ログイン蓮が荷物を持って戻ってきたのは、一時間後だった。
驚いたことに、荷物はボストンバッグ一つだけだった。菜々美は内心、もっと大量の荷物を想像していた。
「これだけ?」
「ええ。必要最小限のものしか持っていません」
蓮は靴を脱ぎ、部屋に入った。そして改めて室内を見回し、深いため息をついた。
「想像以上ですね……」
「何がですか?」
「いえ……では、さっそく掃除を始めてもいいでしょうか」
「どうぞ。私は邪魔にならないように研究室に行きます」
菜々美はノートパソコンを探し始めた。だがどこにあるのか見当もつかない。床を這いずり回り、ソファの下を覗き、本棚の隙間に手を突っ込む。
蓮は黙ってその様子を見ていたが、やがて口を開いた。
「何をお探しですか?」
「ノートパソコンです。明日、京都で学会発表があって……」
「京都? 明日?」
蓮の声が少し高くなった。
「準備は済んでいるんですか?」
「ええ、スライドは完成しています。ただ、パソコンが見つからなくて」
「……信じられない」
蓮は頭を抱えた。
「緒方さん、それは本当にまずいですよ。学会発表って、研究者にとって重要なイベントでしょう?」
「ええ、まあ」
「まあ、じゃありません!」
蓮の声に、初めて感情が宿った。それは苛立ちではなく、切迫した心配だった。
「一緒に探しましょう。いつ、どこで最後に使いましたか?」
「えっと……三日前、たぶんこの部屋で」
「たぶん?」
「確信はありません」
蓮は深呼吸をした。そして、まるで子供に言い聞かせるような口調で言った。
「わかりました。まず、部屋を区画に分けて、系統的に探します。緒方さんは右側、私は左側。見つけたら声をかけてください」
その指示の的確さに、菜々美は少し驚いた。この青年、ただの配達員ではない――そんな印象を受けた。
二人は無言で部屋を探し始めた。
三十分後、蓮がクローゼットの奥からノートパソコンを発見した。
「ありました! なぜクローゼットに?」
「……思い出しました。服を探しているときに、間違えて入れたんだと思います」
「服を探すためにクローゼットを開ける、という発想自体は正しいんですけどね……」
蓮は苦笑した。そしてパソコンを手渡した。
「充電してください。そして、今日中に発表資料を確認すること。約束してください」
その真剣な目に、菜々美は思わず頷いた。
「わかりました」
「よかった。では、私は掃除を始めます」
蓮はそう言うと、キッチンに向かった。
*
菜々美が研究室に行っている間、蓮は黙々と部屋の掃除を始めた。
まずゴミの分別。燃えるゴミ、プラスチック、ペットボトル、紙類。床に散乱したゴミを一つ一つ拾い集めていく。ゴミ袋は七つになった。
次に洗濯。洗濯機の使い方を確認し、山積みになった服を詰め込む。洗剤を入れ、スイッチを押す。機械が唸りを上げて動き出した。
そしてキッチン。シンクには食器が山積みだった。カップ麺の容器、箸、スプーン、マグカップ。蓮はゴム手袋をはめ、一つ一つ丁寧に洗った。
冷蔵庫の中身も処分した。賞味期限が二ヶ月過ぎた牛乳、正体不明の液体が入ったタッパー、青カビに覆われたチーズ。
掃除機をかけ、床を拭く。窓を開け、空気を入れ替える。
五時間後。
部屋は見違えるように綺麗になっていた。
蓮はソファに座り、缶コーヒーを飲んだ。全身が汗でびっしょりだったが、不思議と心地よかった。
何かを成し遂げた。その実感が、久しぶりに彼の胸を満たしていた。
*
夜十時。菜々美が帰宅した。
ドアを開けた瞬間、彼女は固まった。
「……ここ、私の家ですよね?」
床は光り、空気は清々しい。テーブルの上には何もなく、ソファには綺麗に畳まれた服が置かれている。キッチンからは、何かいい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい」
蓮がエプロン姿で現れた。
「夕食、作りました。まだ食べてないですよね?」
「え……ええ」
菜々美は靴を脱ぎ、恐る恐る部屋に入った。まるで他人の家に迷い込んだような感覚だった。
ダイニングテーブルには、温かい料理が並んでいた。
豚の生姜焼き。味噌汁。サラダ。ご飯。
「材料は近くのスーパーで買いました。お金は後で精算しますので」
「いえ、掃除してくれただけで十分です……というか、料理まで?」
「だって、緒方さん、ちゃんと食べてないでしょう?」
蓮は椅子を引いた。菜々美は促されるまま座った。
箸を手に取る。生姜焼きを一口食べる。
美味しい。
それは、菜々美がこれまで食べてきたどのコンビニ弁当とも違う、温かくて優しい味だった。
「……美味しい」
素直な感想が口をついて出た。
蓮は嬉しそうに笑った。
「よかった。緒方さん、本当に料理しないんですか?」
「できません。火を使うのが怖くて」
「え? 研究者なのに?」
「研究と料理は別です」
蓮は呆れたように首を振った。
「信じられない……でも、これからは私が作りますから。一週間だけですけど」
その言葉に、菜々美は少し寂しさを感じた。一週間後、この部屋は再び元の惨状に戻るのだろう。そして蓮は去っていく。
それでいい。そう思うはずだった。
だが、温かい食事を囲んでいるこの瞬間が、妙に心地よかった。
「桐谷さん」
「蓮でいいですよ」
「では、蓮さん。あなた、本当にただの配達員なんですか?」
蓮の箸が止まった。
「……なぜそう思うんですか?」
「掃除の仕方が系統的すぎます。そして料理も手慣れている。あなたは訓練を受けているように見えます」
蓮は小さく笑った。
「さすが研究者。観察眼が鋭い」
「で、答えは?」
「……元々、別の仕事をしていました。でも、辞めました」
「理由は?」
「それは……まだ話したくありません」
蓮の表情に影が差した。菜々美はそれ以上追及しなかった。誰にでも触れられたくない過去はある。それは理解できた。
二人は黙々と食事を続けた。
不思議な沈黙だった。居心地が悪いわけではない。むしろ、互いの存在を確認し合うような、静かな時間だった。
食後、蓮は食器を洗い始めた。菜々美はソファに座り、ノートパソコンを開いた。
明日の発表資料を確認する。スライドは完璧だった。だが、何かが足りない気がした。
「蓮さん」
「はい?」
「ちょっと聞いてもらえますか? 明日の発表の練習」
蓮は驚いた顔をした。
「私でいいんですか? 専門家じゃないですよ」
「だからこそです。一般の人に理解できるかどうか、確認したいんです」
蓮は手を拭き、ソファに座った。
菜々美は立ち上がり、プレゼンテーションを始めた。
「ヒッグス場における対称性の自発的破れについて、新しい解釈を提案します。従来の理論では……」
三十分後、蓮は頭を抱えていた。
「全然わかりません……」
「そうですか」
菜々美は落胆した。
「でも」
蓮は顔を上げた。
「緒方さんが何かすごいことを研究しているのは伝わりました。その情熱というか、目の輝きというか……きっと明日の発表も成功しますよ」
菜々美は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それより、もう寝た方がいいんじゃないですか? 明日は早いでしょう?」
「そうですね」
菜々美はノートパソコンを閉じた。
「蓮さん、寝室はあちらです。布団は……」
「いえ、私はソファで寝ます」
「でも……」
「大丈夫です。これでも十分です」
蓮は笑った。その笑顔には、どこか諦めのようなものが混じっていた。
菜々美は何も言えず、寝室に向かった。
ベッドに横になる。天井を見上げる。
今日一日で、自分の生活が大きく変わった。部屋は綺麗になり、温かい食事を食べ、誰かと会話をした。
それは、菜々美がこれまで避けてきたものだった。
人との関わり。
面倒で、煩わしくて、予測不可能で……
でも。
悪くない。
そう思いながら、菜々美は眠りに落ちた。
その夜、彼女は久しぶりに夢を見た。
温かい光に包まれる夢だった。
京都での学会発表は、大成功だった。 菜々美の新しい理論的解釈は、聴衆を魅了した。質疑応答では鋭い質問が飛び交ったが、彼女はすべてに明瞭に答えた。発表後、何人もの研究者が名刺交換を求めてきた。 新幹線の中で、菜々美は窓の外を眺めていた。京都の山々が後方に流れていく。 成功の余韻に浸るべきなのだろう。だが、彼女の心は妙に落ち着かなかった。 理由はわかっている。 家に帰れば、蓮がいる。 それが嬉しいのか、それとも煩わしいのか、自分でもよくわからなかった。 午後八時、菜々美は帰宅した。「ただいま」 誰に向かって言っているのか、自分でも不思議だった。これまで、この言葉を発する機会などなかった。「おかえりなさい。発表、どうでしたか?」 蓮がキッチンから顔を出した。エプロンをつけている。「成功しました」「よかった! じゃあ、お祝いですね」 蓮はダイニングテーブルを指差した。そこには、いつもより豪華な料理が並んでいた。 鶏の照り焼き。ポテトサラダ。茶碗蒸し。そして、小さなケーキまで。「これ……」「近くのケーキ屋さんで買いました。緒方さんの成功を祝って」 菜々美の胸が、不思議な感覚で満たされた。 祝福される。 それは、これまでの人生で経験したことのない感覚だった。論文が認められても、学会で評価されても、それは「業績」として承認されるだけだった。だが今、目の前にいる蓮は、彼女という「人間」を祝福している。「……ありがとうございます」 声が少し震えた。 二人は食卓に向かい合って座った。「乾杯しましょう。お酒、ありますか?」「冷蔵庫に缶ビールが……あ、でも古いかもしれません」「確認してきます」 蓮が立ち上がり、冷蔵庫を開けた。賞味期限を確認し、頷いた。「大丈夫
蓮が荷物を持って戻ってきたのは、一時間後だった。 驚いたことに、荷物はボストンバッグ一つだけだった。菜々美は内心、もっと大量の荷物を想像していた。「これだけ?」「ええ。必要最小限のものしか持っていません」 蓮は靴を脱ぎ、部屋に入った。そして改めて室内を見回し、深いため息をついた。「想像以上ですね……」「何がですか?」「いえ……では、さっそく掃除を始めてもいいでしょうか」「どうぞ。私は邪魔にならないように研究室に行きます」 菜々美はノートパソコンを探し始めた。だがどこにあるのか見当もつかない。床を這いずり回り、ソファの下を覗き、本棚の隙間に手を突っ込む。 蓮は黙ってその様子を見ていたが、やがて口を開いた。「何をお探しですか?」「ノートパソコンです。明日、京都で学会発表があって……」「京都? 明日?」 蓮の声が少し高くなった。「準備は済んでいるんですか?」「ええ、スライドは完成しています。ただ、パソコンが見つからなくて」「……信じられない」 蓮は頭を抱えた。「緒方さん、それは本当にまずいですよ。学会発表って、研究者にとって重要なイベントでしょう?」「ええ、まあ」「まあ、じゃありません!」 蓮の声に、初めて感情が宿った。それは苛立ちではなく、切迫した心配だった。「一緒に探しましょう。いつ、どこで最後に使いましたか?」「えっと……三日前、たぶんこの部屋で」「たぶん?」「確信はありません」 蓮は深呼吸をした。そして、まるで子供に言い聞かせるような口調で言った。「わかりました。まず、部屋を区画に分けて、系統的に探します。緒方さんは右側、私は左側。見つけたら声をかけてください」 その指示の的確さに、菜々美は少し驚いた。この青年、ただの配達員ではない――そんな印象を受けた。 二人は無言で部屋を探し始めた。 三十分後、蓮がクローゼットの奥からノートパソコンを発見した。「ありました! なぜクローゼットに?」「……思い出しました。服を探しているときに、間違えて入れたんだと思います」「服を探すためにクローゼットを開ける、という発想自体は正しいんですけどね……」 蓮は苦笑した。そしてパソコンを手渡した。「充電してください。そして、今日中に発表資料を確認すること。約束してください」 その真剣な目に、菜々美は思わず頷い
午前三時。国立素粒子物理学研究所の最上階、一室だけが蛍光灯の冷たい光を放っていた。 緒方菜々美は巨大なホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーを握りしめていた。黒髪は三日間洗っていないせいで脂ぎっており、白衣には昨日のカップ麺の汁が飛び散っている。だが彼女の瞳だけは異様な輝きを放っていた。「……見えた」 彼女は震える手でボードに数式を走らせた。ヒッグス場における対称性の自発的破れ。その新しい解釈が、まるで霧の向こうから姿を現すように、彼女の脳内で結晶化していく。 数学は美しい。物理法則はさらに美しい。宇宙の根源を支配する方程式の前では、人間の感情などノイズに過ぎない――そう信じて生きてきた三十二年間だった。 携帯電話が震えた。指導教授からのメールだ。『緒方先生、明日の学会発表の準備は? スライドの確認をお願いします』 菜々美は時計を見た。あと五時間後には京都行きの新幹線に乗らなければならない。だが彼女の頭の中は、今発見したばかりの数式で満たされていた。発表資料? そんなものは二週間前に完成させたはずだ。どこかにあるはずだ。たぶん。 研究室を見回す。床には論文のコピーが散乱し、デスクは未開封の郵便物で埋もれている。コーヒーカップが七つ。いつのものかわからない。「あった……」 ノートパソコンを発見したが、バッテリーが切れていた。充電器を探す。三十分後、彼女は諦めた。充電器は自宅にあるはずだ。 自宅。 菜々美は深いため息をついた。あの場所に帰ることを考えるだけで憂鬱になる。だが仕方ない。背筋を伸ばし、白衣を脱いで椅子の背もたれにかけると、彼女は研究室を後にした。 * 東京都文京区。築二十年のマンションの一室。玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が菜々美を出迎えた。 生ゴミの臭い。カビの臭い。そして何か発酵しているような甘酸っぱい臭い。「ただいま……」 誰もいない部屋に向かって呟く。玄関には宅配便の不在票が十三枚。廊下には脱ぎ捨てた服が散乱している。リビングに足を踏み入れると、状況はさらに悪化していた。 ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が十個以上積み重なっている。ソファには洗濯していない服の山。床には学術雑誌とペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。 菜々美は何も感じなかった。いや、正確には、これが異常だと