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All Chapters of にくゑ: Chapter 21 - Chapter 30

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第4章 赤い液体

 千鶴が帰って間もなく、戸を叩く音がした。「失礼します」 恐る恐る、といった風に梓が入って来る。学校帰りなのだろう、制服のままだ。顔色は良いが、瞳の奥に不安が宿っている。「どうしました、梓さん」「あの……相談があって」 梓は胸ポケットから小瓶を取り出し、机の上に置いた。赤とも黒ともつかぬ濃い液体が、瓶の中でゆらりと揺れている。「これを、清音……虚木さんからいただいたんです」 吉川の心臓が跳ね上がった。前任者のカルテにあった「赤い液体」。まさに、これだ。瓶を手に取ると、瓶にこびりついている液体がどろりと動く。まるで生きているかのように。「体調を崩していたら、清音が心配して……でも、飲んでから変なんです」「変といいますと?」「胸がざわざわして。それに、夜中に水音が聞こえるんです。家の中にいるのに」 梓の声が震えている。「この薬について、何か説明は?」「山の恵みを煮詰めたものだって。とっても甘くって……でも、何だか変な感じがして……」 梓の目に恐怖が宿っている。吉川は瓶を光にかざした。粘り気を帯びた液体が不気味に光った。「検査してみましょう。成分がわかれば……」 空の瓶だ。付着した液体だけでは限界がある。だが、懇意にしている研究施設に送れば、何かわかるかもしれない。 その時、入口の戸が勢いよく開かれた。◆「先生! お願いします!」 美穂が息を切らして駆け込んできた。その顔は青ざめ、瞳に恐怖が宿っている。後ろから健太がよろめくように続く。「健太が……文字が読めんって言うとよ」「落ち着いて。こちらに座って」 吉川は診察台を指し示した。梓も立ち上がる。「昨日までは普通じゃったのに、今朝から急に……本も、ノートの字も、全部黒い線にしか見えんって言うとよ」 美穂の声が上ずっている。必死さが痛いほど伝わってくる。 吉川は健太を診察した。瞳孔の反応は正常、眼底にも異常はない。だが、視力表を見せても健太は首を振るばかりだ。特に原因は思いあたらないそうだ。「これが見えますか?」 吉川は紙に「あいうえお」と書いた。健太は首を振る。「ただの線にしか……見えんとよ。いや、あ、だけ読める」 一文字だけ認識できる? それはおかしい理屈に合わない。吉川は脳内の症例を総閲覧する。専門は外科医だが独立する時のために、一通りのことは学んでいる。
last updateLast Updated : 2025-11-26
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第4章 初恋

 昼休みの教室に二人だけが残っていた。 美穂と健太は弁当を持って外へ出て行き、静寂が満ちている。窓辺から射しこむ光が机の上に落ち、舞う埃の粒を銀色にきらめかせていた。 梓はカバンからノートを取り出し、鉛筆を握った。指先がかすかに震える。耳の奥で心臓の音がやけに大きく響いて、ただ黙っているのがつらかった。 何かを書いていないと、自分が崩れてしまいそうだった。 白いページの上に、言葉が零れていく。 ――氷に眠る水音 ――沈黙で揺れる光 ――触れれば割れてしまう硝子の横顔 清音を見つめた瞬間に浮かんだイメージを、そのまま詩にしている。書けば書くほど、胸の奥が痛くて甘い。母を亡くした日から凍っていた心が、今は熱で焦げそうなくらいに脈打っているのを、梓ははっきり感じていた。 鉛筆が走る音が、静かな教室にひときわ際立って響く。隣にいる清音に、この想いまで伝わってしまうのでは――そんな不安と期待が、梓をさらに追いつめていた。 鉛筆の先が止まった瞬間、影が差した。 清音がすぐそばにいた。机に手をつき、肩がかすかに触れるほど近い。白い指がノートの端をそっと押さえ、書き連ねた文字に瞳を落としている。「……梓、私のことを書いてるのね」 吐息が耳をかすめ、背筋がぞくりと震えた。 梓は慌てて鉛筆を握り直し、俯いた。「ご、ごめん……勝手に、言葉が浮かんできて」 消したいのに、消したくなかった。そこに並んだ言葉は、清音を見たとき胸の奥で生まれた熱の欠片だったから。 清音の指先が、ノートから離れて梓の手の甲に触れた。氷のように冷たいはずなのに、皮膚を焼くような熱を帯びている。梓は思わず息を呑む。「いいよ」 小さな声。 そのまま清音の指が梓の手の甲をなぞり、絡むように滑っていく。 ぞくり、と清音の指先から流れるように今まで感じたことのない感覚が、梓の身体を走り抜ける。 下腹部が不意に重くなり、締め付けられるような奇妙な感覚を感じる。「梓にだけ、見せたい場所があるの」「どんな場所?」「村の外れ……洞窟の奥の祠。普段は入ってはいけない、禁忌の場所」 清音の瞳がまっすぐに梓を見る。真剣だった。「そこでなら話せる。村のこと、掟のこと……誰も来ないから、あそこなら私、全部言える気がするの」 梓は戸惑い、自分の気持ちを誤魔化すように軽い言葉を口にする。
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第4章 美穂(上)

 昼休みの中庭。石の縁に腰をおろし、広げた弁当を静かに口へ運んでいた。 隣では健太も俯きがちに箸を動かしている。二人とも言葉少なで、賑やかな笑い声の響く校舎が、遠い場所のように感じられた。 弁当箱を並べると、健太が小さく頭を下げた。 母親がいない健太に、近所の美穂がお弁当をつくるようになってからもうどれくらいたつだろう? 中等部に上がってすぐだったろうか? それとも初等部の上級になってから? 覚えているのは、まだ幼かった美穂が、母親にねだって料理を覚えている風景だ。 いつも無骨な握り飯だけを弁当にしている健太を見かねて、幼い美穂は幼い健太に弁当をつくっていた。 はじめて弁当を渡した時の健太の笑顔を、今も美穂は覚えている。「……ありがとな、美穂。今日もおいしいわ」 彼が箸を動かすたび、胸の奥がふわりと温かくなる。 今朝も早起きして卵を焼いた。形は少し歪んでしまったけれど、健太が嬉しそうに口に運んでくれるだけで、報われる気がした。「こっち、煮物もあるけん。野菜、ちゃんと食べなさい」 つい口調が世話焼きになってしまう。 健太はおとなしく頷き、煮物を口に入れた。その仕草が幼く見えて、思わず微笑んでしまう。 けれど――彼はあゆみのことばかり見ている。 昨日だって、梓と並んで歩くあゆみを目で追っていた。 それを知っているのに、こうして弁当を作ってしまう自分がいる。 やるせない片思いだ、と美穂は思う。 思いながら、まるで古い流行歌のようだ、と少しだけ笑う。 ――でも、それでもいい。健太のそばにいられるなら。 食べ終わると、美穂は鞄から折り畳んだパンフレットを取り出した。 色あせて角の折れた紙。夢の欠片のように大事に抱えてきたものだ。「……ねえ、これ。大学のパンフレットじゃけど、図書館がすごく大きいんじゃって」 声を弾ませてページを開く。 健太は覗きこんだが、すぐに目を伏せてしまった。「文字が……にじんで見える」 震える声。彼の瞳に影が落ちていく。 美穂は胸の奥が締めつけられるのを感じながらも、努めて明るい声を出した。「じゃあ、私が読んだろうか」 文字を追い、声に出して読む。 図書館の高い書架、芝生の広場、学生たちの笑顔。 夢を描くように言葉を重ねると、健太の表情が少し和らいだ。「美穂が読んでくれると、すごく分かる
last updateLast Updated : 2025-11-28
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第5章 移住者

 軽トラックは山道をひた走っていた。舗装もされていない砂利道で、車体はごとごとと揺れ、荷台の段ボール箱がきしみを上げる。 この道一本だけが、村と外の世界を結んでいた。片側は切り立った崖、もう片側は深い谷底へと落ち込んでいる。軽トラックがやっと通れる幅しかなく、対向車が来れば退避場所を探さなければならない。 途中には古い吊り橋が一つ架かっているだけで、小さなバスでもすれ違うことは不可能だった。 両脇には杉や檜が鬱蒼と迫り、幹の太さは大人が三人で抱えても足りないほどだった。枝葉が天を覆い、木漏れ日がちらちらと路面を踊る。 沙織は窓を少し開ける。と、湿った土と青葉の匂いが流れ込んできた。苔むした岩肌、シダの群生、遠くで鳴く鳥の声。東京の排気ガスとはまるで別の空気。澄んだ冷たさが、肺の奥にまで染み渡り、都会での暮らしに疲れた心が生き返るようだった。「本当に山奥だなあ」 俊夫がむしろ楽しそうに笑った。がっしりした腕が軽トラをしっかりと操る。若いころ柔道で鍛えた体を今も誇りにしている夫の声は、力強く頼もしく聞こえた。 後部座席から陽一が身を乗り出し、窓の外を指さす。「わあ、川だ! 山だ! やっぱり凄いね、お母さん!」 小柄で色白の頬が久しぶりに赤みを帯びているのを見て、沙織の胸が熱くなった。いつも青白く、咳き込んでばかりいたこの子の頬に、こんなにも生き生きとした色が戻っている。「ええ、本当に凄いわ」 笑い返しながら、彼女はそっと息をつく。東京で喘息に苦しんでいたこの子が、ここでなら伸び伸びと暮らせるかもしれない。その思いが、胸の奥で小さな炎となって燃え上がった。 軽トラックの振動に身を揺られながら、沙織はふと東京での暮らしを思い出していた。 狭いアパートの四畳半。窓の外に広がるのは、灰色のビルの壁と排気ガスの溜まった空気。洗濯物にはすぐに煤の匂いが染みつき、換気をしても淀んだ熱気しか入ってこなかった。 息を吸うたびに胸がざらつき、咳を繰り返す息子の背を、夜通しさすったことも数え切れない。 俊夫はもともと、逞しくて明るい人だった。結婚したばかりのころは、よく冗談を言って沙織を笑わせてくれた。 だが、不動産会社の営業に追われる日々が、その笑顔を少しずつ奪っていった。 数字のノルマを課され、客に頭を下げ、上司に怒鳴られ、終電まで会社に縛りつけられる
last updateLast Updated : 2025-11-29
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第5章 警告

 翌朝、玄関を開けると立派な山菜が束になって置かれていた。 まだ朝露に濡れたワラビにゼンマイ、鮮やかな緑のミツバまで。どれも手摘みの新鮮なもので、野の香りがそのまま残っている。「今度は山菜だ!」「わあ、緑いっぱい!」 俊夫が驚きの声と陽一の声が重なる。 沙織は嬉しさを感じつつ、ふと眉をひそめた。 昨夜は確実に鍵をかけて寝たのに。山菜は玄関の内側、下駄箱の上に丁寧に置かれている。 東京では当然だった施錠の習慣。でも、この村ではどうなのだろう。 気になって近所を回り、お礼を言って歩いた。 けれど誰もが口を揃えて首を振る。「山菜? うちじゃないよ」「ようできたもんじゃなあ。でも置いたんはわしじゃないで」「気にせんと食べんさい。きっと誰かの厚意じゃろう」 皆、同じような笑顔を何故か三度ずつ浮かべて言う。その笑顔が、あまりに揃いすぎているように感じられた。 その帰り道で、声をかけられた。「佐藤沙織さん、ですよね」 ――振り向くと、細身の少女が立っていた。 色白で、華奢な肩。地味なワンピースに身を包み、セミロングの髪が風になびいている。 顔立ちは驚くほど整っていた。頬骨の線も、瞳の形も、均整のとれた美しさを備えている。 少女も丁寧に、三度微笑みかけてきた。まるで決められた作法のように。 沙織は戸惑いながら一度だけ微笑み返した。 少女の表情が一瞬曇る。眉がかすかに寄り、唇の端がわずかに下がった。まるで何か大切なことを忘れられたかのような、寂しげな影が瞳をよぎる。「はじめまして、矢野梓です。村の学校に通っています」 大人びた口調だった。高校生と聞いていたが、言葉の落ち着きは大人に近い。「もうこの村には慣れましたか?」「ええ、皆さん親切で……助けられています」「良かったです。私も最近引っ越してきたので……」 そういうと梓は小さく笑みを三回浮かべた。 そうか、この子も転入者なんだ。道理で方言がない、と沙織は親近感を覚え笑みを帰す。 梓はしばらく黙り、視線を落としたあと、小さな声で言った。「……掟のこと、もう聞かれましたか?」「掟?」 沙織は思わず問い返す。聞いたことのない言葉だった。 梓の瞳が一瞬真剣に揺れた。何かを言いかけて、でもすぐに視線を逸らし、小さく首を振る。 まるで口に出してはいけないことを、うっかり漏らし
last updateLast Updated : 2025-11-30
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第5章 誘い

 半分だけ開いた窓から、正午の光が斜めに差し込んで、カルテの束の角を白く照らしている。紙と消毒薬の匂いに、遠くから運ばれてきた青草の香りが薄く混じった。「ん……午前の診察はこれでおしまいかな」 吉川は大きく伸びをして、肩を回す。 午前の診察を終えたばかりの指先はわずかに痺れていて、万年筆を置いた瞬間、肩の力が抜けた。 机の端に置いたコップの水は、表面張力の盛り上がりを崩さぬまま小さく揺れている。昨夜の会話が、まだ脳裏のどこかで響いていた。虚木清一の、あの穏やかな笑みの下に沈殿していた冷たさ——。「失礼します」 柔らかな声が戸口からした。 千鶴が、布巾で包んだ小さな籠を両手に抱えて立っていた。頬にかかる髪を耳にかけ、控えめに会釈する。「お疲れさまです、先生。お昼、まだでしたら、少しですが」「ありがとうございます。助かります」 籠の布を外すと、握り飯が二つと、薄く甘い卵焼き、それから胡瓜の浅漬けが香った。千鶴は手際よく湯を沸かし、湯呑みに茶を注いだ。湯の表面に浮いた薄い蒸気が、窓明かりの中で幽かにほどける。「そういえば、移住してきた人たちがいるそうですよ」 湯呑みを差し出しながら、千鶴が言った。「村で噂になってます。いい人達だといいですね」「ええ。そうだといい」 移住者支援プログラムを使ったのだろうか。 少し変わったところのあるこの村に馴染めるといいのだが。 短い言葉を交わすあいだ、昼下がりの静けさはひどく穏やかで、箸が器に触れる音が、やけに大きく響いた。千鶴は診療机の端をさりげなく整え、散らかった紙の角を合わせると、安心させるような微笑みを残して立ち上がった。「午後は往診の前に、お休みを少し。無理をなさらないでくださいね」「気をつけます」 弟を気遣う姉のような言葉に、吉川は少しだけ不満を感じる。「では」 千鶴が戸が閉める。ふたたび静寂が降りた。 握り飯を半分ほど口に運んだとき、軽いノックが二度、つづけて鳴った。返事をする間もなく戸がわずかに開き、影が差し込む。「先生」 顔を上げると、村長の清一がいた。昨日と同じ笑み。けれど、その笑みはどこか沈んだ色を帯びている。 彼はゆっくりと室内へ入り、戸を静かに閉めた。足音が床板に吸い込まれていく。「この前は、わしが言葉を荒うしてしもうてな」 清一は低く、柔らかい調子で言っ
last updateLast Updated : 2025-12-01
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第5章 宴

 夜道はひどく静かで、足音ばかりが土を叩いた。遠くに明かりが集まり、村の一角で笑い声が渦を巻いている。近づくにつれて、酒と肉の匂いが夜風に乗って漂ってきた。 村長宅は他の家よりも大きく、低い石垣の上に堂々と構えていた。格子窓の隙間から橙の灯明が漏れ、板戸越しに男たちの笑声が絶え間なく響く。煙が屋根の影から細く立ちのぼり、鼻を刺す脂の匂いと混じりあっていた。 戸口に手をかけたとき、一瞬だけ逡巡が走る。だが、招かれた以上は顔を出さねばならない。 その時、板戸が内側から静かに開いた。 現れたのは清音だった。いつものセーラー服姿、足音もなく敷居をまたぐ。月明かりに照らされた横顔は、大理石のように美しく、同時に冷たい。「先生、こんばんわ」 彼女は軽く会釈し笑顔を浮かべる。きっちりと三回。応じて吉川も三回の笑みで応じる。「清音さんは宴には出ないんですか?」「ええ、今晩は男衆だけの宴だそうです。ですので私は少し出てきます」「夜道は危ないですよ、止めた方が」「いいえ、この村はにくゑ様に守られてますから、大丈夫」 その言葉に、微かな確信が込められているのを吉川は感じた。すれ違う瞬間、香の匂いが漂う。祈りの匂い。清音の後ろ姿が闇に消えるのを見送りながら、吉川は息を整えて板戸を押し開いた。 熱気が波のように押し寄せた。広間いっぱいに筵が敷かれ、長い卓には猪肉の大皿、炙った鶏肉、塩をきかせた川魚の串、里芋と鶏を煮込んだ鍋が所狭しと並んでいる。脂と酒の匂いが混じり、頭がぼうっとするほど濃い。「おお、先生が来てくださった!」 誰かが声をあげ、次いで「待っとりました」「ようこそ!」と口々に叫んだ。盃が掲げられ、笑顔が一斉にこちらへ向けられる。 卓の中央に座っていた大柄な男が立ち上がった。初めて見る顔だ。随分と体格がいい。何か武道でもやっていたのだろうか? 彼は顔を赤くし、汗に濡れた額を拭いながら深く頭を下げる。「初めまして。佐藤俊夫と申します。今日から村でお世話になります。……先生には家族もろとも頼ることになるでしょう。どうか、妻の沙織と陽一のこと、よろしくお願いします」 思いのほか朴訥な声音に、広間のざわめきが一瞬だけ和らぐ。「こちらこそ。村医の吉川直樹です。何かありましたら、いつでも気軽に診療所に来てください」 吉川は静かに答えた。唯一の医師として背負
last updateLast Updated : 2025-12-02
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第5章 蘇生

 吉川は必死に脈を探った。「……まだ速い。異常に速い……このままでは」 診療所なら点滴も酸素もある。だがここには何もない。ただ酒と肉と、笑顔だけ。 そのとき、俊夫の身体がぴくりと震えた。次いで大きく息を吸い込み、上体を起こした。顔は汗で濡れ、白目には血が滲んでいる。それでも口元は笑っていた。「はあ……はははっ! いやあ、すまんすまん。ちょっと飲みすぎただけです。……体が軽い! さっきまでの疲れが全部抜けちまったみたいだ!」 血走った目で笑いながら、盃を掲げる。周囲の男たちも一斉に笑い声をあげた。「よう戻られた!」「にくゑ様のおかげじゃ!」 盃がぶつかり合い、赤黒い酒が飛沫を散らした。 吉川はその言葉を聞き逃さなかった。 ――にくゑ。 この村を守ってくれている神様の名前だ、ということは、ここに来た時に説明を受けている。 古くからの友人である彼が聞けば、笑い話にして記事のネタにでもするだろう。だが、目の前で常識を裏切る光景を見せられている以上、皮肉は空虚に響くだけだった。 吉川は立ち上がり、俊夫を見下ろした。呼吸は安定し、顔色すら紅潮している。医学では説明がつかない。症状は消え、むしろ活力に満ちていた。 虚木清一が盃を掲げ、柔らかな声で言った。「先生もご覧になったじゃろう。大人に医者は要らんのです。わしらは〈にくゑ〉様に守られとるんじゃ」 その言葉と同時に、広間の視線が一斉にこちらを向いた。画一的な表情。照明に照らされた白い歯列が、ぞっとするほど同じ角度に並んでいる。 吉川は無意識に一歩、後ずさった。 掌の中で盃が汗ばみ、赤黒い液がゆらりと揺れた。 熱気の渦の中で、吉川は卓から身を引いた。盃を置き、懐から手帳を取り出す。指先が震えて鉛筆をうまく握れない。それでも白紙を前にし、文字を刻むしかなかった。 ――佐藤俊夫、赤黒い液摂取。代謝急激に亢進。失神。呼吸不
last updateLast Updated : 2025-12-03
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第6章 清音

 ――私は、生まれた時から村に縛られていた。 清音は思う。 家の名も、行く道も、幼いころから掟の中に敷かれていて、自分で選んだことなどひとつもない。笑い方も、言葉の数も、すべて決められていた。 母の記憶はない。顔も声も、空白のままだ。 その欠け目を埋めるように、村の女たちの仕草を真似てみた。けれど温もりは戻らず、胸の渇きだけが深くなっていった。 ――だから梓に出会ったとき、世界が揺れた。 心の奥まで読み取れるはずのこの村で、梓だけは掟の網にかからない。母の影のような懐かしさと、少女としての憧れが、ひとりの人間に重なって見えてしまう。 決められた道から外れるのは、禁忌だとわかっている。 それでも今夜、梓を連れ出そうとしている。 村の娘ではなく、一人の清音として。◆ ――今なら大丈夫。 清音はひっそりと屋敷の広間に目をやる。 広間では笑い声が渦を巻いていた。盃のぶつかる音が三度ごとに揃い、太鼓のように畳を震わせる。板戸の向こうにいる父の声も混じっている。そこにいる限り、誰も清音を振り返らない。 襖の隙間を指で押し、敷居をまたぐ。足音を忍ばせても、胸の鼓動だけは抑えきれない。襟に触れると、布の下から熱が伝わる。逢瀬――その言葉を思うだけで喉が渇き、息が浅くなった。梓が待っている。会える。触れられる。 土間を抜けると、灯影に人影が立っていた。吉川だった。白衣は脱いでいるのに、まだ消毒薬と紙の匂いを纏っている。思わず足が止まり、胸が跳ねる。「清音さん」 低く疲れた声。名を呼ばれただけで、体の奥が硬くなる。「先生、こんばんは」 清音は笑顔を三度、きっちりと返した。形だけの笑顔。それ以上は心に触れさせたくない。「こんな時間に?」「少し……外の空気を」 本当の理由は言えない。夜の逢瀬に向かうなど、誰にも悟られてはならない。「夜道は危ないですよ」「大丈夫です。この村は守られていますから」 口にした言葉がわずかに強張った。守られている――その響きの奥に潜むものを、先生は知らない。 すれ違う瞬間、香の匂いがわずかに揺れた。祈りの気配。吉川の視線が背を追った気がしたが、清音は振り返らない。背筋を伸ばし、歩を早める。 門を出ると、夜気が頬を撫でた。遠くで川の音が寝息のように響いている。あの音の方へ行けば梓がいる。指を重ねる瞬間を思うだけ
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第6章 あゆみ(上)

 村長の宴の夜。 あゆみは清音の家の塀の影に身を潜めていた。 今夜なら清音が動くかもしれない。男衆が村長宅に集まり、女たちも家に引っ込んでいる。清音にとって自由になれる貴重な夜。 そんな予感は的中した。 屋敷の門がそっと開き、清音が姿を現す。月光に照らされたその横顔に、あゆみの胸は高鳴った。美しい。今夜も見ていられる。 だが次の瞬間、あゆみの表情が凍りついた。 清音が向かった先――梓の家。 (また……また梓なん?) 胸の奥で黒い感情がとぐろを巻く。 清音が戸を叩き、梓が現れる。二人が言葉を交わし、そして――手を取り合って歩き出した。 嫉妬が体中を焼く。 なぜ梓なのか。なぜいつも梓なのか。 あゆみは息を殺し、二人の後をついていく。 月明かりに照らされた二人の影が、仲良く並んで揺れている。時々清音が梓に微笑みかけ、梓が嬉しそうに応えるのが見える。 (わたしが欲しかったもの……全部、梓が持っていく) 足音を忍ばせ、木陰から木陰へ。 慣れた尾行の技術で、二人に気づかれることはない。 やがて二人は川沿いの道に入り、洞窟へ向かっていく。 ――禁域。 普通なら躊躇する場所だが、あゆみの足は止まらない。 清音への愛は、掟よりも強い。 洞窟の入り口で二人が消えるのを確認すると、あゆみもそっと中へ足を踏み入れた。 ひんやりとした空気が頬を撫で、滴の音が反響している。 奥から灯りがもれている。 あゆみは壁に身を寄せ、息を殺して聞き耳を立てた。 洞窟の反響で声が歪む。 断片的にしか聞こえないが、清音の声が響いてくる。「掟は……ただの決まりごとじゃない……全部祈りの形……もし乱れれば……"あれ"が目を覚ます」 にくゑ様の話をしている。 清音の秘密を、梓だけが聞いている。 (なんで梓なん……なんで梓にだけ……) 爪が手のひらに食い込む。 そして――「私、清音のことが――好き」 梓の声が洞窟に響いた瞬間、あゆみの世界が真っ白になった。 告白。 梓が清音に告白している。 血の気が引く。 手足が震え、視界が揺れた。 清音は……どう答えるのだろう。 まさか、受け入れたりしないだろうか。 反響で聞き取りにくいが、清音の声が返ってくる。「……応えたい。でも、今はできないの」 拒絶。 清音は梓を受け入れなかった。 あ
last updateLast Updated : 2025-12-05
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