ログイン再び会った詩織は、もう昔の優雅さを失っていた。肌はすっかり老け込み、髪はぐしゃぐしゃに絡んでいる。さらに、全身から、むっとする悪臭が漂っている。「澪、あんたの勝ちよ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも全部奪って、安臣まで横取りして……今頃、いい気味だって思ってるんでしょ?」私が両親を奪った?安臣を横取りした?そもそも、あの人たちは私の実の親で、安臣は祖父が決めてくれた婚約者だった。けれど、今の私には、もうどれもいらない。詩織は気が狂ったように私へ飛びかかろうとした。だが、夫の朝霧恒一(あさぎり こういち)がすぐ立ち上がり、彼女は鉄格子の内側に押し戻された。彼女は信じられないという顔で叫んだ。「ありえない!あんたが安臣を手放すなんて、できるわけない!」今日ここへ来たのは、ただ一つを伝えたいことがあるだけだ。彼女が大事に抱えているものは、私が要らないと投げ捨てたものだ、と。恒一は私と同じ、ロケット計画の中核メンバーだ。安臣とは違う。彼なら、私と肩を並べて頂点に立てる。私は詩織に告げた。「相沢家はあなたを除籍したよ。それと、そっちの方は安臣が雇った弁護士」そう言って、私は隣の三人目を指さした。詩織への処置について、安臣が弁護士に指示したのは一言だけ。「どんな手を使ってもいい。生きて刑務所を出すな」詩織はその衝撃に耐えきれず、その場で気を失った。俊介が相沢家を継いだあと、彼は相沢家名義で私のプロジェクトに600億円を寄付した。プロジェクト始動の日、俊介は両親を連れて私のもとへやって来た。母はよろよろと歩き、しわだらけの頬を涙で濡らしていた。私の手を握り、彼女は震える声で言う。「澪……澪、ねえ。お母さん、来たよ……」私は手を引き抜き、その言葉を遮った。「私にはもうお母さんがいない、苗字もとっくに鈴木に変えたし」二十年前、私は相沢家と縁を切った。翌日、指導教員の苗字を継いで鈴木に改めた。それを聞いて、俊介は驚いた顔で固まった。母は顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる。いつも冷淡な父ですら、唇を小さく震わせている。私は人を呼び、三人を帰らせた。苗字を変えたその日から、私の残りの人生は決まった。恩師に報い、この国に報いる。身を削ってでも、その恩に応える。俊
二十年ぶりに、私は安臣と再会した。彼の姿を目にした瞬間、かつてのときめきは跡形もなく消えていた。彼は私のプロジェクトに、1000億円もの資金を投じた。投資発表の記念式典では、警備が私を狙う襲撃者をことごとく阻んでいた。それでも、まさか刑務所から出てきた詩織が紛れ込んでいるとは、思いもしなかった。「このクソ女、死ね!」詩織が長い刃を取り出し、私めがけて突っ込んでくる。刃先はもう目の前だ。逃げ場なんてない。もう死ぬ、と覚悟したその瞬間、安臣がとっさに私を引き寄せ、背後へ押し込んだ。刃は彼の胸を深く貫き、血が一気に床へ広がっていく。「澪……俺、やっとお前のために何かひとつできた」彼は私の手を握り、残った力を振り絞って言う。「矢ヶ部グループの全部を、結納にする。お前の研究は俺が全力で支える。澪、俺と結婚してくれないか?」私は、彼が本気で狂っているんじゃないかと思った。こんなときに、まだそんなことを言うのか。命の瀬戸際で、まだ恋だの愛だのを持ち出すなんて。私は息もつかずに急いで彼を病院へ運び込んだ。一度は、医師に「もう助からない」と告げられた。私は安臣のベッド脇に付き添い、無意識に彼の指先をそっとぬぐっていた。二十年前、いちばん彼を愛していた頃も、私はたしか同じように、こうして世話をしていた。けれど、あのときの彼は、そんな私を顧みようともしなかった。目を覚まして最初に吐いた言葉は、「出ていけ」だった。二十年という歳月で、安臣の刺々しさはすっかり削げ落ちたようだった。圭吾によれば、私が去ったあと、安臣は研究に打ち込む学生のための基金を設け、資金を出し続けているのだと。そして彼は、それきり矢ヶ部家に戻らなかった。持てるものをすべて抱えて、私が昔借りていた部屋に住み着いた。鍵を探し出して扉を開けると、中はすべて昔のままだ。ただ、部屋の隅々まで安臣の気配だけが染みついていた。窓辺に立ち、矢ヶ部グループの本社ビルを見下ろしながら、私は気づく。自分の心がすっかり凪いでいる私は病院で丸一か月つき添ったが、彼に残っていたのはかすかな呼吸だけだった。もう駄目かもしれない――そう思いかけたとき、安臣が突然目を覚ました。私はやっと胸を撫で下ろした。目を開けるなり安臣は、私の無事を確かめようと
圭吾が去ったあと、母はこれまでにない様子で胸元を押さえ、私の名前を叫んだ。母は私に電話をかけようとして、そこで気づいた。私の番号は、いまだに一度も登録されていなかった。スマホの中にも、私に関する情報は何ひとつ残っていない。母は私の部屋へ駆け込み、何か手がかりを探そうとした。だが、そこにはもう私の物は一つも残っていなかった。「澪の荷物は?」「お母さん、この部屋、私の部屋のいちばん近くじゃない?練習しやすいように、ピアノをこっちに移したの……」そう言い訳する詩織を、母は鋭い目でにらみつけた。「澪の物はどこにやったのかって聞いてるの」「もう、全部捨てちゃった……」詩織はうつむいたまま、母の目をまともに見ることができない。パシンッ!震える手で詩織の頬を叩きつけ、母は叫んだ。「この家で、いつからあんたが仕切るようになったの?」けれど、母がどれだけ探しても、この部屋には私の痕跡はひとつも残っていなかった。そして、最後に母がようやく見つけたのは、私と相沢家の人と縁を切る、あの書類だけだ。ビリッと音を立てて、母はその縁切りの書類を引き裂き、暖炉へ放り込んだ。炎が一気に燃え広がり、書類はたちまち灰になった。「澪がどこにいるのか探しなさい。あの子は私が身を削って産んだ子よ。何があっても、私の娘なんだから」それでも、もう誰一人として、私のもとには辿り着けないのだ。母は一夜にして白髪になった。圭吾はあの映像をネットに流した。相沢グループの株価は一晩で暴落した。追い詰められた父は、詩織を海外へ出すと決めた。「家族だったよしみで、これ以上は責めない。だが、もう二度と俺たちの前に姿を見せるな」論文の盗用に、故意の傷害。母はこれほどまでに詩織に失望したことはなかった。「所詮、うちの血じゃないってことなのね。澪は自分の力でどれだけ成果を出したと思ってるの?今だって国の仕事をしてる。それに比べてあなたは、相沢家に泥を塗ることしかできない」詩織は行き場を失い、最後に安臣にすがるしかなかった。彼女は残った金で安臣を酔わせ、私のふりをして、安臣をベッドへ連れ込んだ。「安臣、私、あなたの妻だよ。もう一度、結婚し直そう?」だが、安臣は最初から分かっていた――澪は誰かを好きになっても、こんな卑劣な真似は絶対
俊介は取り乱して、圭吾の胸ぐらをつかみ上げた。「お前のベッドに転がり込まなきゃ、澪が鈴木教授の研究室に入れるわけないだろ!」「もういい!澪の才能は、研究室の誰よりも抜きん出ている。あの子に裏道なんて要らない!それより、相沢詩織がどうやって澪の論文を盗んで発表したのか、まずはそっちを疑え!」「詩織が澪の論文を盗むわけがない。でたらめを言うな!」そう言い返しながら、俊介の声には明らかに自信がなかった。もし本当に詩織に卓越した才能があるのなら、四年間で論文が一つきりなんてあり得るのだろうか?」俊介だって鈍くはない。詩織には前から薄々疑いを抱いていた。それでも、幼いころから一緒に育ってきた彼女が、剽窃などするとは信じたくなかった。「じゃあ聞くけど、今の業界で相沢詩織を受け入れる指導教員なんて、一人でもいるのか?」圭吾は容赦なく言い返した。握りしめていた俊介の拳が、ふっと力を失ってほどけた。詩織が何度も断られてきたことが脳裏をよぎる。巨額の寄付をちらつかせても、どの研究室にも門前払いされたのだ。俊介は目を閉じ、やがて寂しげに背を向け、その場を去っていった。安臣は圭吾の前に立ちはだかり、血走った目で噛みつくように問い詰める。「澪と何もないなら、どうして彼女の低用量ピルなんか受け取ってやった?」二年前、安臣は、圭吾が調剤薬局に入っていくのを見ていた。そして、圭吾が受け取った薬をそのまま私の手に渡したところも目にしている。それでも安臣は、その場で私を追いかけて問い詰めたりはしなかった。代わりに、メッセージを一通だけ送った。【自分が矢ヶ部家の妻になる女だってことを、忘れるな】私は長いメッセージで弁明した。けれど、安臣は何も返事してくれなかった。そしてその日から、彼は私と圭吾ができていると決めつけた。圭吾は怒り極まった表情で、逆に笑った。冷ややかな嘲りを含んで言う。「澪がどれだけ研究のプレッシャーを抱えてたか、あなたは知ってるのか?それに、彼女の体調のことは?どれだけ気にかけた?あの頃の彼女はホルモンバランスを崩して、顔だってひどく荒れてた。それでも澪は徹夜して、あなたのために手作りの誕生日プレゼントを用意したんだぞ。なのにあなたは、結局、浮気を疑ってたってわけか。彼女の気持ちは、どこまで踏みにじれば気が済むか
その日、家に戻ってから、安臣は気づいた。もう二度と、私の電話がつながらない。LINEも、ブロックされていた。私を病院へ連れて行くよう手配していた秘書が、報告してくる。「矢ヶ部社長、相沢さんは、どうやらもう別の方に迎えられたみたいです」別の人に迎えられた?その言葉に、安臣は反射的に私の研究室の先輩のことを思い浮かべた。安臣はその男を一度も見たことがない。それでも、婚約者がその先輩と浮気していると、周りから毎日のように吹き込まれていた。【澪、折り返せ】見下ろすように五文字だけ打ち、安臣はスマホを置いて仕事に戻った。――きっと澪は、拗ねているだけだ。いちいち甘やかす必要はない。そう思っていたのに、時間だけが過ぎていく。三分。三十分。一日。十日。返事は、来ない。堪えきれなくなった安臣は病院へ駆け込んだが、受付にこう告げられた。「相沢さんは、当日に退院されています」当日に退院?なぜ連絡してこない?足を痛めた女が、ひとりで生活できるはずがない。安臣は病院の待合で茫然と座り込み、行き交う人の波を呆けたように見つめた。そこへ詩織がやって来て、ようやく安臣は我に返った。「友達が病気になったの?秘書が言ってたよ、あなたは今日一日会社に行ってないって」安臣は首を横に振った。どうして病院まで来たのか、彼自身にも分からなかった。ただ、入口を見つめ続けて、私が再診に現れるのを、どこかでまだ期待していたのだ。気がつけば、何より大事にしている仕事のことさえ、すっかり頭から抜け落ちていた。もしかしたら澪が再診に来るかもしれない。そのときに、どうして電話に出ないのか問いただせばいい――安臣は、そんな甘い期待をどこかで抱いていた。けれど、いつの間にか半年が経っていた。安臣は毎日、私からの電話を待ち続けた。しかし、その電話が鳴ることは一度もなかった。詩織との結婚式の当日、安臣は部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。握りしめたスマホを持つ指先は、わずかに震えている。俊介は笑いながら言う。「やっとだな。前から、お前が俺の妹婿になる日を待ってたんだよ」安臣はわずかに眉をひそめた。胸の奥が、妙にざらつく。たしかに、俊介の妹婿になることを考えたことはある。だが、それは今日みたいな形
「ちょっと来てもらえる?家で転んじゃってしまった。車まで運んでくれれば、それでいいから……」電話の向こうで、安臣は一拍の迷いもなく答えた。「分かった。今すぐ行く」もう二度と彼と顔を合わせることはないと思っていた。けれど、ずっと実験室にこもってきたせいで、気づけば身のまわりには友達と呼べる人が一人もいない。いざ頼ろうとしても、思い浮かぶ名前は結局、安臣しかなかった。「安臣、出かけるの?私たち、あと三十分でウェディングドレスの打ち合わせよ。あんまり遠くに行かないでね」詩織の声が割り込んだ。「澪、俺……」彼が言い終える前に、私は通話を切った。私と詩織の間に立たされたとき、彼が私を選ぶことなんて、一度だってない。「これはどういうことなんですか?前回お帰りになったときにはかなり回復していたはずですよね。それなのに、こんなに短い間で、どうしてここまで傷口が悪化してしまったんです?」医師は私の腕を見つめ、怒りを押さえきれない様子で言った。私は気まずくうつむき、「すみません」と小さく謝った。私が望んだわけじゃない。けれど、熱湯をかけたのも、ヒールで踏んだのも、詩織がわざとやったことだ。けれど、もう二度と、こんなことはさせない。診察を終えて、医師は念を押すように言う。「もう傷を増やさないでください。次は本当に治らなくなりますよ」それから、責めるように続ける。「それと、どうして毎回おひとりなんですか?ご家族の方は?」私は答えられず、目を逸らした。もう、家族なんていない。私は黙ったまま薬を受け取り、病院をあとにして、師匠が手配してくれた車にそのまま乗り込んだ。窓の外では景色が次々と流れていく。道端には、腕を組んで歩く恋人たち。その少し先では、父親の肩に抱き上げられた小さな女の子が、弾むように笑っている。その笑い声が、かすかに車内まで紛れ込んできた。こみ上げる涙を必死にこらえ、私はそっと車内へ視線を戻した。もう私には、父親という存在はいない。そして、あんなふうに誰かをまるごと愛することも、きっともう二度とない。「澪!どこへ行くんだ!」振り向くと、ショーウィンドウの中で、ウェディングドレス姿の詩織が安臣の肩にもたれかかっていた。二人は、驚くほどお似合いだった。運転席の担当者