午前三時。国立素粒子物理学研究所の最上階、一室だけが蛍光灯の冷たい光を放っていた。 緒方菜々美は巨大なホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーを握りしめていた。黒髪は三日間洗っていないせいで脂ぎっており、白衣には昨日のカップ麺の汁が飛び散っている。だが彼女の瞳だけは異様な輝きを放っていた。「……見えた」 彼女は震える手でボードに数式を走らせた。ヒッグス場における対称性の自発的破れ。その新しい解釈が、まるで霧の向こうから姿を現すように、彼女の脳内で結晶化していく。 数学は美しい。物理法則はさらに美しい。宇宙の根源を支配する方程式の前では、人間の感情などノイズに過ぎない――そう信じて生きてきた三十二年間だった。 携帯電話が震えた。指導教授からのメールだ。『緒方先生、明日の学会発表の準備は? スライドの確認をお願いします』 菜々美は時計を見た。あと五時間後には京都行きの新幹線に乗らなければならない。だが彼女の頭の中は、今発見したばかりの数式で満たされていた。発表資料? そんなものは二週間前に完成させたはずだ。どこかにあるはずだ。たぶん。 研究室を見回す。床には論文のコピーが散乱し、デスクは未開封の郵便物で埋もれている。コーヒーカップが七つ。いつのものかわからない。「あった……」 ノートパソコンを発見したが、バッテリーが切れていた。充電器を探す。三十分後、彼女は諦めた。充電器は自宅にあるはずだ。 自宅。 菜々美は深いため息をついた。あの場所に帰ることを考えるだけで憂鬱になる。だが仕方ない。背筋を伸ばし、白衣を脱いで椅子の背もたれにかけると、彼女は研究室を後にした。 * 東京都文京区。築二十年のマンションの一室。玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が菜々美を出迎えた。 生ゴミの臭い。カビの臭い。そして何か発酵しているような甘酸っぱい臭い。「ただいま……」 誰もいない部屋に向かって呟く。玄関には宅配便の不在票が十三枚。廊下には脱ぎ捨てた服が散乱している。リビングに足を踏み入れると、状況はさらに悪化していた。 ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が十個以上積み重なっている。ソファには洗濯していない服の山。床には学術雑誌とペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。 菜々美は何も感じなかった。いや、正確には、これが異常だと
最終更新日 : 2025-12-03 続きを読む