将来は約束されたようなものだったからだ。俺は苦笑いを浮かべた。「今夜彼女に話すつもりです。でも、多分彼女は気にしないでしょう」「ああ、この数年、お前たち二人は一緒に新しい路線を飛び、一緒に会社のベストクルーを取ってきた。三年前の結婚式には、社長まで顔を出したじゃないか。みんなお前たちを羨ましがってたのに……」上司はそう言って、深いため息をついた。その顔には、惜しむような色が浮かんでいた。ああ、確かにあの頃はいい思い出だった。けれど、思い出はあくまで思い出だ。もう戻ることはない。退職届を出して家に帰ると、すでに夜の十時を回っていた。家の中は、ひどく静かで、誰の気配もなかった。その時、スマホの画面に通知が弾むように現れた。恭弥のSNS投稿だ。わざわざ俺をメンションしてきたらしい。「美女先輩、今日は一日中そばにいてくれてありがとうございました。お礼に、明日は美女先輩を、チケットが取れないことで有名なライブに連れていきます〜!楽しみ」昼に「家に帰る」と言っていた遥が、戻らないことはわかっていた。こんなことは、結婚式を挙げてからの三年間で何度も繰り返されてきた。俺はカップ麺を作りながら、ゆっくりとメールボックスを開いた。画面には、十数カ国の航空会社からのオファーが並んでいた。マウスカーソルは迷うことなく、フランス航空の招待状の上で止まる。そのまま承諾をクリックし、二日後にパリへ向かう便のチケットを予約した。五年前、遥はパリ行きのフライトで、キャリア最大の事故に遭った。それ以来、「パリ」という言葉は、彼女にとって禁句になった。彼女自身が二度とその空を飛ばなかっただけでなく、俺もまた、一度も飛ぶことはなかった。遥、もし俺がパリへ行くなら、もう二度とお前に会うことはないだろう。
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第3話

翌日の午前、目を覚ますと、俺は荷物をまとめ始めた。半分ほど片付けたところで、遥が疲れた顔で帰ってきた。その瞬間、部屋の中に濃いオーデコロンの香りが漂った。思わず息を止める。遥は肌が繊細で敏感で、多くの化粧品にアレルギーがあり、香水の匂いが大嫌いだった。そのせいで、彼女と暮らしたこの数年間、俺はシャンプーひとつ使うのにも気を遣っていた。スキンケアなんて、当然一度もしたことがない。今になって思えば、彼女は化粧品が嫌いだったんじゃない。俺が使うのが、嫌だっただけなんだろう。帰宅した彼女は、荷物をまとめている俺を見て、少し驚いたように言った。「昨夜はね、恭弥の酔いがなかなか醒めなくて……仕方なく一人でホテルに部屋を取って泊まったの」俺は顔を上げて彼女を見た。少し意外だった。結婚して三年、彼女のほうから弁明するなんて、これが初めてだった。俺は軽く頷き、それ以上は何も言わなかった。遥はゆっくりと俺の前に歩み寄り、目を伏せたまま聞いてきた。「荷物をまとめてるのは……仕事でどこか行くの?」俺は頷いた。「まあ、そんなところだ」俺の言葉を聞いた彼女は、なぜかほっとしたように息をつき、続けた。「今日はちょっと用事があって、物を取りに帰っただけ。お昼は食べないわ」「ああ」俺は顔を上げず、荷物の整理を続けた。本当は、昼食のときに彼女に退職したことを伝え、八年続いたこの関係に、きちんと終止符を打つつもりだった。だが、もうその機会はなさそうだ。そう言って、遥は赤い袋を手に取り、玄関に掛けてあったコートをつかむと、足早に出ていった。パタン!ドアの枠に八年間掛けてあった写真立てが、彼女が出ていった直後、突然床に落ちた。ガラスの破片が散らばった。視線を向けると、それは俺と遥が初めてライブに行った時の写真だった。写真の中の俺たちは手を合わせ、満面の笑みを浮かべている。あの日、彼女は言った。どんなに忙しくても、これから毎年一緒にコンサートへ行こう――と。だが、恭弥が彼女の後輩になってから、その約束も、きっと彼女の記憶から消えてしまったのだろう。静まり返った部屋に、時計の針の音だけが響く。俺はしばらくその場に立ち尽くし、やがて床に散ったガラスの破片を拾い集めた。そして、幸福に満ちたあの一枚を、残った未練ごと、
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第4話

夕方、すべてを片付け終えた俺は、疲れ切ってベッドに横たわった。その時、親友から電話がかかってきた。「遥はどういうつもりなんだ。いくらなんでも酷すぎるだろう。お前のSNS見てみろ、あの恭弥って男とベタベタしやがって。お前ら、まだ離婚してないんだろ?そんなの許されるのかよ!」親友の愚痴を聞きながら、俺はスマホを手に取った。画面の一番上に表示されたのは、恭弥が投稿したばかりの写真だった。彼の手首にはパテック・フィリップの腕時計。その手には、昼に遥が家に取りに帰ったあの赤い袋が握られていた。その瞬間、ようやく理解した。――昼に帰ってきたのは、恭弥へのライブのお返しを取りに来ただけだったのだ。写真の下には、こんなコメントが添えられていた。「出会って三年。あなたがいてくれて本当に良かったです。遥さん、これからもよろしくお願いします!」その時、俺はぼんやりと思い出した。三周年……?その言葉を見て、ふと思い出した。そうか。今日は俺と遥の結婚三周年の記念日でもあるじゃないか?もっとも、記念日を祝ったことなど一度もなかった。気づけば俺自身、そんな日があったことさえ忘れていた。深く息を吐き、親友に答えた。「彼女は離婚する必要なんてないよ。だって、俺たちはまだ入籍してないんだから」「えっ?結婚して三年なんだろ?遥、まだお前と入籍してないのか?」電話の向こうで、親友の驚き混じりの声が耳に響く。そうだ。式を挙げて三年。けれど彼女は、俺との入籍を一方的に十七回も取り消してきたんだ。
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第5話

夜の11時、遥は珍しく家に帰ってきた。玄関に入ってコートを脱ぎ、ドアの後ろにかけようとした時、いつも俺たちの写真が飾ってあった場所ががらんとしていることに気づき、突然ハッとして立ち止まった。「ドアの後ろの写真はどうしたの?」彼女はコートも置かずに、少し慌てた様子で寝室にいる俺に尋ねた。「落ちて割れた」それを聞くと、彼女はドアのそばのゴミ箱の中にあるガラスの破片を見て、安心したような表情を浮かべ、コートを脇に置き、グッチのベルトが入った袋を取り出した。「昨日プレゼントするって言ってたけど間に合わなかったから、今日はちょうど結婚三周年だし、このベルトをプレゼントするわ。結婚記念日、おめでとう」彼女はベルトをベッドの上に置いた。俺は一瞬、自分の耳を疑った。結婚して三年、彼女が俺たちの結婚記念日を覚えていたなんて。だが、レシートに記された購入時刻が三十分前だったのを見て、すぐに察した。おそらく恭弥の「三周年記念」の投稿を見て思い出し、ついでに買ってきたのだろう。けれど、彼女は知らない。このブランドのベルトは、俺のクローゼットにすでに二本ある。俺は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめた。「そうそう、もうすぐ年末だけど……今年の社内表彰、あなたは辞退してくれないかしら?恭弥は入社して三年になるけど、あなたみたいにベストクルーに選ばれるのが夢なの。あなたは何年も連続で受賞してるでしょ?今年くらい、譲ってあげられない?」そう言う彼女の声には、どこか言いにくそうな迷いが混じっていた。俺は心の中で、かすかに笑った。やっぱり、このついでに買ってきたプレゼントにも、すでに裏で値段がつけられていたんだな。「いいよ」俺は冷静に頷いた。今年だけじゃない。来年も、再来年も、これからの社内表彰は、俺は彼と争うつもりはない。なぜなら、今夜が終われば、明日にはもうここを去るからだ。「……え、いいの?」あまりにもあっさりと承諾した俺に、彼女は意外そうな顔をした。その後もしばらく、何度も横目で俺の様子を伺っていた。そして、また自分から口を開いた。「恭弥は私の後輩だから、面倒を見るのは当然なのよ。それに、あなたも彼にとっては半分、先輩みたいな存在でしょ?そうあるべきだと思うわ。そうそう、明日はフライトがないから、午前中に役所
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第6話

機内アナウンスでは、まもなく離陸するという案内が何度も繰り返されていた。俺はスマホのバイブを無視し、遥の連絡先を削除してから電源を切った。この瞬間から、遥と俺は――もう何の関係もない。病院にて。遥は俺から届いたメッセージを見るなり、狂ったように返信を打ち続けた。だが、画面にはいつまで経っても「既読」の文字がつかなかった。それから何度も電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にございます。……おかけになった電話は――」同じアナウンスが繰り返し流れているのに、遥はまるで聞こえていないかのように、何度も何度もスマホの画面を強く押していた。「そんな……まさか。昨日だって、いつも通りだったのに……結婚の手続きに行くって、言ってたのに……」スマホを見つめる彼女は、どこかぼう然としていた。数分後、彼女は立ち上がり、病院を飛び出して車を走らせた。向かう先は、空港。「夏目さん!蓮也は今日、フライトの予定があったはずですよね?どうして辞めたんですか?それに、パリに行ったって……一体どういうことですか!」キャビンクルーセンターに駆け込むと、彼女は俺の上司の腕を掴み、必死に問い詰めた。夏目は困惑した表情で遥を見つめた。「蓮也から聞いてないのか? 一昨日、お前の打ち上げのあとに退職届を出したんだ。お前が知ってるかどうか確認したら、夜に帰ってから話すって言ってたけどな」その言葉を聞いた遥は、まるで何かに打ちのめされたかのように、その場に立ち尽くした。――一昨日の夜、彼女は家に帰らなかった。昨日の昼も、プレゼントを取りに寄っただけで、すぐに出て行った。そして昨日の夜も、家に戻って数分後、恭弥からの電話を受けて再び外へ出た。この二日間、彼女は俺と話す時間さえ与えなかった。この二日間、彼女はずっと――恭弥のそばにいたのだ。
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第7話

クルーセンターを出た遥は、空港のベンチに腰を下ろし、三時間ものあいだ、ぼう然と座り続けていた。その三時間、彼女の目に映る空港のあらゆる場所が、次々と記憶を呼び起こしていった。――八年前、俺たちが初めて出会ったのは、保安検査場だった。あのとき、彼女は初めて客室乗務員として空へ上がる日だった。興奮のあまり一晩中眠れず、精神的にも少し不安定だったのだろう。検査の途中で社員証を床に落としてしまった。それを拾って渡したのが、俺だった。その小さな出来事が、俺たちの最初の出会いだった。それからというもの、フライトが終わるたびに彼女は「夜食でもどう?」と誘ってくるようになった。一度、二度と。いつのまにか、俺たちはただの同僚から、恋人になっていた。あの頃、俺たちはこの空港の隅から隅までを一緒に歩いた。そして、運が良いことに、間もなく同じ路線に配属された。これはきっと、すべてのクルーカップルにとって最高の幸運だっただろう。国内を飛び、海外を飛び、世界中の空に二人の足跡を残した。やがて俺たちは、社内でも「理想の夫婦」と呼ばれるようになった。そして、付き合って五年目――この空港で結婚式を挙げた。同僚たちは何度も言っていた。「もし恭弥が現れなければ、きっと二人は今でも一緒にいたのに」って。二回目の五年も、三回目の五年も……と。けれど、俺はわかっている。恭弥がいなくても、きっと誰かが現れていた。――愛するかどうかは、他人ではなく、自分自身の問題なのだ。
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第8話

三時間が過ぎ、夕暮れが少しずつ空を染め始めた頃、遥は空港を後にし、車で自宅へと向かった。玄関のドアを開け、いつものようにコートを掛けようとしたその瞬間――ドアの後ろに、写真立てが落ちた跡がくっきりと残っているのに気づいた。彼女の視線は、すぐそばのゴミ箱へと移った。割れたガラスの破片と、俺たちの写真がまだそこに残っていた。遥はゆっくりとしゃがみ込み、ゴミ箱の中からその写真を拾い上げた。写真の背景を見て、ようやく思い出す。これは八年前、俺と一緒に行ったライブで撮った一枚だった。彼女はまた、八年前、コンサート会場で俺に約束したことを思い出した。――そういえば。恭弥という後輩ができてから、遥は一度も俺とコンサートに行っていなかった。あの時から少しずつ、彼女の心は俺から離れていったのかもしれない。それでも彼女は、なぜ俺が去ったのか理解できなかった。なぜなら、彼女は毎回俺に申し訳ないことをしたとしても、ほとんどの場合、プレゼントで埋め合わせていたからだ。たとえば一昨日、恭弥とライブを見て帰ってきた後、俺にグッチのベルトを買ってきてくれた。そのことを思い出しながら、遥は寝室に戻り、クローゼットを開けた。彼女がどれほど俺を思っていたか――その証拠を探すように。だが、目の前に並んでいたのは、同じデザインのベルトが三本。安物のスーツと、数千円のスニーカーがいくつも並んでいるだけだった。彼女は気がついた。これらのプレゼントは、すべて彼女が俺に贈ったものだった。どれも似たようなものばかりで、どこか安っぽい。同じ靴が何足も並んでいることに、今まで一度も気づかなかった。そしてふと、彼女の脳裏に浮かんだのは――自分が後輩に贈った数々のプレゼントだった。エルメスのベルト、パテックフィリップの時計、イタリアのオーダースーツ……どの贈り物も、俺にくれたものよりずっと高価で、それ以上に、一つひとつに彼女の想いが込められていて、同じものは一つとしてなかった。その違いを、ようやく理解した瞬間、遥は深く息をつき、しばらく動けなかった。そして数分後。彼女はスマホを取り出し、ゆっくりと指を動かした。――「藤崎さん、パリ路線の申請をしたいです」
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第9話

「何?遥、今なんて言った? パリ便を飛ぶ? 聞き間違いじゃないよな。お前、もう二度とパリは飛ばないって誓ってたじゃないか。あの時、俺がわざわざ本部に申請出して、こっぴどく怒られたんだぞ」遥がメッセージを送ってから、わずか一分。電話が鳴った。受話口から聞こえてきたのは、驚きと困惑が入り混じった声だった。五年前。パリ行きのフライトで事故に遭って以来、彼女は本部に「二度とパリには飛ばない」と直訴し、もし認められなければ退職するとまで言い切った。その出来事は、当時のスタッフなら誰でも知っている有名な話だった。それなのに今、彼女は自らパリ行きの便を飛ばしたいと言い出した。驚かないはずがない。「本気です、藤崎さん。どうか、もう一度本部に申請してください。できるだけ早く!」その声は、異様なほど固く、揺るぎがなかった。「どうしたんだ、一体?」電話の向こうの声が少し低くなる。「藤崎さん、一つ聞かせてください。この三年間、みんな私が恭弥に甘すぎると思ってたんじゃないですか?それに……蓮也に後ろめたいと思ってたって、そう見えてたんじゃないですか?」遥はしばらく沈黙した後、電話に向かって尋ねた。彼女の言葉に、相手も黙り込んだ。多くの場合、沈黙こそが答えだ。「分かりました」遥は苦々しい表情で言った。「恭弥が会社に入ってから、蓮也とちゃんと食事をした記憶も、一緒に休日を過ごした記憶も、ほとんどありません。贈り物も適当に選んで、同じものを何度も渡してた。数えてみたら、この三年間で、蓮也との入籍をすっぽかしたのは十回以上でした。それでも、別れるなんて考えたこともなかったのに……でも今日、蓮也は退職届を出して、パリへ行ってしまった」その言葉を聞いた藤崎は、短く息をつき、静かに答えた。「……分かった」その言葉を最後に、電話は切れた。三十分後、スマホにメッセージが届いた。「本部が承認した。明日のパリ行き初便、お前が担当しろ」
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第10話

その頃、俺は無事にパリの空港へ到着していた。着陸した瞬間、エールフランスの仲間たち十数人が出迎えてくれた。久しぶりの空気と笑顔に、胸の奥が少し温かくなった。パリに来るのはこれで三度目だ。本来なら、この街のことなどほとんど知らないし、思い出もないはずなのに、見慣れない景色を眺めていると、不思議と胸の奥が軽くなるのを感じた。なぜなら、今日から俺は自分のためにだけ生きればいいと分かっているからだ。国内では七年連続で社内トップクルーの評価を受けた。ここでも、きっと同じようにやっていけるはずだ。それだけじゃない。遥と一緒にいた時にはできなかったことも、これからは好きなだけできる。スキー、登山、スカイダイビング、オーロラを見に行く旅――やりたいことは、まだいくらでもある。……だが、パリに来て二日目の夜。仕事を終えて部屋に戻ると、そこに遥が立っていた。彼女はパイロットとして、普段は決して酒を飲まない。なのに今夜の彼女からは、強いアルコールの匂いが漂っていた。わずか二日見ないうちに、彼女はどこか老け込んだように見えた。俺の姿を見つけると、遥は立ち上がり、近づこうとした。俺は思わず、数歩後ずさった。「蓮也……私が悪かった。この三年間、私は恭弥のことばかり気にかけてた。彼に惹かれてるんだと思ってた。でも昨日、あなたが去って初めて気づいたの。あれは全部、嘘だったって。彼の中に、八年前のあなたを見てただけだったの。それに……この三年間、社内の評価でいつもあなたが上だった。それがプレッシャーになって、私は彼を育てようとしてた。彼をあなたみたいにして、あなたを超えさせれば、少しは楽になれると思ってた。でも……愛していたのは、あなただけ。あなた以外の人と結婚するなんて、考えたこともなかったの。今日ここに来る前に、もう戸籍謄本を持ってきたの。誓うわ。あなたが望むなら、今すぐ帰国して入籍の手続きをしましょう。今度の私は、絶対に約束を破らない。あなたがパリで働く件も、本部に申請を出したわ。これからは私もパリ行きの便だけを担当する。もしそれが嫌なら、すぐに会社を辞めてフランスに来ることもできる。お願い……どうか、私にやり直す機会をちょうだい」そう言うと、遥の頬を涙が伝った。しかし、彼女の涙を見ても、何も感じなかった。
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