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不完全な方程式 —天才は恋に溺れる—
不完全な方程式 —天才は恋に溺れる—
Author: 佐薙真琴

第一章「散乱する粒子」

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-03 06:36:20

 午前三時。国立素粒子物理学研究所の最上階、一室だけが蛍光灯の冷たい光を放っていた。

 緒方菜々美は巨大なホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーを握りしめていた。黒髪は三日間洗っていないせいで脂ぎっており、白衣には昨日のカップ麺の汁が飛び散っている。だが彼女の瞳だけは異様な輝きを放っていた。

「……見えた」

 彼女は震える手でボードに数式を走らせた。ヒッグス場における対称性の自発的破れ。その新しい解釈が、まるで霧の向こうから姿を現すように、彼女の脳内で結晶化していく。

 数学は美しい。物理法則はさらに美しい。宇宙の根源を支配する方程式の前では、人間の感情などノイズに過ぎない――そう信じて生きてきた三十二年間だった。

 携帯電話が震えた。指導教授からのメールだ。

『緒方先生、明日の学会発表の準備は? スライドの確認をお願いします』

 菜々美は時計を見た。あと五時間後には京都行きの新幹線に乗らなければならない。だが彼女の頭の中は、今発見したばかりの数式で満たされていた。発表資料? そんなものは二週間前に完成させたはずだ。どこかにあるはずだ。たぶん。

 研究室を見回す。床には論文のコピーが散乱し、デスクは未開封の郵便物で埋もれている。コーヒーカップが七つ。いつのものかわからない。

「あった……」

 ノートパソコンを発見したが、バッテリーが切れていた。充電器を探す。三十分後、彼女は諦めた。充電器は自宅にあるはずだ。

 自宅。

 菜々美は深いため息をついた。あの場所に帰ることを考えるだけで憂鬱になる。だが仕方ない。背筋を伸ばし、白衣を脱いで椅子の背もたれにかけると、彼女は研究室を後にした。

   *

 東京都文京区。築二十年のマンションの一室。玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が菜々美を出迎えた。

 生ゴミの臭い。カビの臭い。そして何か発酵しているような甘酸っぱい臭い。

「ただいま……」

 誰もいない部屋に向かって呟く。玄関には宅配便の不在票が十三枚。廊下には脱ぎ捨てた服が散乱している。リビングに足を踏み入れると、状況はさらに悪化していた。

 ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が十個以上積み重なっている。ソファには洗濯していない服の山。床には学術雑誌とペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。

 菜々美は何も感じなかった。いや、正確には、これが異常だという認識はある。だが、どこから手をつければいいのかわからない。そして何より、片付けている時間があれば、一つでも多くの論文を読みたかった。

 キッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、賞味期限切れの牛乳と、いつ買ったか思い出せないチーズが転がっていた。チーズは青カビに覆われている。

「ペニシリンだ……」

 科学者として正確な観察だった。だが夕食の選択肢としては最悪だ。

 結局、菜々美はコンビニのおにぎりを三つ買い、床に座って食べた。テレビをつける気力もなく、ただぼんやりと窓の外を眺めた。

 量子力学では、観測されるまで粒子の状態は確定しない。シュレーディンガーの猫は、箱を開けるまで生きているとも死んでいるとも言えない重ね合わせ状態にある。

 では、自分という存在は?

 誰も観測しない部屋の中で、菜々美という粒子は本当に存在しているのだろうか?

 その問いに答えが出る前に、彼女は眠りに落ちた。床の上で、おにぎりの包み紙を握りしめたまま。

   *

 翌朝。正確には午後一時。

 インターホンの執拗な音で目を覚ました。菜々美は床から這い上がり、寝ぼけた頭でドアに向かった。

「はい……?」

「宅配便です。緒方様宛のお荷物です」

 モニターには、爽やかな笑顔の青年が映っていた。年齢は二十代後半。整った顔立ち。清潔な身なり。菜々美の世界とは完全に異なる存在。

 彼女はドアを開けた。青年の笑顔が一瞬固まった。

 当然だ。菜々美は昨夜の服のまま、髪は乱れ、顔には寝癖のような跡がついている。そして背後からは、部屋の惨状が丸見えだった。

「あ……その、サインをお願いします」

 青年は努めて平静を装いながら端末を差し出した。菜々美はペンを受け取り、ぎこちない字でサインをした。

「ありがとうございました。それでは……」

 青年が去ろうとした瞬間、彼の足が段ボール箱に引っかかった。箱の中身が廊下に散乱する。

「すみません!」

 青年は慌てて拾い集めようとしたが、そこで動きが止まった。散乱した書類の一枚に目を奪われたのだ。

「これ……ヒッグス粒子の論文ですか?」

 意外な言葉だった。菜々美は眉をひそめた。

「ええ。ご存知なんですか?」

「大学で物理学を専攻していたので。といっても、ここまで高度な内容は理解できませんが」

 青年は書類を丁寧に拾い集め、箱に戻した。その手つきは妙に慣れていた。

「失礼ですが、緒方様は研究者の方ですか?」

「ええ。国立素粒子物理学研究所で」

「すごい……」

 青年の目に、純粋な尊敬の色が浮かんだ。菜々美は少し居心地が悪くなった。こういう視線には慣れていない。

「でも……」

 青年は言いかけて、口をつぐんだ。

「でも?」

「いえ、何でもありません。それでは失礼します」

 青年は頭を下げて去っていった。だがその背中から、何か言いたげな空気が漂っていた。

 菜々美はドアを閉めた。段ボール箱を開けてみる。中身は学会から届いた資料だった。そして箱の底に、一枚のメモが入っていた。

『部屋、片付けた方がいいですよ』

 誰が書いたのか、筆跡では判断できない。だが宅配業者の青年の仕業だろう。

 菜々美は小さく笑った。他人に心配される。それは新鮮な感覚だった。だが同時に、自分が他人にとって「心配される対象」だという事実が、妙に胸に引っかかった。

 彼女はメモを丸めてゴミ箱に投げた。ゴミ箱には入らず、床に転がった。それすらも拾う気力はなく、菜々美は再び床に座り込んだ。

 窓の外では、昼下がりの太陽が容赦なく輝いている。世界は動き続けている。だが菜々美の部屋だけは、時間が止まっているようだった。

 そのとき、再びインターホンが鳴った。

   *

「また何か……?」

 不機嫌な声でモニターを見ると、先ほどの青年が立っていた。今度は宅配便の制服ではなく、私服だった。

「あの、緒方様。突然すみません。桐谷蓮と申します」

「さっきの配達員の方? 何か忘れ物ですか?」

「いえ、その……お願いがあって参りました」

 菜々美は訝しげにドアを開けた。蓮は深々と頭を下げた。

「実は、住む場所を失いまして。数日でいいので、泊めていただけないでしょうか」

 沈黙。

 菜々美の脳内では、この状況を理解しようとする思考回路が空回りしていた。

「……は?」

「図々しいお願いだとは承知しています。でも、今日中に部屋を出なければならなくて。ネットカフェも満室で。知人にも連絡を取りましたが、誰も……」

「待ってください」

 菜々美は額を押さえた。情報量が多すぎる。

「なぜ私に? 警察か、あるいは福祉施設に相談すべきでは?」

「その……緒方様の部屋、広そうでしたから」

「広い? あれのどこが……」

 言いかけて、菜々美は気づいた。確かに、この部屋は3LDKだ。一人暮らしには広すぎる。だが、それを理由に見ず知らずの男性を泊めるなど……

「お断りします」

 きっぱりと言った。蓮の表情が曇る。

「そうですよね。すみません、失礼しました」

 彼は踵を返した。だがその背中は、どこか疲れ切っているように見えた。

 菜々美はドアを閉めかけた。

 だが、閉めきることができなかった。

 脳内で、奇妙な思考が始まっていた。この青年は物理学の知識がある。つまり論理的思考ができる。そして配達員として働いているということは、少なくとも社会性はある。何より、さっき部屋を見たときの彼の表情――あれは嫌悪ではなく、心配だった。

 他人を心配できる人間。

 菜々美は何かを決断するように、大きく息を吸った。

「条件があります」

 蓮が振り返った。

「部屋の掃除をしてください。それができるなら、一週間だけ泊めます」

 蓮の目が見開かれた。

「本当ですか?」

「ええ。どうせ私にはできませんから。あなたが綺麗にしてくれるなら、互いにメリットがあります」

 合理的な判断。感情は介在していない――そう自分に言い聞かせた。

 蓮は再び深く頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず恩返しします」

 こうして、菜々美の静かな日常に、桐谷蓮という変数が加わった。

 その瞬間、彼女の人生の方程式は、解を持たない不定形へと変貌し始めていた。

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