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All Chapters of 百枚の包み紙: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「ママ、包み紙、もう百枚集まったよ」「パパはどうしてまだ帰ってこないの?」病院の病室で、息子が覚えたばかりの手話で、たどたどしく私に問いかけてくる。その姿を見ているうちに、私、我妻詩織(わがつま しおり)は目から涙がこぼれ落ちそうになるのを、もう堪えられなかった。パパは別の子供といるから帰ってこないのだと、どう説明すればいいのか。パパは蓮との約束などとうに忘れているから帰ってこないのだと、どう伝えればいいのか。息子の瞳に宿る当惑と期待を前に、私は無理やり笑顔を作り、彼を抱きしめた。「蓮の病気が治ったら、ママと二人でパパに会いに行こうね。いい?」蓮は私の意図を読み取ったのか、こくりと素直に頷いた。そして、自分から薬を飲むと、クマのぬいぐるみを抱きしめて眠りについた。息子を寝かしつけた後、私は病室を出て、どうしようもないため息を吐いた。八日前、息子の桐山蓮(きりやま れん)は、ようやく百枚の包み紙を集め終えた。父である桐山陸(きりやま りく)に会って、家に帰ってきてもいいか、七歳の誕生日を一緒に祝ってほしい、と聞くために。陸は確かに頷いたはずだった。それなのに。息子が意気揚々と彼と帰りの車に乗っていた、まさにその時。陸は、浅野(あさの)さやかという女の息子の「桐山パパに誕生日を祝ってほしい」という一言のために、まだ七歳の我が子を、一人で高速道路に置き去りにしたのだ。私が蓮を見つけた時、蓮は強いショックと低体温症で、失語症を発症していた。父親であるはずの陸は、あの日から一度も、息子の顔を見に来ていない。私は再びこみ上げる感情を抑えきれず、またしても陸に電話をかけた。電話はやはり繋がらなかった。だが、その着信音は、廊下の向こう側から響いてきた。慌てて音のする方へ走ると、そこには陸とさやか、そしてその息子の浅野陽太(あさの ようた)三人が、家族同然のように楽しそうにしている姿があった。陸は私に気づくと、まるで稀代の宝物を守るかのように浅野母子を背後にかばい、鋭い警戒を向けた。「何しに来た?会う時間はないと言ったはずだ」その口調に含まれた冷淡さと拒絶が、私の心を粉々に引き裂いた。私は唇を噛んで笑みを浮かべ、顔を上げて浅野母子の方を見つめた。「私と蓮に会う時間はないのに、この人
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第2話

「近頃の親っていうのは本当に変わってる。子供の指が皮一枚擦りむいてもいないのに、大騒ぎで病院に駆け込んで、おまけに入院観察させろだなんて」私は口の端を引きつらせ、陸とさやかの気まずそうな視線を見つめる。そして、ポケットの中の、息子がくれた飴の包み紙が入った瓶に触れた。桐山陸。私と蓮は、あなたに百回のチャンスをもあげた。今度こそ、もう許さない。彼に言おうと思っていた言葉は、もう口にする気もなくなった。私が背を向けて立ち去ろうとすると、不意に陸が引き止めた。警告するような口ぶりだった。「陽太が怪我をしたんだ。しばらくは俺がそばにいてやる必要がある。だから、もう俺の邪魔をするな」私は頷いた。「わかった」陸は続けた。「お前と蓮も、大したことないならさっさと家に帰れ。仮病なんか使うな。お前が恥ずかしくなくても、こっちが恥ずかしい」私は唇をきつく噛みしめ、青白い顔で再び頷いた。「わかった」私の反応があまりにあっさりしていたからか、陸はかえって一瞬戸惑ったようだった。眉をひそめて、私に尋ねてくる。「蓮はあの日、見つかった後、何も問題なかったのか?こっちが片付いたら、家に帰ってあいつのそばにいてやる」息子はもうすぐ退院だというのに、彼は今頃になって、そんな気遣いの言葉を口にする。私は力なく「うん」とだけ応え、さやかの嫉妬に燃える視線には気づかないふりをした。すれ違う瞬間、陽太が、これ見よがしに腕の時計を掲げてみせた。私はそれが、蓮が三年間もねだって手に入らなかった、あのキッズウォッチだとすぐにわかった。デザインも、色も、モデルも、そっくり同じだ。蓮が陸に会いに行ったあの日、彼の車には確かにこの時計があった。蓮はパパが自分に用意してくれたものだと大喜びしていた。目が覚めてからも、「パパがくれた時計はどこ?」と私に一度尋ねてきた。私は拳を固く握りしめ、こみ上げる涙を必死に飲み込んだ。私たち親子があれほど切望してやまなかったものは、他の誰かにとっては、こんなにもあっさりと手に入るものだったのだ。蓮の退院の日、私は陸には連絡しなかった。一人で子供を連れて、家に帰った。蓮は話すことができないが、私がそばにいることで、少しずつ気分も持ち直してきていた。私は息子
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第3話

陽太は幼いから?時計が壊れたから、人のものを奪ってもいいの?両親が離婚したから、他人の父親を奪ってもいいの?それなら、うちの蓮は!私は陸の厚顔無恥な表情に怒りを募らせ、今にも掴みかかりそうになった。しかし、蓮が不意に私の服の裾を引いた。そして、首を横に振った。蓮は物分かりのいい子だ。いつも私が陸に傷つけられるのを恐れている。だから、私たちが諍いを始めそうになると、こうして裾を引いて止めるのだ。だが、今回は違った。蓮の瞳には、陸に対する明らかな失望が浮かんでおり、私は息を呑んだ。私たちが一瞬呆然としている隙に、陸は時計の箱を掴み、気休め程度の言葉を口にした。「それじゃあ行く。お前たちは家でちゃんとしてろよ」彼は振り返りもせず、うっかり蓮が苦労して組み上げたおもちゃの作品にぶつかった。ガシャン、と音を立てておもちゃが床に散らばる。私と息子の心もそれとまったく同じように、粉々に砕け散った。彼はこの家の何もかもに関心がない。私たちに対しても同じだ。もう彼を引き止めようとは思わなかった。私は黙って息子の目から涙を拭う。だが、陸がまさに玄関のドアをまたごうとしたその瞬間、蓮があの百枚の包み紙を集めた瓶を、彼に差し出した。私は即座に蓮の意図を察し、陸を呼び止め、息子の言いたいことを代弁した。「蓮が集めた百枚の包み紙よ。数えてみて」陸の背中が、ぴたりと止まった。彼は振り返り、唖然として私と息子を見つめた。「もう、集まったのか?」私は頷いた。「ええ、集まったわ」陸は持っていた荷物を床に置き、気まずそうな顔をした。私も息子も、何も言わなかった。ただ、答えを待っていた。案の定、というべきか。陸はわずかに躊躇った後、口を開いた。「さやかと陽太が、どうしても手が離せなくてな。だから……」彼の目に一瞬だけ罪悪感のようなものがよぎった。彼は息子の前にしゃがみ込み、その頭を撫でながらも、言葉を続けた。「蓮。パパとお前の約束は……悪いが、なしにしてくれ」私は息子の肩をそっと抱いた。蓮はうつむいたまま、こくりと頷いた。陸は呆然としていた。息子がこれほどあっさりと同意するとは、信じられないようだった。彼は興奮したように息子を抱きしめた。「蓮、お前は本
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第4話

彼は蓮との距離を縮めようと意図しているようだった。しかし、子供はそれを一瞥しただけで、すぐに手元のおもちゃを組み立てる作業に戻ってしまった。陸は顔をしかめ、即座に私に矛先を向けた。「どんな教育をしてるんだ?俺が帰ってきても、パパの一言も言わない!」「人を無視して、喋りもしない。口も利けなくなったのか!」彼が口にした「口も利けない」という言葉が息子を傷つけるのではないかと、私は危惧した。パソコンを閉じ、息子を守ろうと駆け寄る。だが、私が立ち上がるよりも先に、陸は珍しく自分の非を悟ったようだった。息子に謝ろうと、その場にしゃがみ込む。彼が「すまない」と口を開きかけた、その時。ローテーブルに置かれた飴の包み紙の瓶と、その下に敷かれたメモが、彼の視界に入った。心臓を掴まれたような痛みを覚え、彼はそれを手に取って確かめようとする。メモを抜き取った、その刹那。さやか専用の着信音が、また鳴り響いた。彼は蓮の背中を見つめ、一瞬ためらったが、やはりその電話に出た。「もしもし、さやか。陽太がどうした?慌てるな、今すぐ戻る」浅野母子のことを聞くと、彼は慌てて持っていたものを放り出し、玄関へと走った。家を出る間際、普段は決して振り返らない彼が、不意に足を止め、息子を振り返った。「蓮、ケーキ、ちゃんと食べるんだぞ」「パパ、すぐに帰ってくるから」だが今回、蓮は傷つくことも、彼を無視することもしなかった。ただ、彼が去った後、そのケーキをゴミ箱に捨てただけだった。国外へ発つ前日、私は息子を連れて病院の検診に訪れた。医師は息子の回復は順調であり、海外でより先進的な治療を受ければ、さらに良くなる可能性もあると言ってくれた。私は医師に礼を述べ、晴れやかな気持ちで息子を連れて診察室を出た。壁一枚隔てただけの隣の診察室。そこでは、医師が陸とさやかに苛立った様子で告げていた。「今度はどうしました?」「何度も言いますが、あなたのお子さんは至って健康です」「この子は、父親がいなくなるとわかると、わざと病気のふりをするだけですよ」医師は眉をひそめ、陸を見た。「言わせてもらえば、あなたも父親として失格です。どうして、もっとちゃんと子供のそばにいてやれないんですか?」「毎日毎日、忙しいってダメ
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第5話

陸が浅野母子を初めて顧みなかった。二人が背後でどれほど叫んでも、彼は足を止めなかった。何度も何度も、私の電話を鳴らし続けた。だが、聞こえてくるのは無機質な電源オフのガイダンスだけだった。狂ったように車を飛ばして家に戻り、彼はドアを押し開けながら息子の名前を叫んだ。だが、すでに手遅れだった。がらんとした家の中には、もう私と蓮の私物は何も残っていなかった。ローテーブルの上に、あの飴の包み紙が入った瓶が一つ。そして、たどたどしい字で二つの文が書かれた紙が一枚。【パパ、もう帰ってこなくていい。だけど……僕の声を、返して】彼はよろめき、その場に崩れ落ちた。手の中のメモを見つめ、包み紙の瓶を手に取り、それを強く胸に抱きしめる。息子への罪悪感が、まるで心臓の一番柔らかい部分を生きたまま抉り取るようだった。知らぬ間に、彼の頬は涙で濡れていた。完全に失望していなければ。息子が【帰ってこなくていい】などと書くはずがない。彼が息子を高速道路に置き去りにしたせいで、あの子は失語症になったのだ。彼が、自らの口で、息子との約束を「なし」にしたのだ。百回、いやそれ以上繰り返された失望の果てに、息子は彼という父親を捨てたのだ。陸は立ち上がり、私たちが残したものを他に探そうとした。だが、目に入るのは、静かにそこへ置かれた離婚届だけだった。彼はそれを掴み取り、怒りに任せて数枚の紙を粉々に引き裂いた。そして、空中に撒き散らす。紙片がひらひらと舞い落ちる。まるで、彼が壊してしまった家族そのもののように。彼の怒りは自らが犯した数々の過ちへと向いていた。二人の女が自分を巡って争う快感に酔いしれていた。二人の子供が自分という父親の愛を奪い合う様を楽しんでいた。だが、彼は忘れていたのだ。愛されなかった二人こそが、彼の本当の家族だったということを。彼は良い夫ではなかった。父親になる資格など、なおさらなかった。彼が得た結末は、妻に去られ、子に捨てられるという、ただそれだけだった。その頃、私と息子はすでに国外行きの飛行機に乗っていた。息子はとてもおとなしく、長時間のフライトでも騒いだりぐずったりすることはなかった。蓮の腕には、クマのぬいぐるみが抱かれていた。数年前に、私が誕生日プレゼン
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第6話

息子が頷くのを見て、彼は白衣から何かを取り出し、テーブルの上にあるカラフルな小鉢を指差した。もったいぶった仕草で、その小鉢を開ける。中に入っていたのは、一粒の飴。蓮に数えきれないほどの苦痛の記憶を植え付けた飴だった。それまで期待に満ちた顔をしていた息子は、その飴を見た途端、急激にその目から光を失った。時也が用意した飴は、本来、子供を喜ばせるためのものだったのだろう。しかし、蓮の表情を見て、彼も即座に何かを察した。慌ててその飴を手に取る。「先生がこの飴を君にあげると思った?」「残念。先生が本当にあげたかったのは、こっちだよ」彼はポケットからライターを取り出し、飴の包み紙に火を点けた。火花が散った一瞬、彼はその飴を強く握りしめる。再び手のひらを開いた時、そこには小さな恐竜のキーホルダーがあった。今度こそ、息子の目は明らかに興奮で輝いていた。宝物でも受け取るかのように、時也の手からそのキーホルダーを受け取る。「蓮くん、気に入った?」息子は力強く頷いた。「じゃあ、先生に何て言うんだっけ……」時也は、息子のぷにぷにとした頬を、期待を込めて見つめた。息子は口を開き、少し苦しそうに、だが確かに言葉を紡いだ。「せんせ……ありが、とう……」失語症になって以来、息子が一度に言葉を口にしたのは、これが初めてだった。私は蓮を抱きしめ、嬉し泣きに濡れた。失われたと思っていた息子の声が、ついに戻ってきたのだ。息子を連れてあの家から離れられたことを心から幸運に思う。同時に、自分を責めてもいた。もし、もっと早くあの子を連れて逃げ出していれば。子供の小さな心は、これほどまでに傷つくことはなかったのではないか。すべての辛い出来事は、もう過ぎ去った。私たちを待っているのは、きっと明るい未来だ。「時也、本当にありがとうございます」「あの、先生の手、火傷を……薬、塗らなくて大丈夫ですか?」彼の火傷は、火の点いた包み紙を握りしめた時、火花によってできたものだ。彼が無理やり飴を「消した」時、拳を握った瞬間に、私は気づいていた。それなのに、彼は何事もなかったかのように、その手をポケットに隠そうとする。子供の前での輝かしいイメージが崩れるのを恐れているかのようだった。見て取れる、彼はど
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第7話

だが、私はしゃがみ込み、蓮の頭を撫でた。「蓮、いい子だから。先生をあんまり邪魔しちゃダメよ。先生は、ほかにもお話できない子供たちを助けないといけないんだから」息子の目に失望の色が浮かんだ。彼が逆に私を慰めようとした、その時。時也が笑いながら口を開いた。「ママの言う通りだ。先生が仕事中は、確かに手品は習えないね」「でも、仕事が終わったらダメ、とは言ってないよ」私は時也が息子をがっかりさせたくなくて、善意から気休めを言っただけだと思った。しかし、まさか仕事が終わった後、彼から電話がかかってくるとは思わなかった。いつ時間があるか、息子に手品を教えたい、と。彼にとって、私たちは何百人もいる患者の一人に過ぎない。それなのに、こんな小さな約束でさえ、彼は全力で果たそうとしてくれた。その日からだ。私と時也は、同じ異郷に暮らす、良い友人となった。息子はもう彼のことを「先生」とは呼ばなくなった。代わりに「時也さん」と呼ぶようになった。こちらの生活にも慣れてきた頃。その間も、息子はリハビリに積極的に取り組んでいた。今では、他の人とも普通にコミュニケーションが取れるようになっている。私もすぐに行動し、彼のために新しい学校を見つけた。登校初日、私は早起きして息子のカバンを整えた。私が用意した朝食を彼が平らげるのを見届け、スクールバスに乗るのを見送る。心の大きな石が、ようやく下りた気がした。そして、今日は私にとっても、初出勤の日だった。久しぶりの社会復帰であり、しかも海外だ、不安がないと言えば嘘になる。だが、息子のより良い生活のためなら、どんな困難も、乗り越えられると信じている。「蓮、学校の初日、どうだった?」学校が終わると、息子は私の胸に飛び込んできて、私の頬に二回もキスをしてくれた。「ママ、先生も優しかったし、新しい友達もたくさんできたよ!」「すごく楽しかった!」それなら良かった。本当に良かった。思えば以前は、息子は学校に行くことに、漠然とした抵抗感を持っていた。後になって知ったことだが、毎日誰かに「あいつはパパがいない子だ」と言われていたらしい。陸は、一度も息子を学校に迎えに来たことがなかった。何度も約束したにもかかわらず、最終的に蓮が受け取るのは、いつも
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第8話

服はしわだらけで、顎には無精髭がびっしりと生えている。両手には大小様々な袋が提げられていた。息子への贈り物をかなり買い込んできたようだ。「蓮、パパに会いたかったか?ほら、パパに抱っこさせてくれ」陸はしゃがみ込むが、息子が立ったまま動かないのを見て、罪悪感に一瞬顔を歪め、すぐに慌てて笑顔を作り、袋の中の贈り物をすべて取り出した。「蓮、ほら、パパがこんなにたくさんプレゼントを買ってきたぞ」彼は一つ、また一つと取り出しては、息子の前に並べていく。この中に息子の気に入るものがないのではないかと、恐れるかのように。しかし、蓮はずっと無表情でそれを見つめており、顔には喜びの色が一切浮かばない。「これは、お前がずっと欲しがっていたキッズウォッチだ」「パパが持ってきたぞ」彼は焦るようにパッケージを開け、息子の手を引いて、その手首に着けようとした。しかし、蓮はただ淡々と自分の手を引っこめるだけ。もう彼に視線を向けることもなく、黙って家の中へと入っていった。息子が彼に会いたくないのだと、私にはわかっていた。この男こそが、かつて息子の幸せを奪った張本人なのだから。「見ての通りよ。私たちはあなたを歓迎していないの」「荷物を持って、さっさと帰って」私は苛立ちを隠さず、そう促した。陸の力をもってすれば、私たちを見つけ出すことなど造作もないことだ。彼と再会する覚悟はずっと前からできていた。結局、彼が離婚届にサインをしない限り、私たちは法的に夫婦関係を解消できていないのだ。「そうそう、もう弁護士に依頼して、離婚訴訟を起こしたから」「そんなに早く、あなたの浅野さやかと一緒になりたいなら」「さっさとサインすることね」「詩織……」私のあからさまな拒絶の態度に、彼はひどく打ちのめされたようだった。私たちの八年間の結婚生活で、彼はまるで皇帝のように、常に上から見下ろしていた。彼が貴重な時間を割いて家に帰ること自体が、私と蓮にとって、一種の恵であるかのように。だが今は、私の瞳に宿る嫌悪と、息子の冷淡な態度を目の当たりにして、彼はもう一度私の名を呼んだが、その声色は卑屈とさえ言えるほどだった。陸は選ばれた人間だった。彼と知り合ってからの九年近い間、彼が誰かに頭を下げる姿など見たことがなかった。
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第9話

胸がナイフで抉られるようだ。彼はふと思った。私と蓮が、彼と浅野母子といるところを見ていた時、今の彼とまったく同じ気持ちだったのではないか、と。怒りから、失望へ。そして失望から、諦観へ。私と蓮はもう彼を必要としていない。息子の失語症は治っていた。だが、二度と彼に言葉をかけてはくれないだろう。床に散らばっていた贈り物は、律儀にも玄関の前に揃えて置かれていた。陸は悟った。もう私を取り戻すことも、息子を取り戻すこともできないのだ、と。疲労と無力感だけを抱えて、彼は二人の痕跡が一切ない、空っぽの家に戻った。虚ろなままドアを開けると、幻覚が見えた。小さな人影、嬉しそうな顔で彼の胸に飛び込んでくる。「パパ、パパ……」彼はしゃがみ込み、両腕を広げて、その小さな体を受け止めようと期待した。しかし、抱きしめたのは虚空だった。浮かびかけた笑みも、瞬時に顔に張り付いた。彼は知っていた。息子はもう、彼の遅すぎた父の愛など求めてはいない。私もまた、この無能で無責任な夫など必要としていない。汚れた服が山積みになったソファに頹れ落ち、息子が残したメモを見つめる。苦痛に満ちて、目を閉じた。電話が鳴った。会社の経理からだ。「桐山社長。会社の口座が空になっています。次の原料買い付けの資金が、まだ目処が立っていません」「納期に間に合わなければ、我々は巨額の賠償金を請求されます」陸は一瞬凍りつき、すぐに焦って問い詰めた。「金は?金はどうした!」言い終えて、彼は思い出した。さやかが以前、ある金融会社への投資を勧めてきたことを。数日で倍のリターンが得られる、と。彼はさやかを信用し、会社の資金をそのほとんど全て投資に回してしまったのだ。すでに約束の期日は過ぎている。言われた通りの資金は、一向に入金されていなかった。陸は慌ててさやかに電話をかける、しかし、電源が切られていた。彼は迷わず、直接彼女の家へ向かった。幸い、彼女の車が停まっている。在宅のようだ。「さやか、お前……」ドアを開けた瞬間、彼はその場で凍りついた。さやかが見知らぬ男と親密に抱き合っていた。それだけではない。彼がこの家に置いていた私物が、すべて床に投げ出されている。玄関にはいくつもの大きなスーツケース
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第10話

「『騙した』だなんて、人聞きが悪いわ」「私はただ、あなたに投資を『提案』しただけ。あちらさんがあなたのお金をゼロにしたからって、私を責めるのは筋違いよ」「あなたもいい大人なんだから、『投資にリスクはつきもの』って言葉くらい、知ってるでしょ?」さやかの笑みには、強烈な皮肉が込められていた。彼女はわずかに顎を上げ、まるで敗北者でも見るかのような目で見ている。自分から釣られに来た愚かな男、一言嘘を吹き込むだけで、糟糠の妻を疎んじる。それがどんなに突拍子もない嘘であろうと、彼は実の息子を高速道路に置き去りにさえした。そんな男のことなど、さやかのように倫理観の欠如した人間から見ても、心の底から軽蔑すべき対象だった。今、彼が受けているのは、その報いなのだ。「桐山陸。あなた今、ものすごく後悔してるでしょ」「我妻詩織みたいな良い奥さんを捨てて、実の息子も放り出して」「そのくせ、他人の妻を最優先にするなんて」「あなたは卑しいだけじゃない。本当に、自業自得よ」さやかの言葉は鋭いナイフのように、彼の心の最も深い場所へと突き刺さった。彼は後悔していた。私と蓮が去ってから今日に至るまで、毎日、耐え難いほどの後悔に苛まれていた。そして今、そのすべての後悔が、怒りへと変わった。それは、さやかが周到に準備したこの「詐欺」のせいではない。こんな女一人のために、彼が幾度となく自分の家族を切り捨ててきた、その事実に対してだった。さやかが例の「夫」の手を引いて立ち去ろうとした、その瞬間。陸の怒りはもはや制御できなかった。彼はキッチンへ駆け込み、包丁を掴んだ。そして、さやかの体に、それを深く突き刺した。「お前のせいだ。全部、お前のせいだ!」「俺はすべてを失った。お前だけ、無事で済むと思うな!」パトカーが陸を連行していった頃、私は地球の反対側で、時也と共に、息子の蓮と有名なマジシャンのショーを見ていた。国内の警察から、私に電話がかかってきた。まだ婚姻関係が解消されていなかったため、警察は私に桐山陸の事件について伝えてきたのだ。その知らせを聞いても、私の心は何の動揺も立たなかった。ただ、彼の犯罪が、息子の将来にまで累を及ぼすことがないかだけを尋ねた。警察から大丈夫だという返答を得て、私はため息
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