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第6話

作者: 清瀬
紗穂の声に焦りが混じってきた。

俺はもう彼女と関わりたくなかった。スーツケースを引いて背を向け、冷たく一言だけ残した。

「離婚届のコピーはテーブルの上だ。自分で確認して」

タクシーを呼んで空港へ向かった。

紗穂は俺の言葉を聞いて家の中へ駆け込んだ。

テーブルには、俺が用意しておいた離婚届のコピーが置いてある。紙には、紗穂の署名がちゃんとある。

彼女の筆跡は、繊細ながらも力強かった。

紗穂が自分の字を見間違えるはずがない。

けれど彼女は、いつ俺とのこんな「決別書」に署名したのかを知らない。

空港へ向かう車中、紗穂から電話がかかってきた。

けれど俺は応答しなかった。SIMカードを抜いて、へし折った。

運転手がその一部始終を見て、面白半分にからかってくる。「彼女と喧嘩か?」

俺は否定した。「違う。元妻だよ」

運転手は話好きらしく、一度口火を切ると止まらない。

「何があったらそこまでするんです?浮気でもされたとか?」

一瞬、この質問にどう答えればいいか分からなくなった。

紗穂と光司が実際に一線を超えたかどうか、誰が知っていようか。

彼女が光司を気遣っても、いつも深入りはしなかった。

尻尾を掴ませない。

光司もいつも実直な秘書を装っていた。

「まあ、そんなところ」

運転手が勢いづいて、最近の男は家庭を顧みないと延々と愚痴り始めた。自分の娘婿と同じだと。

どうやら彼の古傷に触れたらしい。仕方なく、そのまま運転手の独演会をずっと聞いていた。

気づけば空港に着いていた。

スーツケースを引いて車を降り、荷物を預けてから、保安検査の列に並んだ。

飛行機の出発まであと一時間半。

ようやく俺を縛り付けたこの十年間の生活に、別れを告げられる。

検査の順番が近づいた時、背後の列がにわかに崩れた。

紗穂が息を切らして俺の隣に駆け寄り、列から引きずり出した。

彼女は俺の目の前で、あの離婚届のコピーを引き裂いた。

「こんなものに署名した覚えはない。無効よ!」

俺は舞い散る紙片を見て、うんざりとため息をついた。

「人前だぞ。みっともない」

紗穂が眉をひそめた。俺の返答がこんな些細なことだとは思わなかったのだろう。

けれど彼女は足元の紙片を無造作に蹴り飛ばし、俺の腕を引いて連れ去ろうとする。

「この離婚届は認めない。取り消しの手続きに
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