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第6章 美穗(下)

 その夜、美穂は布団の中でじっと目を閉じていた。 父は村長宅の宴へ出かけ、家には母の寝息だけが規則正しく響いている。息を殺し、掛け布団の端を握りしめる。胸の奥では、鼓動がうるさいほどに高鳴っていた。 ――今夜しかない。 男衆は皆、村長の家に集まっている。ひと目を盗んで外に出られるのは、今この時だけだ。 美穂はそっと布団を抜け出した。小さな鞄の中には、ずっと隠してきた貯金――十数万円と、大学のパンフレット。 これまで何度も健太にお弁当を届けに通った隣家。けれど、今夜が最後になるかもしれない。 ――二人で街へ行こう。 このまま村に閉じ込められていたら、健太はきっと壊れてしまう。日に日に絶望を深めていく姿を、もう見ていられなかった。 環境が変われば、もしかしたら。街の大きな病院に行けば、もしかしたら。 ほんの小さな希望でも、掴み取るしかなかった。 夜気を吸い込み、足音を忍ばせて家を出る。隣の健太の家は、父も兄たちも宴に出払っていて、灯りの消えた影だけがある。何度も通った戸口に立つと、今夜ばかりは手の震えが止まらなかった。 拳で静かに戸を叩いた。 やがて板戸が軋み、健太が顔を出す。「……美穂? 本気で、来たんか」 月光に照らされた健太の瞳が驚きに大きく見開かれる。今晩、大人たちがいないうちに村を出よう、昨日のうちに健太には打ち明けてあった。 美穂は鞄を掲げ、力を込めて言う。「十何万は貯めてきた。これで電車にも宿にも困らん。……一緒に行こう、健太」 健太は言葉を失い、鞄を見つめた。 やがて小さく息を吐き、苦笑する。「……そこまで考えとったんか。俺は数万しか持っとらんのに」「十分じゃろ。あとは街に出てから考えればええ。ここにおったら、何も変わらんけん」 声が震えそうになるのを抑えながら、そう言い切った。 健太の表情に影が走り、けれどすぐに真剣な眼差しで見返してくる。「美穂……おまえ、ほんまに……」 言葉の続きはなかった。けれどその瞳に浮かんだものを、美穂は見逃さなかった。 ――驚きと戸惑い、それでも確かに、信じようとしている光。「行こ、健太!」 美穂の声に、健太は小さく頷いた。そして荷物を抱え、二人は並んで歩き出す。 月明かりに照らされた細い道を、川のせせらぎが遠くから導くように響いていた。 静かな夜道を、二人で歩いて
last updateLast Updated : 2025-12-06
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第6章 あゆみ(中)

 橋を渡って必死に追いかけた。夜の道は怖かったけれど、清音のそばに行きたい一心で、足は止まらなかった。  胸はどきどきして、息も苦しい。けど、それも全部、清音に近づける証のようで嬉しかった。 追いついた時、美穂と健太は地にのたうち、血を吐きながら苦しんでいた。 二人の身体のあちこちが、不意に裂け、血と肉が、噴水のように吹き上がり清音に降りかかる。 月光に照らされたその姿は、おそろしいほど惨かった。  けれど、あゆみの目はそこに向かなかった。 清音――。  赤黒い血に頬を濡らしながらも、祈りの言葉を口にするその横顔。  月光に浮かんだ睫毛の影まで、美しくて仕方がなかった。(やっぱり、わたしは清音のこと、だいすきなんや) 胸の奥が甘く震えて、涙が滲んだ。  美穂と健太のことより、清音の姿が尊く思えた。「清音……やっぱり、きれい……」 小さく呟く。唇の端が自然と緩んだ。  美穂と健太がこうなったのは、きっと自分が清音に知らせに走ったからだ。 あの二人の逃亡を止める役目を、自分が果たしたのだ。 そう思うと、胸がいっぱいになり、誇らしくすらあった。(わたし、清音のために役に立ったんよ。えらい子やろ……?) 血の匂いも、呻き声も、夜風に消えていく。  残ったのは、祈りを紡ぐ清音の美しい姿だけだった。◆◆◆ あとがき。清音の章と銘打ちながら、美穂と健太の物語になりました。 長い間章でしたが、一気に読んでいただきたく、この形に。 二人の物語は、ここで終わります。 次章「家族」では、佐藤家の翌日を描きます。 書いていると、手が震えました。
last updateLast Updated : 2025-12-07
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第7章 家族

 夜明け前の薄闇。 沙織は居間の片隅に腰を下ろし、布団に沈んでいる俊夫を見つめていた。まだ寝息は荒く、布団の上には夜の熱がこもっている。 昨夜は遅くまで宴が続き、村長の家から戻ったのは月が真上を過ぎたあとだった。これでは朝は寝過ごすに違いないと覚悟していたのに――。「あら……?」 外から人の気配がした。まだ夜も明けきらないというのに、ざわめきが広がっている。 鍬が土を打つ金属音、畝を返す鈍い響き。そこに笑い声まで混じっていた。 沙織は立ち上がり、窓をわずかに開ける。白い川霧が漂うなか、人影が列をなし、闇に溶けるように畑へと歩んでいくのが見えた。 思わず襟を合わせる。昨夜あれほど遅くまで酒を酌み交わしていたのに、どうしてこれほど早く動けるのか。東京では夜遅く働いた翌朝に、村全体が揃って畑に出るなど考えられないことだった。「起きて……ねぇ、あなた、起きてよ」 布団の脇に戻り、俊夫に声をかける。返事はなく、ただ荒い息だけが布団の下から漏れていた。 ――現代の暮らしとは思えない。それでも「こういうものだ」と言い聞かせるしかなかった。 居間へ戻ると、俊夫の隣で陽一は小さな寝息を立てていた。子供の呼吸は規則正しく、夜明け前の静けさに調和している。 問題は俊夫だった。布団に沈み込んだまま、身じろぎもしない。 沙織はしゃがみ込み、肩を軽く揺する。「俊夫さん、起きて。もう皆、畑に出てるわよ」 この村への移住プログラムで、俊夫は自分の畑を貰う予定になっている。最初の一年は村の農家の手伝いと見習い。技術と知識を身につける期間だった。皆が働き出しているのに、俊夫だけが寝ているなどとんでもないことだった。「ねぇ!」 身体を布団の上から揺さぶる。 だが、返事はなく、布団の中から荒い呼吸だけが漏れた。 手を伸ばすと、掌にまとわりつくほどの汗。布団までぐっしょり濡れていて、熱気が立ちのぼっている。「あなた……俊夫さん……?」 額に触れた瞬間、沙織の心臓が跳ねた。火鉢のそばに指を置いたような熱さ。 俊夫がうめき声をあげ、ようやく瞼を開く。 薄暗い明かりの中、その瞳は赤く充血していた。血管が網のように浮かび、白目はにじむように濁っている。昨夜の宴のせい、と笑うにはあまりに異様だった。「うう……大丈夫。飲みすぎただけだ」 かすれた声。無理に笑みを作ろう
last updateLast Updated : 2025-12-08
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第7章 知らせ

 居間に入った吉川は、布団に伏した俊夫の顔を覗き込んでいた。 赤く充血した眼、汗で濡れた髪、胸の上下は不規則に荒い。 吉川は黙って脈を取り、額に手を当てる。眉間の皺が深く刻まれていく。「……熱は高いですね。宴会の時も具合を悪くされていたようなので、気にかかっていたのですが」 低くつぶやき、聴診器を胸に当てる。俊夫の呼吸音が部屋に広がり、沙織は思わず両手を握りしめた。 そんな話は初めて聞く。沙織は、自分が思っている以上に夫婦のコミュニケーションがとれていないことに驚いていた。何でも話し合っていると思っていたのに。「どうなんでしょうか……?」 震える声に、吉川は眼鏡の奥から穏やかな視線を向けた。「熱は三十九度ほどありますが、呼吸はしっかりしています。胸の音もきれいですし、脈も落ち着いている。今すぐ命に関わるような危険はありません」 沙織の表情に安堵の色が差すのを見て、吉川はさらに言葉を重ねた。「おそらく疲労からくる一過性の熱でしょう。まずは水分をしっかり摂らせて、布団で休ませてください。しばらく安静にして、様子を見ましょう」 その言葉に沙織の膝から力が抜けた。床に崩れ落ちそうになる彼女を、吉川が静かに支える。「大丈夫です。私が見ています」 ――自分ひとりではない。この家に、村に、寄り添ってくれる人がいる。 吉川は往診鞄を閉じ、立ち上がる。「体を冷やすために水枕を使ってください。食事は消化の良いものを。熱が下がらなければ、また知らせてください」 沙織は深く頭を下げ、声を震わせた。「ありがとうございます……本当に……」「そういえば、村長というか村の人から赤い――」 吉川が、その言葉を口にした直後、玄関が激しく開け放たれた。 千鶴が駆け込んできたのだ。顔は蒼白で、肩で荒く息をついている。「せ、先生! 大変なんです、大変で……!」 畳に膝をつき、取り乱した様子で吉川にすがりつく。 吉川が怪訝な表情で身を屈めると、千鶴は震える唇を寄せ、耳元に素早く何事かをささやいた。 その瞬間、吉川の顔色が変わった。 眼鏡の奥で瞳が鋭くなり、唇は硬く結ばれる。「申し訳ありません、緊急の用事ができまして……ご主人の容態は安定していますから安心してください。それではこれで失礼いたします」 立ち上がり、早口で言葉を残す。「何かあれば、すぐ診療所
last updateLast Updated : 2025-12-09
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第7章 ひと雫

 お福はすぐに笑顔を取り戻し、調子を和らげるように言った。「まあ、都会とは違うけぇな。旦那さんは寝ときゃようなるわ。心配せんでええ」 お福がそう言って笑顔を繰り返したとき、清一がふと思い出したように懐に手を入れた。「……そうじゃ、これを渡しとこうかの」 掌に載せられたのは、小さなガラス瓶だった。  昼の光を受けてなお黒ずんで見えるほど、濃い赤がねっとりと揺れている。血のようでいて、粘りを含んだその色は、視線を外せないほど異様だった。「昔から村に伝わる薬じゃ。よう効くけぇ、安心せえ」 清一は穏やかな笑みを崩さず、瓶を沙織の手に押し込む。 掌に触れた瞬間、沙織の背筋に冷たいものが走った。  あまりに鮮やかな赤。薬というより、まるで誰かの体から抜き取った血のように思えてならなかった。「……ありがとうございます」 それしか言えず、沙織は頭を下げて戸口を閉めた。 居間へ戻ると、俊夫はまだ布団に沈んでいた。汗に濡れた額、荒い呼吸。沙織は瓶を見つめ、言葉を選びかねた。「あなた、村長さんから……こんなものをもらったの。飲んでみる?」 俊夫はその言葉に、まるで待ちかねていたかのように身を起こした。伸ばされた手は震えながらも力強く、瓶を掴むとすぐに栓を抜いた。「……っ」 赤い液体を喉に流し込む。ごくり、ごくりと飲み下す音がやけに大きく響いた。瓶はあっという間に空になり、俊夫は唇の端から滴った赤を拭おうともしなかった。 その顔は陶酔にも似て、目の充血がさらに濃く燃えているように見えた。だがしばらくすると、呼吸が落ち着き、汗も引き、布団に横たわったまま穏やかな寝息を立て始めた。「……俊夫さん……あなた?」 返事はなく、俊夫は安らかに眠っている。安堵が胸に広がる。けれど同時に、瓶の底に残った赤黒い痕跡が、目に焼き付いて離れない。  沙織は小さく震える手で空瓶を握りしめ、夜明けの冷たい光を受ける窓の外を見つめた。 日が傾き始めた頃、戸口が勢いよく開いた。「ただいまー!」 陽一が駆け込んできた。頬は赤く上気し、汗に濡れた前髪が額に貼りついている。「お父さん! お母さん!」 その声に俊夫が布団から身を起こした。もう顔色は朝とは別人のように明るく、背筋もすっと伸びている。「おう、陽一。心配かけたな。今日はちょっと寝すぎただけだ」「大丈夫なの?」
last updateLast Updated : 2025-12-10
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第7章 熱

 夜更け、家の中は静かだった。陽一は宿題を終えるとすぐに布団に潜り込み、子供らしい寝息を立てている。食事の片付けも終わり、部屋には外から聞こえてくる気の早い虫の音だけが響いていた。 沙織も衣を脱ぎ、布団に横になった。今日はいろいろありすぎた――そう思って目を閉じたその時、隣から熱が迫ってきた。「……沙織」 俊夫の声は低く掠れていた。顔を向けると、目がぎらぎらと光を帯びている。比喩ではなく、夜の獣のように光って見えた。昼間はあれほど穏やかだったのに、今は渇いた何かに突き動かされているようだった。「あなた?」 腕が伸び、沙織の身体を抱きすくめる。布団の中に閉じ込められ、逃げ場はなかった。「お前が欲しい」 熱い息が首筋にかかる。掌は荒々しく背を這い、汗でじっとりと濡れていた。押し寄せる体温は火傷のように熱く、息苦しさすら覚える。「ま、待って……陽一が……」「大丈夫だ。よく寝てる」 耳元で囁く声は甘さを欠き、獣のうなりに近かった。唇が押しつけられ、強く吸い付かれる。息を奪われ、喉の奥から震える声が漏れる。 抱き寄せる腕の力は異様に強かった。胸板は硬く膨れ、皮膚の下で筋肉が、それとも違う何かが痙攣するように脈打っている。指先で触れたとき、その波打つ感触に沙織の全身が凍りついた。「……愛してる。お前がいなきゃ駄目なんだ」 繰り返される言葉は必死で、だが理性を失っていた。瞳を覗き込んだ刹那、光が縦に裂けたように見えた。瞳孔が細長く変形し、炎を宿した獣の目に重なった。「俊夫……!」 恐怖と混乱の中で、それでも沙織は自分に言い聞かせた。――これは夫だ。陽一の父だ。逃げてはいけない。「……あぁッ!」 俊夫が無理矢理に中に入ってきた時、引きつるような苦痛から思わず声が漏れる。 必死に縋りつきながら、ただ押し潰される熱に耐えた。「助けて……助けてくれ、沙織……ッ!」 譫言のように名前を呟きながら必死になって自分に縋り付いてくる俊夫を沙織はそっと抱きしめる。自分が溢れ始めたことがわかる。同時に俊夫への思いか、引きつるような痛みは消えてゆき、ただ自分の中心に熱を感じ始めた。「ん……んぁ!」 俊夫の力強い律動に思わず声が漏れる。愛する夫を抱きしめながら沙織の胸は疑問に満たされていく。 この人がこんなに怯えてる……何で? 頼りになる強い夫の怯え方に
last updateLast Updated : 2025-12-11
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第7章 日常の影

 その気持ちを振り切るように沙織は二人に声をかけた。「さぁ、朝ご飯の支度ができたわよ。二人とも食べてちょうだい」 沙織の声に食卓に着く二人を見て、今日も始まる村の一日に沙織は思いを馳せるのだった。 三人で食卓につく。湯気の立つ茶碗を前に、そろって手を合わせた。「いただきます」 陽一は夢中でご飯を頬張った。まだ熱いのに「あちち」と言いながらも、口いっぱいに詰め込む。「ゆっくり食べろ。喉につかえるぞ」 俊夫が笑って茶碗を支えてやる。「陽一、ピーマンも食べなさい」 沙織は箸で炒め物をつまみ、息子の皿にのせた。毎回このやり取りをしている。もう、本当に好き嫌いが多いんだから。ピーマンは油で炒めると苦味が減って、化学調味料を振ると更に食べやすくなる。こんなに工夫してるのに、相変わらず陽一はピーマンが苦手で、次の台詞まで予想出来た。「やだ、苦いから」 予想通りの言葉を口にした陽一は顔をしかめて、箸で端に寄せようとする。「好き嫌いしてたら大きくなれないわよ」 沙織の声が少し厳しくなる。「まあまあ、いいじゃないか。俺だって子供のころは嫌いだったんだ」 俊夫が笑いながら陽一の肩を抱き寄せる。全くこの人は。呆れ顔で沙織は敏夫の顔を見つめた。「な? 陽一」「うん!」 甘やかす声に、陽一は嬉しそうに笑った。子供が出来た時、私はムチ役で敏夫はアメ役。そう決めた時の遠い思い出が蘇った。「だから病気がちになるのよ」 沙織は呆れたように息をついた。だが、二人の笑顔を見ていると心の奥が温かくなる。 きゅうりの浅漬けをぽりぽり噛む音、味噌汁をすする音、箸の触れ合う軽やかな響き。 食卓に響く音の一つひとつが、東京では遠ざかってしまっていた家族の時間を取り戻してくれるようだった。 朝食を終えると、俊夫は力強く立ち上がった。「よし、今日は頑張るぞ!」 まだ朝靄が薄く残るなか、鍬を手に外へ出て行く。その足取りは軽やかで、昨日まで高熱で寝込んでいた人間とは思えない。 沙織は窓から遠く畑の様子を眺めた。小さく見える俊夫が鍬を振り下ろす音が、規則的にここまで響いてくる。 ――力が強すぎる。 沙織は思わず息を呑んだ。 岩混じりの畝を軽々と掘り返し、額に浮かんだ汗を乱暴に拭ってはまた土を割る。体の動きが機械的で、まるで疲れを知らないかのようだった。「お父さん、
last updateLast Updated : 2025-12-12
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第7章 拉致

 夜、布団に入ったあと。 寝息の落ち着いた陽一を横に、沙織は勇気を振り絞った。「俊夫さん……やっぱり、一度診てもらったほうがいいと思うの」「なんだと?」 俊夫が身を起こし、低い声で繰り返す。「俺を疑ってるのか」「違うの、ただ心配で……」「俺は元気になったんだ。お前も喜べばいい」 笑みを浮かべながらも、声は荒々しく、瞳の奥にぎらりと光が走った。 沙織は胸が縮み、言葉を失う。疑ってはいけない。否定すれば、もっと遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が喉を塞いだ。 隣で陽一が寝返りを打ち、小さな寝息を立てている。家族を守るはずの家の中で、沙織だけが冷たい孤独に閉ざされていた。 ◆ その夜遅く――突然、俊夫が暴れ始めた。 赤く沈む陽が山の端を染め、影を長く伸ばしていた夕暮れから数時間。沙織が台所で夕食の片付けをしていると、居間から異様な音がした。 何かが畳を引っ掻く音。そして、低い呻き声。「俊夫さん?」 駆けつけると、俊夫が床に膝をつき、全身を震わせていた。顔は赤黒く火照り、荒い息が喉を震わせている。「大丈夫……?」 近づこうとした瞬間――「うあああああッ!」 俊夫が跳ね起き、喉の奥から獣の咆哮を上げた。畳を裂く音、柱を揺らすほどの力。 赤く充血した眼がぎらりと光り、瞳孔が縦に裂けかける。 汗に濡れた胸板が脈打ち、全身の筋肉が浮き上がる。「俊夫さん!」 沙織は叫んだが、その時すでに玄関が激しく叩かれていた。「奥さん! 大変なことになっとるな! 大丈夫じゃから!」 メキメキと音を立てて、戸が無理矢理開かれると、男衆が十人以上、総出で駆けつけていた。まるで俊夫の暴発を予期していたかのような素早さだった。 その群れの後ろに、村長が――虚木清一が立っていた。 日に焼けた顔に穏やかな笑み。松明の火がその輪郭を照らす。 ――そして、その隣に佇む少女は誰だろう? まだ少女のはずなのに、村長の傍らに立つ姿は自然すぎた。 白い首筋をまっすぐに伸ばし、沈黙の中に不思議な威厳を帯びている。 周囲の大人たちが彼女を一目置くように距離を保っているのを見て、沙織の胸に違和感が走った。 なぜ、この子が――。「心配せんでええ、すぐ良うなるけぇ」「よう働きすぎただけじゃ」 口々に同じ言葉を並べながら、全員が笑顔を浮かべていた。 その揃いすぎ
last updateLast Updated : 2025-12-13
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第8章 二つの遺体

 息が切れるのも構わず、吉川は村の道を駆けていた。 朝霧がまだ地を這い、畦道の水面を白く曇らせている。遠くで鶏が鳴き、集落はまだ目覚めきっていない。だが彼の胸は、喉を掴まれるような焦燥で焼けついていた。「先生、待ってください……!」 後ろから千鶴の声が追う。裾をかき寄せ、転びそうになりながらも、必死に足を運んでいた。 彼女の顔は青ざめ、汗で乱れた髪が頬に張りついている。普段は静かな笑みを絶やさぬ千鶴が、今は怯えを隠そうともしなかった。あの時、佐藤家で千鶴が報告してくれた言葉を思い出す。(診療所に……し、死体が運び込まれました!) その声は震えていた。◆ 診療所の前には、すでに村の男衆が集まっていた。誰も声を荒げず、ただ口元に同じ笑みを貼りつけ、互いに頷き合っている。その中央に立つのは村長・清一。背筋を伸ばし、白髪交じりの頭を朝の光に光らせ、まるで儀式の進行役のように静かに構えていた。 地面には古びた戸板が置かれ、その上に二つの躰が並べられていた。 少年と少女――そうとしか言えない背丈と骨格。辛うじて服が体に張り付いている。皮膚は内側から裂け、腹も胸も四肢も、肉の継ぎ目という継ぎ目に亀裂が走っている。外から囓られただけでははなく、臓腑から圧を受け爆ぜたような裂開もある。少年の遺体は左手すら肩から先がなかった。 血液はほとんど残っておらず、床を汚すはずの赤はどこにもない。鼻を突くのは鉄の臭気だけ。「……山の中で見つかりましてな」 清一の声は低く穏やかだった。「猟師衆が知らせてきて、こうして運ばせてもろうた」「……朝方な、山鳥を撃ちに川ん方へ出とりましてな」 肩幅の広い庄司が口を開いた。銃袋を背に、片手を腰に当てながら淡々と告げる。「道路が血まみれでのう、鼻が曲がるような匂いしとったけぇ。そしたら野犬どもが群れとってな……死体を食い破っとったんじゃ。見ての通り、ひどいもんで」 吉川は戸板を見つめた。 顔の皮膚は裂け、骨がむき出しになっている。だが断片的な形は、知っている。診療所で診察に来たあの眼差し。 ――誰だ。名前が出てこない。 いや、気のせいなのか? 記憶にある、と思い込んでいるだけなのだろうか。 喉が震え、思考が霧に覆われる。眼鏡の奥で必死に目を凝らした。少年と少女の面影は確かにそこにあるはずなのに、言葉として結べない。
last updateLast Updated : 2025-12-14
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第8章 肉を持つ目

 処置室に安置された遺体を前に、吉川は白衣の袖を整えた。 戸口のあたりにはまだ村人たちが群れており、笑顔のままこちらを見守っている。視線の重さが、器具の音よりも胸を圧迫していた。「……ここから先は私の領分です。皆さんはお帰りください」 努めて平静な声で告げる。 ざわめきは起こらなかった。ただ、一人が頷き、また一人が頷き、笑顔のまま戸口から外へ引いていく。足音も声もなく、列をなすように退いてゆく光景に、吉川は背筋を冷たいものが走るのを感じた。 ただ一人、清一だけが残った。 白髪交じりの頭を少し傾け、口元に笑みを貼りつけたまま、処置室の奥へと視線を向けている。「先生。わしは、ここにおった方が……」 言葉は柔らかかった。だが眼差しには、執拗な光が潜んでいた。 吉川は眼鏡の奥で視線を受け止め、低く返した。「村長。これは医者の仕事です。外の方がよろしいでしょう」 一瞬だけ、清一の笑みが深く刻まれたように見えた。だが反論はなく、静かに踵を返す。 戸口から去り際に、振り向きもせずただ黙って。 戸が閉じる。 残されたのは吉川と千鶴、そして処置室の中央に横たわる無惨な躰だけだった。 処置室の空気が落ち着くと、吉川は息を吐き、机の引き出しからカメラを取り出した。 記録用のデジカメ。大学病院時代から癖のように携帯している。 この村には症例記録のためにと持ち込んだものだった。 脳内でもう一人の吉川が声を上げる。手軽にスマホで撮影すればいいんじゃないか? が、次の瞬間その声はかき消された。 スマホ? スマホって何だ? ……訳のわからない妄想に付き合っている暇はない。今はこの目の前の現実を記録しなくては。「千鶴さん、照明をもう少し強く……窓も開けて光を入れてください」 千鶴が慌ただしく応じる。窓を引くと冷たい朝の空気が流れ込み、鉄と血の臭気を攪拌した。白布を押さえながら立つ千鶴の顔は、強ばりきっていた。 吉川はカメラを構え、ファインダーを覗いた。 ――少年の躰。 皮膚は裂け、腹腔は空洞のように見える。光が差し込み、影が深く沈んだ。 シャッターを切るたび、乾いた音が静寂を裂く。 カシャン。 肉と血の映像が、冷たいガラスの奥に焼き付けられていく。 全身を数枚。顔、裂け目、四肢の欠損。 医学的には必要不可欠な記録だが、レンズを通して覗く
last updateLast Updated : 2025-12-15
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