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婚約破棄、国の極秘計画へ

婚約破棄、国の極秘計画へ

By:  黒紅嵐柏Completed
Language: Japanese
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私は相沢澪(あいざわ みお)。大学二年で国内トップの研究室に入ったものの、周りは皆、私がコネで入り込んだと決めつけた。 母は、私が手作りしたプレゼントを放り捨て、嫌悪を隠そうともせず言う。 「恥も知らないあんたなんか、娘だなんて思いたくもない」 婚約者の矢ヶ部安臣(やかべ やすおみ)は、私に釘を刺すように言う。 「自分が矢ヶ部家の妻になる女だってことを、忘れるな」 後になって、妹の相沢詩織(あいざわ しおり)に左手を壊されたが、家族たちは私に、追及は諦めろと命じた。 病院に運ばれて意識を取り戻したあと、私は師匠に電話をかけた。 「国家極密のロケット計画に、参加いたします」

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Chapter 1

第1話

「相沢澪(あいざわ みお)様、再度確認させていただきますが、妹の相沢詩織(あいざわ しおり)さんの責任追及を放棄し、告訴も取り下げるということで、よろしいですか?」

「はい、取り下げます」私は落ち着いた声で答えた。

「もう一度、よくお考えください。あなたの左手は腐食が骨に達しており、病院からは生涯回復の見込みがない障害と認定されています。また当方としても、相沢詩織さんがあなたの研究室に無断で侵入し、実験用の液体を硫酸にすり替えたことが原因で今回の傷害に至った、と判断しています。証拠はすべて相沢詩織さんを示していて、警察としても、あなたが責任追及を継続されるのであれば、相手方が弁護士を付けたとしても、傷害事件として立件され、実刑となる可能性は高いです」

「もう大丈夫です。これまで対応していただき、ありがとうございました。責任追及はしませんので、この件はこれで終わりにさせてください」

しばらくの沈黙のあと、警官は小さくため息をつき、最後に一言添えた。

「もし次に、また彼女が同じようなことをしたら、必ず警察署に来てください。ここでは、誰にもあなたをいじめさせませんから」

私はうなずいて、警察署を出た。

「今、病院じゃないのか?」

婚約者の矢ヶ部安臣(やかべ やすおみ)から電話がかかってきて、胸の奥がずきりと痛んだ。

少し間を置いてから、私は彼に答える。

「退院した」

私が入院していたこの半月、安臣は詩織とヨーロッパへ行き、テニス観戦をしていた。

私のことは、そのまま病院に置き忘れられていた。

「今どこにいる?」

安臣はそれだけ尋ねてきた。

私は、警察署の前にいたことを隠して言った。

「学校」

詩織の責任追及をやめるのも、安臣の意志だった。

硫酸で皮膚を抉られた直後、私は先に警察へ通報した。証拠はすべて詩織を示していて、警察は彼女を連れて行った。

ところが、私が手術室から運び出された直後、半年ぶりに、安臣が電話をかけてきた。彼は命令口調で言った。

「詩織への追及を取り下げろ。この件は彼女とは無関係だ」

傷口の痛みもつらかったが、胸の奥を抉られるような痛みのほうが、よほど耐えられなかった。

ベッドの上で布団に指を食い込ませ、胸を押さえたまま、咳が止まらなかった。

最後には言いたいことを全部飲み込んで、平坦な声で、ただ一言を返した。

「分かった」

翌日、私は師匠に電話をかけ、迷いを切り落とすように告げた。

「ロケット計画に、参加いたします」

ロケット計画は国家の極秘計画だ。一度参加すれば、この先ずっと世間と関わらずに生きることになるかもしれない。

安臣のことを捨てきれなくて、私はずっとロケット計画に踏み出せなかった。

けれどその日、ようやくすべてを悟った。どれだけ無理をしても、安臣が私を好きになることはない。

だったら、私が彼を手放す。

師匠は淡々と告げた。

「君の口座に四千万円を振り込んだ。半月で全部片づけろ。迎えはそのあと、こちらで手配する」

私は急いで学校へ戻った。ちょうど同じタイミングで、安臣も来ていた。

車の中の彼は、眉骨が際立ち、鼻筋の通った端正な横顔をしている。金縁の眼鏡越しの瞳は、静かに澄んでいた。

顔を上げて彼の目と合った瞬間、胸の奥がまた、ちくちくと痛んだ。

私は反射的にすぐ目を伏せた。

「乗れ」

短く言われ、私は後部座席のドアを開けて、音を立てないように座り込む。

車が走り出しても、私たちは息を合わせたみたいに一言も交わさなかった。

もともと、私と安臣に共通の話題なんてない。

昔の私は、彼と過ごせる時間ができるたびに、はしゃいで色んな話をしていた。

彼はうんざりした素振りも見せない。けれど返ってくるのはいつも沈黙だった。

珍しく、今回は彼が沈黙を破った。

「お誕生日、おめでとう」

私は首をかしげ、スマホを開いた。今日が自分の誕生日だと、そのとき初めて気づいた。

けれど、まさか、彼が私の誕生日を覚えているなんて。

顔を上げると、バックミラー越しの彼の目は相変わらず冷淡で、感情の欠片もない。

そういうことか。彼がそう言ってくれたのは育ちの良さゆえで、私を大事に思っているからじゃない。

「ありがとう」

会話はそれで終わりだった。残りの道は、沈黙だけが流れていく。

そして家に着いて、ようやく分かった。安臣は詩織の誕生日を祝いに来たのだ。

私と詩織は、生まれたときに取り違えられた。詩織は私の代わりに相沢家で十数年暮らしてきた。

私が見つかって連れ戻されたのは、高校一年のときだった。

それでも詩織は、相沢家の箱入り娘として、今もこの家で暮らしている。

安臣は車を降りると、振り返りもせず足早に屋敷へ向かう。

詩織の誕生日のために、屋敷の外の花壇まできっちり整えられ、祝福の文字が読める形に刈り込まれていた。

スマホを確認しても、誰からも何も届いていなかった。

長いあいだ、こういう扱いの差には慣れたと思っていた。

それでも、目の前で突きつけられると、胸がきゅっと痛む。

大丈夫だと、自分に言い聞かせる。もうすぐ、ここを離れるのだから。

ロケット計画に参加すれば、私は外界とは完全に遮断されることになる。

来る前に、弁護士に作らせた縁切りの書類もバッグに入れてきた。

私はそれを確かめるように指先で触れ、深く息を吸って、安臣の後ろについた。
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第1話
「相沢澪(あいざわ みお)様、再度確認させていただきますが、妹の相沢詩織(あいざわ しおり)さんの責任追及を放棄し、告訴も取り下げるということで、よろしいですか?」「はい、取り下げます」私は落ち着いた声で答えた。「もう一度、よくお考えください。あなたの左手は腐食が骨に達しており、病院からは生涯回復の見込みがない障害と認定されています。また当方としても、相沢詩織さんがあなたの研究室に無断で侵入し、実験用の液体を硫酸にすり替えたことが原因で今回の傷害に至った、と判断しています。証拠はすべて相沢詩織さんを示していて、警察としても、あなたが責任追及を継続されるのであれば、相手方が弁護士を付けたとしても、傷害事件として立件され、実刑となる可能性は高いです」「もう大丈夫です。これまで対応していただき、ありがとうございました。責任追及はしませんので、この件はこれで終わりにさせてください」しばらくの沈黙のあと、警官は小さくため息をつき、最後に一言添えた。「もし次に、また彼女が同じようなことをしたら、必ず警察署に来てください。ここでは、誰にもあなたをいじめさせませんから」私はうなずいて、警察署を出た。「今、病院じゃないのか?」婚約者の矢ヶ部安臣(やかべ やすおみ)から電話がかかってきて、胸の奥がずきりと痛んだ。少し間を置いてから、私は彼に答える。「退院した」私が入院していたこの半月、安臣は詩織とヨーロッパへ行き、テニス観戦をしていた。私のことは、そのまま病院に置き忘れられていた。「今どこにいる?」安臣はそれだけ尋ねてきた。私は、警察署の前にいたことを隠して言った。「学校」詩織の責任追及をやめるのも、安臣の意志だった。硫酸で皮膚を抉られた直後、私は先に警察へ通報した。証拠はすべて詩織を示していて、警察は彼女を連れて行った。ところが、私が手術室から運び出された直後、半年ぶりに、安臣が電話をかけてきた。彼は命令口調で言った。「詩織への追及を取り下げろ。この件は彼女とは無関係だ」傷口の痛みもつらかったが、胸の奥を抉られるような痛みのほうが、よほど耐えられなかった。ベッドの上で布団に指を食い込ませ、胸を押さえたまま、咳が止まらなかった。最後には言いたいことを全部飲み込んで、平坦な声で、ただ一言を返した。
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第2話
「詩織の誕生日に、使用人なんか連れてくるってどういうつもりだよ!さっさと帰らせろ!」兄の相沢俊介(あいざわ しゅんすけ)が、安臣の後ろに立っていた私を指さして叫んだ。私はうつむいて、自分の身なりを見下ろした。数百円で買った服は、洗いすぎてすっかり黄ばんでいる。安物の靴ももう限界で、型崩れしている。それに、実験漬けの毎日で、手にはすっかりタコができていた。優雅な詩織と比べれば、確かに私は、使用人に見えてもおかしくない。「兄さん、私だよ」しゃがれた声で言うと、俊介は一瞬ぎょっとして私を見た。けれど次の瞬間、その顔は露骨な嫌悪に変わる。私は二人の後ろにぴたりとつき、足音を殺しながら中へ入った。ここへ戻ったのは、母の誕生日のとき以来だ。けれどあのときは、結局、母が怒って、私が心を込めて用意したプレゼントを玄関の外へ投げ捨てた。そして私は、みっともなく追い出された。玄関をくぐると、家の中は誕生日の飾りで彩られ、温かな雰囲気に満ちている。安臣はそのまま書斎へ向かい、父と仕事の話を始める。母は詩織の部屋で、彼女の着替えに付き添っている。兄の俊介は、私を見るのも嫌そうにドアを乱暴に閉め、鍵まで掛けた。自分の部屋を開けてみると、中はすっかり様変わりしていた。ベッドも、服も、本も、それに、まとめ上げた実験データまで、全部なくなっていた。私は焦って引き出しや棚をひっくり返していると、俊介がドアを蹴るようにして入ってきた。「何探してんだよ。ここはお前が勝手に触っていい場所じゃないだろ!」詩織がピアノの練習をしやすいように、私の部屋はいつの間にか、詩織のピアノ室に変えられていた。部屋のことはどうでもいい。私は焦って尋ねる。「私の本は?それと、箱に入れてた書類はどこ?」俊介は漫然と告げる。「いらないかと思って、井上さんに渡して、古紙回収に出した」その一言で、頭が真っ白になった。私はその場にへたり込み、絶望のまま目を閉じた。――あの箱の中は、私が一年近く寝る間も惜しんで作り上げたデータだ。それが全部、なくなったなんて。家はこんなに広いのに、私の部屋を詩織のピアノ室にするにしても、私の荷物くらい、地下の収納にでも移しておけたはずだ。先生は言っていた。このデータは学界の空白を埋めるだけじゃ
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第3話
詩織は、本当に運がいい。相沢家の実の娘じゃないのに、父も母も変わらず彼女のことを可愛がっている。俊介は彼女にオーダーメイドのハイブランドドレスを贈った。「俺の妹には、一生きれいでいてもらわないとな!」父と母は、それぞれビル一棟と限定モデルのスポーツカーを彼女に贈った。詩織は上機嫌で三人の頬にキスを散らしながら、弾む声で言う。「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、ありがとう!」私は隅の席で、黙って食事をしていた。笑い声に包まれたあの輪のほうが、本物の家族みたいに見える。安臣はネックレスを用意していたが、詩織はどこか不満そうだった。そこで、母が口を開く。「最近ね、詩織が鈴木弘明(すずき ひろあき)教授の研究室で働きたいって言ってるの。安臣、あなたのお父さんは教授と親交があるよね?少し口添えして、詩織を正式な手続きで入れてあげて」母は「正式な手続き」のところだけ、わざと強く言った。鈴木教授は、私の指導教員だ。彼の研究室は、狭き門として有名だ。それでも私が大学二年のとき、教授は例外的に私を受け入れてくれた。けれど、誰が流したのか――私はコネを使って、先輩に身体を差し出して無理やりねじ込んだのだと噂された。あとから誰かが詩織に確かめたらしい。詩織はぼんやりした顔で、こう言った。「分からないよ。お姉ちゃん、いつも家に帰ってこないし……何してるか、私には分からない」それで皆が確信した。私は身体を売って枠を勝ち取ったんだ、と。中には詩織の味方を気取って、鈴木教授のところへ押しかけた人間までいた。「相沢詩織さんは一年生で、査読付きの学術誌に論文を通してるのに、なんで彼女を選ばないんですか?」と。鈴木教授が返したのは一言だけだった。「小細工する学生は取らない」あの論文は、詩織が私の原稿を盗んで自分のものとして出したのだ。けれど私は何も言わなかった。何を言っても、この家では誰も私の言葉を信じないから。相沢家に連れ戻されるまで、私は田舎で育った。母はいつも言っていた。田舎育ちは手癖が悪い、どんな悪い癖を身につけているか分からない、と。安臣は小さく首を振った。「四十億円寄付するって持ちかけても、鈴木教授は当面は人を入れないって断ってきた」それを聞いた俊介は箸を叩きつけ、私を問い詰め
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第4話
母はためらいもなく口にした。「安臣からもらったそのブレスレット、渡しなさい。詩織に持たせるから」あのブレスレットは、私と安臣が婚約したときに矢ヶ部家から贈られた。誰もが知っている。それは、いずれ矢ヶ部家に嫁ぐ人間に渡されるものだ。結局、私と母の親子の縁なんて、詩織の縁談の前では、たいした意味もなかったんだ。私は顔をそらし、安臣の目をまっすぐ見つめて、率直に尋ねる。「あなたも、そう思ってるの?」静まり返った室内は、針が一本落ちる音さえ聞こえそうだ。長い沈黙――それだけで、彼の答えは十分伝わってきた。そうだと分かっていたはずなのに、胸の奥がずきんと痛んで、息が詰まる。それでも私は口を開く。「ブレスレットが欲しいなら、渡してもいい」その一言で、詩織の目がぱっと輝いた。母まで、私をまっすぐ見据えてくる。そこで、俊介は声を張り上げる。「おい、会社の株が欲しいとか言い出すなよ!そんなの全部、いずれは詩織のものだ。欲張って自分のものにしようなんて思うなよ!」「いらない!」私は怒鳴り返した。生まれて初めて私が声を荒げたせいか、俊介は顔を引きつらせ、その場で一気にしぼんだ。父が言った。「そのブレスレットを諦めるっていうなら、母さんも俺も、詩織と同じようにお前を扱う。家に戻ってきてもいいんだ」詩織と同じように扱われること。この七年、私はずっと、その扱いを夢見てきた。でも今は、もう要らない。私は首を横に振った。けれど、言葉を発するより早く、母の平手打ちが飛んできた。耳の奥がじんじんと鳴る中でも、母の声だけははっきり聞こえる。「いい加減にしなさい!澪、矢ヶ部家のブレスレットを盾にして、私たちを脅せると思わないで。詩織はこれからもずっと私たちの子どもよ。詩織をこの家から出せなんて話、口にするのじゃないよ!」口の端を拭うと、指に赤がついた。私はそれを何度も擦って落としてから、しばらく黙り込み、そして、感情を消した声で言う。「縁を切る書類にサインしてほしい。これから先、私とあなたたちは……」言い終える前に、俊介が遮った。「縁切り?調子に乗るなよ、澪。そんな真似して、父さんと母さんの気を引けると思ってるなんて、夢にもほどがあるぞ」詩織まで口を挟む。「お姉ちゃん、ブレスレットを
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第5話
「ちょっと来てもらえる?家で転んじゃってしまった。車まで運んでくれれば、それでいいから……」電話の向こうで、安臣は一拍の迷いもなく答えた。「分かった。今すぐ行く」もう二度と彼と顔を合わせることはないと思っていた。けれど、ずっと実験室にこもってきたせいで、気づけば身のまわりには友達と呼べる人が一人もいない。いざ頼ろうとしても、思い浮かぶ名前は結局、安臣しかなかった。「安臣、出かけるの?私たち、あと三十分でウェディングドレスの打ち合わせよ。あんまり遠くに行かないでね」詩織の声が割り込んだ。「澪、俺……」彼が言い終える前に、私は通話を切った。私と詩織の間に立たされたとき、彼が私を選ぶことなんて、一度だってない。「これはどういうことなんですか?前回お帰りになったときにはかなり回復していたはずですよね。それなのに、こんなに短い間で、どうしてここまで傷口が悪化してしまったんです?」医師は私の腕を見つめ、怒りを押さえきれない様子で言った。私は気まずくうつむき、「すみません」と小さく謝った。私が望んだわけじゃない。けれど、熱湯をかけたのも、ヒールで踏んだのも、詩織がわざとやったことだ。けれど、もう二度と、こんなことはさせない。診察を終えて、医師は念を押すように言う。「もう傷を増やさないでください。次は本当に治らなくなりますよ」それから、責めるように続ける。「それと、どうして毎回おひとりなんですか?ご家族の方は?」私は答えられず、目を逸らした。もう、家族なんていない。私は黙ったまま薬を受け取り、病院をあとにして、師匠が手配してくれた車にそのまま乗り込んだ。窓の外では景色が次々と流れていく。道端には、腕を組んで歩く恋人たち。その少し先では、父親の肩に抱き上げられた小さな女の子が、弾むように笑っている。その笑い声が、かすかに車内まで紛れ込んできた。こみ上げる涙を必死にこらえ、私はそっと車内へ視線を戻した。もう私には、父親という存在はいない。そして、あんなふうに誰かをまるごと愛することも、きっともう二度とない。「澪!どこへ行くんだ!」振り向くと、ショーウィンドウの中で、ウェディングドレス姿の詩織が安臣の肩にもたれかかっていた。二人は、驚くほどお似合いだった。運転席の担当者
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第6話
その日、家に戻ってから、安臣は気づいた。もう二度と、私の電話がつながらない。LINEも、ブロックされていた。私を病院へ連れて行くよう手配していた秘書が、報告してくる。「矢ヶ部社長、相沢さんは、どうやらもう別の方に迎えられたみたいです」別の人に迎えられた?その言葉に、安臣は反射的に私の研究室の先輩のことを思い浮かべた。安臣はその男を一度も見たことがない。それでも、婚約者がその先輩と浮気していると、周りから毎日のように吹き込まれていた。【澪、折り返せ】見下ろすように五文字だけ打ち、安臣はスマホを置いて仕事に戻った。――きっと澪は、拗ねているだけだ。いちいち甘やかす必要はない。そう思っていたのに、時間だけが過ぎていく。三分。三十分。一日。十日。返事は、来ない。堪えきれなくなった安臣は病院へ駆け込んだが、受付にこう告げられた。「相沢さんは、当日に退院されています」当日に退院?なぜ連絡してこない?足を痛めた女が、ひとりで生活できるはずがない。安臣は病院の待合で茫然と座り込み、行き交う人の波を呆けたように見つめた。そこへ詩織がやって来て、ようやく安臣は我に返った。「友達が病気になったの?秘書が言ってたよ、あなたは今日一日会社に行ってないって」安臣は首を横に振った。どうして病院まで来たのか、彼自身にも分からなかった。ただ、入口を見つめ続けて、私が再診に現れるのを、どこかでまだ期待していたのだ。気がつけば、何より大事にしている仕事のことさえ、すっかり頭から抜け落ちていた。もしかしたら澪が再診に来るかもしれない。そのときに、どうして電話に出ないのか問いただせばいい――安臣は、そんな甘い期待をどこかで抱いていた。けれど、いつの間にか半年が経っていた。安臣は毎日、私からの電話を待ち続けた。しかし、その電話が鳴ることは一度もなかった。詩織との結婚式の当日、安臣は部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。握りしめたスマホを持つ指先は、わずかに震えている。俊介は笑いながら言う。「やっとだな。前から、お前が俺の妹婿になる日を待ってたんだよ」安臣はわずかに眉をひそめた。胸の奥が、妙にざらつく。たしかに、俊介の妹婿になることを考えたことはある。だが、それは今日みたいな形
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第7話
俊介は取り乱して、圭吾の胸ぐらをつかみ上げた。「お前のベッドに転がり込まなきゃ、澪が鈴木教授の研究室に入れるわけないだろ!」「もういい!澪の才能は、研究室の誰よりも抜きん出ている。あの子に裏道なんて要らない!それより、相沢詩織がどうやって澪の論文を盗んで発表したのか、まずはそっちを疑え!」「詩織が澪の論文を盗むわけがない。でたらめを言うな!」そう言い返しながら、俊介の声には明らかに自信がなかった。もし本当に詩織に卓越した才能があるのなら、四年間で論文が一つきりなんてあり得るのだろうか?」俊介だって鈍くはない。詩織には前から薄々疑いを抱いていた。それでも、幼いころから一緒に育ってきた彼女が、剽窃などするとは信じたくなかった。「じゃあ聞くけど、今の業界で相沢詩織を受け入れる指導教員なんて、一人でもいるのか?」圭吾は容赦なく言い返した。握りしめていた俊介の拳が、ふっと力を失ってほどけた。詩織が何度も断られてきたことが脳裏をよぎる。巨額の寄付をちらつかせても、どの研究室にも門前払いされたのだ。俊介は目を閉じ、やがて寂しげに背を向け、その場を去っていった。安臣は圭吾の前に立ちはだかり、血走った目で噛みつくように問い詰める。「澪と何もないなら、どうして彼女の低用量ピルなんか受け取ってやった?」二年前、安臣は、圭吾が調剤薬局に入っていくのを見ていた。そして、圭吾が受け取った薬をそのまま私の手に渡したところも目にしている。それでも安臣は、その場で私を追いかけて問い詰めたりはしなかった。代わりに、メッセージを一通だけ送った。【自分が矢ヶ部家の妻になる女だってことを、忘れるな】私は長いメッセージで弁明した。けれど、安臣は何も返事してくれなかった。そしてその日から、彼は私と圭吾ができていると決めつけた。圭吾は怒り極まった表情で、逆に笑った。冷ややかな嘲りを含んで言う。「澪がどれだけ研究のプレッシャーを抱えてたか、あなたは知ってるのか?それに、彼女の体調のことは?どれだけ気にかけた?あの頃の彼女はホルモンバランスを崩して、顔だってひどく荒れてた。それでも澪は徹夜して、あなたのために手作りの誕生日プレゼントを用意したんだぞ。なのにあなたは、結局、浮気を疑ってたってわけか。彼女の気持ちは、どこまで踏みにじれば気が済むか
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第8話
圭吾が去ったあと、母はこれまでにない様子で胸元を押さえ、私の名前を叫んだ。母は私に電話をかけようとして、そこで気づいた。私の番号は、いまだに一度も登録されていなかった。スマホの中にも、私に関する情報は何ひとつ残っていない。母は私の部屋へ駆け込み、何か手がかりを探そうとした。だが、そこにはもう私の物は一つも残っていなかった。「澪の荷物は?」「お母さん、この部屋、私の部屋のいちばん近くじゃない?練習しやすいように、ピアノをこっちに移したの……」そう言い訳する詩織を、母は鋭い目でにらみつけた。「澪の物はどこにやったのかって聞いてるの」「もう、全部捨てちゃった……」詩織はうつむいたまま、母の目をまともに見ることができない。パシンッ!震える手で詩織の頬を叩きつけ、母は叫んだ。「この家で、いつからあんたが仕切るようになったの?」けれど、母がどれだけ探しても、この部屋には私の痕跡はひとつも残っていなかった。そして、最後に母がようやく見つけたのは、私と相沢家の人と縁を切る、あの書類だけだ。ビリッと音を立てて、母はその縁切りの書類を引き裂き、暖炉へ放り込んだ。炎が一気に燃え広がり、書類はたちまち灰になった。「澪がどこにいるのか探しなさい。あの子は私が身を削って産んだ子よ。何があっても、私の娘なんだから」それでも、もう誰一人として、私のもとには辿り着けないのだ。母は一夜にして白髪になった。圭吾はあの映像をネットに流した。相沢グループの株価は一晩で暴落した。追い詰められた父は、詩織を海外へ出すと決めた。「家族だったよしみで、これ以上は責めない。だが、もう二度と俺たちの前に姿を見せるな」論文の盗用に、故意の傷害。母はこれほどまでに詩織に失望したことはなかった。「所詮、うちの血じゃないってことなのね。澪は自分の力でどれだけ成果を出したと思ってるの?今だって国の仕事をしてる。それに比べてあなたは、相沢家に泥を塗ることしかできない」詩織は行き場を失い、最後に安臣にすがるしかなかった。彼女は残った金で安臣を酔わせ、私のふりをして、安臣をベッドへ連れ込んだ。「安臣、私、あなたの妻だよ。もう一度、結婚し直そう?」だが、安臣は最初から分かっていた――澪は誰かを好きになっても、こんな卑劣な真似は絶対
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第9話
二十年ぶりに、私は安臣と再会した。彼の姿を目にした瞬間、かつてのときめきは跡形もなく消えていた。彼は私のプロジェクトに、1000億円もの資金を投じた。投資発表の記念式典では、警備が私を狙う襲撃者をことごとく阻んでいた。それでも、まさか刑務所から出てきた詩織が紛れ込んでいるとは、思いもしなかった。「このクソ女、死ね!」詩織が長い刃を取り出し、私めがけて突っ込んでくる。刃先はもう目の前だ。逃げ場なんてない。もう死ぬ、と覚悟したその瞬間、安臣がとっさに私を引き寄せ、背後へ押し込んだ。刃は彼の胸を深く貫き、血が一気に床へ広がっていく。「澪……俺、やっとお前のために何かひとつできた」彼は私の手を握り、残った力を振り絞って言う。「矢ヶ部グループの全部を、結納にする。お前の研究は俺が全力で支える。澪、俺と結婚してくれないか?」私は、彼が本気で狂っているんじゃないかと思った。こんなときに、まだそんなことを言うのか。命の瀬戸際で、まだ恋だの愛だのを持ち出すなんて。私は息もつかずに急いで彼を病院へ運び込んだ。一度は、医師に「もう助からない」と告げられた。私は安臣のベッド脇に付き添い、無意識に彼の指先をそっとぬぐっていた。二十年前、いちばん彼を愛していた頃も、私はたしか同じように、こうして世話をしていた。けれど、あのときの彼は、そんな私を顧みようともしなかった。目を覚まして最初に吐いた言葉は、「出ていけ」だった。二十年という歳月で、安臣の刺々しさはすっかり削げ落ちたようだった。圭吾によれば、私が去ったあと、安臣は研究に打ち込む学生のための基金を設け、資金を出し続けているのだと。そして彼は、それきり矢ヶ部家に戻らなかった。持てるものをすべて抱えて、私が昔借りていた部屋に住み着いた。鍵を探し出して扉を開けると、中はすべて昔のままだ。ただ、部屋の隅々まで安臣の気配だけが染みついていた。窓辺に立ち、矢ヶ部グループの本社ビルを見下ろしながら、私は気づく。自分の心がすっかり凪いでいる私は病院で丸一か月つき添ったが、彼に残っていたのはかすかな呼吸だけだった。もう駄目かもしれない――そう思いかけたとき、安臣が突然目を覚ました。私はやっと胸を撫で下ろした。目を開けるなり安臣は、私の無事を確かめようと
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第10話
再び会った詩織は、もう昔の優雅さを失っていた。肌はすっかり老け込み、髪はぐしゃぐしゃに絡んでいる。さらに、全身から、むっとする悪臭が漂っている。「澪、あんたの勝ちよ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも全部奪って、安臣まで横取りして……今頃、いい気味だって思ってるんでしょ?」私が両親を奪った?安臣を横取りした?そもそも、あの人たちは私の実の親で、安臣は祖父が決めてくれた婚約者だった。けれど、今の私には、もうどれもいらない。詩織は気が狂ったように私へ飛びかかろうとした。だが、夫の朝霧恒一(あさぎり こういち)がすぐ立ち上がり、彼女は鉄格子の内側に押し戻された。彼女は信じられないという顔で叫んだ。「ありえない!あんたが安臣を手放すなんて、できるわけない!」今日ここへ来たのは、ただ一つを伝えたいことがあるだけだ。彼女が大事に抱えているものは、私が要らないと投げ捨てたものだ、と。恒一は私と同じ、ロケット計画の中核メンバーだ。安臣とは違う。彼なら、私と肩を並べて頂点に立てる。私は詩織に告げた。「相沢家はあなたを除籍したよ。それと、そっちの方は安臣が雇った弁護士」そう言って、私は隣の三人目を指さした。詩織への処置について、安臣が弁護士に指示したのは一言だけ。「どんな手を使ってもいい。生きて刑務所を出すな」詩織はその衝撃に耐えきれず、その場で気を失った。俊介が相沢家を継いだあと、彼は相沢家名義で私のプロジェクトに600億円を寄付した。プロジェクト始動の日、俊介は両親を連れて私のもとへやって来た。母はよろよろと歩き、しわだらけの頬を涙で濡らしていた。私の手を握り、彼女は震える声で言う。「澪……澪、ねえ。お母さん、来たよ……」私は手を引き抜き、その言葉を遮った。「私にはもうお母さんがいない、苗字もとっくに鈴木に変えたし」二十年前、私は相沢家と縁を切った。翌日、指導教員の苗字を継いで鈴木に改めた。それを聞いて、俊介は驚いた顔で固まった。母は顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる。いつも冷淡な父ですら、唇を小さく震わせている。私は人を呼び、三人を帰らせた。苗字を変えたその日から、私の残りの人生は決まった。恩師に報い、この国に報いる。身を削ってでも、その恩に応える。俊
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