LOGINしかし私たちは、それでも和紀に微笑みを絶やさず、玄関先で社交辞令のような言葉を交わした。そのほうが、冷やかしや皮肉よりも、彼の心をより深く傷つけるのだ。私はすでに、これまでのことをすべて心に留めなくなっている。この人に対して、もう余計な感情を抱くこともない。彼が悲しみ、感情を高ぶらせることには、もはや意味がない。和紀はまるで冷たい水を浴びせられたかのように、悔しげな表情を浮かべ、その場を去った。この私と彼を隔てる大きなドアも、私自身の手で閉じたのだ。和紀は孤独なまま、帰国の飛行機に乗った。そして、またあの冷え切った家に戻ると、玄関にはすでに枯れた花束がいくつか置かれている。ドアを開ける前に、耳をつんざく着信音がまだ鳴り響いた。向こう側から聞こえてくる衣織の声は、いつになく鋭かった。「和紀、いいようにしないとひどい目に遭うよ。私と一緒にいる限り、まだ幸せを手に入れられるわ。笙子を諦めないなら、永遠に彼女の影に生きることになるわ」和紀は苛立ちを感じながら、電話を切った。だが衣織は、まるで幽霊のように、影のように付きまとった。やがて彼女は和紀の家のドアをノックした。明らかに、礼儀を尽くした上で強硬手段に出る作戦は通用しない。数束の花も、すべて彼女の自己満足に過ぎない。和紀は冷静さを取り戻し、衣織を中へ招き入れた。「一体、何がしたい?」衣織は理由もなく威勢よく振る舞った。「どうしてまた、急に姿を消したの?今、あなただけを気にかけているのは私だけよ。笙子から見れば、あなたは人生の黒歴史なんだから、わかってるの?」和紀は、はるばる海外まで追いかけてきた自分が、何の成果も得られなかったことに、体が震えた。それでも衣織は食い下がった。「何か言いなさい!頭でもおかしくなったの?言うわよ……」「黙れ!」和紀は額の血管を浮かべ、怒りに支配されて理性を失った。彼は突然、テーブルの上にあった果物ナイフを手に取った。震える手でナイフを握り、喋り続ける衣織に突き刺した。緊張のあまりか、ナイフは衣織の肩に浅く刺さっただけだ。鋭い悲鳴とともに、二人はすぐに取っ組み合いの喧嘩に発展した。近所の人が通報したとき、二人は全身血まみれで、息を切らしながら倒れ込んでいる。パトカー
和紀の表情には、どこか呆然とした様子が漂っている。――これらの物は、一体誰のために用意されたのだろうか?もちろん、私たちの可愛い子どものために。けれど、その子は今どうなった?まさか、父親の手によって、生まれる前に命を奪われてしまうなんて。かつて、私からの電話に彼はいつも無反応だった。もしかすると、そのことで子どもが彼に罰を与えたのかもしれない。和紀はベッドの縁に崩れ落ち、長い間、心の波立ちを鎮めることができずにいる。私は彼との縁を完全に断ち切った。だが、衣織だってまともな人間ではない。彼にしてみれば、自業自得と言えるだろう。衣織が出て行く前に浴びせたあの刺々しい声は、今思えばまるで天罰のようでもあった。だが、彼女のこれまでの惨めな人生も、結局は自分がその後に犯す悪行の代償として積み重ねてきたものだったのだろう。何度も「不治の病」だと和紀を欺いてきたのに、彼はそれでもなお信じ続けてしまった。不治の病は人の判断を狂わせることがあるかもしれない。しかし、だからといって、妻や子どもの苦しみが取るに足りないものだと言えるだろうか?私は、この二人のどちらが無実だなどと、初めから信じたことはない。過去の言い争いや喧嘩が、和紀の脳裏に何度も蘇る。私はもう、彼に関わるすべてのことを気にかけてはいない。衣織の本性も、すでにあらわになっている。がらんどうの部屋には、どこからともなく無言の嘆きが満ちているかのようだ。和紀が今さら振り返っても、その背後には、もはや誰一人として残っていない。後悔が彼の胸をむさぼり、悲しみが理性を押し流していった。和紀は床にうずくまり、腕の中に頭をうずめた。目を閉じても開けても、目の前に広がるのは尽きることのない暗闇だけだ。彼が深く息を吸い込むと、どこかにラベンダーの香りがかすかに漂っているように感じられた。けれど、テーブルに戻ってみると、そこにあるのは枯れ葉ばかりだ。これはおそらく、彼が記憶の中にだけ存在する私に対する、最後の未練なのだ。……それから数日間、家のドアは閉ざされたままだ。日差しが差し込むと、宙に浮かぶ埃がはっきりと見えるほどだ。衣織は、いまだに自分の「幸せな未来」を夢見ようとしている。何度も花束を抱えて訪ねてきたが、そのたび
秀一の声も、いくぶん厳しさを帯びている。「堀之内さん、これは医療資源の無駄遣いです。これ以上続けるようなら、ご家族に連絡します」和紀はついに我慢の限界に達し、病室のドアを押し開けた。「連絡は必要ありません」その声は雷鳴のように衣織の体を打ちつけた。「和紀?どうしてここにいるの?」和紀は驚いたように目を大きく見開いた。「お前、重病だって言っていたよな?先生、これは一体どういうことですか?」秀一は厳しい表情で和紀を見つめた。「君は堀之内さんの婚約者ですか?事情はわかりませんが、彼女はとても健康です」秀一は出て行く前、まだ怒りの残る顔で言い残した。「早く退院の手続きをしてください。他の患者さんに迷惑です」秀一の言葉は和紀にとって痛烈な現実となり、眉間に深いしわを寄せて信じられない様子を見せた。「衣織……ちゃんと説明してくれ」衣織はどもりながら言った。「あの……医者が無能なのよ。これは誤診……そう、誤診に決まってるわ」和紀はためらうことなく、彼女の手首をつかんだ。「じゃあ、別の病院へ行こう。すぐに検査だ」衣織は、もはやごまかしきれないと悟り、素早く手を振り払って泣き真似をした。「いいわよ。仮に私の体に何の問題もなかったとして……でも、あなたを愛してなければ、どうして命をかけて誓ったりするの?私の人生には、あなたっていうたった一つの光しかないの。どうしてその光が離れていくのを、黙って見ていられるの?」和紀のまぶたがピクリと震えた。「この世界には、お前が追い求めるべきものが他にいくらでもある。どうしてそんな馬鹿げたことをするんだ!自分の人生って、ないのだろうか?」その言葉は、衣織が精巧に作り上げた仮面を一瞬で突き破った。彼女は込み上げる嗚咽を無理に飲み込み、涙を拭うふりをした手をそっと下ろした。そして、鼻で笑うように言った。「ええ、そうよ。私は自分の人生を持ってない。でも、あなたは持ってたじゃない。あまりに美しくて、苛立つほどに」衣織は顔を上げ、露骨に白目を向けた。「はっきり言うわ。あなたたちが幸せでいる光景を見るくらいなら、私が苦しむほうがまだましよ。どうして私だけが、他人の幸せを引き立てる役にならなきゃいけないの?私が欲しいと思ったものは、何だって手に入れ
昔の記憶が容赦なく和紀の脳裏に押し寄せた。あの頃、街には桜が咲き誇り、私は花粉症で激しく咳き込んでいた。それでも、お腹の子のために薬を飲むことはできなかった。病院へ向かう途中、一本の電話が彼を呼び止めた。衣織が「危篤状態」などと告げた。両天秤にかけた末、彼はなんと衣織に「最後の一面」に会いに行くことを選んだ。あの頃、窓辺には霜が降りており、私と彼は窓の外で一枚一枚もみじが落ちていくのを眺めていた。私は落ちたもみじで一枚の絵を作り、生まれてくるはずの子どもへの贈り物にしたいと言った。けれど、その生まれることのなかった子どもは、永遠にそのサプライズを受け取る機会を失った。一つ一つの出来事が鮮明に浮かび上がる。私がどれほど辛い思いをしてきたか、彼は知っているはずだ。なのに――今になって、彼はようやく思い出したのだ。衣織からの電話がひっきりなしに鳴り続け、不安定な和紀の心をさらにかき乱した。ついに彼は電話に出た。「衣織……お前には親戚が一人もいないのか?重病だっていうのなら、家族のそばにいたほうがいい!」電話口で縋りついていた相手は、突然黙り込んだ。和紀も、思わず動きを止めた。とうの昔に暴かれるべき真実が、もはや隠し通せなくなったのだ。彼の目を曇らせていた霧が、この瞬間、一気に晴れた。迷いの中にいた彼は、愕然とした。私が嘘をついていると疑っていた?彼は知らなかった。毎日気にかけている幼なじみこそが、でたらめな嘘をついている張本人であることを。しかも、命に関わることまで及んだ。まあ、当然だ。嘘なんて、欺く者の常套手段だからだ。和紀は迷うことなく電話を切り、家へと走り出した。だが、私にとって彼のことは、もはやどうでもよくなっている。私はタクシーを止め、運転手さんが親切に荷物を載せてくれた。タクシーに乗り込む瞬間、一瞬の焦りを帯びた影が私の横をすり抜けた。窓を閉めて横目で見ると、やはり和紀だ。あの慌ただしく疲れ切った背中が、家へと駆けていく。今さら取り繕おうというの?残念だけれど、私はもう、好き勝手に扱われる都合のいい女ではない。私は車のドアにもたれかかり、外の移り変わる景色に目を向けた。アスファルトの道の両側に立つ桜の木が、風を切りながら目の前を流れていく。
和紀は、衣織が重病に苦しんでいると思うと、自然と心にいくばくかの同情が湧いた。衣織は、自分の内側から何かの力がゆっくりと抜けていくのを感じている。目の前が真っ暗でも、確かに何かの感情が自分のそばから薄れていくのが分かった。彼女が目を開けると、黄ばんだ天井が無言のまま見下ろしている。「和紀!」――よかった。彼は、自分を見捨てていない。ずっと求め続けてきたものを今さら手に入れた彼女の胸に湧いたのは、安堵ではなく不安だ。衣織の目に涙が滲んだ。「和紀……もしあなたがいなかったら、私は……きっと道端に捨てられていただけだったんじゃない?」彼女は和紀の手をぎゅっと握りしめた。「怖いの……目を開けた瞬間、あなたがいないんじゃないかって。この痛みを、独りきりで耐えなきゃいけないんじゃないかって」その訴えは、和紀の耳にはすでにぼんやりとしか届いていない。「行かないで……」衣織は少し息を整え、かすれた声で続けた。「今までいつもそうしてくれたみたいに……今回も、そばにいてくれるんでしょう?」だが、今回は返事がない。「……和紀?」和紀はその声に、ようやく思考を現実へ引き戻された。「……すまない、衣織。今回は、どうしても行かなきゃいけない。あとで必ず、戻ってくる」病室を出たあと、彼の耳には、自分を呼ぶ声がいくつも追いかけてくるように響いた。――きっと、ある雨の夜に、笙子もこんなふうに自分を呼んだことがあったのだろう。ただ、それは声にならない、胸の奥からの必死の叫びだった。彼女があんな惨めな姿を他人に見せるはずがない。和紀は大股で役所へ向かった。彼の眼差しは必死に人混みの中を探し続けたが、もうあの顔はどこにも見当たらない。役所の前には大勢の人々がいる。喜びの顔もあれば、悲しみに沈んだ表情もある。でも、みんな誰かと一緒にいる。一人だけ。人波の中で、和紀だけが孤独に押し流されている。もし、この人波にも波の音があるのなら――彼の耳に聞こえていたのは、きっと絶え間なく寄せては返すため息の音だ。私の行く先は、もう私自身が決める。誰にも委ねるものではない。優柔不断だった昔の自分は、屈辱的な記憶として、今の自分にとって常に戒めとなるべきだ。一人の人間として生きている以上、ど
白黒の文字が無言のまま、すべてを物語っている。あまりに恐ろしい字面が、針のように和紀の両眼を鋭く突き刺した。彼は一瞬、頭が真っ白になり、思わず数歩後ずさりした。しばらくして、和紀は周囲の蔑む視線など気にせず、凄まじい叫び声を上げた。すべてがすでに決まってしまった事実なのに、彼はなお足元をふらつかせ、私に信じられないという目を向けた。「荒唐無稽だ!俺たちは確かに約束したはずだ。どうしてこんなふうに、我が子を呪うような真似をするんだ!」私は口を開かなかった。今の彼の滑稽で哀れな表情に対して、軽蔑の念しか湧かない。彼は、まだ体調が戻らない私を気遣うことなく、さらに怒鳴りつけた。「母親のくせに、どうしてこんなひどいことができるんだ!」私はしばらく嘲笑うことしかできないが、この状況にどう対処すればよいのかわからない。「もう百回目よ。どんなに完璧な嘘でも、そろそろ見破られる頃じゃない?」和紀は、目の前の現実を受け入れようとせず、むしろ私の悪意を疑うことを選んだ。私は首を振り、静かに言った。「……本当はね、うちの子は、あなたが百回目の冷たい言葉を吐いた時には、もう死んでいたの」あの子はこの世界の光を一度も見られなかった。死んだことでさえ、実の父親に疑われるなんて。――それもまあ、この濁った世の中に未練を残さずに済んだということかもしれない。私の目には、すでに波立つものは消え去り、名前もつけられない感情だけが胸の奥から湧き上がっている。和紀の顔は真っ青になり、無数の言葉が喉に詰まって出てこない。その時、衣織は私たちの間で唇を震わせ、うろたえている。一言も声に出すことができない。――そうだろう。勝ったも同然だと思っていた彼女が、和紀の心の中にまだ私が残っているなんて、信じたくないはずだ。「笙子、私と和紀の結婚式ももうすぐなの。こんなことで冗談なんて、やめてよ……」私は歩み寄り、抑えきれない怒りを込めて言った。「私はね、生死のことを冗談にしたりしないよ」「もういい!」和紀は鋭く怒鳴ったが、すぐに深い沈黙に沈み込んだ。空気さえも止まったかのようだ。私は意に介さない。むしろ、ここから衣織がどう芝居を続けるのか見届けてやろうと思った。彼女がそっと言った。「和紀……ここまで来