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百枚の包み紙
百枚の包み紙
Author: トマト

第1話

Author: トマト
「ママ、包み紙、もう百枚集まったよ」

「パパはどうしてまだ帰ってこないの?」

病院の病室で、息子が覚えたばかりの手話で、たどたどしく私に問いかけてくる。

その姿を見ているうちに、私、我妻詩織(わがつま しおり)は目から涙がこぼれ落ちそうになるのを、もう堪えられなかった。

パパは別の子供といるから帰ってこないのだと、どう説明すればいいのか。

パパは蓮との約束などとうに忘れているから帰ってこないのだと、どう伝えればいいのか。

息子の瞳に宿る当惑と期待を前に、私は無理やり笑顔を作り、彼を抱きしめた。

「蓮の病気が治ったら、ママと二人でパパに会いに行こうね。いい?」

蓮は私の意図を読み取ったのか、こくりと素直に頷いた。

そして、自分から薬を飲むと、クマのぬいぐるみを抱きしめて眠りについた。

息子を寝かしつけた後、私は病室を出て、どうしようもないため息を吐いた。

八日前、息子の桐山蓮(きりやま れん)は、ようやく百枚の包み紙を集め終えた。

父である桐山陸(きりやま りく)に会って、家に帰ってきてもいいか、七歳の誕生日を一緒に祝ってほしい、と聞くために。

陸は確かに頷いたはずだった。

それなのに。息子が意気揚々と彼と帰りの車に乗っていた、まさにその時。

陸は、浅野(あさの)さやかという女の息子の「桐山パパに誕生日を祝ってほしい」という一言のために、まだ七歳の我が子を、一人で高速道路に置き去りにしたのだ。

私が蓮を見つけた時、蓮は強いショックと低体温症で、失語症を発症していた。

父親であるはずの陸は、あの日から一度も、息子の顔を見に来ていない。

私は再びこみ上げる感情を抑えきれず、またしても陸に電話をかけた。

電話はやはり繋がらなかった。

だが、その着信音は、廊下の向こう側から響いてきた。

慌てて音のする方へ走ると、そこには陸とさやか、そしてその息子の浅野陽太(あさの ようた)三人が、家族同然のように楽しそうにしている姿があった。

陸は私に気づくと、まるで稀代の宝物を守るかのように浅野母子を背後にかばい、鋭い警戒を向けた。

「何しに来た?会う時間はないと言ったはずだ」

その口調に含まれた冷淡さと拒絶が、私の心を粉々に引き裂いた。

私は唇を噛んで笑みを浮かべ、顔を上げて浅野母子の方を見つめた。

「私と蓮に会う時間はないのに、この人たちといる時間はあるっていうの?」

私の詰問に、さやかの息子である陽太がわっと泣き出した。

さやかも子供を抱きしめ、すぐに目を赤くする。

「詩織さん、誤解しないで。陽太が今日、工作で指を切っちゃって。陸さんが心配して、病院に連れてきてくれたの」

そう言うと、彼女は私の手にある診断書に視線を移した。

「詩織さんはどうして病院に?もしかして、蓮くんが病気なの?」

私が口を開くより先に、陸が焦ったように彼女を慰める。

「蓮が何だって言うんだ。どうせ大袈裟に騒いでるだけだ。病気でもないのに大騒ぎして、子供に悪い影響を与える!」

私は無意識のうちに、手の中の診断書を握りしめた。心の奥が苦味で満たされる。

そう、何だって言うんだ。

幼い頃から声楽を習ってきた子供が失語症になり、二度と話すことも歌うこともできなくなった。

ただそれだけのことだ。

陽太の、目にも見えないような指の切り傷に比べれば、何と些細なことだろう。

私たち数人が一触即発のまま固まっていると、隣の診察室から医師がふいに顔を出し、さやかと陸をちらりと見て、呆れたようにこぼした。

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