にくゑ

にくゑ

last updateLast Updated : 2025-12-26
By:  カクナノゾムUpdated just now
Language: Japanese
goodnovel16goodnovel
Not enough ratings
44Chapters
808views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

母を亡くした十七歳の梓は、母の故郷、山間の小さな村に移り住む。そこは人々が笑顔を絶やさず、古い掟に守られた共同体だった。そこで出会ったのは、氷のように美しい巫女の娘・清音。 冷たい瞳の奥に揺れる優しさに触れた瞬間、梓の凍りついていた心臓は初めて震える。 友情か、恋か――それとももっと危うい感情か。二人の距離は、静かに、しかし確実に近づいていく。 だが、村には言葉にできないものが眠っていた。 「夜道は中央を歩け」「笑顔は三度」――古くからの掟が守られるのはなぜか。 やがて梓は、笑顔の奥に潜む恐怖と、愛が呪いに変わる瞬間を目撃する。 ――少女たちの百合と禁忌が絡み合う、逆神話ホラー。

View More

Chapter 1

プロローグ「封筒」

 その封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。

 消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。

 と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。

 豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。

 だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。

 紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。

 やがて意を決して刃を入れる。

 紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。

 中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。

 文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。

 私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。

 ――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。

 私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。

 同時にこれを題材にした小説を書き始める。

 資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録にわずか数行、 〈大旱魃の折、村人は人を祀りて肉を神とした〉 と書かれている。

 さらに戦後間もない大学紀要には、地元出身の学生による論文が挟まれていた。

 〈肉ゑは水神の変形にして、贄を喰らう。年ごとに若き女を“蓋”として封じる儀式あり〉

 脚注は曖昧で、出典は“口碑”とだけ記されている。

 気がつけば、封筒に最初から入っていた紙と、私が外で集めた紙が、いつのまにか見分けがつかなくなっていた。どちらも同じように湿り、同じ匂いを帯び、同じ冷たさを持つ。読み進め、書き写し、追記していく日々が続く。

 資料を集めると同時に、原稿も進めてゆく。

 書かないと。

 もっと書かないと。

 どれほどの日々が過ぎたのだろうか? やはりこれは虚構ではない。現実なのだと理解した瞬間、頭の奥で絶え間なく水音が響き始めた。

 排水管の音ではない。外に耳を澄ませても聞こえない。私の中だけで鳴っている。羊水の中で聞いたことのあるような、湿った鼓動。

 その夜から、夢を見はじめた。

 暗い水底。そこから小さな手が伸びてきて、私の袖をつかむ。顔は見えない。ただ耳もとで囁く声だけがあった。

 ――「おかあさん、おかあさん……」

 声は、微かにそう聞こえたのだった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
44 Chapters
プロローグ「封筒」
 その封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。 消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。 と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。 豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。 だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。 紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。 やがて意を決して刃を入れる。 紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。 中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。 文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。 私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。 ――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。 私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。 同時にこれを題材にした小説を書き始める。 資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録に
last updateLast Updated : 2025-11-09
Read more
第1章 帰郷(上)
 少女はメモを執っていた。揺れ動くバスの座席で。一心不乱に。 スマホの画面を見ると「圏外」の文字が表示されている。これから向かう村は電波が通じていないと聞いていたが、もう圏外なんだ、と梓は画面の文字を見つめ、スマホをカバンにしまい込んだ。 膝の上で小さなメモ帳を開きながら、いつもならスマホでメモを取るところなのに、久しぶりにメモと鉛筆。でもこんな古いやり方も良いかも知れない、と梓は筆を走らせる。「山、薄墨色」「バスの音、お腹の中みたい」  思いついたことを鉛筆でちょこちょこ書きつけているが、手に力が入らなくて、文字がふらふらしてしまう。がたん、がたんと車体が揺れるたび、梓の頭も左右にゆらゆら揺れて、なんだかおかしくなってくる。 矢野梓、十七歳になったばかり。小柄で、どちらかというと細い方で、肩まで伸びた黒い髪がバスの振動で少しずつ乱れている。頬にかかるたびに、うっとうしそうに手で払いのけている。 東京にいた頃より顔色が悪いような気がするのは、黒いカーディガンに紺のスカートという地味な格好が、まだ葬式の名残を引きずっているからだろう。 真っ白なメモ帳の上を鉛筆がずっと走り続けている。  母親の葬式の日から、梓はこうして何でも書き留めるようになっている。書いておかないと、自分がここにいることさえ怪しくなってしまいそうで。 心の奥が氷みたいに冷たくなってしまって、何を見ても何を聞いても、まるで遠いところの出来事みたいに感じられるのだ。だから、せめて言葉だけでも残しておこうと思うのである。 窓の外では、山並みがゆったりと流れていく。春めいてきたというのに、木々の枝先はまだ重たい冬の色をしている。山肌は薄墨を流したような灰色で、ところどころに雲の影が這っている。 新幹線を降りて、ローカル線に乗り換え、それから更にバスに乗り換えて既に二時間近く。 舗装の古い道路をバスのタイヤが踏むたび、がたん、がたんと音がする。船に乗ったことはないけれど、きっと船酔いってこんな感じなのかもしれない、そんなことを思いながら。 窓ガラスに映った自分の顔を見ると、なんだかよその人みたいで、梓は慌てて目をそらしてしまう。 カバンの中には、母親の写真を大事にしまってある。小さな額に入れた遺影。胸が痛くなるはずなのに、やっぱり痛みは遠くて、ただぽっかり穴が空いたような感じがす
last updateLast Updated : 2025-11-09
Read more
第1章 帰郷(下)
 バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。「おや、新しい人じゃな」 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲がった老婆が立っている。薄汚れた紺の作業着に、色あせた手拭いを頭に巻いている。顔は深いしわに刻まれて、小さな目が優しそうに細められている。しわだらけの手で箱から胡瓜を一本取り出して、にこにこしながら差し出してくれる。「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」 知らない人からいきなり野菜をもらうなんて、東京では考えられない。どうしていいかわからなくて、梓は固まってしまう。「あ、ありがとうございます」 やっとそれだけ言って、胡瓜を受け取った。冷たくて、ざらざらした土の感触が手に残る。 老婆は満足そうに頷くと、「それより」と言った。「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」 そう言うと、さっさと歩き出してしまう。梓は胡瓜を握ったまま、ちょっと困ってしまった。荷物を置く前に、いきなり村長さんのところへ? 東京の常識とは違いすぎて戸惑ったけれど、断るわけにもいかない雰囲気である。 夕方の坂道に、老婆の小さな背中を追いかける梓の影が長く伸びていく。◆ 停留所から歩いていくと、なだらかな坂道に出た。  両側には田んぼが広がっていて、青い稲がそよそよと風に揺れている。「おお、弓子さんのお嬢さんか」 梓の足がぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ねる。どうして母親の名前を知っているの? 田んぼのあぜ道から現れたのは、中年の男。背中に古びた猟銃袋を背負い、片手には羽根の乱れた山鳥をぶら下げている。血と羽毛の匂いが風に乗って漂い、梓は思わず息を詰める。 男はにこりと笑って、鳥を梓に差し
last updateLast Updated : 2025-11-09
Read more
第1章 村長の家
 胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。 村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。 門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」 そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。 一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配がひしひしと迫ってくる。 門をくぐると、庭一面に白い砂利が敷き詰められている。立派な松の木が一本、風にゆらゆら揺れている。足音が砂利を踏むたび、じゃりじゃりと音がして、それだけで胸がきゅっと縮こまった。 玄関の引き戸を開けると、土間にひんやりした空気が流れこんでくる。磨きこまれた板の間の奥から、低くて太い声が響く。「弓子さんの娘さんじゃな。よぉ来た。まぁあがりんさい」 姿を現したのは、五十を過ぎたくらいの男の人。背が高くて、顔には深いしわが刻まれている。目もとは優しく微笑んでいて、落ち着いた威厳を感じさせる人物のように見える。「お邪魔します」 玄関を上がると、すぐに広い居間に通された。  畳は新しく張り替えられたばかりらしく青い匂いが立ちのぼっている。壁際には古い箪笥が一つあるだけで、座卓の上にも何も置かれていなかった。 広さのわりに、座布団は三枚だけ。村長は座布団に座り、梓にも座るように勧める。  人の暮らしの跡が見えないせいで、部屋はやけにがらんとして、声を出せば畳の目にまで吸い込まれてしまいそうだった。「矢野梓です。どうかよろしくお願いいたします」 座布団に正座した梓は、村長に向かって頭を下げた。「わしは村長の虚木清一ちゅうもんじゃ。弓子さんとは昔からの馴染みじゃけぇな」 また母親の名前が出た。梓の胸がざわざわつく。でも村長の温かい眼差しに、少しだけ気持ちが和らぐ。「ここはいい村じゃ。あんたが不自由なく暮らせるよう、色々準備してあるけんな」 笑みを浮かべて清一は続ける。「この村は、あんたのふるさとでもあるんじゃけん。気兼ねせず何でもいうてくれ
last updateLast Updated : 2025-11-09
Read more
第1章 新しい家
 清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。 たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。 それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」 清音は柔らかく言葉を紡ぐ。  玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。 湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンションでは絶対にかげない、重たい空気を作り出している。  懐かしいような、不安になるような、複雑な匂い。「……あれ、扉に鍵がないですね?」「ふふ、小さな村じゃけん、どこも開けっぱなしやね」 清音が小さく笑みを漏らす。すると人形めいた美貌が、不意に人の温度を伴い何とも蠱惑的な色を浮かべた。 思わず赤くなりながら、梓はそうか、ここでは村の人たちは皆家族みたいなもので、家と言っても自宅の部屋のようなものなんだ、と考える。  母の故郷は、不便かも知れないけれど、随分と安心できる場所みたいだ。 梓は靴を脱いで、荷物を置いて廊下を歩く。冷たい板の間にぺたぺたと足音が響く。障子は黄色く変色していて、ところどころ紙が破れている。ふすまの取っ手は長年の使用ですり減って、触るとざらざらした感触が残る。 玄関脇の土間からすぐに流し台があって、そこで料理を煮炊きできるようだ。野菜などは土間に置いておけて合理的なのかも知れない。 流し次第の前に立つと、清音が蛇口をひねってくれた。少し間をおいてから水が出てくる。鉄さびの匂いがして、口に含んだら苦い味がしそう。清音は黙って流し台をふき、小さな急須を取り出す。「……居間で少し待って」 やかんに火をつける音がした。梓は戸惑いながら奥に進む。  土間からすぐに居間があった。 小さなちゃぶ台と、座卓。部屋の隅には石油ストーブ。太い柱に止まっている時計がかけられている。 座卓に座る。台所で清音がお湯を注ぐと、湯気に古いお茶の葉っぱの香りが立ちのぼった。 程なくして清音が盆にのせて、急須と湯飲みを二つ持ってきた。「お茶、入った」「
last updateLast Updated : 2025-11-10
Read more
第1章 通学路
 ピュールィーーーー! 山鳥の声が、梓の胸の奥を揺さぶる。東京ではもう失われていた感覚。 村へ来て数日。今日から梓は学校に通うことになる。小さな分校で、生徒は三十人ほど。小学生から高校生までが一緒の校舎で学ぶのだそうだ。 舗装道路はところどころひびが入っていて、すきまから雑草が顔をのぞかせている。朝つゆをまとった草が足首に触れるたび、ひやりと冷たさが走る。スカートのすそが濡れて重くなる。山の鳥の声は澄み切っていて、東京で聞いたどんな音よりも大きく、まっすぐ耳に飛びこんでくる。 通学路の途中に、小さな平屋を改装した建物がある。「吉川診療所」と書かれた看板が、少し傾いて掛かっていた。その隣には「榊商店」という古い木の看板を掲げた店がある。 診療所の入り口前では、若い医師が白衣姿で村人たちと話していた。「吉川先生、本当に助かるけぇな」「この辺りは昔からお医者さんがおらんくて、先生がいらしてくださって心強いとよ」 村人たちは口々にお礼を言い、みんなにこにこ笑っている。 吉川と呼ばれた医師は三十歳くらいの若い男性だった。背は高くないが、白衣を着ているせいか きちんとして見える。黒髪は寝癖が少し残っているものの清潔で、黒縁眼鏡の奥の瞳には優しさと同時に、どこか疲れたような影が宿っていた。「ありがとうございます。できることには限りがありますが……」 彼は愛想よく微笑むが、どこかぎこちない。村人との会話も丁寧だが、微妙に間が空いて、慣れていない様子が伝わってくる。「先生、また夜中までお仕事でしたでしょう」 雑貨店の方から、エプロン姿の女性が顔を出した。二十代後半ほどの美しい人で、困ったような優しい笑顔を浮かべている。「千鶴さん、いえ、その……」 吉川は慌てたように手を振る。「電気がついてましたから、心配していたんです。ちゃんと食事とっていますか?」「大丈夫です、ちゃんと……」 彼の答えが曖昧なのを見て、千鶴と呼ばれた女性は小さく溜息をついた。 村人たちはそんな二人のやりとりを見て、微笑んでいる。「千鶴さんがおってくださって、先生も安心じゃな」「そうそう、お一人じゃあ心配じゃったけぇ」 吉川は照れたように頭を掻く。千鶴さん、と呼ばれていたのは商店の人だろうか? 方言がないから、二人もまた移住者なのだろう。でも村の人たちに受け入れられ、溶け
last updateLast Updated : 2025-11-11
Read more
第1章 学校
 村の坂道を登りきった先に、小さな木造の校舎が建っている。 瓦屋根は色あせ、窓ガラスは白く曇っている。運動場の隅には雑草が伸び、朝の光に濡れた草の匂いがただよっている。 教室の扉の前に立つと、古びた木の匂いが鼻を突き、心臓がやけに早く鳴る。 担任の教師に背中を押されて戸を開けると、がやがやしていた声がぴたりと止んだ。生徒達の視線が一斉に集まってくる。 このクラスは梓を含めて五人しか生徒がいない。片田舎の学校では普通なのだろう。上級生は二人しかいないそうだ。「今日から新しく転校してきた矢野梓さんじゃ。みんな、仲良うしてあげてくれんかのぅ」 担任の教師は、初老の男性。 白髪が交じり始めた頭に、太い四角い黒縁の眼鏡。 彼の声に、教室の空気が少し和らぐ。 最前列から、一人の女の子が立ち上がった。 黒髪をきちんと二つに結んで、胸元には小さな学級委員のバッジが光っている。背筋はぴんと伸びていて、目の奥に責任感の光を宿している。「転校生さんやね。私、美穂よ。学級委員をしとるけぇ。困ったことがあったら、何でも言うてくれんさい」 はっきりした声が教室に響いて、場の緊張をやわらげてくれた。この子が立つだけで「この場をまとめるのは私よ」と言っているような、そんな頼もしさがある。 その隣で、一冊の分厚い本を閉じる音がした。 髪は少し伸び気味で、眼鏡の奥の瞳はどこか内向的。でも本を撫でる手つきは優しくて、言葉を選ぶように口を開く。「僕、健太じゃ。本ばっかり読んどるけぇ、あんまり役に立たんかもしれんが」 小声でそう言うと、耳の先まで真っ赤になった。その不器用さがかえって愛きょうを生んでいる。 後ろの席から、ぱっと明るい声が飛ぶ。 頬にかかった髪をリボンで留めて、笑うとえくぼができる。いすの背もたれに身を乗り出して、手をぶんぶん振っている。「私、あゆみ! ねえねえ、梓ちゃんって東京から来たんやろ? 夜でも町が光っとるって本当やけ? 私も、いつか行ってみたかとよ!」 弾む声に教室がくすくす笑って、場の緊張
last updateLast Updated : 2025-11-12
Read more
第1章 帰り道
 授業が終わって、みんなで校舎を出る。「そんじゃーの」「また明日ね!」 口々に声をかけ、皆それぞれの家路についてゆく。 と、清音が梓の隣に並んで歩いてきた。  夕暮れの川沿いの小道を、二人で並んで歩いていく。 初夏の風が頬を撫でて、道端にはタンポポの綿毛が風に舞っている。空気は暖かく、どこからか青草の甘い匂いが漂ってくる。 山の影がだいぶ長く伸びて、風はもう昼間の暖かさを失っている。水の流れる音が耳に心地よく響くのに、その水面を見ると、なぜか一滴も揺れていないように見える。流れているのに、じっと止まっている。不思議な光景である。 しばらく沈黙が続く。清音は前だけを見つめて、歩く速さは全然変わらない。 その横顔をちらちら盗み見るたび、梓の胸はざわざわする。美しい横顔。でもどこか近寄りがたい冷たさが漂っている。「……この村、好き?」 唐突に清音が口を開いた。 黒い瞳が夕日を受けて、わずかに赤みを帯びている。その一瞬の美しさに、梓は言葉を失いかける。「まだよくわからない。でも……静かで、いいなって思う」 そう答えると、清音はかすかに微笑んだ。 氷の表面にひびが走ったような、はかない笑顔。 梓の胸の奥で、何かが大きく鳴る。母親を失った時には全然動かなかった心臓が、清音の笑顔にだけは激しく波打っている。頬が火照って、視線をそらすことができない。この感覚の名前を、まだ梓は知らない。でも確かに、初めて感じる甘い震え。「あなたも、きっと気に入ると思う。この村は……来るべき人を選ぶから」 その言葉は、冗談のようにも、予言のようにも聞こえた。  何と返していいのかわからなくて、梓はただ頷いた。 見上げると、空は群青色に染まって、雲一つなく広がっている。美しい夕空に、心が少しずつ温かくなっていくのを感じる。 梓はそっとポケットからノートを取り出して、一行書きつけた。 ――「清音の笑顔、氷が溶ける音に似ていた」 鉛筆を走らせる手が、か
last updateLast Updated : 2025-11-13
Read more
第1章 夜の贈り物
 夜の静寂で、梓は目を覚ました。襖の隙間から差しこんだ月明かりが、畳の目を一本ずつ銀色に染めていく。青い夜気がまだ残っていて、寝返りを打つと髪にまで冷たさが染みこんでいるように感じられた。 ここは、母が残していった家。柱の節の黒ずみ、鴨居の塗りの剥げ、障子紙の薄い黄ばみ――どれも初めて見るはずなのに、月光に浮かび上がると、どこか懐かしい。 玄関先に人の気配がした。 布団から起き上がり、窓辺に向かう。薄いカーテンを開けると、夜風が頬をかすめ、遠くで梟がひと声だけ鳴いた。澄んだ夜気に湿った土の匂いが混じり、胸の奥までゆっくりとしみてくる。 玄関へ回ると、月明かりで上がり框の影が長くのびていた。戸を引く。木と木が擦れる低い音のあと、土と野菜の匂いがふっと立ち上がる。 軒先に、籠が二つ置かれていた。ひとつには米袋、もうひとつには菜っ葉と茄子、それから赤い小さな実がいくつか。葉の裏には夜露が宿り、泥もしっとりと湿っている。 指で触れると、冷たい湿りがそのまま指先に移った。縄の結び目には手慣れた癖がある。けれど、どこにも名前はない。 ありがたい、と梓は思った。 誰かが、持ってきてくれたんだ。その重みは確かで、そこに込められた労力も気持ちも、月明かりの下で籠を持ち上げただけで伝わってくる。けれど同時に、胸の奥で小さな棘が動いた。 頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から決められてしまう気がしたのだ。 居間の本棚に目が止まる。母の古い日記帳が置いてある。村へ来る前に一度手に取り、震える文字を見たきりになっている。母を思い出すのがつらくて、まだ通しては読めていない。それでも気持ちが揺れると、つい頁を開いてしまう。亡き母の足跡をなぞるように。 今夜は春の欄に目が止まった。短い一文が挟まれている。 ――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。 与える側の笑顔は、どんな形だったのだろう。受け取る側の自分は、どんな顔をすればいいのか。 籠を抱えて台所に運びながら考える。菜っ葉を水に浸け、茄子の表面をなぞると、紫の皮に月光が淡く反射し
last updateLast Updated : 2025-11-14
Read more
第2章 吉川医師
 朝の光が診療所の窓を薄く染める頃、吉川直樹は目を覚ました。 布団から這い出ると、足元で何かがカサリと音を立てた。昨夜読みかけの医学書が床に落ちている。ページが折れ曲がり、栞代わりに挟んだレシートが半分ちぎれていた。 階下へ降りると、診察室の机の上にも書類が散らばったままになっている。昨日の問診票、薬の発注書、それに村役場からの連絡文書。整理するつもりでそのまま眠ってしまったのだった。 洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の髪は案の定、後頭部が跳ねている。櫛で撫でつけても、すぐに元の形に戻った。 洗面を終えて机の書類を揃え始めたところで、戸口が軽く叩かれた。「先生、朝ごはんを少し持ってきたんですけど、よろしいですか?」 扉を開けると、榊千鶴が味噌汁と小鉢を載せた盆を抱えて立っていた。 榊千鶴。 二十代の終わり頃と思われる、美しい女性だった。半年ほど前に失踪した夫の後を継いで、一人で商店を切り盛りしている。本来なら人恋しい年頃だろうに、隣に住む独身の医師の世話を、まるで弟でも見るような調子で焼いてくれる。「あ、おはようございます」 吉川は慌てて机の上の書類を揃えようとした。その動きを追うように、千鶴の視線が散らかった机の上に止まった。「また遅くまで仕事をしていたんですね」 申し訳なさと有難さが同時に胸に差し込み、吉川は言葉を探した。「いえ、その……」 千鶴は困ったような笑みを浮かべた。「ちゃんと食事は取りましたか? 昨夜もずっと診察室の電気がついてましたし」 吉川は思い出した。確かに夕方頃、千鶴が様子を見に来てくれたような……気がする。だが、その時は薬の在庫確認に夢中で、適当に返事をしてしまった記憶がある……ような気がする。「すみません。ちゃんと……」 嘘をつこうとして、やめた。昨夜の夕食は、戸棚にあった缶詰だけだった。「今朝のお味噌汁は、取れたての山菜ですよ。おにぎりもありますから。よろしければ」「ありがとうございます。でも、お構いなく」「もうありますから……ね!」 千鶴はそう言うと、籠を置いて商店の中へ戻っていった。 吉川は溜息をついた。申し訳なさと、ありがたさとが入り混じる。こんなに世話をかけるつもりはなかった。――だが、かつて事故で夫婦を救ったことを思えば、千鶴が恩義のように気を配ってくるのも無理はない。とはいえ、こん
last updateLast Updated : 2025-11-15
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status