「相沢澪(あいざわ みお)様、再度確認させていただきますが、妹の相沢詩織(あいざわ しおり)さんの責任追及を放棄し、告訴も取り下げるということで、よろしいですか?」「はい、取り下げます」私は落ち着いた声で答えた。「もう一度、よくお考えください。あなたの左手は腐食が骨に達しており、病院からは生涯回復の見込みがない障害と認定されています。また当方としても、相沢詩織さんがあなたの研究室に無断で侵入し、実験用の液体を硫酸にすり替えたことが原因で今回の傷害に至った、と判断しています。証拠はすべて相沢詩織さんを示していて、警察としても、あなたが責任追及を継続されるのであれば、相手方が弁護士を付けたとしても、傷害事件として立件され、実刑となる可能性は高いです」「もう大丈夫です。これまで対応していただき、ありがとうございました。責任追及はしませんので、この件はこれで終わりにさせてください」しばらくの沈黙のあと、警官は小さくため息をつき、最後に一言添えた。「もし次に、また彼女が同じようなことをしたら、必ず警察署に来てください。ここでは、誰にもあなたをいじめさせませんから」私はうなずいて、警察署を出た。「今、病院じゃないのか?」婚約者の矢ヶ部安臣(やかべ やすおみ)から電話がかかってきて、胸の奥がずきりと痛んだ。少し間を置いてから、私は彼に答える。「退院した」私が入院していたこの半月、安臣は詩織とヨーロッパへ行き、テニス観戦をしていた。私のことは、そのまま病院に置き忘れられていた。「今どこにいる?」安臣はそれだけ尋ねてきた。私は、警察署の前にいたことを隠して言った。「学校」詩織の責任追及をやめるのも、安臣の意志だった。硫酸で皮膚を抉られた直後、私は先に警察へ通報した。証拠はすべて詩織を示していて、警察は彼女を連れて行った。ところが、私が手術室から運び出された直後、半年ぶりに、安臣が電話をかけてきた。彼は命令口調で言った。「詩織への追及を取り下げろ。この件は彼女とは無関係だ」傷口の痛みもつらかったが、胸の奥を抉られるような痛みのほうが、よほど耐えられなかった。ベッドの上で布団に指を食い込ませ、胸を押さえたまま、咳が止まらなかった。最後には言いたいことを全部飲み込んで、平坦な声で、ただ一言を返した。
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