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第5話

作者: トマト
陸が浅野母子を初めて顧みなかった。

二人が背後でどれほど叫んでも、彼は足を止めなかった。

何度も何度も、私の電話を鳴らし続けた。

だが、聞こえてくるのは無機質な電源オフのガイダンスだけだった。

狂ったように車を飛ばして家に戻り、彼はドアを押し開けながら息子の名前を叫んだ。

だが、すでに手遅れだった。

がらんとした家の中には、もう私と蓮の私物は何も残っていなかった。

ローテーブルの上に、あの飴の包み紙が入った瓶が一つ。

そして、たどたどしい字で二つの文が書かれた紙が一枚。

【パパ、もう帰ってこなくていい。だけど……僕の声を、返して】

彼はよろめき、その場に崩れ落ちた。

手の中のメモを見つめ、包み紙の瓶を手に取り、それを強く胸に抱きしめる。

息子への罪悪感が、まるで心臓の一番柔らかい部分を生きたまま抉り取るようだった。

知らぬ間に、彼の頬は涙で濡れていた。

完全に失望していなければ。

息子が【帰ってこなくていい】などと書くはずがない。

彼が息子を高速道路に置き去りにしたせいで、あの子は失語症になったのだ。

彼が、自らの口で、息子との約束を「なし」にしたのだ。

百回、いやそれ以上繰り返された失望の果てに、息子は彼という父親を捨てたのだ。

陸は立ち上がり、私たちが残したものを他に探そうとした。

だが、目に入るのは、静かにそこへ置かれた離婚届だけだった。

彼はそれを掴み取り、怒りに任せて数枚の紙を粉々に引き裂いた。

そして、空中に撒き散らす。

紙片がひらひらと舞い落ちる。まるで、彼が壊してしまった家族そのもののように。

彼の怒りは自らが犯した数々の過ちへと向いていた。

二人の女が自分を巡って争う快感に酔いしれていた。

二人の子供が自分という父親の愛を奪い合う様を楽しんでいた。

だが、彼は忘れていたのだ。愛されなかった二人こそが、彼の本当の家族だったということを。

彼は良い夫ではなかった。

父親になる資格など、なおさらなかった。

彼が得た結末は、妻に去られ、子に捨てられるという、ただそれだけだった。

その頃、私と息子はすでに国外行きの飛行機に乗っていた。

息子はとてもおとなしく、長時間のフライトでも騒いだりぐずったりすることはなかった。

蓮の腕には、クマのぬいぐるみが抱かれていた。

数年前に、私が誕生日プレゼン
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