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第2章 吉川の過去(上)

 東京から来た少女……か。 診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、数年前のあの日の病室へと戻っていった。◆ 蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。 病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。 壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。 その一角に、少女が横たわっていた。 痩せすぎた肩はシーツに沈み、頬の線は鋭い。十代の半ばだろう。髪が汗で額に貼りつき、呼吸のたびにかすかに揺れる。 その瞳だけが異様に大きく、真っ直ぐに吉川を射抜いてきた。「……生きたいです」 声は糸のように細かった。だが言葉はかすむことなく、空気を切り裂くように響いた。 吉川は頷いた。頷くしかなかった。触れた皮膚は氷のように冷たく、指先で探る脈は、ときどき抜け落ちるように消えていく。血液検査の数値も悪化の一途をたどり、数字の列が死の影を裏打ちしていた 上席医が白衣の裾を払って入ってくる。「想定の範囲だ。経過観察。痛み止めを調整して、朝まで様子を見よう」「検査を追加しましょう。数値が合いません」「若いの、そうやって何でも疑っていたらキリがない。家族も不安になる」 吉川は口を閉じた。舌の裏に血の味がした。 カルテに打つ文字が小さくなる。点滴速度、体温、酸素濃度、脈拍。数字は書ける。数字は感情を持たない。けれど数字は嘘もつかない。 夜明け前、少女の目が一度だけ大きく開いた。 警報音が鳴り、止む。別の音が鳴り、止む。看護師が走ってきて、吉川が呼吸を確認し、上席医が短く指示を出す。動きは意味を持っていたが、時間は意味を失っていた。 朝に間に合わなかった。 廊下のベンチで、少女の母親が両手を膝に置いたままこちらを見上げた。顔は泣き腫れているのに、声はかすれて乾いていた。「あなたは、医者でしょうッ!」 吉川は頭を下げた。下げた姿勢のまま言葉が見つからず、背中の方から自分の呼吸の音だけが聞こえた。 その日の午後、上席医が診察室の扉を閉
last updateLast Updated : 2025-11-16
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第2章 吉川の過去(下)

 それから数ヶ月後、吉川は病院を去った。 形式上は「自己都合退職」とされたが、実際は退く以外になかった。削られた数字と修正印にまみれたカルテが山のように積まれた机を、背を向けて後にした。 都心の喧騒の中で次の勤め先を探す気力はもう残っていなかった。 その時思い出したのは、友人の言葉だった。――虚木。珍しい名字。その発祥の村が無医村となり、国の支援を受けて医師を求めている。 雪が降りしきる日、吉川はその村に降り立った。 バスの扉が閉まり、重たいエンジン音が山に吸い込まれていく。残されたのは、濡れたアスファルトと、白一色に閉ざされた静寂だけだった。 キャリーケースの取っ手は冷たく、金属の芯が骨に響いた。白衣と器具を詰め込んだ重みは、過去から背負ってきた罪そのもののように感じられた。 停留所の屋根の外で、三人がこちらを見ていた。年老いた女と、若い男と、壮年の男。三人とも笑っていた。雪が睫毛に積もり、表情の細部を覆い隠している。残るのは同じ角度に吊り上がった笑みの形だけ。「ようおいでなさった。わしが村長の虚木清一じゃ」「吉川です。本日から診療所を担当します。お世話になります」声は柔らかかったが、型どおりの響きがあった。老婆が顔をほころばせる。「ほんにありがたいことよ。冬は転ぶもんがおるけぇなあ」「子供らも、風邪ひくんです。先生がおってくださるのが一番心強い」若者の言葉に続いて、三人の吐く息が同じ白さで揺れた。 歩き出す途中で、村長がふと立ち止まり、振り返った。「先生、村には昔からのしきたりがある。難しいことではない。ただ――夜道は中央を歩くこと。端は水が流れとるけぇな。それと、人に会うたら、三度は笑みを交わすこと。笑顔は心を守るけぇ」 老婆も若者も、同じ笑顔で頷いた。 その言葉に不自然なほどの調和があり、吉川の胸に冷たいものが落ちた。 坂を下り、黒ずんだ木の外壁を持つ診療所に辿り着くと、村長が鍵束を手渡した。 倉庫を開けると、金属と油と湿った木の匂いが押し寄せる。壁際に発電機が置かれ、その隣には赤いタンクが二つ並んでいた。キャップを少し緩めると、油の甘く鉄を帯びた匂いが強く立ちのぼり、喉の奥が縮んだ。「燃料は十分に?」「当分は持つ。雪の間は車が入りにくいけぇ、節約はしたほうがええ。追加はわしが段取る」 ありがたい。 停電が多い
last updateLast Updated : 2025-11-17
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第2章 そして現在

「あの人の具合はどうでしょう?」 「驚く程順調に回復してますよ、もう大丈夫です」 心配そうに尋ねる千鶴に、吉川は笑顔で答えた。 榊商店とは隣り合っているということもあり、あれから頻繁に主人の見舞いに来る千鶴と会話を交わす。  榊の回復力は本当に驚くしかなかった。 甲斐甲斐しく主人の面倒を見る千鶴に目をやる。  千鶴は村の女たちと違う。笑うと唇の左が先に動き、人懐こさを感じさせる――村人たちの揃った笑顔にはない、素直な感情がそこにあった。 彼女は数年前にこの村へ嫁ぎ、榊商店を夫と二人で切り盛りしてきたと聞く。まだ二十代の終わり。本来なら、都会で華やかに暮らしていてもおかしくない年頃だ。 千鶴の傷は浅く、その日のうちに帰宅できた。  だが榊の方は違った。肋骨の骨折と内出血——吉川の見立てでは半年は安静が必要な重傷のはずだった。 ところが患者はみるみる回復していく。二週間で起き上がり、一ヶ月後には退院可能になった。 吉川には理解できなかった。村長に尋ねると、村ではよくあることだという。「村に伝わる薬がありましてな」 その薬を見せて欲しいと頼んだが、断られた。「先生がもっと村に馴染んでくれるか、大怪我でもしたらお渡ししますけぇの」 退院の日、夫婦は並んで深々と頭を下げた。「先生がいなければ……私たちは……」 「わしらは……一生、忘れんけぇ……」 二人の声は震えながらも確かな温もりを帯びていた。 吉川は静かに答えた。「当然のことです。それが仕事ですから」 けれど心の奥では、久しく味わえなかった充実感が灯っていた。  助けられた命。失わずに済んだ家族。  ――そう思った。◆ しかし、それは長くは続かなかった。  一か月後の朝。  千鶴がひとりで診療所を訪れた。顔は青ざめ、目は赤く腫れていた。「……主人が、いなくなったんです」 昨夜までは隣に眠っていた夫が、朝には忽然と消えていたという。布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。 村人たちは口を揃えた。 「山に行ったんじゃろう」「そのうち戻るけぇ」  皆、同じ形の笑顔を浮かべて。 だが、榊は帰らなかった。  千鶴は店を一人で切り盛りしながら、夫の帰りを信じて待ち続けた。 そして隣に住む医師の世話を、まるで家族のように焼くようになったのだった。◆ 記憶
last updateLast Updated : 2025-11-18
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第3章 村の日々

 診療所を出ると、学校へ向かう道すがら、次々と声をかけられた。「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」八百屋の前に立つおばあさんが手を振る。「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」 雑貨店の店主が顔を出す。「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」 通りがかりの女性が籠を抱えたまま立ち止まる。 一人、また一人と声をかけてくる村人たち。みんな笑顔で、親切で、梓のことを本当に気にかけてくれている。その温かさは確かで、嘘ではなかった。  だからこそ、胸の奥に小さなざわめきが残る。 昨日の朝のことを思い出す。玄関に置かれていた籠。菜っ葉と茄子、それから米袋。葉の裏にはまだ露が残り、泥も乾ききっていなかった。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に手を動かしてくれていた。その重みは確かで、込められた労力も気持ちも、籠を持ち上げただけで手のひらに伝わってきた。 母の古い日記にあった一文を思い出す。 ――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。 なぜだろう。この親切は、まるで決められた手順のように感じられる。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から静かに決められてしまうような気がした。◆ 学校に着くと、昨日の友人たちが手を振っていた。「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」 あゆみが小走りに駆け寄り、両手で梓の手をぎゅっと握ってくる。その体温がじかに伝わって、梓の頬がほんのり暖まった。あゆみの手は小さくて、けれど思いのほか力強くて、握り返さずにはいられなかった。「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」 美穂が委員長らしい調子で尋ねながら、何の躊躇もなく鞄からハンカチを取り出して、梓の袖についた埃をそっと払ってくれる。その手つきは慣れたもので、きっと普段から誰かの世話を焼いているのだろう。  梓は「ありがとう」と小さく呟いた。「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」 健太は分厚い本を抱えながら言って、ためらいがちに文庫本を差し出した。「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」 受け取ってページをめくると、インクの匂いが懐かしく立ち上る。胸の奥が、温まっ
last updateLast Updated : 2025-11-19
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第3章 笑顔の輪郭

 下校の時間。子どもたちの声でにぎやかな道を歩きながら、梓の心は温かかった。初等部の子どもたちが列をなして歩く。大きなカバンを背負い、背丈に合わない長靴をぱたぱた鳴らしながら。ひとりが転べば、周りがすぐに手を差し伸べる。笑い声が絶えない。 ――自分もようやく、この輪の中に入れたのかもしれない。 学校からの帰り道、畑の脇のコンクリート縁に小さな影を見つけた。 子どもだった。小学生くらいの年頃だろうか。紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、しゃがみこんでいる。「どうしたと? 矢野」 健太が声をかけてくる。彼にはこの子どもが見えていないのだろうか。周りを見ると、美穂もあゆみも子どもに気づいている様子はない。だが、子どもは確かにそこにしゃがんでいる。「そこに……子どもが……」「おらんじゃろ? 初等部の子は先に帰っとったやろ?」 梓の言葉に美穂が小首をかしげながら答えた。見えていない? 梓はしゃがんでいる子どもに目を凝らす。 ――何かがおかしかった。 背中の形が、人の骨格とは違っていた。肩甲骨が肩よりも上に突き出しているように見える。それに、全身が濡れていた。空は晴れているのに、服の裾から水がぽたぽたと落ちている。「……大丈夫?」 声をかけそうになって、梓ははっとした。子どもは動かない。胸も上下せず、息をしている気配がない。それでも水滴だけが途切れなく地面に落ちていた。 顔を上げさせてはいけない。 ――そう直感した。人間の顔ではない気がしてならなかった。 凍り付いたように目が離せない。と、その時背後から暖かな声がかかった。「よぉ、今日は学校で畑仕事じゃったそうじゃな、お疲れさま!」 通りの角にある小さな商店の店主。がっしりした顔に似合わない細い体の中年男性だ。笑みを湛えて梓に手を振っている。 反射的に店主に振り返り頭を下げる。そして振り返ると、そこにはもう子どもはいない。ただ濡れた跡だけが、道に残っていた。「今日はようけ働いたのう。えらいえらい」 籠を抱えた年配の女性も声をかけてくる。「梓ちゃん、顔色がよくなったじゃろ。村の空気が合っとるんじゃけぇな」 畑から戻る男の人が、鍬を肩に担いでにっこり笑った。「弓子さんにそっくりじゃ。ほんまによう似とるとよ」 そのときだった―― 子どもも大人も、通りすがる人々の笑顔が、一瞬だけ
last updateLast Updated : 2025-11-20
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第3章 掟

 朝になれば子どもたちの声が道に溢れ、昼は畑に立ち上る土の匂い、夜はどの家からも同じように灯りがもれてくる。慣れれば便利なことも多く、日々の生活は滑らかに回っているように見えた。 それでも梓の胸の奥には、どうしても拭えない影があった。 通学路の脇にしゃがんでいた、あの小さな影。全身が濡れたまま動かない体。 最初に見た夜だけじゃない。その後も何度か、同じ場所に同じ姿を見かけた。 通りすぎるたび、視界の端に冷たい水滴がしたたり落ちる気配がして、心臓が縮む。 清音は決して振り向かず、子どもたちも素通りする。まるで最初から存在しなかったかのように。 ――私だけが見えているのだろうか。 朝、家まで迎えに来てくれる清音と二人並んで学校への道を歩く。 清音はまるで姉のように甲斐甲斐しく梓の世話を焼いてくれた。 言葉少ない清音だったが、梓には彼女の静かな優しさが心地よかった。 その朝も二人で並んで進み、村の中央、商店がポツポツと立ち並ぶ一番賑やかな通りへ出た。 朝方のことで、通りには学校に向かう子供たちや、買い出しに出ている村人の姿がちらほら見えた。 と、見覚えのある老婆が梓に笑みをかける。 胡瓜をくれたあの老婆――お福さんだ。「慣れたかねぇ。よう歩いとるのを見ると安心するじゃ」 そして当たり前みたいに続ける。「夜道は中央を歩きんさい。端に寄ったらいけんよ。挨拶は三度な。それから、笑顔を忘れちゃあいけん」 その言葉に、近くを歩いていた村人たちも頷きながら同じ調子で繰り返した。 「夜道は中央」「笑顔は三度」「笑顔を絶やさず」 声が重なり、調子が揃っていく。まるで事前に示し合わせたかのように。 そして、最後にひとりの老人が低く付け加えた。「忘れたら……にくゑ様が目を覚ますけぇな」 にこやかな顔が一斉にこちらを向いたとき、梓は気づいた。 全員の笑顔の角度が、まったく同じだった。 (みんな同じ……仮面みたいに) 顔を上げると、清音の視線とぶつかった。深い黒の瞳。その奥が読めない。 けれどそのまなざしに触れると、怖さと同時に、妙な安心感が胸に差しこんでくるのを梓は否定できなかった。 じっとお福が見つめる。張り付いたような微笑を浮かべて。梓は何故だか言葉に詰まり声が出ない。 答えを探せずに息を詰めた梓の前で、清音がそっと一歩前に出た。ま
last updateLast Updated : 2025-11-21
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第3章 しゃがんでいる子供

 下校の列から少し遅れて歩いていた。初等部の子どもたちが背丈に合わないランドセルを揺らしながら、畦道をにぎやかに行く。声が重なり合い、笑い声が波のように広がっては、遠くの山に吸い込まれていった。 自分もその輪の中に混じっているはずなのに、どこか別の世界に立っているような心細さがあった。 畑の脇に、ぽつりと影があった。 ――また……だ。 目に入った瞬間、それがただの影ではないと分かった。小さな子どもが、コンクリートの縁にしゃがみこんでいる。 紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、まるで置き物のように動かない。 晴れた午後なのに、全身が濡れていた。 袖口から、裾から、水がしとしとと落ちている。落ちるたびに黒い染みが広がり、乾いた道に円を描いてはまた新しい滴に覆われていく。 息をしていない。胸のあたりが上下する気配がない。 梓の足が止まった。背中に氷を押しつけられたような感覚。 顔を上げてはいけない――理屈ではなく、直感がそう告げた。 慌てて視線を逸らし、早足で通り過ぎる。心臓が喉まで競り上がる。 角を曲がってから振り返ると、もうそこには誰もいなかった。ただ濡れた跡だけが道に残っていた。◆ 翌日も、またその次の日も、同じ場所にその子はいた。 同じ姿勢で、同じように濡れたまま。 不思議なのは、ほかの子どもたちも大人たちも、誰ひとりとして気に留めないことだった。列は乱れもせず、誰も視線を向けない。まるで見えていないか、見ないふりをしているかのようだった。 五日目、梓はとうとう足を止めてしまった。 昨日までと同じ姿でしゃがみ込む小さな背中に、引き寄せられるように近づいてしまったのだ。 一歩。二歩。 靴の先とコンクリートの縁が一メートルほどの距離になったとき、シャツの背から何かが覗いた。 ――目だ。 小さな目が、いくつも、布地を押し上げるように並んでいた。黒目がちのそれが、一斉にこちらを見た。「……っ」 梓の息が詰まる。喉の奥が凍りつく。 助けを求めるように清音を探した。だが彼女は一歩先を歩き、振り向きもしない。風に揺れる髪の横顔だけがある。 胸が締めつけられる。すがりたいのに、すがれない。 その背中が遠く、冷たく思えた。◆ 目が合った――そう思った瞬間、世界が白く途切れた。 背中に並んだ小さな目が、いっせいに瞬い
last updateLast Updated : 2025-11-22
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第4章 健太(上)

 翌日の昼休み。健太は本を閉じてぼんやりと窓の外を見ていた。子どもたちが机を寄せ合ってわいわい話している声が耳に入る。 あゆみが梓の隣で何か楽しそうに話しているのが目に留まり、ついつい目で追ってしまう。屈託のない笑顔で梓の手を取り、何かを教えているあゆみ。 自分にはない積極性と明るさが眩しい。あゆみの弾むような笑い声に、健太の胸が少しきゅっとした。美穂も輪に加わって座ったようだった。 「昨日の畑作業、お疲れさまじゃった」 美穂が優しく声をかける。  梓は少し躊躇してから口を開いた。 「あの……昨日の畑で、土の中に変なものを見たの。目のような……それに、帰り道で変な子供も……」 健太は顔を上げた。目? そういえば梓は昨日、土を見つめて青ざめていた。 あゆみが首を振って笑う。「ええ? 目? そんなん、ただの根っこじゃけぇ。それに村の子供は都会の人から見たから変かも知れんけどなぁ」 「そうそう、気のせいじゃ」 美穂も口を揃える。「畑なんて、いろんなものが埋まっとるとよ」 健太は眉をひそめた。みんな、梓の話をまともに聞いていない。 「それに掟をちゃんと守っとれば、何も怖いことはないけぇ」 美穂は安心させるような笑顔を浮かべながら言った。 ――掟。また掟だ。健太の胸に苛立ちがこみ上げる。梓が不安がっているのに、掟さえ守れば大丈夫だなんて。そして、あゆみの前で情けない自分を見せるわけにはいかない。あゆみの明るさに釣り合うような、強いところを見せたかった。 梓は不安そうな表情を浮かべたまま、「でも、本当に見えたの……」と食い下がろうとした。 その時、健太は椅子から勢いよく立ち上がった。もう我慢できなかった。 「そんなん守らんでも、何も起こりゃせん」 吐き捨てるような声だった。ざわめきが止まる。教室の空気が張り詰める。 健太は挑むように、笑顔を一度だけ作って見せた。 「ほら、一回で十分じゃろ」 子どもたちの笑顔が固まり、不安げな視線が交錯する。梓はその異様さを初めて体で感じ、背中に冷たい汗が流れた。 清音がゆっくり立ち上がる。健太を見つめる瞳は、氷のように冷たい。 「健太、今ならまだ間に合うわ。ちゃんとやり直しなさい」 声は静かだが、底に冷たさを含んでいる。健太は顔を赤くして突っぱねた。 「大げさなんじゃ。何も起きんじゃろ」 
last updateLast Updated : 2025-11-23
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第4章 健太(下)

 放課後。 村の分校には、小さな図書室があった。窓は一つだけで、午後になると山の影が棚の上に伸びて、紙魚の食んだ背表紙が灰色に浮き上がる。 健太はその隅の机をいつものように選んだ。椅子を引く音が響かないよう、足で床を押さえながらゆっくり腰を下ろす。指先でページの角を撫でる癖が、今日も自然に出た。 家では、夕方になると土の匂いが濃くなる。父も兄たちも畑に出て、肩で風を切るように歩く。健太だけが細く白い腕をして、鍬を持ってもすぐに手のひらを痛めた。 「お前は母さんに似たんじゃな」と、何度も言われた。亡くなった母が残していった本を読むたび、その言葉を思い出す。悪気のない言葉が、鏡を見るたび胸のどこかを沈ませる。だから、ここに来る。紙と文字のある場所に。 鉛筆を取り、ノートを開く。表紙の裏に、薄く練習した跡が幾重にも残っている。今日は、清書するつもりだった。あゆみ――ひらがな三つの、その並びを指でなぞる。 ゆっくり、力を入れすぎないように。けれど、二画目でいつも筆圧が上がってしまう。紙がきしんだ。慌てて力を抜くと、線が震える。指先に汗が滲み、鉛筆が滑る。袖で掌を拭い、小さく咳払いをして姿勢を直した。 (これがきれいに書けたら、渡そう) 胸の奥で、声にならない声が立ち上がる。手紙の言葉は昨夜から何度も考えた。「あゆみへ。図書室でいっしょに本を読まない? お勧めの本があるけん」 ――文面はそれだけ。長くしないほうが、きっといい。書き出してすぐ、健太は鉛筆を置いた。紙の白さが眩しい。 指で「あ」の文字をもう一度なぞって確かめる。文字をなぞる癖は、亡くなった母に絵本を読んでもらっていた名残りだった。見えづらいわけじゃない。ただ、指が通ったところだけ、言葉が本当に立ち上がる気がするのだ。 「健太?」 ドアが控えめに開いて、美穂が顔を出した。初等部の子供たちの相手をした後らしく、頬がまだ赤い。健太は無意識にノートを閉じ、胸の前に引き寄せた。鉛筆がころんと机から落ちる。 「ごめん、邪魔したと? 本、返しにきただけじゃけぇ」 美穂の声に、いつもよりほんの少し息が混じっているのに健太は気づかない。「ううん、大丈夫じゃ……他の連中は?」「あゆみと清音は帰ったんよ。梓ちゃんは何か行くとこがあるって……」「行くとこ?」「診療所に行くんじゃと。先生に見てもろう
last updateLast Updated : 2025-11-24
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第4章 前任者の記録

 朝の診療所に、湯気を立てる味噌汁の匂いが漂った。千鶴がお盆を抱えて入ってくると、いつものように小さく会釈する。「おはようございます、先生。また朝から何も食べてらっしゃらないでしょう」 机の上に散らばった書類を片付けながら、千鶴は困ったような笑みを浮かべた。「すみません、千鶴さん。ついつい夜更かしして……」 吉川は苦笑いを返しながら、椅子から立ち上がった。千鶴の持参する温かい朝食が、一人暮らしの身には何よりありがたい。「この村に嫁いで来て二年になりますが、お医者様がいるっていうのは心強いもんですね」 千鶴は湯呑みに茶を注ぎながら言った。「二年間、医者がいなかったんですか?」「ええ。私が来た時にはもう、診療所は空っぽでした。村の人たちは『いつか来る』って言ってましたけど、まさか本当に来てくださるとは」 安堵と感謝が、千鶴の表情に混じっている。「前の医者は、どうして……?」「さあ、私にはわからんのです。どれくらいの間医者がいなかったんでしょうね? 主人に聞いても『もう随分と長い間だ』って」 千鶴は首をかしげた。 吉川の箸が止まった。この村の人間は皆、過去のことになると途端に記憶が曖昧になる。まるで霧がかかったように。「でも、先生が来てくださって、梓ちゃんも安心してるでしょうね。健康診断の時、この村に来て元気になったって言ってましたし」「そうでしたね」「ええ。お母さんを亡くして大変だったでしょうけど、この村の人たちは皆親切ですから、きっと馴染んでくれるでしょう」 千鶴の笑顔は穏やかだった。だが、その笑顔の奥に何かが潜んでいる。患者のプライベートな事情を、こうも当たり前に語る千鶴の口調に、吉川の胃が重くなった。◆ 千鶴が帰った後、吉川は診療所に一人残された。彼女の言葉が頭の中でこだましている。前任者……そう言えば、まだ資料の整理をしていなかった。 普段は手をつけない棚の奥を探ると、埃にまみれた古いカルテの束が出てきた。表紙には「昭和五十八年」とある。二十年以上前のものだ。 最初のページを開く。『田中太郎(8歳)風邪症状。解熱剤処方にて改善』『佐々木花子(12歳)腹痛。整腸剤投与、経過良好』 丁寧な字で書かれた、医学的に正確な記録。前任者は真面目な医師だったのだろう。 数ページ進むと、記録に異変が現れた。『村に原因不明の風
last updateLast Updated : 2025-11-25
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