LOGINIQ160の天才理論物理学者・緒方菜々美、32歳。宇宙の法則は解明できても、洗濯機の使い方がわからない。コンビニ弁当を床に置いて食べ、ゴミ屋敷化した自宅で論文を書く日々。 そんな彼女の部屋に、ひょんなことから年下の男性・桐谷蓮(27歳)が転がり込んでくる。元エリート社員で家事万能、だが人生に迷い居場所を失った彼。「掃除してくれるなら泊めてあげる」という契約から、なし崩し的に始まった同居生活。 最初は正反対すぎて衝突ばかり。だが温かい手料理、綺麗な部屋、そして誰かと過ごす時間——蓮との日々は、菜々美の凍えた心を溶かしていく。 やがて芽生える、抑えきれない感情。「あなたがいない生活はもう考えられない」
View More午前三時。国立素粒子物理学研究所の最上階、一室だけが蛍光灯の冷たい光を放っていた。
緒方菜々美は巨大なホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーを握りしめていた。黒髪は三日間洗っていないせいで脂ぎっており、白衣には昨日のカップ麺の汁が飛び散っている。だが彼女の瞳だけは異様な輝きを放っていた。
「……見えた」
彼女は震える手でボードに数式を走らせた。ヒッグス場における対称性の自発的破れ。その新しい解釈が、まるで霧の向こうから姿を現すように、彼女の脳内で結晶化していく。
数学は美しい。物理法則はさらに美しい。宇宙の根源を支配する方程式の前では、人間の感情などノイズに過ぎない――そう信じて生きてきた三十二年間だった。
携帯電話が震えた。指導教授からのメールだ。
『緒方先生、明日の学会発表の準備は? スライドの確認をお願いします』
菜々美は時計を見た。あと五時間後には京都行きの新幹線に乗らなければならない。だが彼女の頭の中は、今発見したばかりの数式で満たされていた。発表資料? そんなものは二週間前に完成させたはずだ。どこかにあるはずだ。たぶん。
研究室を見回す。床には論文のコピーが散乱し、デスクは未開封の郵便物で埋もれている。コーヒーカップが七つ。いつのものかわからない。
「あった……」
ノートパソコンを発見したが、バッテリーが切れていた。充電器を探す。三十分後、彼女は諦めた。充電器は自宅にあるはずだ。
自宅。
菜々美は深いため息をついた。あの場所に帰ることを考えるだけで憂鬱になる。だが仕方ない。背筋を伸ばし、白衣を脱いで椅子の背もたれにかけると、彼女は研究室を後にした。
*
東京都文京区。築二十年のマンションの一室。玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が菜々美を出迎えた。
生ゴミの臭い。カビの臭い。そして何か発酵しているような甘酸っぱい臭い。
「ただいま……」
誰もいない部屋に向かって呟く。玄関には宅配便の不在票が十三枚。廊下には脱ぎ捨てた服が散乱している。リビングに足を踏み入れると、状況はさらに悪化していた。
ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が十個以上積み重なっている。ソファには洗濯していない服の山。床には学術雑誌とペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。
菜々美は何も感じなかった。いや、正確には、これが異常だという認識はある。だが、どこから手をつければいいのかわからない。そして何より、片付けている時間があれば、一つでも多くの論文を読みたかった。
キッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、賞味期限切れの牛乳と、いつ買ったか思い出せないチーズが転がっていた。チーズは青カビに覆われている。
「ペニシリンだ……」
科学者として正確な観察だった。だが夕食の選択肢としては最悪だ。
結局、菜々美はコンビニのおにぎりを三つ買い、床に座って食べた。テレビをつける気力もなく、ただぼんやりと窓の外を眺めた。
量子力学では、観測されるまで粒子の状態は確定しない。シュレーディンガーの猫は、箱を開けるまで生きているとも死んでいるとも言えない重ね合わせ状態にある。
では、自分という存在は?
誰も観測しない部屋の中で、菜々美という粒子は本当に存在しているのだろうか?
その問いに答えが出る前に、彼女は眠りに落ちた。床の上で、おにぎりの包み紙を握りしめたまま。
*
翌朝。正確には午後一時。
インターホンの執拗な音で目を覚ました。菜々美は床から這い上がり、寝ぼけた頭でドアに向かった。
「はい……?」
「宅配便です。緒方様宛のお荷物です」
モニターには、爽やかな笑顔の青年が映っていた。年齢は二十代後半。整った顔立ち。清潔な身なり。菜々美の世界とは完全に異なる存在。
彼女はドアを開けた。青年の笑顔が一瞬固まった。
当然だ。菜々美は昨夜の服のまま、髪は乱れ、顔には寝癖のような跡がついている。そして背後からは、部屋の惨状が丸見えだった。
「あ……その、サインをお願いします」
青年は努めて平静を装いながら端末を差し出した。菜々美はペンを受け取り、ぎこちない字でサインをした。
「ありがとうございました。それでは……」
青年が去ろうとした瞬間、彼の足が段ボール箱に引っかかった。箱の中身が廊下に散乱する。
「すみません!」
青年は慌てて拾い集めようとしたが、そこで動きが止まった。散乱した書類の一枚に目を奪われたのだ。
「これ……ヒッグス粒子の論文ですか?」
意外な言葉だった。菜々美は眉をひそめた。
「ええ。ご存知なんですか?」
「大学で物理学を専攻していたので。といっても、ここまで高度な内容は理解できませんが」
青年は書類を丁寧に拾い集め、箱に戻した。その手つきは妙に慣れていた。
「失礼ですが、緒方様は研究者の方ですか?」
「ええ。国立素粒子物理学研究所で」
「すごい……」
青年の目に、純粋な尊敬の色が浮かんだ。菜々美は少し居心地が悪くなった。こういう視線には慣れていない。
「でも……」
青年は言いかけて、口をつぐんだ。
「でも?」
「いえ、何でもありません。それでは失礼します」
青年は頭を下げて去っていった。だがその背中から、何か言いたげな空気が漂っていた。
菜々美はドアを閉めた。段ボール箱を開けてみる。中身は学会から届いた資料だった。そして箱の底に、一枚のメモが入っていた。
『部屋、片付けた方がいいですよ』
誰が書いたのか、筆跡では判断できない。だが宅配業者の青年の仕業だろう。
菜々美は小さく笑った。他人に心配される。それは新鮮な感覚だった。だが同時に、自分が他人にとって「心配される対象」だという事実が、妙に胸に引っかかった。
彼女はメモを丸めてゴミ箱に投げた。ゴミ箱には入らず、床に転がった。それすらも拾う気力はなく、菜々美は再び床に座り込んだ。
窓の外では、昼下がりの太陽が容赦なく輝いている。世界は動き続けている。だが菜々美の部屋だけは、時間が止まっているようだった。
そのとき、再びインターホンが鳴った。
*
「また何か……?」
不機嫌な声でモニターを見ると、先ほどの青年が立っていた。今度は宅配便の制服ではなく、私服だった。
「あの、緒方様。突然すみません。桐谷蓮と申します」
「さっきの配達員の方? 何か忘れ物ですか?」
「いえ、その……お願いがあって参りました」
菜々美は訝しげにドアを開けた。蓮は深々と頭を下げた。
「実は、住む場所を失いまして。数日でいいので、泊めていただけないでしょうか」
沈黙。
菜々美の脳内では、この状況を理解しようとする思考回路が空回りしていた。
「……は?」
「図々しいお願いだとは承知しています。でも、今日中に部屋を出なければならなくて。ネットカフェも満室で。知人にも連絡を取りましたが、誰も……」
「待ってください」
菜々美は額を押さえた。情報量が多すぎる。
「なぜ私に? 警察か、あるいは福祉施設に相談すべきでは?」
「その……緒方様の部屋、広そうでしたから」
「広い? あれのどこが……」
言いかけて、菜々美は気づいた。確かに、この部屋は3LDKだ。一人暮らしには広すぎる。だが、それを理由に見ず知らずの男性を泊めるなど……
「お断りします」
きっぱりと言った。蓮の表情が曇る。
「そうですよね。すみません、失礼しました」
彼は踵を返した。だがその背中は、どこか疲れ切っているように見えた。
菜々美はドアを閉めかけた。
だが、閉めきることができなかった。
脳内で、奇妙な思考が始まっていた。この青年は物理学の知識がある。つまり論理的思考ができる。そして配達員として働いているということは、少なくとも社会性はある。何より、さっき部屋を見たときの彼の表情――あれは嫌悪ではなく、心配だった。
他人を心配できる人間。
菜々美は何かを決断するように、大きく息を吸った。
「条件があります」
蓮が振り返った。
「部屋の掃除をしてください。それができるなら、一週間だけ泊めます」
蓮の目が見開かれた。
「本当ですか?」
「ええ。どうせ私にはできませんから。あなたが綺麗にしてくれるなら、互いにメリットがあります」
合理的な判断。感情は介在していない――そう自分に言い聞かせた。
蓮は再び深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず恩返しします」
こうして、菜々美の静かな日常に、桐谷蓮という変数が加わった。
その瞬間、彼女の人生の方程式は、解を持たない不定形へと変貌し始めていた。
それから一年が経った。 菜々美は研究所を辞め、大学の准教授として働き始めた。 教育と研究のバランスを取りながら、自分のペースで研究を続けている。 CERNほどの設備はない。だが、それでいい。 彼女には、もっと大切なものがあった。 * 蓮は、パティシエの学校を卒業し、小さなカフェを開いた。 店の名前は「量子カフェ」。 菜々美の提案だった。 店は繁盛していた。蓮の作るケーキは評判で、常連客も増えていった。 そして、菜々美は時々店を手伝った。 もちろん、料理はできない。だが、レジ打ちくらいはできる。 二人は、互いを支え合いながら、新しい人生を歩んでいた。 * ある日曜日の朝。 菜々美は目を覚ました。 隣には蓮が眠っている。 彼の寝顔を見つめながら、菜々美は思った。 これが幸せなのだ、と。 完璧ではない。 研究者としてのキャリアは、諦めた部分もある。 だが、それでいい。 なぜなら、彼女は愛を手に入れたから。 菜々美は静かにベッドから抜け出し、リビングに向かった。 窓を開ける。朝の空気が心地よい。 キッチンでコーヒーを淹れる。蓮が教えてくれた方法で。 ソファに座り、コーヒーを飲みながら、論文を読む。 だが、今日は研究のことは考えたくなかった。 菜々美はノートパソコンを閉じ、再び寝室に戻った。 蓮が目を覚ました。「おはよう」「おはよう」 二人は抱き合った。「今日は何か予定ある?」 蓮が尋ねた。「いいえ。何もありません」「じゃあ、一日中ごろごろしましょうか」「いいですね」 二人は笑った。 そして、ベッドの中で、ゆっくりと朝を過ごした。
出発まで、あと一週間。 菜々美と蓮の関係は、微妙なものになっていた。 二人とも、互いを愛している。 だが、その愛をどう表現すればいいのか、わからなかった。 * ある夜、蓮が言った。「緒方さん、最後にどこか行きませんか?」「どこに?」「どこでもいいです。二人で過ごせる場所」 菜々美は頷いた。 翌日、二人は鎌倉に向かった。 海を見ながら、静かに歩く。「綺麗ですね」 蓮が言った。「ええ」 菜々美は波を見つめた。 波は寄せては返す。 永遠に繰り返される運動。 だが、その一つ一つの波は、二度と同じ形にはならない。「蓮」「はい?」「私、後悔していません」 菜々美は蓮を見た。「あなたに出会えて、良かった」 蓮は微笑んだ。「私もです」 二人は抱き合った。 波の音だけが、二人を包んでいた。 * 出発の前日。 菜々美は荷造りをしていた。 蓮は黙って手伝っていた。「これ、持っていきますか?」 蓮が写真立てを差し出した。 それは、鎌倉で撮った二人の写真だった。「……ええ」 菜々美は写真立てをスーツケースに入れた。「蓮、約束してください」「何をですか?」「三年後、私が帰ってきたとき、あなたがまだ私を愛していてくれること」 蓮は菜々美の手を握った。「約束します」 その夜、二人は最後の夜を共に過ごした。 * 翌朝、空港。 蓮は菜々美を見送りに来た。 チェックインを済ませ、出国ゲートの前で、二人は向き合った。「で
翌朝、菜々美は研究所に向かい、指導教授にCERNのオファーを断ると伝えた。 教授は激怒した。「緒方君、何を考えているんだ! これは君の研究人生において、最大のチャンスだぞ!」「わかっています。でも、私には他に大切なものができました」「他に大切なもの? 研究者が研究以外に何を優先するというんだ?」 菜々美は黙っていた。 教授は深いため息をついた。「……恋人でもできたのか?」 菜々美は顔を赤らめた。 教授は頭を抱えた。「信じられない……緒方君、君は天才だ。君のような才能を持つ研究者は滅多にいない。それを恋愛で台無しにするつもりか?」「台無しになどしません。私は東京でも研究を続けます」「そういう問題じゃない! CERNには世界最高の設備と研究者が揃っている。君がそこで得られる経験は、東京では決して得られないものだ」 教授の言葉は正しかった。 菜々美もそれは理解していた。 だが……「教授、私の人生です。私が決めます」「……わかった」 教授は諦めたように言った。「だが、後悔するなよ」 菜々美は研究室を後にした。 * だが、その日の午後、さらなる衝撃が待っていた。 CERNの責任者から、直接電話がかかってきたのだ。「ミス・オガタ、あなたの決断を再考していただきたい」 流暢な英語で、男性が言った。「実は、あなたに特別なプロジェクトをお願いしたいのです。ヒッグス粒子の新しい崩壊モードの探索。これは、あなたの専門分野に完全に合致します」 菜々美の心が揺れた。 ヒッグス粒子の新しい崩壊モード。 それは、物理学者にとって夢のようなテーマだった。「それは……」
CERNのオファーから一週間。 菜々美は返事を先延ばしにしていた。 研究所の同僚たちは全員、このチャンスを逃すべきではないと言う。指導教授も、強く勧めてくれた。 だが、菜々美の心は揺れ続けていた。 * ある土曜日の午後、菜々美は珍しく研究所に行かず、家にいた。 蓮はキッチンで菓子作りの練習をしていた。 リビングには甘い香りが漂っている。 菜々美はソファに座り、論文を読んでいた。だが、文字が頭に入ってこない。「緒方さん、タルト焼けましたよ」 蓮が皿を持ってきた。 美しいフルーツタルトだった。「食べてみてください」 菜々美はフォークを手に取り、一口食べた。 サクサクの生地。なめらかなカスタードクリーム。フルーツの爽やかな酸味。「……美味しい」「本当ですか?」 蓮の顔が輝いた。「ええ、本当に。プロ級です」「ありがとうございます! 実は、パティシエの学校に通うことを考えているんです」「それは素晴らしい」 菜々美は心から祝福した。 だが同時に、胸が締め付けられた。 蓮は前に進んでいる。 一方、自分は……「緒方さん」 蓮が真剣な顔で言った。「CERNの件、もう決めましたか?」「……まだです」「なぜですか? 普通なら、即答するような素晴らしいオファーでしょう?」 菜々美は答えられなかった。 蓮は菜々美の隣に座った。「もしかして……私のことを気にしているんですか?」 菜々美の心臓が跳ねた。「そんな……」「嘘をつかないでください」 蓮の声は優しかった。「