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第4話

Author: 宇宙の一部
和紀は去らず、私も動かない。

私たちの距離は、厚さ10センチのドア一枚だけだ。

けれど、心の距離は世界の果てほども遠い。

次の瞬間、和紀は鍵を手に取り、ドアを開けた。

……

彼は中に入らず、長い間私を見つめている。

最後に、ポケットから手のひらほどの大きさの鈴を取り出し、私に差し出した。

「今日、ショッピングモールで見かけたんだ。うちの子、きっと気に入ると思って」

その一言で、私が必死に保っていた強がりはすべて崩れ落ちた。

鈴を受け取った私は、すぐにドアを閉めて施錠し、その場に座り込んで声をあげずに泣き崩れた。

どうして人は、失って初めて愛に気づくのだろう。

どうして私が決心したその時に限って、こんなかすかな希望を与えてくるのだろう。

鈴が床に落ち、チリンと澄んだ音を響かせた。

私は床に座ったまま、夜が明けるまで動かなかった。

翌日、私は時間通りに出発した。

車に乗った途端、病院から電話があり、置いてきた流産の診断書を取りに来るように言われた。

あの日、私はそれを開く勇気がなく、病院から逃げ出した。

見なければ、何も起きていないふりができると思っていた。

でも今こそ、向き合う時だ。

午前九時、和紀は遅れてやって来た。

彼も一睡もしていなかったのか、目は血走っている。

私を見ると、彼の目に一瞬、失望の色がよぎった。

「……今日、来ないと思ってた」

私は何も言わず、先に役所へ足を踏み入れた。

――来ないはずがない。

この日を、私たちはあまりにも長く待ち望んでいたのだから。

サインの直前、和紀は突然ためらった。

黒いサインペンは紙の上でずっと止まったまま、動こうとしない。

職員はそれを見て、気遣うように声をかけた。

「お考えがまとまっていないようでしたら……今日はやめておいたらどうでしょうか?」

私は笑った。それが皮肉だと思った。

本当に迷っているのなら、百回も離婚を言い出すはずがないのに。

和紀は私の方を振り返り、小さな声で言った。

「笙子……俺と衣織の結婚式が終わったら、再婚しよう」

私はただ「うん」と返すだけで、何も言わなかった。

彼には散々嘘をつかれてきたのだから、今度は私の番だ。

離婚届受理証明書を受け取った和紀は、鼓動が速くなっている。

取り返しのつかない何かを失ったかのようで、ひどく不安そうだ。

外に出ると、衣織も来ている。

黄色いロングワンピースを着て、陽の光の下では病人とは思えないほど元気だ。

私は顔をそらし、和紀に合図を送った。

「……衣織、来てるよ」

和紀はぎこちなく「うん」と答えたが、その表情には喜びの色がない。

衣織が歩み寄り、カバンから一枚の招待状を取り出して、笑顔で差し出した。

「笙子、私と和紀で話し合った結果、やはりあなたに赤ちゃんと一緒に結婚式に来てほしいの。

これは招待状」

私は思わず、「もう赤ちゃんはいないし、式にも行かない」と言いかけた。

けれど、横目に映った和紀の緊張した表情が、それを飲み込ませた。

――もういい。離婚したんだ。今さら言っても仕方がない。

私は首を振り、二人を避けてそのまま歩き去ろうとした。

すると、一組のカップルと正面からぶつかった。

ゴトッ!私のカバンが地面に落ち、中のものが散らばった。

和紀の瞳が大きく揺れ動き、すぐに私を抱き起こして必死に問いかけてきた。

「大丈夫?お腹は?うちの子は……」

その先の言葉は出てこない。

彼の視線は、地面に落ちている流産の診断書に留まっているからだ。

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