「先生、離婚の手続きをお願いします」心は決まっていた。妻に悟られることなく、すべてを終わらせるのだ。弁護士は手際よく離婚協議書と離婚届を作成してくれた。「奥様の署名をいただき、正式に効力が発生します」帰宅すると、岡見紗穂(おかみ さほ)は珍しく酒に溺れていた。初恋の男が離婚したというニュースに、心が舞い上がっているのがわかった。翌朝、二日酔いで気怠げな紗穂が言った。「ねえ、結婚式、ちゃんと挙げない?」分かっている。これは、あの男を揺さぶるための策だ。俺は笑顔で頷いた。だが、彼女がサインする式場の契約書――その束の中には、密かに離婚届を忍ばせておいた。「結婚式場の契約書って、こんなに分厚いの?」紗穂が眉を寄せ、ページを繰る。だが、なかなかペンを握ろうとしない。江原市でも名の知れた大物実業家である彼女は、それだけにそう簡単に騙せる相手ではない。後ろから二枚目。そこに、俺の署名済みの書類がある。俯いたまま、俺の心は妙に凪いでいた。「キャンセル規定とか色々あるから。時間がある時にゆっくり見てくれればいい」彼女に、そんな暇などないことは知っている。なにしろ今日は、あの男――伊佐光司(いさ こうじ)が帰国する日なのだから。光司が婚約した時、紗穂は当てつけのように俺と結婚した。そして今、光司が独り身に戻った。彼女は泥酔し、目覚めるなり結婚式を挙げようと言い出した。すべては光司を刺激するため。ただそれだけのために。俺との結婚生活など、二人の恋の駆け引きに使われる小道具に過ぎない。予想通りだった。紗穂の表情に、隠しきれない焦燥が滲む。「空港まで迎えに行かなきゃいけないの。これ、後でいい?」その瞳に一瞬、鮮烈な喜びの色が宿った。俺に向けられるのは苛立ちだけ。あの輝きは、光司だけのもの。急いで署名を走らせると、紗穂は俺に背を向け、慌ただしく出て行った。——三日前、紗穂が唐突に結婚式の話を切り出したのは、そんな背景があったからだ。結婚して五年。盛大な披露宴もなければ、世間への公表もなかった。双方の両親と親しい友人だけが知る、秘密の結婚。メディアの紹介記事には必ず「独身」の文字が踊り、たまに出るゴシップも、彼女と光司の儚い恋の物語ばかり。密かに夫である俺の名が出ることは、決
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