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愛のカウントダウン

愛のカウントダウン

By:  清瀬Completed
Language: Japanese
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妻も俺も、嘘つきだった。 彼女は俺に九十九個の嘘をついた。「初恋の人は忘れる」と言いながら、その実、一度も忘れていなかった。 そして俺は、たった一度だけ彼女を欺いた。あの離婚届に、彼女自身の手で署名させたことだ。 今日は、それを提出する日だ。最後のカウントダウンが、始まる。 提出三時間前——全ての荷物をまとめ上げ、この国を去る航空券を手配する。 提出二時間前——彼女と写った写真を全て切り取り、アルバムには俺一人の姿だけを残す。 提出一時間前——彼女へ残す、最後のメッセージを録画する。 「紗穂。君を愛した十年。そして今日が、君のもとを去る、最初の日だ」 後にこの映像を目にした彼女は、狂ったように取り乱したという。

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Chapter 1

第1話

「先生、離婚の手続きをお願いします」

心は決まっていた。妻に悟られることなく、すべてを終わらせるのだ。

弁護士は手際よく離婚協議書と離婚届を作成してくれた。

「奥様の署名をいただき、正式に効力が発生します」

帰宅すると、岡見紗穂(おかみ さほ)は珍しく酒に溺れていた。初恋の男が離婚したというニュースに、心が舞い上がっているのがわかった。

翌朝、二日酔いで気怠げな紗穂が言った。「ねえ、結婚式、ちゃんと挙げない?」

分かっている。これは、あの男を揺さぶるための策だ。

俺は笑顔で頷いた。

だが、彼女がサインする式場の契約書――その束の中には、密かに離婚届を忍ばせておいた。

「結婚式場の契約書って、こんなに分厚いの?」

紗穂が眉を寄せ、ページを繰る。だが、なかなかペンを握ろうとしない。

江原市でも名の知れた大物実業家である彼女は、それだけにそう簡単に騙せる相手ではない。

後ろから二枚目。そこに、俺の署名済みの書類がある。

俯いたまま、俺の心は妙に凪いでいた。

「キャンセル規定とか色々あるから。時間がある時にゆっくり見てくれればいい」

彼女に、そんな暇などないことは知っている。

なにしろ今日は、あの男――伊佐光司(いさ こうじ)が帰国する日なのだから。

光司が婚約した時、紗穂は当てつけのように俺と結婚した。

そして今、光司が独り身に戻った。彼女は泥酔し、目覚めるなり結婚式を挙げようと言い出した。

すべては光司を刺激するため。ただそれだけのために。

俺との結婚生活など、二人の恋の駆け引きに使われる小道具に過ぎない。

予想通りだった。紗穂の表情に、隠しきれない焦燥が滲む。

「空港まで迎えに行かなきゃいけないの。これ、後でいい?」

その瞳に一瞬、鮮烈な喜びの色が宿った。

俺に向けられるのは苛立ちだけ。あの輝きは、光司だけのもの。

急いで署名を走らせると、紗穂は俺に背を向け、慌ただしく出て行った。

——三日前、紗穂が唐突に結婚式の話を切り出したのは、そんな背景があったからだ。

結婚して五年。盛大な披露宴もなければ、世間への公表もなかった。

双方の両親と親しい友人だけが知る、秘密の結婚。

メディアの紹介記事には必ず「独身」の文字が踊り、たまに出るゴシップも、彼女と光司の儚い恋の物語ばかり。

密かに夫である俺の名が出ることは、決してない。

本当は、ずっと知っていた。

紗穂には忘れられない人がいる。心の底から愛した男が。

五年の結婚生活で、彼女が俺に見せる優しさもあった。けれど、それはほんの僅かな施しのようなもの。

俺なりに愛を注ぎ、関係を築こうとしたが、この家で紗穂が心から笑うことは一度もなかった。

あの日までは――

普段は酒に手をつけない紗穂が泥酔し、満面の笑みだった。

探りを入れると、光司が離婚したのだという。

深夜まで看病し、寝息を立てる彼女のスマホの画面ロックを――ふと、光司の誕生日で解除してみた。

写真フォルダは、容量が尽きるほど埋め尽くされていた。

すべて、光司の写真で。

俺の姿は、一枚もなかった。

アルバムの表紙に設定されていたのは、俺たちのウェディングフォトだ。

けれど俺の顔は、精巧に光司のものへと加工されていた。

入籍の時、式は要らないと言った紗穂が、写真だけは撮ると頑なに主張した理由……

それが、ようやく分かった。

その瞬間、悟ったのだ。

五年続いたこの結婚に、終止符を打つ時が来たのだと。

残されたのは、彼女がサインするまでのわずかな時間だ。

奇しくも、紗穂が俺と挙げると約束した結婚式の日と、ほぼ同じタイミングだ。

カウントダウン。予定の提出日まで、あと二十日。

最近、紗穂の早出と帰宅の遅さが、日に日に拍車がかかっている。

あの日交わした結婚式の約束など、とうに霞のように消え失せていた。
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ノンスケ
ノンスケ
よくある話の男女逆バージョン。男の人がやると、なんか陰湿に見えるのはなぜだろう。女は男を上書きするというけれど、この妻はいつまでも引き出しに入れておくタイプだったのね。
2025-11-23 22:29:33
0
0
蘇枋美郷
蘇枋美郷
妻側だと力でねじ伏せられて逃げられない…という恐怖の可能性もあるけど、この夫は何故コソコソ手続きやるの??堂々とぶった斬って離婚すればええのに分からん。
2025-11-21 14:05:45
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松坂 美枝
松坂 美枝
性別逆でお名前だけ変えたお話 妻に知られないよう離婚手続きをコソコソする夫ってだけでうわあってなる不思議
2025-11-21 09:16:15
2
0
9 Chapters
第1話
「先生、離婚の手続きをお願いします」心は決まっていた。妻に悟られることなく、すべてを終わらせるのだ。弁護士は手際よく離婚協議書と離婚届を作成してくれた。「奥様の署名をいただき、正式に効力が発生します」帰宅すると、岡見紗穂(おかみ さほ)は珍しく酒に溺れていた。初恋の男が離婚したというニュースに、心が舞い上がっているのがわかった。翌朝、二日酔いで気怠げな紗穂が言った。「ねえ、結婚式、ちゃんと挙げない?」分かっている。これは、あの男を揺さぶるための策だ。俺は笑顔で頷いた。だが、彼女がサインする式場の契約書――その束の中には、密かに離婚届を忍ばせておいた。「結婚式場の契約書って、こんなに分厚いの?」紗穂が眉を寄せ、ページを繰る。だが、なかなかペンを握ろうとしない。江原市でも名の知れた大物実業家である彼女は、それだけにそう簡単に騙せる相手ではない。後ろから二枚目。そこに、俺の署名済みの書類がある。俯いたまま、俺の心は妙に凪いでいた。「キャンセル規定とか色々あるから。時間がある時にゆっくり見てくれればいい」彼女に、そんな暇などないことは知っている。なにしろ今日は、あの男――伊佐光司(いさ こうじ)が帰国する日なのだから。光司が婚約した時、紗穂は当てつけのように俺と結婚した。そして今、光司が独り身に戻った。彼女は泥酔し、目覚めるなり結婚式を挙げようと言い出した。すべては光司を刺激するため。ただそれだけのために。俺との結婚生活など、二人の恋の駆け引きに使われる小道具に過ぎない。予想通りだった。紗穂の表情に、隠しきれない焦燥が滲む。「空港まで迎えに行かなきゃいけないの。これ、後でいい?」その瞳に一瞬、鮮烈な喜びの色が宿った。俺に向けられるのは苛立ちだけ。あの輝きは、光司だけのもの。急いで署名を走らせると、紗穂は俺に背を向け、慌ただしく出て行った。——三日前、紗穂が唐突に結婚式の話を切り出したのは、そんな背景があったからだ。結婚して五年。盛大な披露宴もなければ、世間への公表もなかった。双方の両親と親しい友人だけが知る、秘密の結婚。メディアの紹介記事には必ず「独身」の文字が踊り、たまに出るゴシップも、彼女と光司の儚い恋の物語ばかり。密かに夫である俺の名が出ることは、決
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第2話
たまに、紗穂の親友の投稿がタイムラインに流れてくる。写真の片隅に、いつも彼女が甲斐甲斐しく男の腕を取る姿が映り込んでいる。その横顔は、彼女のスマホで見たあの男――光司のものだ。この日、会社のパートナー、安井要(やすい かなめ)が声をかけてきた。「後で設計案を持って先方と契約しに行くぞ。なんでも今回のクライアント、岡見社長の『噂の恋人』らしいな」俺は頷いた。少し、意識が霞むのを感じながら。パートナーとはいえ、彼は俺が紗穂を知っていることすら知らない。ましてや、俺たちが戸籍の上だけの夫婦だなんて。クライアントのオフィスは、紗穂の会社の真下のフロアにある。光司が帰国して立ち上げた新会社だ。岡見グループが出資しているという。最近、経済ニュースは二人の過去の恋を煽る記事ばかりだ。社長室のドアが開くと、予想通り、紗穂がいた。彼女は上品な包装の箱を手に、社長椅子にふんぞり返る男へ微笑みかけている。光司だ。紗穂の表情が、俺を見た瞬間に凍りついた。その場にいた全員が、空気が歪むのを察した。光司が俺を見る目には、値踏みするような余裕が滲んでいる。「こちらは?」紗穂が黙り込む。どう説明すべきか、言葉を探している。俺は先に、完璧なビジネススマイルを浮かべた。「岡見慎……松永慎也(まつなが しんや)と申します。今回のプロジェクトの設計を担当いたします。岡見社長とは……」俺の声に、紗穂の声が慌てて重なった。「大学の同級生です」言葉が落ちた瞬間、設計案を握る俺の手が白く強張った。指先が、紙に痕を刻んだ。紗穂の嘘に加担するのは、これが初めてではない。彼女が俺の存在を隠したがるのも、今に始まったことではない。いわゆる秘密結婚。それは、俺たちの結末がとうに決まっていたことの証でもあった。商談は、そこからうまく進むはずもなかった。紗穂はすぐにビジネスエリートの仮面を被り直し、光司の代理として俺たちを攻め立てる。「価格をあと10%下げてください」紗穂は俺たちの利益と限界を、正確に把握した上で追い詰めてきた。要がしばらく悩んだ末、歯を食いしばって承諾した。「……分かりました。岡見社長、さすがですね。こちらの底値を完璧に見抜いておられます」紗穂は顔を背け、気まずそうに俺と視線を合
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第3話
やがて、言い訳のように口を開いた。「まだ秘密結婚のままだし、ちゃんと説明できる機会が見つかってないの。いずれ、公表するから。今は、このプロジェクトを成功させることが先決よ」俺は頷いた。何も言わずに。当面の最優先事項は、俺たちの「結婚式」だったはずだが、そんな指摘はしない。その結婚式の日が来れば、俺が離婚届を提出しに行くことも、教えない。結局、彼女の目には光司しか映っていないのだから。プロジェクトの最中、紗穂が俺と光司を会わせないよう配慮する様子を、要が察知した。彼は興味津々に訊いてくる。「おい、お前。昔、岡見社長と何かあったんじゃないのか?」俺は笑った。「まさか」彼は納得いかない顔で口を尖らせた。「だってさ、何度もすごく申し訳なさそうな目でお前を見てたぞ。あれは明らかに、罪悪感を抱えた女が元カレを見る目だ」俺は一瞬戸惑い、記憶を辿った。気づいていなかったわけではない。ただ、これまでのすべてが、彼女のその視線を信じさせてくれなかった。カウントダウン、残り十日。この日は、定例の打ち合わせの予定だった。光司がわざとらしく長々と話しかけてくる。俺と紗穂の関係を薄々感づいているのだろう。俺は淡々と応対した。会議が終わると、紗穂が珍しく「家まで送る」と言い出した。初めてのことだった。「あなたの仕事、予想以上に優秀ね」結婚して五年、彼女が俺を褒めたのは初めてだった。資料をまとめる手が止まる。戸惑いながら彼女を見ると、紗穂は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。「結婚式、まだ間に合うかしら?」俺は顔を伏せた。式を取りやめたいのだろう。十中八九、光司のせいだ。「中止でいいよ。もう日数もないし」俺は顔を上げ、彼女を見た。真実を暴くつもりも、今更互いに気まずくなるつもりもなかった。紗穂が呆然としている。信じられない答えでも聞いたような顔だ。すると、彼女が問い返す。「……気にならないの?」そうだな。以前の俺なら、その場で取り乱して答えを求めていただろう。この歪な結婚生活で気まずい場面を作ったのは、いつも俺が感情を抑えきれなかったせいだ。もっとも、その原因のすべては彼女にあったのだが。俺は首を振った。「別に。ただの形式だろ」長い沈黙の後、紗穂
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第4話
この女が最近何を考えているのか、理解できないし、理解したくもない。俺は少しずつ、彼女に気づかれないように、荷物を運び出し始めた。けれど、結局気づかれた。この日、会議の後。紗穂が俺をオフィスに呼んだ。椅子に座るなり、彼女が訊いてきた。「最近、荷物をかなり運び出してるみたいね。家にもあまり帰ってないし」俺は頷き、用意しておいた理由を告げた。「ああ、しばらく昔の家に泊まろうと思って」紗穂の表情が少し揺れた。「結婚式のこと、ずっと考えてたんだけど……やっぱり、挙げても……」俺は遮った。「もう時間ないし、いいよ」彼女が驚いた顔をする。「もう時間ないって、どういうこと?」俺は迷った。署名済みの離婚届を見せるべきか、と。光司からの電話が、絶妙なタイミングで俺を救った。彼女のスマホに表示された名前に、俺は自嘲の笑みを浮かべた。「先に用事済ませなよ。俺たちの話は急がないから」紗穂がドアノブに手をかけ、謝るかのように振り返って約束を口にした。「明日、必ず昔の家に行くから」翌日、彼女は約束を破った。俺は昔の家のソファに座り、スマホを見つめていた。カウントダウン、十二時間。ニュースアプリに地元の経済記事が流れた。光司が新プロジェクトの発表で注目を集めている。紗穂はその背後に、彼を支えるように立っていた。昨日彼女が交わした約束を思い出し、乾いた笑いが漏れた。もしこれが、俺との最後の十二時間だと知っていたら、彼女は約束を守っただろうか。守らなかっただろう。いや、どちらでも同じことか。もう、答えはどうでもよかった。数時間かけて、家を片付けた。がらんとした部屋には、驚くほど俺の物は少なかった。ただ、ここで結婚生活が始まったから、名残惜しかった。要に電話した。予め伝えていたが、改めて別れを告げる。それから、弁護士へ。「離婚届は一ヶ月前にお互い署名済みです。今更、手続きは必要ないですよね?」弁護士の返答は簡潔だった。「不要です」少しの間を置いて、祝福の言葉が届いた。「おめでとうございます、岡見……いや、松永さん」俺は笑って、電話を切った。そのまま静かに、出発の時刻を待った。カウントダウン、三時間。全ての荷物をまとめ、翌朝の航空券を買う。カウント
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第5話
俺は航空券を裏返し、こともなげに見せた。三千キロ彼方の都市名がそこには記されている。紗穂が訝し気に眉をひそめた。「どうして急にそんな遠くへ?私に一言も言わないなんて、万が一何かあったらどうするの」俺は肩をすくめ、あくまで平然と答えた。「別に。ただの異動だよ」紗穂が、俺の手首に縋るように掴んだ。信じられない、というように。「こんな急に?せっかく一緒にプロジェクトをやってたのに、放り出すつもり?」俺はそっと彼女の指をほどき、一歩距離を置いた。「プロジェクトはもう終盤だ。残りは要に任せる。俺には別の仕事がある」けれど、俺が身を引いたのを見て、紗穂ははっきりと傷ついた顔をした。彼女は戸惑いの目で俺を見つめ、伸ばした手が微かに震えている。行き場を失ったように、下ろせずにいる。まるで何かを察したように、彼女が訊いた。「いつ……戻ってくるの?」俺は首を振り、笑みさえ浮かべて答えた。「戻らない」紗穂の表情が絶望に凍りついた。信じられないという目で俺を見つめ、掴もうとするが、俺がまた一歩後退するから届かない。彼女はまるで突然捨てられた子犬のように、近づきたいのに近づけないでいる。紗穂が慌てて外へ飛び出し、どこからか巨大な花束を抱えて戻ってきた。九百九十九本の、真紅のバラ。俺と紗穂が付き合って結婚するまで、ついぞ受け取ったことのない愛情の証。紗穂がその花束を俺の目の前に差し出す。「来る途中、結婚式の手配を済ませたの。今週末よ」「慎也、行かないで。あなた、ずっとこの式を望んでたでしょ?今週は、必ず一緒にいるから」俺はその巨大な花束を見下ろした。結婚したばかりの頃、彼女に一輪のバラを求めたことを思い出す。あの時の紗穂は、あっさりと俺を拒んだ。後に彼女の日記で知った。彼女の中で、愛の証としてのバラは、最愛の人にしか贈れないものだと。今こんな大きな花束を突きつけられて、本来なら喜ぶべきなのに、心はひどく静かだった。本当に吹っ切れたのだろう。俺は紗穂の手から花束を受け取り、彼女の目の前で、躊躇なく家の前のゴミ箱へ放り込んだ。紗穂の表情が一瞬で歓喜から呆然へ変わった。俺は興奮するかと思っていた。復讐が成功して快感を覚えるかと。けれど、そうはならなかった。紗穂のどんな態度にも、もう俺の心は動かない
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第6話
紗穂の声に焦りが混じってきた。俺はもう彼女と関わりたくなかった。スーツケースを引いて背を向け、冷たく一言だけ残した。「離婚届のコピーはテーブルの上だ。自分で確認して」タクシーを呼んで空港へ向かった。紗穂は俺の言葉を聞いて家の中へ駆け込んだ。テーブルには、俺が用意しておいた離婚届のコピーが置いてある。紙には、紗穂の署名がちゃんとある。彼女の筆跡は、繊細ながらも力強かった。紗穂が自分の字を見間違えるはずがない。けれど彼女は、いつ俺とのこんな「決別書」に署名したのかを知らない。空港へ向かう車中、紗穂から電話がかかってきた。けれど俺は応答しなかった。SIMカードを抜いて、へし折った。運転手がその一部始終を見て、面白半分にからかってくる。「彼女と喧嘩か?」俺は否定した。「違う。元妻だよ」運転手は話好きらしく、一度口火を切ると止まらない。「何があったらそこまでするんです?浮気でもされたとか?」一瞬、この質問にどう答えればいいか分からなくなった。紗穂と光司が実際に一線を超えたかどうか、誰が知っていようか。彼女が光司を気遣っても、いつも深入りはしなかった。尻尾を掴ませない。光司もいつも実直な秘書を装っていた。「まあ、そんなところ」運転手が勢いづいて、最近の男は家庭を顧みないと延々と愚痴り始めた。自分の娘婿と同じだと。どうやら彼の古傷に触れたらしい。仕方なく、そのまま運転手の独演会をずっと聞いていた。気づけば空港に着いていた。スーツケースを引いて車を降り、荷物を預けてから、保安検査の列に並んだ。飛行機の出発まであと一時間半。ようやく俺を縛り付けたこの十年間の生活に、別れを告げられる。検査の順番が近づいた時、背後の列がにわかに崩れた。紗穂が息を切らして俺の隣に駆け寄り、列から引きずり出した。彼女は俺の目の前で、あの離婚届のコピーを引き裂いた。「こんなものに署名した覚えはない。無効よ!」俺は舞い散る紙片を見て、うんざりとため息をついた。「人前だぞ。みっともない」紗穂が眉をひそめた。俺の返答がこんな些細なことだとは思わなかったのだろう。けれど彼女は足元の紙片を無造作に蹴り飛ばし、俺の腕を引いて連れ去ろうとする。「この離婚届は認めない。取り消しの手続きに
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第7話
晴れやかな気分で見知らぬ海沿いの街へ降り立った。新しいSIMを買い、まず要に連絡した。それからSNSで紗穂と関係のある人間を全員ブロックした。彼らが送ってきた、空港で泣き崩れる紗穂の動画は一つも見なかった。全てブロックして削除。スマホの中はすっきりして、清々しいほどだ。こちらで新会社の立ち上げに奔走し、事業の軸足を移していく。忙しい日々は、あの女のことを考える暇すら与えてくれない。女に気を遣わない生活が、こんなに爽快だとは。要からオンライン通話がかかってきて、あちらのプロジェクトが無事完了したと興奮気味に報告してきた。紆余曲折あったが、最終的には良い結果で、俺たち二人の収益に影響が出なくてよかった。ふと、俺が離れた後にプロジェクトで何かあったのか訊いてみた。要は深く考えずに答えた。「大したことじゃないんだけど、岡見グループ側の担当者が重大なミスで更迭されたらしい。岡見社長があんなに可愛がってたから、何か怪しい関係かと思ってたけど、所詮その程度だったんだな」その話を聞いて、思わず冷笑が漏れた。そうだ。俺と彼女がまだ夫婦だった頃、彼女は利益のためにこっちの単価を容赦なく叩いた。彼女と光司の関係なんて、所詮その程度、曖昧な段階でしかなかったのだ。紗穂のような女は、結局自分のことしか考えない。要が近いうちにこちらへ来て、事業展開を手伝ってくれるという。長年の相棒と別れるのは寂しかったが、まさか彼までついてきてくれるとは、ありがたい限りだ。こちらでは小さな間借りオフィスを仕事場にして、従業員も若いアシスタント一人だけ。毎日彼女を連れて、一階のカフェのケーキを買いに行くのが、忙しい仕事へのささやかなご褒美だ。ケーキを作っているのは佐藤真琴(さとう まこと)という美人の店主で、黒髪ロングで、白いワンピースを着ている。彼女が作ったケーキも格段に美味しい。アシスタントが毎日よだれを垂らしそうな顔で食べている。この日の午後、アシスタントが大量の資料処理で糖分補給がしたいとねだってきた。仕方なく階下へケーキを買いに行く。着いた時には売り切れで、真琴が新しく焼いているから待ってほしいと言う。カウンターに座って待った。店内のタブレットでニュースやドラマが垂れ流されている。アシスタン
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第8話
一週間後、要がこちらへ到着した。しかし、よほど環境が合わなかったのか、見事に寝込んでしまった。仕方なくホテルへ看病にいけば、彼は弱々しい手つきで明日会う予定のクライアント資料を渡してくる。俺は呆れるしかなかった。こいつ、どこまでワークホリックなんだ。だが彼が倒れた以上、代わりに行くしかない。どうせ二人の事業だ。俺が行こうが彼が行こうが同じことだ。だが、ホテルに着いた瞬間、俺は後悔の念に襲われた。すぐに要へ電話をかけた。「相手が紗穂だなんて聞いてないぞ」病で息も絶え絶えだったはずの要が、その言葉で一気に息を吹き返した。「そんなはずない!絶対にそんなミスをするわけがない!」俺と要が経緯を確認し合っていると、背後から声がした。「あなたに会いたくて、私が担当者変更を願い出たの」振り返ると、紗穂が三メートルほど離れた場所に立っている。それ以上、近づけずにいるようだ。彼女は俺に対して終始慎重で、一言でも間違えれば地雷を踏むとでも思っているようだ。「会いたくないって分かってる。でも、あなたを諦められないの。慎也、もう一度だけチャンスをちょうだい」俺は鼻で笑った。「何のチャンスだ?出て行くチャンスならくれてやってもいいが?」食事は途中で切り上げた。その後、要は元々の発注者を叱りつけ、勝手に担当者を変更した行為に激しく抗議した。クライアントは、生涯でこれほどの屈辱を味わったことはなかっただろう。こちらに罵倒されても、何一つ言い返せないのだから。要が言いたいことを言い終えると、俺に囁いた。「だが、あえて彼女と仕事しようぜ」「お前、正気か」「あいつが希望を抱いた瞬間、地獄に蹴り落とされる絶望顔。見たくないか?あのしつこさ、お前に執着してる様が、俺は腹が立つ。一発お灸を据えてやろう」本来、紗穂への感情などとうに消え失せていた。だが今回、彼女は俺の静かな生活に土足で踏み込んできた。俺が築こうとしている未来を台無しにしようとしている。そう思うと、要の提案は悪くないように思えた。要は二日寝込んでようやく回復し、「お前がスッキリするために、一肌脱いでやる」と息巻いて、その日のうちに紗穂との商談に向かった。俺が協力を承諾したと知り、紗穂が生気を取り戻したように輝いたと聞いても、冷笑しか浮かばなかった。
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第9話
「失せろ」この一言以外、余計な言葉は一つも言いたくなかった。要のろくでもない提案のせいで、爽快感を味わう前に吐き気がこみ上げてきた。紗穂は、俺がここまで冷酷だとは信じられないようだった。立ち上がって俺を引き留めようとするが、真琴に遮られた。「恥を晒すのはおやめなさい。失せろって言われてるの、聞こえないかしら?」紗穂は俺の前では借りてきた猫のようだったくせに、他人には強気に出た。「はぁ?あなたに何の関係があるの?」真琴を下から上までじろりと見て、声を荒げる。「私と結婚しないで、こんなケーキ屋と?彼女が何をくれるっていうの?そのケーキで家賃が払えるとでも?」俺は怒りで振り返り、罵倒しようとした瞬間、真琴が紗穂の前で人差し指を立てて「シー」とやるのが見えた。「それは違うわ。私のケーキ屋に、家賃なんて必要ないの。このビル、私のものだから。お恥ずかしながら、ケーキ作りはちょっとした趣味なだけなの」真琴が俺の大家だったとは。契約書の名前を思い出して首を捻ると、あれは母親の名前だと彼女は言った。母親は今、太平洋で釣りの真っ最中で、家のことは全て彼女に任されているから、実質自分のものだ、と。俺はあまりのことに口をぽかんと開け、そのまま勢いで店のケーキを全部買い占めてしまった。しかも代金を払わずに、だ。もっとも翌日にはちゃんと代金を払い、「昨日は冗談だった」と伝えたが。彼女が金に困っていないのは分かっているから、代わりに店の飾りを一つ贈った。ちょうど店が持て余していた空きスペースを埋めるのにぴったりだ。昨日の礼のつもりだった。真琴は何も言わなかったが、こう訊いてきた。「あなたたち、彼女を追い落とそうとしてるんでしょ?」要と話していたことだ。たまに店で雑談するから、話を小耳に挟んでいたらしい。彼女が言った。「あなたたちのやり方は生温いわ。私の言う通りにすれば、彼女を無一文で追い出した上に、賠償金まで取れるわよ」要がすぐに賛同した。「あいつにあれだけ苦しめられたんだ。精神的損害賠償くらい当然だろ?」確かにと思い、俺も同意した。真琴が本気を出すと、実に手際が良かった。翌日、いつものくまちゃんのエプロンを脱ぎ捨て、パリッとしたスーツ姿で俺のオフィスに現れた時には、唖然とした。若いアシスタン
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