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第6話

Author: 宇宙の一部
和紀は、衣織が重病に苦しんでいると思うと、自然と心にいくばくかの同情が湧いた。

衣織は、自分の内側から何かの力がゆっくりと抜けていくのを感じている。

目の前が真っ暗でも、確かに何かの感情が自分のそばから薄れていくのが分かった。

彼女が目を開けると、黄ばんだ天井が無言のまま見下ろしている。

「和紀!」

――よかった。彼は、自分を見捨てていない。

ずっと求め続けてきたものを今さら手に入れた彼女の胸に湧いたのは、安堵ではなく不安だ。

衣織の目に涙が滲んだ。

「和紀……もしあなたがいなかったら、私は……きっと道端に捨てられていただけだったんじゃない?」

彼女は和紀の手をぎゅっと握りしめた。

「怖いの……目を開けた瞬間、あなたがいないんじゃないかって。

この痛みを、独りきりで耐えなきゃいけないんじゃないかって」

その訴えは、和紀の耳にはすでにぼんやりとしか届いていない。

「行かないで……」

衣織は少し息を整え、かすれた声で続けた。

「今までいつもそうしてくれたみたいに……今回も、そばにいてくれるんでしょう?」

だが、今回は返事がない。

「……和紀?」

和紀はその声に、ようやく思考を現実へ引き戻された。

「……すまない、衣織。今回は、どうしても行かなきゃいけない。

あとで必ず、戻ってくる」

病室を出たあと、彼の耳には、自分を呼ぶ声がいくつも追いかけてくるように響いた。

――きっと、ある雨の夜に、笙子もこんなふうに自分を呼んだことがあったのだろう。

ただ、それは声にならない、胸の奥からの必死の叫びだった。

彼女があんな惨めな姿を他人に見せるはずがない。

和紀は大股で役所へ向かった。

彼の眼差しは必死に人混みの中を探し続けたが、もうあの顔はどこにも見当たらない。

役所の前には大勢の人々がいる。喜びの顔もあれば、悲しみに沈んだ表情もある。

でも、みんな誰かと一緒にいる。

一人だけ。人波の中で、和紀だけが孤独に押し流されている。

もし、この人波にも波の音があるのなら――

彼の耳に聞こえていたのは、きっと絶え間なく寄せては返すため息の音だ。

私の行く先は、もう私自身が決める。誰にも委ねるものではない。

優柔不断だった昔の自分は、屈辱的な記憶として、今の自分にとって常に戒めとなるべきだ。

一人の人間として生きている以上、ど
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