「鈴木部長、来月から海外研修へ行くことになりました。これが退職届です」鈴木智也(すずき ともや)は、意外そうな顔で私を見た。「どうしてそんなに急なんだ?」私は、あらかじめ用意していた口実を告げた。「息子の父親がS国にいるんです。息子を連れて行って、家族みんなで一緒に暮らそうと思います」智也はうなずいた。「そうか。君が一人で子育てするのは本当に大変だったろうしな。みんな、君はシングルマザーなんだと思っていたよ」私は微笑んだ。今までは違ったけど、これからはその通りになるんだから。部屋を出ると、ちょうど向かいから歩いてくる黒崎恭平(くろさき きょうへい)と宮本杏(みやもと あん)にばったり出くわした。恭平は私の上司。そして私の息子・黒崎悠斗(くろさき ゆうと)の父親だ。七年前、私は恭平の秘書をしていた。酔った勢いの一度の過ちで、私たちは子供を授かったのだ。私たちが家族や友達に内緒で籍を入れてから、今年で六年も経つ。恭平が、悠斗に「パパ」と決して呼ばせないようになってからも、六年が経っていた。恭平の歩幅は小さく、隣を歩く女性を気遣っているのが明らかだった。杏は片手に書類を、もう片方の手で恭平のスーツの裾を掴んでいる。その甘ったるい光景は、少し目に痛かった。二人とすれ違う瞬間、心臓がどきりと跳ねる。私はたまらず口を開いた。「恭平さん……」男の足が止まる。その表情は氷のように冷ややかだ。「黒崎秘書」丁寧だけど他人行儀なその呼び方には、警告の色が滲んでいた。ここは会社だぞ。俺たちはただの上司と部下にすぎない、と。まるで私にこう言い聞かせているみたいに。私はその言葉の裏にある意味を察して、胸にこみ上げてきた想いをぐっと飲み込んだ。「社長」恭平は短く返事をすると、足を止めることなく、まるで赤の他人の横を通り過ぎるように去っていった。私は乾いた笑いを浮かべ、退職の件を切り出そうとした言葉をぐっと飲み込んだ。どうせ、彼が気にするわけないでしょ。スマホの画面が光った。悠斗がキッズケータイから送ってきたメッセージだ。【ママ、パパは僕の誕生日、お祝いしに帰ってきてくれる?】私ははっとして、思わず振り返った。目に飛び込んできたのは、恭平が優しく身をかがめ、杏と話している姿だった。
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