LOGIN結婚式挙げてから3年。パイロットの妻・小林遥(こばやし はるか)は、俺・高梨蓮也(たかなし れんや)との入籍を18回もキャンセルした。 最初は、彼女の男性の後輩・九条恭弥(くじょう きょうや)のテスト飛行があると言われ、俺は役所の前で一日中待たされた。 二度目は、道中でその後輩から電話が入り、彼女は慌てて引き返し、俺を路上に置き去りにした。 それ以降、入籍の約束をするたびに、必ず彼女の後輩にトラブルが起こった。 そして、俺はついに彼女のもとを離れる決意をする。 だが、パリ行きの飛行機に乗り込んだ俺を、彼女は狂ったように追いかけてきた――
View Moreもし三年前なら、会社のこの決定は断っていただろう。たとえ、より良い待遇やポストを提示されても。けれど、この三年を経て、俺の心はもうすっかり癒えていた。だから、俺は喜んで会社の指示を受け入れた。帰国の前日、かつての同僚で親友の江坂にメッセージを送った。「明日帰国する。チーフたちは元気にしてるか?」帰国の知らせに、江坂は抑えきれない様子で三時間も電話してきた。今すぐでも飛行機に乗って戻って来い――そう言わんばかりだった。翌日、機体が着陸する。江坂がまっ先に駆け寄ってきて、以前の上司や何人かの同僚も出迎えてくれた。三年という時間は、確かに彼らの体に刻まれていた。だが、俺の顔を見た瞬間、皆が驚いた表情を浮かべた。この三年間を自分のために生きた分、俺は年を取るどころか、むしろ若返って見えたのだろう。そして着陸して初めて、俺は知った。遥が、俺の渡仏の翌年に突然姿を消した理由を。――俺が去ったあと、彼女はすでに恭弥と一切関わっていなかった。さらに、パリ路線に乗務して二年目、パリからの帰国途中で再び航空事故に遭ったのだという。その事故で機体の左翼が炎上し、最終的に緊急着陸。乗客は全員無事だったが、遥は右脚を負傷し、以来パイロットの職に就けなくなった。ときどき思う。これは、ただ――運命が噛み合わなかったのだ、と。彼女のパイロット人生で、わずか二度の事故は、どちらもパリ路線で起きていた。そして俺は、そのパリでキャリアの頂点に達した。江坂は、俺がまだ彼女のことを引きずっていると思って、これまでメッセージでは彼女の話題を出さなかった。今日、俺が帰国して初めて、すべてを打ち明けてくれた。その知らせを聞いて、俺は遥が今どの部署にいるのか尋ねた。江坂は、俺がよりを戻すつもりだと思ったのかもしれない。俺はただ微笑んで、何も言わなかった。彼は教えてくれた。いま彼女は空港の管制部で、運航管理の業務についている、と。俺は江坂に頼み、先に荷物を彼女の家へ運んでもらい、ひとりで管制塔へ向かった。この空港は、俺にとってとても馴染み深い場所だ。だが、ひとりで歩くと、同じ景色でもどこか違って見える。俺の帰国を知ったのだろう。管制塔の入口に着くと、遥はすでにそこに立っていた。手には一束のバラ。けれど、その顔か
翌日、遥は帰国した。けれど彼女は言葉どおり、パリ行きの便だけを飛ぶようになった。ほとんど毎週、彼女はパリに到着し、そのたびに俺の部屋の前で一晩中立っていた。それでも、俺がドアを開けることは一度もなかった。そのうち、パリでの暮らしも少しずつ軌道に乗った。俺はダイビングのライセンス、操縦のライセンス、ハンググライダーのライセンスを取った。夏にはミシシッピ川へ、冬にはアルプスへ。そして年の瀬には、エールフランスの年間最優秀クルーに選ばれ、パリ拠点のキャビンクルー部門で統括を任されることになった。その間、明るくて気さくな女性たちが何人も声をかけてくれたが、誰にも応えなかった。傷は癒えても、跡は残る。俺にとって、いまは仕事がすべてだった。その後もしばらく、日々は変わらなかった。俺は淡々と働き、遥はパリに来るたび、変わらず夜通しドアの前に立っていた。この日常が、ずっと続いていくように思えた。――いつからだろう。遥は、二度と俺の前に現れなくなった。それからの二年間、彼女の消息は一切入ってこなかった。フランスに来て三年目、俺は会社のローテーションで一時帰国を命じられた。
その頃、俺は無事にパリの空港へ到着していた。着陸した瞬間、エールフランスの仲間たち十数人が出迎えてくれた。久しぶりの空気と笑顔に、胸の奥が少し温かくなった。パリに来るのはこれで三度目だ。本来なら、この街のことなどほとんど知らないし、思い出もないはずなのに、見慣れない景色を眺めていると、不思議と胸の奥が軽くなるのを感じた。なぜなら、今日から俺は自分のためにだけ生きればいいと分かっているからだ。国内では七年連続で社内トップクルーの評価を受けた。ここでも、きっと同じようにやっていけるはずだ。それだけじゃない。遥と一緒にいた時にはできなかったことも、これからは好きなだけできる。スキー、登山、スカイダイビング、オーロラを見に行く旅――やりたいことは、まだいくらでもある。……だが、パリに来て二日目の夜。仕事を終えて部屋に戻ると、そこに遥が立っていた。彼女はパイロットとして、普段は決して酒を飲まない。なのに今夜の彼女からは、強いアルコールの匂いが漂っていた。わずか二日見ないうちに、彼女はどこか老け込んだように見えた。俺の姿を見つけると、遥は立ち上がり、近づこうとした。俺は思わず、数歩後ずさった。「蓮也……私が悪かった。この三年間、私は恭弥のことばかり気にかけてた。彼に惹かれてるんだと思ってた。でも昨日、あなたが去って初めて気づいたの。あれは全部、嘘だったって。彼の中に、八年前のあなたを見てただけだったの。それに……この三年間、社内の評価でいつもあなたが上だった。それがプレッシャーになって、私は彼を育てようとしてた。彼をあなたみたいにして、あなたを超えさせれば、少しは楽になれると思ってた。でも……愛していたのは、あなただけ。あなた以外の人と結婚するなんて、考えたこともなかったの。今日ここに来る前に、もう戸籍謄本を持ってきたの。誓うわ。あなたが望むなら、今すぐ帰国して入籍の手続きをしましょう。今度の私は、絶対に約束を破らない。あなたがパリで働く件も、本部に申請を出したわ。これからは私もパリ行きの便だけを担当する。もしそれが嫌なら、すぐに会社を辞めてフランスに来ることもできる。お願い……どうか、私にやり直す機会をちょうだい」そう言うと、遥の頬を涙が伝った。しかし、彼女の涙を見ても、何も感じなかった。
「何?遥、今なんて言った? パリ便を飛ぶ? 聞き間違いじゃないよな。お前、もう二度とパリは飛ばないって誓ってたじゃないか。あの時、俺がわざわざ本部に申請出して、こっぴどく怒られたんだぞ」遥がメッセージを送ってから、わずか一分。電話が鳴った。受話口から聞こえてきたのは、驚きと困惑が入り混じった声だった。五年前。パリ行きのフライトで事故に遭って以来、彼女は本部に「二度とパリには飛ばない」と直訴し、もし認められなければ退職するとまで言い切った。その出来事は、当時のスタッフなら誰でも知っている有名な話だった。それなのに今、彼女は自らパリ行きの便を飛ばしたいと言い出した。驚かないはずがない。「本気です、藤崎さん。どうか、もう一度本部に申請してください。できるだけ早く!」その声は、異様なほど固く、揺るぎがなかった。「どうしたんだ、一体?」電話の向こうの声が少し低くなる。「藤崎さん、一つ聞かせてください。この三年間、みんな私が恭弥に甘すぎると思ってたんじゃないですか?それに……蓮也に後ろめたいと思ってたって、そう見えてたんじゃないですか?」遥はしばらく沈黙した後、電話に向かって尋ねた。彼女の言葉に、相手も黙り込んだ。多くの場合、沈黙こそが答えだ。「分かりました」遥は苦々しい表情で言った。「恭弥が会社に入ってから、蓮也とちゃんと食事をした記憶も、一緒に休日を過ごした記憶も、ほとんどありません。贈り物も適当に選んで、同じものを何度も渡してた。数えてみたら、この三年間で、蓮也との入籍をすっぽかしたのは十回以上でした。それでも、別れるなんて考えたこともなかったのに……でも今日、蓮也は退職届を出して、パリへ行ってしまった」その言葉を聞いた藤崎は、短く息をつき、静かに答えた。「……分かった」その言葉を最後に、電話は切れた。三十分後、スマホにメッセージが届いた。「本部が承認した。明日のパリ行き初便、お前が担当しろ」
reviews