Share

第5話

Author: ジェリー
後になって、奏汰は自分の奨学金で、その懐中時計を買い戻してくれた。

「これは、僕たちの絆の象徴するものだ。売ってはいけない」

彼はそう言った。

私は懐中時計を彼のスピーチ原稿の上に置き、その隣に彼がかつて私にくれたキャッシュカードを並べた。

そのキャッシュカードは昨日もらったもので、彼は言った。

「中の金は君への補償だ。もうそんなに苦労しなくていい」

私は残高を見ようとも思わなかったし、これからも決して使うつもりはない。

私の青春も、夢も、そしてもう帰らない母の思い出も、すべてここに置いていく。

これらすべて、奏汰も含め、私はもう何もいらない。

私はスーツケースを引きずり、ドアを開けた。

ポケットの中でスマホが震えた。奏汰からのメッセージだった。

【どこに行ったんだ?宴会はまだ終わってない、拗ねるな】

その文字を見ても、私の顔には何の表情も浮かばなかった。

彼の電話番号とSNSなどすべての連絡先をブラックリストに入れ、スマホをシャットダウンした。

奏汰の視点

僕はアパートのドアを開けた。中は真っ暗だった。

家の中の多くの物がなくなっていた。日葵のスリッパも、歯ブラシも、服もすべて消えていた。

おそらく彼女は怒って、親友の家に行ったのだろう。

彼女は簡単に機嫌を直すタイプだから、必ず戻ってくる。そう考えながら、僕はひとりベッドに倒れ込んだ。

二日酔いの頭痛が、朝きっかりに目覚めさせる。

日葵の作った朝食も、いつも温度がちょうどよかったお茶もない。

理由もなく苛立ちが胸に湧き上がってきた。

メールを処理しようとするも、視線は机の上のものに引き寄せられた。

銀製の古い懐中時計が、静かに僕のスピーチ原稿の上に置かれている。

これは日葵の母親の唯一の形見で、かつて僕の学費のために、彼女が苦しみをこらえて質屋に売ったものだ。

そして僕は奨学金で買い戻した。

懐中時計の隣にキャッシュカードが置かれている。

僕が彼女に渡したものだ。

補償だと言ったのに、彼女は使っていない。

慌てて携帯を掴み、慣れた番号にかけてみた。

受話器からは冷たい機械音声だけが繰り返されるだけだった。「おかけになった電話は電源が切れています」

SNSを開き、彼女にメッセージを送信した後、なかなか相手の「既読」が表示されない。

彼女は僕をブロックし
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第7話

    救急車はすぐに到着し、医療スタッフが律を引き継いだ。彼がストレッチャーに乗せられたとき、突然口を開いた。「君の手だ」右手の掌は、さっき彼を支えたときに岩礁で切れていて長い傷がまだ血を流していた。私はまったく気づいていなかった。「君も処置が必要だ」彼の口調には拒否の余地がなかった。彼は医療スタッフに向かって言った。「彼女を一緒に乗せてください」小さな町の診療所は消毒液の匂いが強く立ち込めていた。医師が律の傷を処置し、十数針縫った。私はそばに座り、看護師に傷を洗って包帯してもらった。処置の間、彼は一言も発さず、ずっと私を見つめていた。医師が私の手当を終えると、顔を上げて言った。「顔色があまり良くありません。全面的な検査を受けることをおすすめします」診断書が目の前に置かれ、胃に深刻な病変があり、すぐ手術が必要だと示されていた。律は冷たい私の手を握り、絶え間なく力を伝えてくれた。彼は手術同意書に迷わず署名した。入院中、彼は私のそばを離れなかった。身体を拭いてくれ、薄味のお粥を作るのも不器用ながら学び、夜はベッド脇の折りたたみ椅子で服をかけて眠った。退院の日、海辺の町には陽光が降り注いでいた。律は車椅子を押し、私は彼が買ってくれた毛布にくるまれていた。半年後、律は金を出し、町で唯一の美術館を借り、私の初めての個展を開いた。展覧会のタイトルは「新生」だ。明るい展示室には、この半年間の心血が詰まった作品が並んでいた。絵には、嵐が来る前の海面の青色がある。雨上がりの晴れ間に、礁石で煌めく虹色がある。書店の窓辺に咲く、いつも太陽に向かう小さなデイジーがある。来場者は多く、地元の住民、観光客、そしてプロのギャラリー関係者もいた。皆が立ち止まり、真剣に私の作品を褒めてくれた。白髪の女性が私の前に歩み寄った。有名ギャラリーのアートディレクターだ。彼女は名刺を差し出し、真剣な表情で次のシーズンの合同展への参加を正式に招待してくれた。律は少し離れた人混みの中に立っていた。彼は近づかず、手に持つシャンパンを軽く上げ、誇らしげに微笑むだけだった。そのとき、人混みをかき分けて一人の影が私に向かって歩いてきた。奏汰だった。奏汰は疲れ果て、高価なスーツは皺だらけで、顎には青い無

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第6話

    チケットの行き先は海辺の小さな町だった。私はそこで新しい生活を始めた。町には一軒の書店があり、私は本の整理をする店員になった。店内は静かで、聞こえるのは海の波が堤防に打ち寄せるリズムと、ページをめくるときのかすかなサラサラという音だけだった。奏汰の顔、里奈の言葉、あの祝賀会のまぶしいライト、それらは次第にぼやけていった。初めての給料で、私は新しい画材を買った。私は岩礁、カモメと砂浜を駆ける子供たちを描いた。かつての夢、デザインスクールに行きたかったあの少女が身体の奥底から目覚めるようだった。書店には、ひとり特別な客がいた。彼は毎日午後三時きっかりに現れる。いつも窓際のソファに座り、ブラックコーヒーを一杯注文し、絵に手を付ければ、午後まるまる没頭してしまう。店主は私に、彼の名は山下律(やました りつ)で、数か月前にこの町にやってきた住人だと教えてくれた。私は仕事の合間に、こっそり彼の描く姿を見ていた。ペンの持ち方は安定していて、指は細く力強い。紙の上には細かい線、歯車、細い糸、レバーがびっしりと描かれていた。それは時計のムーブメントの分解図だった。ひとつひとつの部品にデータが記され、複雑さは想像を超えていた。彼は私の視線に気づいたのか、指を止め、顔を上げて私を見た。私は慌てて目を逸らし、本棚の前に駆け寄り、真剣に整理しているふりをした。こうしたやり取りを何度か繰り返すうちに、彼は私を気にせず描き続けるようになった。仕事がないとき、私は入り口の岩礁に座って絵を描く。ある日、鉛筆が画板から転がり、隣の狭い石の隙間に落ちてしまった。何度手を伸ばしても、どうしても拾えない。諦めかけたそのとき、律が片手で軽々と石の隙間に手を伸ばし、鉛筆を取り出した。私は顔を上げ、彼の目を見た。書店で見せるあの淡い表情、距離感のある雰囲気はそのままだった。「気をつけて」低い声で彼は言った。これが、私たちの初めての、本当の意味での会話だった。「描くの、上手いね」彼は私のスケッチブックに目をやった。「ただ、適当に描いただけです」私は少し恥ずかしそうに画板をしまう。彼の視線は海へ向けられた。「僕もここで何かを探しているんだ」「何を?」私は尋ねた。「時間の形さ」彼は答え

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第5話

    後になって、奏汰は自分の奨学金で、その懐中時計を買い戻してくれた。「これは、僕たちの絆の象徴するものだ。売ってはいけない」彼はそう言った。私は懐中時計を彼のスピーチ原稿の上に置き、その隣に彼がかつて私にくれたキャッシュカードを並べた。そのキャッシュカードは昨日もらったもので、彼は言った。「中の金は君への補償だ。もうそんなに苦労しなくていい」私は残高を見ようとも思わなかったし、これからも決して使うつもりはない。私の青春も、夢も、そしてもう帰らない母の思い出も、すべてここに置いていく。これらすべて、奏汰も含め、私はもう何もいらない。私はスーツケースを引きずり、ドアを開けた。ポケットの中でスマホが震えた。奏汰からのメッセージだった。【どこに行ったんだ?宴会はまだ終わってない、拗ねるな】その文字を見ても、私の顔には何の表情も浮かばなかった。彼の電話番号とSNSなどすべての連絡先をブラックリストに入れ、スマホをシャットダウンした。奏汰の視点僕はアパートのドアを開けた。中は真っ暗だった。家の中の多くの物がなくなっていた。日葵のスリッパも、歯ブラシも、服もすべて消えていた。おそらく彼女は怒って、親友の家に行ったのだろう。彼女は簡単に機嫌を直すタイプだから、必ず戻ってくる。そう考えながら、僕はひとりベッドに倒れ込んだ。二日酔いの頭痛が、朝きっかりに目覚めさせる。日葵の作った朝食も、いつも温度がちょうどよかったお茶もない。理由もなく苛立ちが胸に湧き上がってきた。メールを処理しようとするも、視線は机の上のものに引き寄せられた。銀製の古い懐中時計が、静かに僕のスピーチ原稿の上に置かれている。これは日葵の母親の唯一の形見で、かつて僕の学費のために、彼女が苦しみをこらえて質屋に売ったものだ。そして僕は奨学金で買い戻した。懐中時計の隣にキャッシュカードが置かれている。僕が彼女に渡したものだ。補償だと言ったのに、彼女は使っていない。慌てて携帯を掴み、慣れた番号にかけてみた。受話器からは冷たい機械音声だけが繰り返されるだけだった。「おかけになった電話は電源が切れています」SNSを開き、彼女にメッセージを送信した後、なかなか相手の「既読」が表示されない。彼女は僕をブロックし

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第4話

    「もうすぐおじいちゃんの命日なんだ」私は自分でもどこか不自然だと思う言い訳を口にした。「実家に帰るのか?」奏汰の声には、どこかほっとした響きがあった。私はうなずき、擦り切れたスーツケースに視線を落とした。奏汰は何も言わず、ただチケットをテーブルの上に戻した。自分を育んだ小さな町を、そして評価が悪い母親を、彼は心底嫌っていた。奏汰は自分が大学教授に昇進したその祝賀会の招待状を私の前に差し出した。「これは僕たちの共同の成果だ。君のおかげで、今の僕があるんだ」成果という言葉は、どこか皮肉に響いた。成果はすべて彼のもので、私は何も持っていない。夢も、自分自身も、すべて失ったままだった。祝賀会は大学で最も豪華な尚徳ホールで行われた。私は数年前、アウトレットで買った黒いロングドレスを身につけ、会場の片隅にひとり座っていた。生地は少しくたびれていて、周囲の光沢あるシルクやレースのドレスの中ではひときわみすぼらしく見えた。人々は集まり、最新の学術誌や財団からの巨額の支援について話している。私は全く馴染めず、この場のすべてと、完全に浮いていた。奏汰は会場の中心に立ち、軽やかに言葉を紡ぎながら、自信に満ち、魅力的な笑みを浮かべていた。その表情は、私と二人きりのときには一度も見せたことのないものだった。受賞者の感謝スピーチの時間になった。奏汰は、大学に、指導教授に、そして研究に関わった同僚一人ひとりに感謝の言葉を述べた。ただひとり――私の名だけが、そこになかった。十年の青春と数えきれないアルバイトで支えた彼を見つめながら、私はまるで氷の穴に落ちたような感覚に襲われた。彼は一瞬、私に目をやったが、すぐに視線を里奈に移した。奏汰の声が柔らかくなった。「最後に、特別に感謝したい人がいます。彼女は、僕のインスピレーションのミューズなんです。最も迷ったとき、彼女の知恵のおかげで、僕の考えがまとまりました。浅井里奈さん、ありがとう」最初から最後まで、私の名前は一度も呼ばれなかった。一度も。会場からは、これまでで一番熱烈な拍手と、掛け声、口笛まで混ざった歓声が上がった。学術界の理想的なカップルに喝采を送っていた。確かに二人は、誰が見てもお似合いだった。この時、私は胃の奥が締め

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第3話

    奏汰は何日も帰宅しなかった。私は里奈のSNSを見て、彼の生活のすべてを目にした。写真の中で、奏汰は彼女と一緒に図書館で徹夜して、資料を読んでいた。朝の淡い光の中、彼は自分の上着を彼女にそっとかけた。グラウンドでは、走り終えた里奈のほどけた靴ひもを、片膝をついて結び直していた。別の写真では、実験室で顕微鏡を覗き込む里奈の頬に垂れた髪を、奏汰が自然な仕草で指先で整えてやっていた。どの写真も、温かく、幸せそうな光景だった。私は無言で画面を閉じ、スマホを伏せた。それから、クローゼットを開け、服を一枚ずつ取り出して丁寧に畳み、スーツケースに整然と詰め込んでいった。もう片付けがほぼ終わろうとしたその時、玄関のドアが開く音がした。奏汰が帰ってきたのだ。疲れてはいるが、顔色は悪くない。「どうして荷物をまとめてるんだ?ちょっと連れて行きたい場所があるんだ」この数日間の行方については一切触れず、奏汰の口調は当然のようだった。「君のために用意した新しい家だ」私の胸は、何の感情も湧かなかった。ただ無感情に彼の後に車に乗り込んだ。車は郊外の高級別荘地へと向かった。その別荘地の立派な門の前で、私たちは里奈に出くわした。彼女は赤いスポーツカーを運転し、窓を下ろして眩しい笑みを浮かべた。「奏汰、日葵。偶然ね。私も引っ越してきたの。お隣よ」私は奏汰に従い、その新しい家の中に入った。内装は奏汰好みのミニマルデザイン、冷たい色調で、すべてが、彼そのものだ。私は隣の家へ歩み寄り、巨大な窓越しに里奈の家のインテリアを見つめた。二つの別荘のデザインは、ほとんど同じだ。私が呆然と立ち尽くしていると、里奈はからかうように笑った。「これからもっと仲良くしましょうね」その夜、新居の祝いに里奈が近くの高級フレンチに行こうと提案した。奏汰は断らなかった。ウェイターが持って来たメニューはすべて読めないフランス語だった。私は指先で紙の端をぎゅっと掴み、どうすればいいか分からずに固まっていた。奏汰が代わりに注文してくれて、彼と同じステーキを選んだ。対面の里奈は、フォークでアスパラを上手に刺し、優雅に食べている。彼女は奏汰を見つめ、意味ありげに口を開いた。「奏汰、覚えてるよね。私、フィレは七分焼

  • 十年を捧げて、残ったのは悲しみ   第2話

    学校の近くにあるメイクサロンへ向かい、私は退職願を出すつもりだった。店長は私を見るなり、嬉しそうに駆け寄ってきて、私の手を熱く握った。「日葵、お願いだから辞めないで!あなたみたいな腕のいいメイクアップアーティスト、他にいないのよ!もう少しだけでいいの、ね?もうちょっとだけ手伝って!」店長のあまりの勢いに、私は断る言葉を失った。「ちょうど今日、華都大学の女学生から大口の予約が入ってるの。出張サービスで、報酬もかなりいいのよ。ね、お願い、一度だけでいいから行ってきて」私は結局、断りきれずにうなずいた。化粧道具を詰めた箱を持って、私は校内で最も豪華な四人部屋と噂される寮へと足を踏み入れた。部屋の空気には高価な香水の匂いが漂っていた。ふと視線を上げると、机の上に飾られた写真立てが目に入った。写真の中で、奏汰と里奈は肩を寄せ合い、満面の笑みを浮かべている。まさにお似合いのカップルだ。「わあ、この増田先生との写真、ほんっとに素敵すぎる!」眉を描いていた女子が羨望の声を上げた。すると、もう一人の女学生がすぐに口を開いた。「でしょ? だって里奈ってうち大学の理事の娘だし、増田先生は里奈のお父さんの一番の教え子なんだよ。二人って本当に理想のカップルだよね」「婚約の話も出てるって聞いたわ。まさに最強同士の組み合わせだよ!」私は俯き、聞こえなかったふりをして、準備を続けた。「あれ、あなた……」先ほどの学生が私に近づき、じっと顔をのぞき込んできた。彼女は私に気づき、顔に軽蔑の表情を浮かべた。そして同じ部屋の友達に向かって言った。「ほら、あの子よ。見たことある。前に増田先生にお弁当を届けてた人でしょう!いつも地味な服着てたわよね」「増田先生がどうしてこんな子と一緒にいるのか、本当に理解できないよ。格を下げてるだけじゃない?」私は手を止め、一瞬顔色が青ざめた。頭を上げることも、言い返すこともせず、ただ無言で作業を続けた。一時間後、仕事は終わった。報酬を受け取ると、まるで逃げるようにその部屋を後にした。ただ、小さなアパートへ、そして自分だけの居場所へ、早く戻りたかった。しかし、校門の前で、私が最も見たくなかった光景が目に入った。奏汰と里奈が並んで立っていたのだ。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status