最後のスーツケースを壁際に押し込み、私は親友の西原美月(にしはら みつき)に電話をかけた。「私、奏汰を離れて、ひとりで帰ることにしたの」電話の向こうで、美月が弾けるように声を上げた。「あなた正気なの!?十年よ!あんたは自分を犠牲にして、彼を十年間支えてきたのに!今ようやく奏汰が大学教授になったっていうのに、ここで離れるなんて!」怒りを含んだ声が、受話器越しに響いた。「彼が成功した途端に身を引くつもり?あなた、彼のことが好きなんじゃなかったの?」私は何も言えず、静かにその言葉を聞き終えると、通話を切った。そのとき、スマホの画面が光った。送信者は浅井里奈(あさい りな)――奏汰を追いかけている女だ。【もう彼のそばを離れる覚悟はできたの?】私は窓の外を見つめながら、画面に文字を打ち込んだ。【できた】この時、私は遠く昔に思いを馳せた。高校時代の奏汰は、私生児という理由で、いつも周囲からいじめられていた。ある日、数人の男子生徒が彼を川辺に追い詰め、そのまま突き落とした。泳げもしない私は、気づけば彼のあとを追って、冷たい川へ飛び込んでいた。必死で腕を伸ばし、全身の力を振り絞って、ようやく彼を岸まで引き上げた。そのときの奏汰は全身ずぶ濡れで、顔が真っ青だった。けれど、その震える手だけは私の手を強く握りしめて離さなかった。その瞬間、私は思った。この人のためなら何をしてもいい、と。華都大学から合格通知書が届いた日、私は封筒に刻まれた金色の大学名を見つめながら、彼の瞳には喜びと同時に深い劣等感が揺れるのをはっきりと見た。彼は孤児で、高い学費を払う余裕などなかった。だから私は通知書をそっと隠し、翌日には仕事を探しに出た。奏汰が安心して勉強できるように。油まみれの厨房で皿を洗い、洗剤で手がただれるまで働いた。埃っぽい工事現場でレンガを運び、肩に傷ができても休まなかった。私は一人で、二人分の生活を支えた。自分を犠牲にして、彼の夢を守った。そのことを知った奏汰は、私を強く抱きしめて言った。「日葵、いつか必ず君と家庭を作って、幸せにしてみせる」一週間前の午後。私は切った果物を持って書斎に入った。机の上のスマホはロックがかかっていなかった。そこに、奏汰と里奈のやり取りが映
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