その夜、美穂は布団の中でじっと目を閉じていた。 父は村長宅の宴へ出かけ、家には母の寝息だけが規則正しく響いている。息を殺し、掛け布団の端を握りしめる。胸の奥では、鼓動がうるさいほどに高鳴っていた。 ――今夜しかない。 男衆は皆、村長の家に集まっている。ひと目を盗んで外に出られるのは、今この時だけだ。 美穂はそっと布団を抜け出した。小さな鞄の中には、ずっと隠してきた貯金――十数万円と、大学のパンフレット。 これまで何度も健太にお弁当を届けに通った隣家。けれど、今夜が最後になるかもしれない。 ――二人で街へ行こう。 このまま村に閉じ込められていたら、健太はきっと壊れてしまう。日に日に絶望を深めていく姿を、もう見ていられなかった。 環境が変われば、もしかしたら。街の大きな病院に行けば、もしかしたら。 ほんの小さな希望でも、掴み取るしかなかった。 夜気を吸い込み、足音を忍ばせて家を出る。隣の健太の家は、父も兄たちも宴に出払っていて、灯りの消えた影だけがある。何度も通った戸口に立つと、今夜ばかりは手の震えが止まらなかった。 拳で静かに戸を叩いた。 やがて板戸が軋み、健太が顔を出す。「……美穂? 本気で、来たんか」 月光に照らされた健太の瞳が驚きに大きく見開かれる。今晩、大人たちがいないうちに村を出よう、昨日のうちに健太には打ち明けてあった。 美穂は鞄を掲げ、力を込めて言う。「十何万は貯めてきた。これで電車にも宿にも困らん。……一緒に行こう、健太」 健太は言葉を失い、鞄を見つめた。 やがて小さく息を吐き、苦笑する。「……そこまで考えとったんか。俺は数万しか持っとらんのに」「十分じゃろ。あとは街に出てから考えればええ。ここにおったら、何も変わらんけん」 声が震えそうになるのを抑えながら、そう言い切った。 健太の表情に影が走り、けれどすぐに真剣な眼差しで見返してくる。「美穂……おまえ、ほんまに……」 言葉の続きはなかった。けれどその瞳に浮かんだものを、美穂は見逃さなかった。 ――驚きと戸惑い、それでも確かに、信じようとしている光。「行こ、健太!」 美穂の声に、健太は小さく頷いた。そして荷物を抱え、二人は並んで歩き出す。 月明かりに照らされた細い道を、川のせせらぎが遠くから導くように響いていた。 静かな夜道を、二人で歩いて
Last Updated : 2025-12-06 Read more