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第二章「強制的な共鳴」

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-03 06:36:48

 蓮が荷物を持って戻ってきたのは、一時間後だった。

 驚いたことに、荷物はボストンバッグ一つだけだった。菜々美は内心、もっと大量の荷物を想像していた。

「これだけ?」

「ええ。必要最小限のものしか持っていません」

 蓮は靴を脱ぎ、部屋に入った。そして改めて室内を見回し、深いため息をついた。

「想像以上ですね……」

「何がですか?」

「いえ……では、さっそく掃除を始めてもいいでしょうか」

「どうぞ。私は邪魔にならないように研究室に行きます」

 菜々美はノートパソコンを探し始めた。だがどこにあるのか見当もつかない。床を這いずり回り、ソファの下を覗き、本棚の隙間に手を突っ込む。

 蓮は黙ってその様子を見ていたが、やがて口を開いた。

「何をお探しですか?」

「ノートパソコンです。明日、京都で学会発表があって……」

「京都? 明日?」

 蓮の声が少し高くなった。

「準備は済んでいるんですか?」

「ええ、スライドは完成しています。ただ、パソコンが見つからなくて」

「……信じられない」

 蓮は頭を抱えた。

「緒方さん、それは本当にまずいですよ。学会発表って、研究者にとって重要なイベントでしょう?」

「ええ、まあ」

「まあ、じゃありません!」

 蓮の声に、初めて感情が宿った。それは苛立ちではなく、切迫した心配だった。

「一緒に探しましょう。いつ、どこで最後に使いましたか?」

「えっと……三日前、たぶんこの部屋で」

「たぶん?」

「確信はありません」

 蓮は深呼吸をした。そして、まるで子供に言い聞かせるような口調で言った。

「わかりました。まず、部屋を区画に分けて、系統的に探します。緒方さんは右側、私は左側。見つけたら声をかけてください」

 その指示の的確さに、菜々美は少し驚いた。この青年、ただの配達員ではない――そんな印象を受けた。

 二人は無言で部屋を探し始めた。

 三十分後、蓮がクローゼットの奥からノートパソコンを発見した。

「ありました! なぜクローゼットに?」

「……思い出しました。服を探しているときに、間違えて入れたんだと思います」

「服を探すためにクローゼットを開ける、という発想自体は正しいんですけどね……」

 蓮は苦笑した。そしてパソコンを手渡した。

「充電してください。そして、今日中に発表資料を確認すること。約束してください」

 その真剣な目に、菜々美は思わず頷いた。

「わかりました」

「よかった。では、私は掃除を始めます」

 蓮はそう言うと、キッチンに向かった。

   *

 菜々美が研究室に行っている間、蓮は黙々と部屋の掃除を始めた。

 まずゴミの分別。燃えるゴミ、プラスチック、ペットボトル、紙類。床に散乱したゴミを一つ一つ拾い集めていく。ゴミ袋は七つになった。

 次に洗濯。洗濯機の使い方を確認し、山積みになった服を詰め込む。洗剤を入れ、スイッチを押す。機械が唸りを上げて動き出した。

 そしてキッチン。シンクには食器が山積みだった。カップ麺の容器、箸、スプーン、マグカップ。蓮はゴム手袋をはめ、一つ一つ丁寧に洗った。

 冷蔵庫の中身も処分した。賞味期限が二ヶ月過ぎた牛乳、正体不明の液体が入ったタッパー、青カビに覆われたチーズ。

 掃除機をかけ、床を拭く。窓を開け、空気を入れ替える。

 五時間後。

 部屋は見違えるように綺麗になっていた。

 蓮はソファに座り、缶コーヒーを飲んだ。全身が汗でびっしょりだったが、不思議と心地よかった。

 何かを成し遂げた。その実感が、久しぶりに彼の胸を満たしていた。

   *

 夜十時。菜々美が帰宅した。

 ドアを開けた瞬間、彼女は固まった。

「……ここ、私の家ですよね?」

 床は光り、空気は清々しい。テーブルの上には何もなく、ソファには綺麗に畳まれた服が置かれている。キッチンからは、何かいい匂いが漂ってきた。

「おかえりなさい」

 蓮がエプロン姿で現れた。

「夕食、作りました。まだ食べてないですよね?」

「え……ええ」

 菜々美は靴を脱ぎ、恐る恐る部屋に入った。まるで他人の家に迷い込んだような感覚だった。

 ダイニングテーブルには、温かい料理が並んでいた。

 豚の生姜焼き。味噌汁。サラダ。ご飯。

「材料は近くのスーパーで買いました。お金は後で精算しますので」

「いえ、掃除してくれただけで十分です……というか、料理まで?」

「だって、緒方さん、ちゃんと食べてないでしょう?」

 蓮は椅子を引いた。菜々美は促されるまま座った。

 箸を手に取る。生姜焼きを一口食べる。

 美味しい。

 それは、菜々美がこれまで食べてきたどのコンビニ弁当とも違う、温かくて優しい味だった。

「……美味しい」

 素直な感想が口をついて出た。

 蓮は嬉しそうに笑った。

「よかった。緒方さん、本当に料理しないんですか?」

「できません。火を使うのが怖くて」

「え? 研究者なのに?」

「研究と料理は別です」

 蓮は呆れたように首を振った。

「信じられない……でも、これからは私が作りますから。一週間だけですけど」

 その言葉に、菜々美は少し寂しさを感じた。一週間後、この部屋は再び元の惨状に戻るのだろう。そして蓮は去っていく。

 それでいい。そう思うはずだった。

 だが、温かい食事を囲んでいるこの瞬間が、妙に心地よかった。

「桐谷さん」

「蓮でいいですよ」

「では、蓮さん。あなた、本当にただの配達員なんですか?」

 蓮の箸が止まった。

「……なぜそう思うんですか?」

「掃除の仕方が系統的すぎます。そして料理も手慣れている。あなたは訓練を受けているように見えます」

 蓮は小さく笑った。

「さすが研究者。観察眼が鋭い」

「で、答えは?」

「……元々、別の仕事をしていました。でも、辞めました」

「理由は?」

「それは……まだ話したくありません」

 蓮の表情に影が差した。菜々美はそれ以上追及しなかった。誰にでも触れられたくない過去はある。それは理解できた。

 二人は黙々と食事を続けた。

 不思議な沈黙だった。居心地が悪いわけではない。むしろ、互いの存在を確認し合うような、静かな時間だった。

 食後、蓮は食器を洗い始めた。菜々美はソファに座り、ノートパソコンを開いた。

 明日の発表資料を確認する。スライドは完璧だった。だが、何かが足りない気がした。

「蓮さん」

「はい?」

「ちょっと聞いてもらえますか? 明日の発表の練習」

 蓮は驚いた顔をした。

「私でいいんですか? 専門家じゃないですよ」

「だからこそです。一般の人に理解できるかどうか、確認したいんです」

 蓮は手を拭き、ソファに座った。

 菜々美は立ち上がり、プレゼンテーションを始めた。

「ヒッグス場における対称性の自発的破れについて、新しい解釈を提案します。従来の理論では……」

 三十分後、蓮は頭を抱えていた。

「全然わかりません……」

「そうですか」

 菜々美は落胆した。

「でも」

 蓮は顔を上げた。

「緒方さんが何かすごいことを研究しているのは伝わりました。その情熱というか、目の輝きというか……きっと明日の発表も成功しますよ」

 菜々美は少し照れくさそうに笑った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。それより、もう寝た方がいいんじゃないですか? 明日は早いでしょう?」

「そうですね」

 菜々美はノートパソコンを閉じた。

「蓮さん、寝室はあちらです。布団は……」

「いえ、私はソファで寝ます」

「でも……」

「大丈夫です。これでも十分です」

 蓮は笑った。その笑顔には、どこか諦めのようなものが混じっていた。

 菜々美は何も言えず、寝室に向かった。

 ベッドに横になる。天井を見上げる。

 今日一日で、自分の生活が大きく変わった。部屋は綺麗になり、温かい食事を食べ、誰かと会話をした。

 それは、菜々美がこれまで避けてきたものだった。

 人との関わり。

 面倒で、煩わしくて、予測不可能で……

 でも。

 悪くない。

 そう思いながら、菜々美は眠りに落ちた。

 その夜、彼女は久しぶりに夢を見た。

 温かい光に包まれる夢だった。

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