LOGIN母を亡くした十七歳の梓は、母の故郷、山間の小さな村に移り住む。そこは人々が笑顔を絶やさず、古い掟に守られた共同体だった。そこで出会ったのは、氷のように美しい巫女の娘・清音。 冷たい瞳の奥に揺れる優しさに触れた瞬間、梓の凍りついていた心臓は初めて震える。 友情か、恋か――それとももっと危うい感情か。二人の距離は、静かに、しかし確実に近づいていく。 だが、村には言葉にできないものが眠っていた。 「夜道は中央を歩け」「笑顔は三度」――古くからの掟が守られるのはなぜか。 やがて梓は、笑顔の奥に潜む恐怖と、愛が呪いに変わる瞬間を目撃する。 ――少女たちの百合と禁忌が絡み合う、逆神話ホラー。
View Moreその封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。
消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。
豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。
だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。
紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。
やがて意を決して刃を入れる。
紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。
文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。
私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。
――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。
私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。 同時にこれを題材にした小説を書き始める。資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録にわずか数行、 〈大旱魃の折、村人は人を祀りて肉を神とした〉 と書かれている。
さらに戦後間もない大学紀要には、地元出身の学生による論文が挟まれていた。
〈肉ゑは水神の変形にして、贄を喰らう。年ごとに若き女を“蓋”として封じる儀式あり〉
脚注は曖昧で、出典は“口碑”とだけ記されている。
気がつけば、封筒に最初から入っていた紙と、私が外で集めた紙が、いつのまにか見分けがつかなくなっていた。どちらも同じように湿り、同じ匂いを帯び、同じ冷たさを持つ。読み進め、書き写し、追記していく日々が続く。
資料を集めると同時に、原稿も進めてゆく。
書かないと。 もっと書かないと。どれほどの日々が過ぎたのだろうか? やはりこれは虚構ではない。現実なのだと理解した瞬間、頭の奥で絶え間なく水音が響き始めた。
排水管の音ではない。外に耳を澄ませても聞こえない。私の中だけで鳴っている。羊水の中で聞いたことのあるような、湿った鼓動。
その夜から、夢を見はじめた。
暗い水底。そこから小さな手が伸びてきて、私の袖をつかむ。顔は見えない。ただ耳もとで囁く声だけがあった。――「おかあさん、おかあさん……」
声は、微かにそう聞こえたのだった。
村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。 初めての口づけ。 短く、けれど永遠のように長い時間。 清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。 足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。 玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。「ただいま……」 誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。 居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。 天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。 清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。「はぁ……」 大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。 このまま天井を見つめていても眠れそうにない。梓は身を起こし、せめて布団を敷こうと押し入れに向かった。 でも、浮かれた足取りがいけなかった。 床の間の前を通りかかった時、畳の縁に足を取られてしまったのだ。「わっ!」 バランスを崩し、床の間に手をついて体を支える。 その時、指先に違和感があった。「あれ……?」 床板の一部が、わずかに浮いている。 普段なら気づかないほどの、ほんの小さなずれ。でも確かに、他の部分とは違っていた。 梓は首をかしげながら、その部分に指をかけた。すると、板がすっと持ち上がった。「隠し……?」 床板の下に、小さな空間があった。 そこに、古い革表紙の手帳のようなものが何冊も入っている。 梓の胸に、嫌な予感が走った。 さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。 手を伸ばして、それを取り出す。重みがある。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。 表紙を見ると、かすれた文字で書かれていた。 ――『弓子』 母の名前だった。 梓の手が震えた。 これは母の日記だ。東京に出る前の。 日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。 でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。 一番下にあった
空は黄昏に沈み、村の家々にぽつぽつと小さな灯りがともり始めた。 梓は歩幅をわずかに広げた。鞄の中で、文庫本が小さく揺れる。 ページは裏切らない。 そして今は、もうひとつの灯りがある――清音の手の温度。 その両方を胸の中で抱き合わせながら、梓はまっすぐ、家へ向かった。 清音に会いに行く。話をする。 信頼は、盲目である必要はない。 ――清音に、確かめないと。きっと彼女は全てを知っている。 その決意が、心の底で静かに燃え続けた。 家路を歩く梓の前に、細い人影が姿を現した。 風になびく長い黒髪。黒曜石のような瞳。人形のように整った顔。 会いたい、話がしたい。そう思って歩いていたら、そこにいてくれた。これは運命だとしか思えない。 様々な心配事、不安なことがあるにせよ、その姿を見ると、梓の胸は高鳴る。 太陽は稜線に沈みかかり、気の早い夏の虫たちがリーリーと鳴き声を上げている。 世界をただ茜色に染める光の中、二人は向かい合った。「――清音」「梓……貴方のことが気になって……」 そう語りかける清音は、本当に梓のことを心配している様子を見せていた。 学校で人目がある時はまるで違う、取り乱しているかのような様子を。 そんな清音の姿は見た梓の心に波紋が広げた。ああ、こんなに私のことを心配してくれている。愛されているのかも知れない。梓の心中にほの甘い満足感が満ちてゆく。しかしその感情を振り切るように、梓は口を開いた。「……どうして、誰も美穂と健太のことを覚えてないの?」 声はかすれていたが、芯は固い。「昨日まで一緒にいたのに……清音まで、忘れたふりをするの?」 清音は立ち尽くし、睫毛の影を震わせた。 「……仕方なかったの」 その一言は、鋭い針のように梓の胸を突き刺す。「仕方ない? そんな言葉で済ませるの?」 梓は立ち上がり、机が軋んだ。「あなたが……あなたが何かしたのね? みんなの記憶を……!」 清音の肩が震えた。沈黙。 その沈黙こそが答えだった。「やっぱり……!」 梓の声が裏返り、涙が滲む。「清音まで、私を一人にするんだ。信じたのに……清音だけは違うと思ったのに!」「違う!」 清音の叫びが教室に響いた。 梓の涙を震わせ、空気を震わせた。「私だって苦しかった! 美穂も健太も、友達だった。忘れさせるなんて、本当は
――まただ。また一人だ。 その言葉が心の奥で何度も反響する。 ――時は遡る―― そう、あの日は雨だった。 目を閉じると、遠い雨音が蘇る――東京の通学路、アスファルトを叩く雨。黄色いビニール傘の内側で世界が円く切り取られて、そこだけ薄明るい。梓は鞄を胸に抱きしめ、制服の袖で手首を隠すくせを直せないまま、校門をくぐる。 それはまだ梓が中学生の頃。受験まではまだ一年の間があった。 ――昼の放課、廊下の突き当たりで男子が立っていた。肩越しに雨上がりの太陽が差し込み、顔だけが明るい。「……好きです」 ぎこちない言い方。 梓は喉の奥がひゅっとすぼまり、恐怖に似た波が胸の底からせり上がってくるのをどうにもできなかった。 幼い頃から父を知らないせいばかりでもないだろうが、梓は男性が苦手だった。 まして、まっすぐな感情をぶつけられると、どうすればいいのかわからない。「……ありがとう。でも、ごめんなさい」 梓は相手の目をまっすぐ見て言った。怖かったけれど、曖昧にしたくなかった。「どうしてかな?」 困った表情。やさしい声。 ――それでも、梓は言葉を選んだ。「あなたのことをよく知らないし、私も自分の気持ちがよくわからないから」 男子は困った笑顔をうかべたまま、そっか、と言った。梓は会話の後、その男子生徒がよく女子たちの噂に上っているバスケット部のキャプテンで上級生だったことを思い出す。 夕方、教室の空気は少しだけざらりとしていた。クラスの女子たちの視線が、梓に刺さる。他愛のない噂が、手のひらの砂のように目の前を流れた。「感じ悪いよね」「あれで断るんだ」誰かが見ていたようだ。 その翌朝。 教室のドアを開けると、空気がピンと鳴った気がした。「おはよう」 机に腰かけると、表面に油性ペンで書かれた字があった。《どろぼうねこ》 最初はカバンの角で擦れば消えるかと思った。けれどインクは木目に入り込み、指先に黒が移るだけだった。「梓ってさ」 後ろの席から、わざと聞こえる声。「顔だけいいよね。中身は、人の彼氏とる泥棒のくせに」「“彼氏”でもなかったじゃん」「そういうとこ、うざ」 笑いが、耳の後ろをかすめる。笑顔の形をした刃物が、鈍く皮膚に食い込む。 彼女は友達だった。友だちだった筈だ。放課後の購買でパンを分け合って、「おいしいね」と笑っ
昨夜の光景が、まだ梓の胸に鮮やかに残っていた。 谷に架かる吊り橋の上を、美穂と健太が並んで歩いていく。月に照らされた横顔はどこか晴れやかで、振り返って小さく手を振った梓に、二人は笑みを返してくれた。 ――街に行く。危険な道だけれど、きっとたどり着ける。無事に帰ってきて、また笑い合える。梓はそう信じて見送った。 翌朝、分校の一室には、初等部から高等部までの子供たちが集められていた。合同授業の日で、狭い教室はざわめきと光に満ちている。窓辺には夏の陽が差し込み、木の机の天板を白く照らしていた。「では、出席をとるぞ」 楢崎先生が名簿を開いた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、口元にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。 まず初等部。幼い声が順々に「はい」と返っていき、教室に元気な声が響く。 やがて高等部の番となった。生徒は五人しかいない。呼ばれる順番はいつも決まっていた。 ――虚木、林田、森谷、根元、矢野。「虚木」 「はい」 清音の澄んだ声が響き、教室が一瞬だけ静まる。「根元」 「はーい」 あゆみが元気な声で手を挙げて応える。「矢野」 「はい」 自分の番だ。梓は慌てて声を張った。 ――そこで名簿は閉じられた。「以上」 梓は瞬きをした。――おかしい。 いつもなら清音のあとに、美穂、健太の名が呼ばれるはずだ。だが今日は飛ばされている。欠席とすら告げられなかった。「あの、先生」 思わず声が出る。「森谷さんと林田さんは……今日は欠席ですか?」 先生は首をかしげ、笑顔を崩さない。「そがん子は、最初からおらんじゃろう」 その言葉を合図にしたように、初等部の子供たちも、高等部の同級生も一斉に頷いた。 「そうたい」「おらんとよ」「そがん子はおらんかった」 揃った笑顔と声が、教室を満たす。 梓の背筋に冷たいものが走った。 ――そんなはずはない。昨日まで、隣で笑っていたのに。 胸に重たいものを抱えたまま席に戻ると、隣から小さな声がした。 授業は粛々と進み、教室にいる誰一人として美穂と健太のことを話題には出さなかった。机も二つ空いているというのに。初等部の子供たちもあゆみも清音も、先生たちでさえも。 そして一日の授業が終わる。 梓は席を立つ気にもなれず、教室の机にうつ伏していた。頭の中を疑問が