LOGIN社長である夫との結婚は、6年間ずっと秘密だった。彼は、たった一人の息子に「パパ」とさえ呼ばせてくれなかった。 そんな彼が、また女秘書を優先して息子の誕生日をすっぽかした日。 もう限界だった私は、離婚協議書を残し、息子を連れて彼の元を去った。 あの冷静な夫が信じられないほど取り乱して、私の居場所を突き止めようと、オフィスにまで乗り込んできた。 だけどもう、遅い。私と息子は、二度と振り返らない。
View More4年もかけてやっと恭平のそばにいられたのに……たった一晩で、彼はすべてを台無しにした。無理やり口角を上げて、せめて大人としてのプライドは保とうと思った。ドアを開けて、私は振り返らないまま口を開いた。「どうぞ」恭平はぱっと目を輝かせると、すぐに私の後についてきた。「お砂糖は2つ。ミルクはなしだね」コーヒーを淹れて恭平の前に置き、私は向かいのソファに腰を下ろした。恭平の声は、少しだけかすれていた。「覚えててくれたんだな」私はただ微笑んで、何も答えなかった。「あなたがここにいるってことは、離婚協議書はもう見たんだね?財産分与はいらない。私が欲しいのは、悠斗の親権だけよ」恭平は息を呑み、はっと顔を上げて私を見た。「瑠衣。俺は離婚を認めない」そんなの、とっくに分かっていた。私は返事もせず、ただ静かにうなずいた。「別にいいわ。3年間、別居すれば済むことだもの」恭平はカップをテーブルに叩きつけるように置いた。鈍い音が響く。「瑠衣、そんなに俺と別れたいのか?忘れたのか?7年前、俺に抱かれたくて必死だったのはどこの誰だ?」心臓が、鈍い痛みで軋む。私は信じられない思いで恭平を見つめ……そして、すべてを悟った。「ふん。あなたはずっとそう思ってたのね。どうりで、あの朝、あなたの態度が冷たくなったわけだ。てっきり、手に入れたからもういらなくなったのかと……まさか、あなたは、最初からずっとそう思ってたのね」がっかりもしたけど、それ以上に、どこか腑に落ちたような気持ちだった。私は目を伏せ、手の中のコーヒーカップをそっとなぞる。そして、静かに口を開いた。「恭平さん。考えたことはない?本当は、私が被害者だった、なんて」恭平は、呆然として私を見つめた。「なんだって?」私は、ふとあの夜のことを思い出していた。あの夜、恭平はひどく酔っていて、私は予約していたスイートルームまで彼を支えていった。簡単に恭平の顔を拭いてあげて、ベッドサイドに一杯のお水を置いて、私は部屋を出ようとした。それなのに、彼はいきなり私の腕を掴んで、力ずくでベッドに引きずり込んだの。あの夜、私は必死に抵抗して、叫んだ。でも、無駄だった。4年間も恭平に片思いしてたけど、こんな形で彼との関係が始まるなんて、
あの夜、恭平は一晩中、キッチンの床に座り込んでいた。彼はこんなにもみじめな思いをするなんて、初めてのことだった。これまではどんなに夜遅く帰ってきても、彼の帰りを待つ明かりがひとつ、灯っていたのに。誰かがソファに座って、静かに彼の帰りを待っていてくれたんだ。でも今は、それもなくなった。広すぎる家にぽつんとひとり。ただ寂しく、夜が明けるのを待っていた。翌日、恭平は服も着替えずに、そのまま会社へ向かった。オフィスのドアを開けると、私のデスクはとっくに片付けられていた。きれいさっぱり、目に痛いほどに。デスクの上には、薄い書類がぽつんと置かれていた。まるで、開かれるのを待つパンドラの箱のようだった。恭平は震える手でそれを開くと、行々の文字が目の前に飛び込んできた。【性格の不一致により、両者の婚姻関係は破綻。関係の修復は不可能であると認める】【両者は話し合いの末、離婚に合意。以下の条件をもって離婚協議を成立させる……】【夫:黒崎恭平】【妻:黒崎瑠衣】「そうか、君は本気で俺から離れるつもりだったんだな」恭平は力なく笑ったが、その目元はじんわりと赤くなっていた。何度も別れを考えた。だけど、先にその決断をする人間が、私の方だとは、彼は思ってもみなかっただろう。そして、いつの間にか、相手から離れられなくなっていたのが、彼自身の方だったなんて、恭平も、思いもしなかったはずだ。離婚協議書を手に取ると、恭平はすぐさま踵を返した。S国へ行って、私を見つけ出すつもりだった。そして、直接問いただすんだ。最初に私から近づいたのに、なぜ何も言わずにいなくなったのかと。そう思えば思うほど、恭平の足取りは速くなった。険しい顔でオフィスを出ようとした彼は、不意に、強い香水をつけた女にぶつかった。「社長?どこ行きますか?昨日の夜、送ってくれなかったでしょう?だから私、ホテルに泊まるしかなかったんですからね。もう、怒りましたから」杏は恭平の前に立ちはだかり、甘えた声で言った。「どけ」恭平は、わざとらしい振る舞いの女を相手にする気もなく、冷たく言い放った。杏はきょとんとして、すぐに地団駄を踏んだ。「社長!何ておっしゃるんですか?そんなこと言ったら、本当に怒りますよ!」「どけ」
やっとパーティーが終わり、恭平は主催者への挨拶もそこそこに、逃げるように会場をあとにした。家に着くころには、酔いがこみ上げてきていた。恭平は頭に手をやり、ふらつく足取りでドアを開けた。「瑠衣、水」しかし、部屋は静まり返ったままだった。顔を上げた恭平は、暗いリビングを見て、そこでようやく思い出した。私と悠斗は、昨日ここを出ていったんだった。恭平は明かりをつけて、キッチンへ向かった。冷蔵庫からソーダの缶を取り出す。ドアを閉めたとき、大小さまざまなシールがびっしり貼られているのに気がついた。ほとんどは、子供が好きなアニメのキャラクターだった。普段なら子供っぽいと一蹴するようなシールを眺めているうちに、恭平は思わず笑みをこぼしていた。目の前に、悠斗がこっそり書斎へ忍び込んでくる光景がよみがえる。悠斗は絵本を手に、おずおずと恭平の前にやってきて言ったんだ。「パパ、この本、一緒に読んで?」そのとき恭平は、悠斗に何て返したんだったか。ソーダを飲む恭平の手が止まり、その瞳が深く沈んだ。ああ、彼はこう言った。「忙しい。かまってる暇はない」そこまで思い出した途端、恭平はわけのわからない苛立ちに襲われた。スマホを取り出し、居ても立ってもいられず私にメッセージを送った。【住所を教えろ。明日、迎えに行くからな】そこまで打ってからまずいと思い直し、文面を修正する。【君と悠斗は今どこ?明日、必ず俺が迎えに行くから】恭平は深く息を吸い込んで、送信ボタンを押した。長い間、返信を待っていたが、結局、私からの連絡はなかった。その時、恭平は何かを思いついたようにハッとした。ゴトン。手から滑り落ちた缶が、床に落ちる音が響いた。恭平は顔をしかめ、慌てて仕事のグループチャットを開いた。いない。どこにも、いない。会社の仕事グループチャットを、恭平は必死にスクロールした。だが、私のアイコンはどこにも見当たらない。まさか、グループを抜けたのか?いや、ありえない。瑠衣はまだ辞めていないんだ。仕事のグループから勝手に抜けるはずがない。恭平はそう呟くと、無理やり笑みを浮かべた。今朝届いた、まだ開いてもいない退職届のことを思い出すと、恭平の胸のざわめきはもう抑えようがなかった。一瞬迷
そして、私と息子が家を出て行く時の、決然とした後ろ姿が脳裏に浮かんだ。恭平の胸の鼓動が、一気に速まった。もう、こんな子供じみた真似はやめるべきなのかもしれない。あれから長い年月が経ったんだ。瑠衣だって、もう変わってしまったのかもしれない、と恭平はそう思った。もしかしたら…………夜6時。恭平は杏を伴い、取引先が主催するパーティーに出席していた。丸一日、私の顔を見ていない。恭平はグラスを片手に、どこか上の空だった。今回のは、さすがにやりすぎだっただろうか?ふと、そんな考えが彼の頭をよぎる。恭平は唇をきゅっと結ぶと、ワインを一気に呷った。スマホを取り出して私にメッセージを送ろうとした、ちょうどその時。挨拶に来た取引先に声をかけられ、遮られてしまった。「黒崎社長、先日の企画の件ですが……」恭平ははっと我に返ると、すぐに雑念を振り払い、仕事モードへと頭を切り替えた。彼らが和やかに談笑していた、ちょうどその時。場にそぐわない声が、突然割り込んできた。「社長、このスイーツ、すっごく美味しいです」杏はチョコレートのカップケーキを手に持ち、その瞳には世間知らずな無邪気さが浮かんでいた。話を遮られ、取引先たちの顔が曇る。それなのに杏はまったく空気が読めない。にこにこと恭平の前に割り込むと、そのカップケーキを彼の口元へと突き出した。恭平はとっさによけきれず、顔がチョコレートとクリームでべっとりと汚れてしまった。杏はびっくりして、慌てて手で拭こうとした。恭平は、思わず大きく後ずさった。「もういい!」杏はぴたりと動きを止め、その目にはたちまち涙が浮かぶ。「社長、どうしたんですか?今まで、こんなじゃなかったのに……」恭平はぐっと息を吸い込み、何かを言いかけた。しかし、取引先たちが怪訝な目で見ているのが視界に入った。彼の視線に気づき、取引先の山下社長が気まずそうに笑う。「黒崎社長、どうぞお構いなく。企画の件はまた改めてお話ししましょう」残りの人たちも次々とそれに同調した。「ええ、どうぞお構いなく」「また今度、お話しましょう」そう言うと、彼らは足早にその場を去っていった。恭平に彼らを引き留める理由はなく、それ以上に、引き留めることなどできるはずもなかった。せっかくの商談は
メールに表示された、やけに大きな文字のタイトルを見て、恭平は嫌な予感を覚えた。メールを開こうとしたまさにその時、杏がしなやかな足取りで部屋に入ってきた。「社長、先日のレポートです」杏は書類をデスクに置くと、手慣れた様子で恭平のそばに寄り、そっと彼の肩に手を置いた。以前の二人なら、それは暗黙の了解で、甘い雰囲気の合図だった。しかし今は、恭平はなぜだか居心地の悪さを感じていた。恭平はすっと姿勢を正すと、書類に目を通した。だが、1ページめくっただけで、もう眉をひそめていた。ページを埋める文字は、書式以外、まともなところがほとんどなかった。ひどいことに、部署名まで間違っている始末だ。恭平は書類をデスクに叩きつけ、氷のように冷たい声で言った。「このレポートは誰が作った?仕事の基本もできてないじゃないか?鈴木さんを呼べ!人事部はいったいどういう基準で採用してるんだ!」その言葉を聞いて、杏の顔がさっと青ざめた。「社長、これは私が作成したものです」その一言で、恭平の怒りは一瞬にして行き場をなくした。恭平は怯えたような杏を一瞥し、初めてどうしようもない無力感に襲われた。杏は目を赤く潤ませて彼を見つめ、か弱い声で言った。「社長、私のこと、仕事ができないって思いましたか?」彼女は涙をぬぐった。その姿は、か弱いながらもどこか意地を張っているように見えた。「本当に私のことが使えないと思われるなら、辞めます。もっと優秀で仕事のできる秘書を雇ってください」そう言うと、杏はオフィスを出て行こうとした。恭平は思わず彼女を引き止めたが、その縋るような杏の瞳に見つめられて、はっと動きを止めた。瑠衣は、決してこんな目はしなかった。彼女は、誇り高い人だったから。どんな問題が起きても、まずは自分で解決しようとする人だった。杏のように、涙で同情を引こうとはしない……もし、まだ瑠衣がそばにいてくれたら……と、恭平は心の中で呟いた。だらりと下げていた手が、知らず知らずのうちに固く握りしめられる。ふと頭に浮かんだ自分の考えに、恭平ははっとした。恭平はまるで何かにうろたえるように、杏を掴んでいた手をさっと離した。そして眉間をもみながら、疲れたように言った。「もういい、下がってくれ」杏はまだ何か言いたそうに
杏が、驚いたように声をあげた。「黒崎秘書、どうして社長の家にいますか?」その言葉を聞いて、私はとっさに悠斗を背中へ隠した。「私は……」「俺の親戚だよ。しばらくここに住むことになってるんだ」私が話し始めた途端、恭平に言葉をさえぎられた。スーツケースのハンドルを握る手に、ぎゅっと力が入る。もう何度もあったことだけど。でも、何度聞いても胸に鋭い痛みが走る。私が口を開くより先に、悠斗が話し始めた。「おじさん、こんにちは」信じられない気持ちで振り返ると、悠斗の目元が赤くなっているのが見えた。「ママ、もう行こう」こみ上げてくる言葉をすべて飲み込んで、私は無理やり口角を上げてささやいた。「うん」すれ違いざま、恭平にぐっと腕を引かれた。彼は、信じられないという顔で私を見ていた。「今、悠斗は……俺を何て?」あまりの皮肉さに、私はつい乾いた笑みを浮かべた。「社長が、ずっと望んでいたことでしょう?」六年間の秘密の結婚生活。恭平は、ただ私たちの関係を隠していただけじゃない。悠斗に彼のことを「パパ」と一度も呼ばせたことがなかったのだ。ただ一つ、前と違うのは。以前は、恭平が悠斗に「おじさん」と呼ぶよう強いていた。そして今は、悠斗自身の意志で、彼と線を引こうとしている。私はうつむいて、恭平の手を力いっぱい振りほどこうとした。でも、全然ほどけなかった。恭平は、複雑な目をして私を見ていた。「数日だけ、待ってくれ。悠斗には、俺からちゃんと話すから」私は彼に思い出させた。「宮本さんが待ってるよ。手を離して」恭平はそれでようやく気づいたように、名残惜しげに私の手を離した。私はふんと笑い、悠斗の手を引いて背を向けた。だけど、恭平が突然私たちを呼び止めた。「ちょっと待って」彼は車へ駆け戻ると、ケーキの箱を持ってきて私に差し出した。「悠斗、誕生日おめでとう」そこへ、杏が絶妙なタイミングで割り込んできた。「このケーキ、もともと社長が私に買ってくださったものなんです。お子さんのお誕生日だったなんて、すごい偶然ですね。黒崎秘書、どうぞお受け取りください」手にしたケーキが、突然、鉛のように重く感じられた。ケーキを返そうとした、その時。悠斗の嬉しそうな表情が視
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