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All Chapters of 百回後の結末: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

毎回、夫の南野和紀(みなみの かずき)が、不治の病にかかった幼なじみの堀之内衣織(ほりのうち いおり)に付き添って行くたびに、彼は私に「離婚できないか」とほのめかしてくる。衣織が死ぬ前に抱いている一番の願いは──「和紀の本当の妻になりたい」ということだから。今日もまた、彼は同じようにそれをほのめかしてきた。私は泣きもせず、怒りもせず、ただ淡々と「いいわ」と一言返した。こうした会話は、すでに99回も繰り返されてきたからだ。そして今日は、ちょうど百回目。ようやく私も、自分を納得させる離婚の理由ができたのだ。──私と和紀の子どもが流産してしまったから。今、私と彼の間に残っているのは、薄っぺらな戸籍謄本だけだ。……流産から七日目のこと。私はショッピングモールで偶然和紀に会った。彼は両手にいくつもの大きな買い物袋を提げ、衣織を見つめるその目は、溢れんばかりの優しさに満ちている。けれど、私を見た瞬間、彼は眉をひそめた。「なんでお前もここにいるんだ?先に離婚すると言っていただろ。まさか後悔したのか?」彼の警戒した視線は冷たく、まっすぐ私の心の奥深くに突き刺さった。衣織は彼をたしなめるように軽く睨みつけ、気まずそうに私の方へ向き直った。「笙子、誤解しないでね。和紀は、私と早く結婚したくてたまらないだけなの」そう言いながら、彼女はさりげなく私のお腹に視線を走らせ、得意げに微笑んだ。「私たちの結婚式が一週間後に決まった。ぜひ、赤ちゃんと一緒に見に来てね」私は思わずお腹に手を当てた。何かを言おうとしたその瞬間、和紀が言葉を遮った。「妊婦が式に来られるわけないだろ。万が一、衣織にとって縁起が悪いことがあったらまずいぞ」お腹に置いた手が固まったまま、私は再び彼の冷酷さに打ちのめされた。彼は、衣織が不治の病を患っていても、それを「縁起が悪い」とは思わないくせに。毎日病院を行き来していても、それを「縁起が悪い」とは思わないくせに。――でも、私があなたの子を身ごもっているということだけが、「縁起が悪い」。……本当に、皮肉なものだ。でも、そうね。私は衣織じゃないし、あなたが気にかける理由なんてどこにもない。そうでなければ、私が病院で必死にお腹の子を守ろうとしている間、あなたが一度も姿を見せ
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第2話

【これからは、そんなに電話してくるな。着信音がうるさすぎる】スマホの画面を見つめながら、私は唇を噛みしめ、血の味を感じた。――和紀、分かったわ。これから先、私たちの間には、もう何の関係もなくなるだろう。あなたに幸せが訪れますように。……思い出はそこで、ぷつりと途切れた。和紀は私の肩を軽く押し、淡々と告げた。「明日、ちゃんと離婚の手続きに来いよ。もう体調悪いふりはやめろ」私は一瞬きょとんとし、それから思い出した。流産から三日目。和紀から電話がかかってきた。それは流産後のたった一度だけの電話だった。彼はすでに役所の前に立っていた。そのとき私は、一晩中の点滴を終えたばかりで、とても万全とは言えない状態だった。通話を取った拍子に画面を誤って押してしまい、スピーカーモードになってしまった。和紀の苛立った声が病室中に響き渡った。「南野笙子(みなみの しょうこ)、お前、こんな真似して楽しいのか?九時に離婚って約束しただろう。今もう十二時だぞ。今回は何を理由に断るつもりだ?」看護師の驚いた目を受けながら、私は震えを必死に抑え、小さな声で言った。「私、今……病院にいるの」電話の向こうで、和紀の呼吸が一瞬止まり、すぐに平静を取り戻した。そして、彼の嘲笑が聞こえた。「もういい。言い訳はやめろ。最後にもう一度だけチャンスをやる。来週の水曜日、役所で会おう」通話は一方的に切れた。看護師は何も言わず、ただ静かに部屋を出て行った。ドアが閉まる音を聞いた瞬間、私の中に残っていた最後のプライドは粉々に砕け散った。あのとき、初めて理解した。人を最もつらくさせるものは、愛する人から受ける傷ではない。その傷を負っている自分を、傍らで見ている人の同情である。私はそっと目を閉じ、泥のように重い回想から自分を無理やり引き上げた。「……分かったわ」和紀は眉を上げ、そのまま話を続けた。「離婚が済んだら、家でしっかり安静にしろ。用がなきゃ俺を探すな」「……分かった」私があまりにもあっさりと返答したせいか、和紀は一瞬、驚いたように固まった。そして彼は衣織の肩に回していた手を離し、じっと私のお腹を見つめた。「子どもはどうだ?最近、おとなしくしてるか?」その言葉が落ちた瞬間、私の目
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第3話

今ならパパイヤを食べられるのに、目にしただけで私は涙がこぼれそうになった。台所に戻って、私は二品料理を作った。パパイヤのミルク煮と茶碗蒸し。ちょうど食べようとしたとき、玄関の鍵が開く音が聞こえた。和紀が入ってきて、手にスーツケースを提げている。私は不思議に思った。衣織が倒れてからというもの、彼はずっと家に帰ってきていなかったのに。「どうして戻ってきたの?衣織に付き添わなくていいの?」和紀はスーツケースをそのまま引きずりながら寝室へ向かい、気軽な調子で言った。「衣織と結婚するんだから、荷物取りに来たんだ。あとで面倒になると嫌だしな」私は「そう……」と答えたが、心の奥底では、さっきの衣織の言葉が蘇った。「私たちの結婚式が一週間後に決まった。ぜひ、赤ちゃんと一緒に見に来てね」そうか、もうすぐだな。早く荷物を運ばないと、後で「縁起が悪い」私に影響されたら大変だとでも思っているのだろう。ぽたりと涙が茶碗に落ちて消えた。跡形もなく、音もなく消えていったのは、まるで和紀が私に向けていた愛情のようだ。でも、以前はそうではなかったのに。確かに彼は、この子の誕生を心から楽しみにしていたのに。私たちは、あれほど幸せだったのに。俯いて茶碗蒸しを口に運ぼうとしたとき、荷物をまとめ終えた和紀が、不意に声をかけてきた。「茶碗蒸し、作ったか?ちょうどいい。衣織、今夜まだ何も食べてないんだ。何か食べ物が欲しかった」言い終わると同時に、和紀は当然のように私の手から茶碗を取り上げた。空になった自分の手を見つめ、私はしばらくの間、動けずにいる。我に返る頃には、彼はすでにきれいな弁当箱を取り出し、詰め始めた。「それ……私の晩ごはんよ」和紀は顔を上げることなく、淡々と弁当箱を閉じた。「テーブルにもう一品あるだろ。そっち食べればいい」視線の先にはパパイヤのミルク煮。私は乾いた笑みを浮かべ、そっと呟いた。「妊婦は……パパイヤ、食べちゃいけないのよ」和紀は一瞬きょとんとし、弁当箱を置いた。「じゃあ……ちょっとだけ食べれば?お前、検診でいつも異常なかったんだし、少しくらい平気だろ」鼻の奥がツンとし、涙がこぼれそうになって、私は上を向いた。「……平気よ」──だって、もう子どもは亡くなっ
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第4話

和紀は去らず、私も動かない。私たちの距離は、厚さ10センチのドア一枚だけだ。けれど、心の距離は世界の果てほども遠い。次の瞬間、和紀は鍵を手に取り、ドアを開けた。……彼は中に入らず、長い間私を見つめている。最後に、ポケットから手のひらほどの大きさの鈴を取り出し、私に差し出した。「今日、ショッピングモールで見かけたんだ。うちの子、きっと気に入ると思って」その一言で、私が必死に保っていた強がりはすべて崩れ落ちた。鈴を受け取った私は、すぐにドアを閉めて施錠し、その場に座り込んで声をあげずに泣き崩れた。どうして人は、失って初めて愛に気づくのだろう。どうして私が決心したその時に限って、こんなかすかな希望を与えてくるのだろう。鈴が床に落ち、チリンと澄んだ音を響かせた。私は床に座ったまま、夜が明けるまで動かなかった。翌日、私は時間通りに出発した。車に乗った途端、病院から電話があり、置いてきた流産の診断書を取りに来るように言われた。あの日、私はそれを開く勇気がなく、病院から逃げ出した。見なければ、何も起きていないふりができると思っていた。でも今こそ、向き合う時だ。午前九時、和紀は遅れてやって来た。彼も一睡もしていなかったのか、目は血走っている。私を見ると、彼の目に一瞬、失望の色がよぎった。「……今日、来ないと思ってた」私は何も言わず、先に役所へ足を踏み入れた。――来ないはずがない。この日を、私たちはあまりにも長く待ち望んでいたのだから。サインの直前、和紀は突然ためらった。黒いサインペンは紙の上でずっと止まったまま、動こうとしない。職員はそれを見て、気遣うように声をかけた。「お考えがまとまっていないようでしたら……今日はやめておいたらどうでしょうか?」私は笑った。それが皮肉だと思った。本当に迷っているのなら、百回も離婚を言い出すはずがないのに。和紀は私の方を振り返り、小さな声で言った。「笙子……俺と衣織の結婚式が終わったら、再婚しよう」私はただ「うん」と返すだけで、何も言わなかった。彼には散々嘘をつかれてきたのだから、今度は私の番だ。離婚届受理証明書を受け取った和紀は、鼓動が速くなっている。取り返しのつかない何かを失ったかのようで、ひどく不
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第5話

白黒の文字が無言のまま、すべてを物語っている。あまりに恐ろしい字面が、針のように和紀の両眼を鋭く突き刺した。彼は一瞬、頭が真っ白になり、思わず数歩後ずさりした。しばらくして、和紀は周囲の蔑む視線など気にせず、凄まじい叫び声を上げた。すべてがすでに決まってしまった事実なのに、彼はなお足元をふらつかせ、私に信じられないという目を向けた。「荒唐無稽だ!俺たちは確かに約束したはずだ。どうしてこんなふうに、我が子を呪うような真似をするんだ!」私は口を開かなかった。今の彼の滑稽で哀れな表情に対して、軽蔑の念しか湧かない。彼は、まだ体調が戻らない私を気遣うことなく、さらに怒鳴りつけた。「母親のくせに、どうしてこんなひどいことができるんだ!」私はしばらく嘲笑うことしかできないが、この状況にどう対処すればよいのかわからない。「もう百回目よ。どんなに完璧な嘘でも、そろそろ見破られる頃じゃない?」和紀は、目の前の現実を受け入れようとせず、むしろ私の悪意を疑うことを選んだ。私は首を振り、静かに言った。「……本当はね、うちの子は、あなたが百回目の冷たい言葉を吐いた時には、もう死んでいたの」あの子はこの世界の光を一度も見られなかった。死んだことでさえ、実の父親に疑われるなんて。――それもまあ、この濁った世の中に未練を残さずに済んだということかもしれない。私の目には、すでに波立つものは消え去り、名前もつけられない感情だけが胸の奥から湧き上がっている。和紀の顔は真っ青になり、無数の言葉が喉に詰まって出てこない。その時、衣織は私たちの間で唇を震わせ、うろたえている。一言も声に出すことができない。――そうだろう。勝ったも同然だと思っていた彼女が、和紀の心の中にまだ私が残っているなんて、信じたくないはずだ。「笙子、私と和紀の結婚式ももうすぐなの。こんなことで冗談なんて、やめてよ……」私は歩み寄り、抑えきれない怒りを込めて言った。「私はね、生死のことを冗談にしたりしないよ」「もういい!」和紀は鋭く怒鳴ったが、すぐに深い沈黙に沈み込んだ。空気さえも止まったかのようだ。私は意に介さない。むしろ、ここから衣織がどう芝居を続けるのか見届けてやろうと思った。彼女がそっと言った。「和紀……ここまで来
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第6話

和紀は、衣織が重病に苦しんでいると思うと、自然と心にいくばくかの同情が湧いた。衣織は、自分の内側から何かの力がゆっくりと抜けていくのを感じている。目の前が真っ暗でも、確かに何かの感情が自分のそばから薄れていくのが分かった。彼女が目を開けると、黄ばんだ天井が無言のまま見下ろしている。「和紀!」――よかった。彼は、自分を見捨てていない。ずっと求め続けてきたものを今さら手に入れた彼女の胸に湧いたのは、安堵ではなく不安だ。衣織の目に涙が滲んだ。「和紀……もしあなたがいなかったら、私は……きっと道端に捨てられていただけだったんじゃない?」彼女は和紀の手をぎゅっと握りしめた。「怖いの……目を開けた瞬間、あなたがいないんじゃないかって。この痛みを、独りきりで耐えなきゃいけないんじゃないかって」その訴えは、和紀の耳にはすでにぼんやりとしか届いていない。「行かないで……」衣織は少し息を整え、かすれた声で続けた。「今までいつもそうしてくれたみたいに……今回も、そばにいてくれるんでしょう?」だが、今回は返事がない。「……和紀?」和紀はその声に、ようやく思考を現実へ引き戻された。「……すまない、衣織。今回は、どうしても行かなきゃいけない。あとで必ず、戻ってくる」病室を出たあと、彼の耳には、自分を呼ぶ声がいくつも追いかけてくるように響いた。――きっと、ある雨の夜に、笙子もこんなふうに自分を呼んだことがあったのだろう。ただ、それは声にならない、胸の奥からの必死の叫びだった。彼女があんな惨めな姿を他人に見せるはずがない。和紀は大股で役所へ向かった。彼の眼差しは必死に人混みの中を探し続けたが、もうあの顔はどこにも見当たらない。役所の前には大勢の人々がいる。喜びの顔もあれば、悲しみに沈んだ表情もある。でも、みんな誰かと一緒にいる。一人だけ。人波の中で、和紀だけが孤独に押し流されている。もし、この人波にも波の音があるのなら――彼の耳に聞こえていたのは、きっと絶え間なく寄せては返すため息の音だ。私の行く先は、もう私自身が決める。誰にも委ねるものではない。優柔不断だった昔の自分は、屈辱的な記憶として、今の自分にとって常に戒めとなるべきだ。一人の人間として生きている以上、ど
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第7話

昔の記憶が容赦なく和紀の脳裏に押し寄せた。あの頃、街には桜が咲き誇り、私は花粉症で激しく咳き込んでいた。それでも、お腹の子のために薬を飲むことはできなかった。病院へ向かう途中、一本の電話が彼を呼び止めた。衣織が「危篤状態」などと告げた。両天秤にかけた末、彼はなんと衣織に「最後の一面」に会いに行くことを選んだ。あの頃、窓辺には霜が降りており、私と彼は窓の外で一枚一枚もみじが落ちていくのを眺めていた。私は落ちたもみじで一枚の絵を作り、生まれてくるはずの子どもへの贈り物にしたいと言った。けれど、その生まれることのなかった子どもは、永遠にそのサプライズを受け取る機会を失った。一つ一つの出来事が鮮明に浮かび上がる。私がどれほど辛い思いをしてきたか、彼は知っているはずだ。なのに――今になって、彼はようやく思い出したのだ。衣織からの電話がひっきりなしに鳴り続け、不安定な和紀の心をさらにかき乱した。ついに彼は電話に出た。「衣織……お前には親戚が一人もいないのか?重病だっていうのなら、家族のそばにいたほうがいい!」電話口で縋りついていた相手は、突然黙り込んだ。和紀も、思わず動きを止めた。とうの昔に暴かれるべき真実が、もはや隠し通せなくなったのだ。彼の目を曇らせていた霧が、この瞬間、一気に晴れた。迷いの中にいた彼は、愕然とした。私が嘘をついていると疑っていた?彼は知らなかった。毎日気にかけている幼なじみこそが、でたらめな嘘をついている張本人であることを。しかも、命に関わることまで及んだ。まあ、当然だ。嘘なんて、欺く者の常套手段だからだ。和紀は迷うことなく電話を切り、家へと走り出した。だが、私にとって彼のことは、もはやどうでもよくなっている。私はタクシーを止め、運転手さんが親切に荷物を載せてくれた。タクシーに乗り込む瞬間、一瞬の焦りを帯びた影が私の横をすり抜けた。窓を閉めて横目で見ると、やはり和紀だ。あの慌ただしく疲れ切った背中が、家へと駆けていく。今さら取り繕おうというの?残念だけれど、私はもう、好き勝手に扱われる都合のいい女ではない。私は車のドアにもたれかかり、外の移り変わる景色に目を向けた。アスファルトの道の両側に立つ桜の木が、風を切りながら目の前を流れていく。
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第8話

秀一の声も、いくぶん厳しさを帯びている。「堀之内さん、これは医療資源の無駄遣いです。これ以上続けるようなら、ご家族に連絡します」和紀はついに我慢の限界に達し、病室のドアを押し開けた。「連絡は必要ありません」その声は雷鳴のように衣織の体を打ちつけた。「和紀?どうしてここにいるの?」和紀は驚いたように目を大きく見開いた。「お前、重病だって言っていたよな?先生、これは一体どういうことですか?」秀一は厳しい表情で和紀を見つめた。「君は堀之内さんの婚約者ですか?事情はわかりませんが、彼女はとても健康です」秀一は出て行く前、まだ怒りの残る顔で言い残した。「早く退院の手続きをしてください。他の患者さんに迷惑です」秀一の言葉は和紀にとって痛烈な現実となり、眉間に深いしわを寄せて信じられない様子を見せた。「衣織……ちゃんと説明してくれ」衣織はどもりながら言った。「あの……医者が無能なのよ。これは誤診……そう、誤診に決まってるわ」和紀はためらうことなく、彼女の手首をつかんだ。「じゃあ、別の病院へ行こう。すぐに検査だ」衣織は、もはやごまかしきれないと悟り、素早く手を振り払って泣き真似をした。「いいわよ。仮に私の体に何の問題もなかったとして……でも、あなたを愛してなければ、どうして命をかけて誓ったりするの?私の人生には、あなたっていうたった一つの光しかないの。どうしてその光が離れていくのを、黙って見ていられるの?」和紀のまぶたがピクリと震えた。「この世界には、お前が追い求めるべきものが他にいくらでもある。どうしてそんな馬鹿げたことをするんだ!自分の人生って、ないのだろうか?」その言葉は、衣織が精巧に作り上げた仮面を一瞬で突き破った。彼女は込み上げる嗚咽を無理に飲み込み、涙を拭うふりをした手をそっと下ろした。そして、鼻で笑うように言った。「ええ、そうよ。私は自分の人生を持ってない。でも、あなたは持ってたじゃない。あまりに美しくて、苛立つほどに」衣織は顔を上げ、露骨に白目を向けた。「はっきり言うわ。あなたたちが幸せでいる光景を見るくらいなら、私が苦しむほうがまだましよ。どうして私だけが、他人の幸せを引き立てる役にならなきゃいけないの?私が欲しいと思ったものは、何だって手に入れ
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第9話

和紀の表情には、どこか呆然とした様子が漂っている。――これらの物は、一体誰のために用意されたのだろうか?もちろん、私たちの可愛い子どものために。けれど、その子は今どうなった?まさか、父親の手によって、生まれる前に命を奪われてしまうなんて。かつて、私からの電話に彼はいつも無反応だった。もしかすると、そのことで子どもが彼に罰を与えたのかもしれない。和紀はベッドの縁に崩れ落ち、長い間、心の波立ちを鎮めることができずにいる。私は彼との縁を完全に断ち切った。だが、衣織だってまともな人間ではない。彼にしてみれば、自業自得と言えるだろう。衣織が出て行く前に浴びせたあの刺々しい声は、今思えばまるで天罰のようでもあった。だが、彼女のこれまでの惨めな人生も、結局は自分がその後に犯す悪行の代償として積み重ねてきたものだったのだろう。何度も「不治の病」だと和紀を欺いてきたのに、彼はそれでもなお信じ続けてしまった。不治の病は人の判断を狂わせることがあるかもしれない。しかし、だからといって、妻や子どもの苦しみが取るに足りないものだと言えるだろうか?私は、この二人のどちらが無実だなどと、初めから信じたことはない。過去の言い争いや喧嘩が、和紀の脳裏に何度も蘇る。私はもう、彼に関わるすべてのことを気にかけてはいない。衣織の本性も、すでにあらわになっている。がらんどうの部屋には、どこからともなく無言の嘆きが満ちているかのようだ。和紀が今さら振り返っても、その背後には、もはや誰一人として残っていない。後悔が彼の胸をむさぼり、悲しみが理性を押し流していった。和紀は床にうずくまり、腕の中に頭をうずめた。目を閉じても開けても、目の前に広がるのは尽きることのない暗闇だけだ。彼が深く息を吸い込むと、どこかにラベンダーの香りがかすかに漂っているように感じられた。けれど、テーブルに戻ってみると、そこにあるのは枯れ葉ばかりだ。これはおそらく、彼が記憶の中にだけ存在する私に対する、最後の未練なのだ。……それから数日間、家のドアは閉ざされたままだ。日差しが差し込むと、宙に浮かぶ埃がはっきりと見えるほどだ。衣織は、いまだに自分の「幸せな未来」を夢見ようとしている。何度も花束を抱えて訪ねてきたが、そのたび
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第10話

しかし私たちは、それでも和紀に微笑みを絶やさず、玄関先で社交辞令のような言葉を交わした。そのほうが、冷やかしや皮肉よりも、彼の心をより深く傷つけるのだ。私はすでに、これまでのことをすべて心に留めなくなっている。この人に対して、もう余計な感情を抱くこともない。彼が悲しみ、感情を高ぶらせることには、もはや意味がない。和紀はまるで冷たい水を浴びせられたかのように、悔しげな表情を浮かべ、その場を去った。この私と彼を隔てる大きなドアも、私自身の手で閉じたのだ。和紀は孤独なまま、帰国の飛行機に乗った。そして、またあの冷え切った家に戻ると、玄関にはすでに枯れた花束がいくつか置かれている。ドアを開ける前に、耳をつんざく着信音がまだ鳴り響いた。向こう側から聞こえてくる衣織の声は、いつになく鋭かった。「和紀、いいようにしないとひどい目に遭うよ。私と一緒にいる限り、まだ幸せを手に入れられるわ。笙子を諦めないなら、永遠に彼女の影に生きることになるわ」和紀は苛立ちを感じながら、電話を切った。だが衣織は、まるで幽霊のように、影のように付きまとった。やがて彼女は和紀の家のドアをノックした。明らかに、礼儀を尽くした上で強硬手段に出る作戦は通用しない。数束の花も、すべて彼女の自己満足に過ぎない。和紀は冷静さを取り戻し、衣織を中へ招き入れた。「一体、何がしたい?」衣織は理由もなく威勢よく振る舞った。「どうしてまた、急に姿を消したの?今、あなただけを気にかけているのは私だけよ。笙子から見れば、あなたは人生の黒歴史なんだから、わかってるの?」和紀は、はるばる海外まで追いかけてきた自分が、何の成果も得られなかったことに、体が震えた。それでも衣織は食い下がった。「何か言いなさい!頭でもおかしくなったの?言うわよ……」「黙れ!」和紀は額の血管を浮かべ、怒りに支配されて理性を失った。彼は突然、テーブルの上にあった果物ナイフを手に取った。震える手でナイフを握り、喋り続ける衣織に突き刺した。緊張のあまりか、ナイフは衣織の肩に浅く刺さっただけだ。鋭い悲鳴とともに、二人はすぐに取っ組み合いの喧嘩に発展した。近所の人が通報したとき、二人は全身血まみれで、息を切らしながら倒れ込んでいる。パトカー
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