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44 Chapters

第8章 夏の残像

 机に並んで座る三人の姿が、ふいに脳裏に浮かんだ。 放課後の図書室。窓から射す夕陽が机を赤く染め、本棚の影が長く伸びていた。 中央にいたのが自分だった。白衣を目指して医学や生物の本ばかりを手に取り、難しい専門用語に眉をひそめていた。髪は真面目に刈り込んでいたが額にかかることが多く、いつも指で払いのけていた。 片側には、古い民俗誌や怪談集を積み上げている彼がいた。くしゃりとした髪に、笑いかけるときだけ片目を細める癖がある。鉛筆を指でくるくる回し、紙に線を引く音がやけに楽しげに響いていた。自分が医学書の難解な図表と格闘している間、彼は軽やかに文字を追い、時折「へえ」「そうか」と小さく呟いていた。 もう一方には、彼女がいた。肩にかかる髪は柔らかく、光を受けると茶色がかって見えた。目元は涼しげで、笑うとえくぼが浮かぶ。いつもノートを広げ、特別な意味もなさそうにページをめくっていたが、その仕草を見ているだけで心が落ち着いた。 三人並んで座るその時間は、互いに多くを語らなくてもよかった。ページをめくる音と、鉛筆の走る音が重なり合い、それだけで胸が満たされていた。この静けさが、吉川には何よりも貴重だった。 「お前は医者になるだろ」 民俗誌の本を閉じて、彼が笑いながらこちらを見た。 「お前は書き続けるんだろ」 自分も思わず言い返した。冗談めいたやりとりだったのに、不思議とどちらにも確かさがあった。 「私だってそうよ。いつかプロの小説家になるんだから」 彼女が少し誇らしげに言った。 二人の会話を聞きながら、吉川は妙な居心地の悪さを感じていた。彼らには「創作」という共通点がある。書くことで繋がっている。一方、自分が目指すのは医師という、どこか孤独な道だった。 彼女は、そんな吉川の表情を見て、ふっと微笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、時折影が差すのを、吉川は見逃さなかった。まるで三人の未来の分かれ道を、先に知っているかのように。 窓の外からは運動部の掛け声が遠くに届いていた。けれどこの机の上に並んだ影は、夕陽の赤に溶けあい、三人だけの世界を作っていた。◆ 夏休みの午後、自転車をこぐ足が熱を帯びていた。 話の始まりは、彼が町外れにある廃神社の噂をどこからか仕入れてきたことからだった。 男二人で、ゆっくり一晩話そう、と肝試しも兼ねてキャンプ、というか野宿を
last updateLast Updated : 2025-12-17
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第8章 忘れられた顔

 処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。 炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。 吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。「今のは一体……」 千鶴が唖然としたようすで呟く。 吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。 左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。「ふぅ……」 治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。 窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。「古い建物だから隙間風が――」 カルテの名前が目に入る。 ――森谷健太。 そうだ。 ――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。 吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。 目指していたものは、一番上に乗っていた。 ――林田美穂。 吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。 森谷健太。 林田美穗。 その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。 記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。 昨日まで確かにそこにいた子供たち。 診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。  友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。 畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。「……なぜ……」 昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。 なぜ、自分は彼らを忘れていた? 突発性健忘症? こんなことがあり得るのか? 吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。 記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。 彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。「行かなくては……確認を……」 吉川は声を絞り出すように言った。 眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。 入院室――そこには少女の遺体が安置されている。 あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。 廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。 千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。 入院室の戸を開ける。 千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。「先生
last updateLast Updated : 2025-12-21
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第8章 記録と決意

 窓の外は蝉の声が満ち、陽は高く昇っていた。  だが診療所の中は、夜の残滓のように暗く淀んでいた。 千鶴は腕を押さえ、俯いたまま震えている。  その耳の奥には、まだあの少女の呻きが残響していた。  いや――それ以上に、得体の知れない声が微かに混じっていた。  吉川には聞こえない、千鶴だけの声。「……宋次さん?」 かすかな呟きが漏れる。それは失踪した千鶴の夫の名前だった。  それは彼女自身が驚くほど自然に口をついて出た。 処置室の静けさの中で、吉川は千鶴に包帯を巻き直す。  かなり深く噛まれたその傷は、止血をしても尚、血を滲ませている。「千鶴さん、どうかしましたか? 痛みますか?」 「い、いえ、今声が聞こえたような気がして」 「声?」 彼女の唇はまだ震えている。精神的な動揺が消えないのだろう。  包帯を巻きながら、今日の出来事を思い出す。  あの肉塊。高校の時に見た、あれと同じような、それは怪異。  そして起き上がる死体。    だが吉川がもっとも慄然とした出来事は、その後に起こった。 あの後すぐに、吉川は林田と森谷の家を順に訪ねた。  美穗と健太の両親に、確認と報告をしなくては。  それは当然の義務であり、職務であった。 いずれの親も変わらぬ笑顔で迎え入れ、そして同じ言葉を返した。「うちには、最初からそんな子はおらんとですわ」 あまりに自然な調子に、背筋が冷たくなる。 やはり皆、揃って記憶を失っている。  ――こんなことが現実にあり得るのか。  いや、自分自身、二人のことを忘れていたのだ。  自分のことを頼ってくれていた、あの二人の子供を。  こみあがるような怒りを、吉川は冷静な仮面を被り押し殺す。「……千鶴さん。今のことは……誰にも言わない方がいい」 「でも……」 「村人に知られれば、混乱になる。いや、きっと“何もなかったこと”にされる。だから記録に残す。今は、それだけでいい」 吉川の声は低く、乾いていた。  千鶴はうつむき、しばらく沈黙してから小さく頷いた。「……わかりました。先生と、わたしだけの……秘密に」 互いの視線が一瞬だけ重なった。  その裏に潜むのは恐怖か、信頼か――。    千鶴を送り出した後、吉川はおもむろに引き出しから
last updateLast Updated : 2025-12-23
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第九章 いなかった子供たち

 昨夜の光景が、まだ梓の胸に鮮やかに残っていた。 谷に架かる吊り橋の上を、美穂と健太が並んで歩いていく。月に照らされた横顔はどこか晴れやかで、振り返って小さく手を振った梓に、二人は笑みを返してくれた。 ――街に行く。危険な道だけれど、きっとたどり着ける。無事に帰ってきて、また笑い合える。梓はそう信じて見送った。 翌朝、分校の一室には、初等部から高等部までの子供たちが集められていた。合同授業の日で、狭い教室はざわめきと光に満ちている。窓辺には夏の陽が差し込み、木の机の天板を白く照らしていた。「では、出席をとるぞ」 楢崎先生が名簿を開いた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、口元にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。 まず初等部。幼い声が順々に「はい」と返っていき、教室に元気な声が響く。 やがて高等部の番となった。生徒は五人しかいない。呼ばれる順番はいつも決まっていた。 ――虚木、林田、森谷、根元、矢野。「虚木」「はい」 清音の澄んだ声が響き、教室が一瞬だけ静まる。「根元」「はーい」 あゆみが元気な声で手を挙げて応える。「矢野」「はい」 自分の番だ。梓は慌てて声を張った。 ――そこで名簿は閉じられた。「以上」 梓は瞬きをした。――おかしい。 いつもなら清音のあとに、美穂、健太の名が呼ばれるはずだ。だが今日は飛ばされている。欠席とすら告げられなかった。「あの、先生」 思わず声が出る。「森谷さんと林田さんは……今日は欠席ですか?」 先生は首をかしげ、笑顔を崩さない。「そがん子は、最初からおらんじゃろう」 その言葉を合図にしたように、初等部の子供たちも、高等部の同級生も一斉に頷いた。「そうたい」「おらんとよ」「そがん子はおらんかった」 揃った笑顔と声が、教室を満たす。 梓の背筋に冷たいものが走った。 ――そんなはずはない。昨日まで、隣で笑っていたのに。 胸に重たいものを抱えたまま席に戻ると、隣から小さな声がした。 授業は粛々と進み、教室にいる誰一人として美穂と健太のことを話題には出さなかった。机も二つ空いているというのに。初等部の子供たちもあゆみも清音も、先生たちでさえも。 そして一日の授業が終わる。 梓は席を立つ気にもなれず、教室の机にうつ伏していた。頭の中を疑問がグルグル回る。村を出て行った二人はどうなったの? 
last updateLast Updated : 2025-12-26
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