Mag-log in京都での学会発表は、大成功だった。
菜々美の新しい理論的解釈は、聴衆を魅了した。質疑応答では鋭い質問が飛び交ったが、彼女はすべてに明瞭に答えた。発表後、何人もの研究者が名刺交換を求めてきた。
新幹線の中で、菜々美は窓の外を眺めていた。京都の山々が後方に流れていく。
成功の余韻に浸るべきなのだろう。だが、彼女の心は妙に落ち着かなかった。
理由はわかっている。
家に帰れば、蓮がいる。
それが嬉しいのか、それとも煩わしいのか、自分でもよくわからなかった。
午後八時、菜々美は帰宅した。
「ただいま」
誰に向かって言っているのか、自分でも不思議だった。これまで、この言葉を発する機会などなかった。
「おかえりなさい。発表、どうでしたか?」
蓮がキッチンから顔を出した。エプロンをつけている。
「成功しました」
「よかった! じゃあ、お祝いですね」
蓮はダイニングテーブルを指差した。そこには、いつもより豪華な料理が並んでいた。
鶏の照り焼き。ポテトサラダ。茶碗蒸し。そして、小さなケーキまで。
「これ……」
「近くのケーキ屋さんで買いました。緒方さんの成功を祝って」
菜々美の胸が、不思議な感覚で満たされた。
祝福される。
それは、これまでの人生で経験したことのない感覚だった。論文が認められても、学会で評価されても、それは「業績」として承認されるだけだった。だが今、目の前にいる蓮は、彼女という「人間」を祝福している。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
二人は食卓に向かい合って座った。
「乾杯しましょう。お酒、ありますか?」
「冷蔵庫に缶ビールが……あ、でも古いかもしれません」
「確認してきます」
蓮が立ち上がり、冷蔵庫を開けた。賞味期限を確認し、頷いた。
「大丈夫ですよ。では……」
二人は缶ビールを掲げた。
「緒方さんの成功に乾杯」
「乾杯」
カチン、と缶が触れ合う音。
ビールを一口飲む。炭酸が喉を刺激する。
「美味しい……」
「緒方さん、普段お酒飲まないんですか?」
「ええ。一人で飲んでも楽しくないので」
「でも、今日は?」
「今日は……二人ですから」
蓮は優しく笑った。
食事を始める。鶏の照り焼きは絶品だった。外はパリッとして、中はジューシー。甘辛いタレが絡み、ご飯が進む。
「蓮さん、料理上手ですね。どこで習ったんですか?」
「母から教わりました。小さい頃、母が体調を崩すことが多くて。だから、私が料理を作るようになったんです」
「そうなんですか……」
「今はもう亡くなりましたけど」
蓮の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。だがすぐに笑顔を取り戻した。
「だから、誰かのために料理を作るのは好きなんです。食べてもらえると、嬉しい」
菜々美は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
この人は、誰かのために生きることを知っている。
それは、菜々美が失ってしまったものだった。
「私は……」
菜々美は口を開いた。
「私は、誰かのために何かをするということが、わからないんです」
蓮は箸を止めた。
「研究は、自分のためです。論文を書くのも、学会で発表するのも、すべて自分の知的好奇心を満たすため。誰かを助けようとか、社会に貢献しようとか、そういう高尚な動機はありません」
「それの何が悪いんですか?」
「え?」
「自分のために生きる。それは悪いことじゃないですよ」
蓮は真剣な目で言った。
「むしろ、自分のやりたいことをやれる人は幸せです。私は……」
彼は言葉を切った。
「私は、他人のために生きすぎて、自分を見失いました」
沈黙。
菜々美は蓮の横顔を見つめた。彼の目には、深い疲労が宿っていた。
「蓮さん、あなた……何があったんですか?」
蓮は深呼吸をした。そして、ゆっくりと話し始めた。
「私は、大手商社で営業をしていました。成績は良かった。上司にも認められていた。でも……」
「でも?」
「毎日、顧客の要求に応え、上司の命令に従い、同僚との競争に勝つために全力を尽くしました。朝七時に出社して、夜十一時に帰宅。休日も接待ゴルフ。気がついたら、三年が経っていました」
蓮は缶ビールを一気に飲み干した。
「そしてある日、倒れたんです。過労で。病院のベッドで目を覚ましたとき、ふと思ったんです。私は何のために生きているんだろう、って」
「……」
「答えは出ませんでした。ただ、会社に戻りたくなかった。もう、他人の期待に応えるために生きるのは嫌だった。だから、辞めました」
菜々美は何も言えなかった。
蓮の告白は、あまりにも率直で、痛々しかった。
「それで、配達員に?」
「ええ。単純な仕事です。荷物を運ぶだけ。考えなくていい。期待されなくていい。楽でした」
「でも、それで満足していたんですか?」
蓮は首を横に振った。
「いいえ。逃げていただけです。でも……」
彼は菜々美を見た。
「緒方さんの部屋を掃除して、料理を作って、感謝される。それが、久しぶりに『やりがい』を感じた瞬間でした」
菜々美の胸が高鳴った。
「だから、一週間と言わず、もう少し居させてもらえませんか? 家賃は払います。その代わり、家事は全部私がやります」
菜々美は驚いた。
「でも……」
「緒方さんにとっても悪い話じゃないと思います。部屋は綺麗になるし、食事も作ります。そして私は、居場所を得られる」
合理的な提案だった。
だが、菜々美の心は揺れていた。
蓮と暮らし続ける。
それは、自分の生活に他者を受け入れるということだ。一人の時間が減る。予測不可能な出来事が増える。
でも。
温かい食事。綺麗な部屋。そして、誰かと会話する時間。
それは、悪くない。
「……わかりました」
菜々美は頷いた。
「ただし、条件があります」
「何でしょう?」
「私の研究の邪魔をしないこと。深夜に作業をすることもあります。そのとき、静かにしていてください」
「もちろんです」
「それから、プライバシーは尊重すること。私の部屋には勝手に入らないでください」
「承知しました」
「最後に……」
菜々美は少し恥ずかしそうに言った。
「その……蓮さんが作る料理、美味しいので……できれば、これからも食べたいです」
蓮は破顔した。
「任せてください!」
二人は再び缶ビールを掲げた。
「新しい同居生活に乾杯」
「乾杯」
その夜、菜々美は不思議な高揚感に包まれていた。
人生で初めて、誰かと暮らす。
それは、新しい実験のようなものだった。結果は予測できない。だが、だからこそ面白い。
量子力学では、観測者の存在が観測対象に影響を与える。
では、蓮という観測者は、菜々美という存在をどう変えるのだろうか?
答えは、まだわからなかった。
*
翌朝、菜々美は早朝五時に目を覚ました。
いつもの習慣だ。この時間が一番頭がクリアで、研究に集中できる。
だが、リビングに行くと、意外な光景が広がっていた。
蓮が、既にキッチンに立っていた。
「おはようございます」
「おはよう……って、もう起きてたんですか?」
「ええ、私も早起きの習慣があって。朝食、作りますね」
「お願いします」
菜々美はダイニングテーブルに座った。蓮は手際よく朝食を準備していく。
トースト。目玉焼き。サラダ。コーヒー。
シンプルだが、温かい朝食だった。
「いただきます」
二人は向かい合って食事を始めた。
朝の光が窓から差し込み、部屋を優しく照らす。
不思議な光景だった。
これまで、菜々美の朝は常に一人だった。コンビニのおにぎりを頬張りながら、論文を読む。それが当たり前だった。
だが今、目の前には蓮がいる。
「今日の予定は?」
蓮が尋ねた。
「研究所で実験データの解析です。夜遅くなるかもしれません」
「わかりました。夕食は冷蔵庫に入れておきますね。レンジで温めれば食べられます」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
蓮は笑った。
その笑顔を見て、菜々美は気づいた。
この生活に、慣れ始めている。
蓮がいることが、当たり前になり始めている。
それは、危険な兆候かもしれなかった。
一週間後、蓮が出て行ったとき、この部屋は再び空虚になる。そしてその空虚さは、以前よりも大きく感じられるだろう。
でも、今は考えないことにした。
今を楽しむ。
それでいい。
菜々美はコーヒーを一口飲んだ。
苦くて、甘くて、温かい。
人生の味は、こういうものなのかもしれない。
それから一年が経った。 菜々美は研究所を辞め、大学の准教授として働き始めた。 教育と研究のバランスを取りながら、自分のペースで研究を続けている。 CERNほどの設備はない。だが、それでいい。 彼女には、もっと大切なものがあった。 * 蓮は、パティシエの学校を卒業し、小さなカフェを開いた。 店の名前は「量子カフェ」。 菜々美の提案だった。 店は繁盛していた。蓮の作るケーキは評判で、常連客も増えていった。 そして、菜々美は時々店を手伝った。 もちろん、料理はできない。だが、レジ打ちくらいはできる。 二人は、互いを支え合いながら、新しい人生を歩んでいた。 * ある日曜日の朝。 菜々美は目を覚ました。 隣には蓮が眠っている。 彼の寝顔を見つめながら、菜々美は思った。 これが幸せなのだ、と。 完璧ではない。 研究者としてのキャリアは、諦めた部分もある。 だが、それでいい。 なぜなら、彼女は愛を手に入れたから。 菜々美は静かにベッドから抜け出し、リビングに向かった。 窓を開ける。朝の空気が心地よい。 キッチンでコーヒーを淹れる。蓮が教えてくれた方法で。 ソファに座り、コーヒーを飲みながら、論文を読む。 だが、今日は研究のことは考えたくなかった。 菜々美はノートパソコンを閉じ、再び寝室に戻った。 蓮が目を覚ました。「おはよう」「おはよう」 二人は抱き合った。「今日は何か予定ある?」 蓮が尋ねた。「いいえ。何もありません」「じゃあ、一日中ごろごろしましょうか」「いいですね」 二人は笑った。 そして、ベッドの中で、ゆっくりと朝を過ごした。
出発まで、あと一週間。 菜々美と蓮の関係は、微妙なものになっていた。 二人とも、互いを愛している。 だが、その愛をどう表現すればいいのか、わからなかった。 * ある夜、蓮が言った。「緒方さん、最後にどこか行きませんか?」「どこに?」「どこでもいいです。二人で過ごせる場所」 菜々美は頷いた。 翌日、二人は鎌倉に向かった。 海を見ながら、静かに歩く。「綺麗ですね」 蓮が言った。「ええ」 菜々美は波を見つめた。 波は寄せては返す。 永遠に繰り返される運動。 だが、その一つ一つの波は、二度と同じ形にはならない。「蓮」「はい?」「私、後悔していません」 菜々美は蓮を見た。「あなたに出会えて、良かった」 蓮は微笑んだ。「私もです」 二人は抱き合った。 波の音だけが、二人を包んでいた。 * 出発の前日。 菜々美は荷造りをしていた。 蓮は黙って手伝っていた。「これ、持っていきますか?」 蓮が写真立てを差し出した。 それは、鎌倉で撮った二人の写真だった。「……ええ」 菜々美は写真立てをスーツケースに入れた。「蓮、約束してください」「何をですか?」「三年後、私が帰ってきたとき、あなたがまだ私を愛していてくれること」 蓮は菜々美の手を握った。「約束します」 その夜、二人は最後の夜を共に過ごした。 * 翌朝、空港。 蓮は菜々美を見送りに来た。 チェックインを済ませ、出国ゲートの前で、二人は向き合った。「で
翌朝、菜々美は研究所に向かい、指導教授にCERNのオファーを断ると伝えた。 教授は激怒した。「緒方君、何を考えているんだ! これは君の研究人生において、最大のチャンスだぞ!」「わかっています。でも、私には他に大切なものができました」「他に大切なもの? 研究者が研究以外に何を優先するというんだ?」 菜々美は黙っていた。 教授は深いため息をついた。「……恋人でもできたのか?」 菜々美は顔を赤らめた。 教授は頭を抱えた。「信じられない……緒方君、君は天才だ。君のような才能を持つ研究者は滅多にいない。それを恋愛で台無しにするつもりか?」「台無しになどしません。私は東京でも研究を続けます」「そういう問題じゃない! CERNには世界最高の設備と研究者が揃っている。君がそこで得られる経験は、東京では決して得られないものだ」 教授の言葉は正しかった。 菜々美もそれは理解していた。 だが……「教授、私の人生です。私が決めます」「……わかった」 教授は諦めたように言った。「だが、後悔するなよ」 菜々美は研究室を後にした。 * だが、その日の午後、さらなる衝撃が待っていた。 CERNの責任者から、直接電話がかかってきたのだ。「ミス・オガタ、あなたの決断を再考していただきたい」 流暢な英語で、男性が言った。「実は、あなたに特別なプロジェクトをお願いしたいのです。ヒッグス粒子の新しい崩壊モードの探索。これは、あなたの専門分野に完全に合致します」 菜々美の心が揺れた。 ヒッグス粒子の新しい崩壊モード。 それは、物理学者にとって夢のようなテーマだった。「それは……」
CERNのオファーから一週間。 菜々美は返事を先延ばしにしていた。 研究所の同僚たちは全員、このチャンスを逃すべきではないと言う。指導教授も、強く勧めてくれた。 だが、菜々美の心は揺れ続けていた。 * ある土曜日の午後、菜々美は珍しく研究所に行かず、家にいた。 蓮はキッチンで菓子作りの練習をしていた。 リビングには甘い香りが漂っている。 菜々美はソファに座り、論文を読んでいた。だが、文字が頭に入ってこない。「緒方さん、タルト焼けましたよ」 蓮が皿を持ってきた。 美しいフルーツタルトだった。「食べてみてください」 菜々美はフォークを手に取り、一口食べた。 サクサクの生地。なめらかなカスタードクリーム。フルーツの爽やかな酸味。「……美味しい」「本当ですか?」 蓮の顔が輝いた。「ええ、本当に。プロ級です」「ありがとうございます! 実は、パティシエの学校に通うことを考えているんです」「それは素晴らしい」 菜々美は心から祝福した。 だが同時に、胸が締め付けられた。 蓮は前に進んでいる。 一方、自分は……「緒方さん」 蓮が真剣な顔で言った。「CERNの件、もう決めましたか?」「……まだです」「なぜですか? 普通なら、即答するような素晴らしいオファーでしょう?」 菜々美は答えられなかった。 蓮は菜々美の隣に座った。「もしかして……私のことを気にしているんですか?」 菜々美の心臓が跳ねた。「そんな……」「嘘をつかないでください」 蓮の声は優しかった。「
蓮が新しい仕事を始めて一ヶ月が経った。 彼は朝八時に出勤し、夜七時頃に帰宅する。規則正しい生活だった。 だが、菜々美はある変化に気づいていた。 蓮の笑顔が、少しずつ減っていた。 * ある夜、菜々美は深夜一時に帰宅した。 リビングの電気は消えていた。蓮は既に寝ているのだろう。 菜々美は静かにキッチンに向かった。冷蔵庫を開けると、いつものように夕食が用意されていた。 レンジで温め、ダイニングテーブルに座る。 その時、寝室のドアが開いた。「緒方さん……?」 蓮が寝巻き姿で現れた。髪が乱れ、目に疲労の色が濃い。「起こしてしまいましたか? すみません」「いえ、大丈夫です。眠れなくて……」 蓮はキッチンに向かい、水を飲んだ。「蓮さん、最近疲れてますね」 菜々美は率直に言った。 蓮は苦笑した。「わかりますか?」「ええ。顔色が悪いです」「……そうですか」 蓮はダイニングテーブルの向かいに座った。「正直、仕事がきついです」「辞めればいいじゃないですか」 菜々美は即座に言った。 蓮は驚いた顔をした。「でも、せっかく見つけた仕事を……」「あなたが壊れるよりマシです」 菜々美の声には、珍しく強い感情が込められていた。「蓮さん、あなたは以前、過労で倒れたんですよね? 同じことを繰り返す必要はありません」「でも……」「あなたがいなくなったら、誰がこの部屋を掃除するんですか? 誰が料理を作るんですか?」 菜々美は自分の言葉に驚いた。 それは建前だった。本当は、もっと別の理由で蓮に倒れてほしくなかった。 だが、その
同居生活が始まって二週間が経った。 菜々美の生活は劇的に変わった。 毎朝、温かい朝食を食べる。部屋は常に清潔で、服は洗濯され、きちんと畳まれている。夕食は冷蔵庫に用意され、レンジで温めればすぐに食べられる。 そして何より――誰かが自分を待っている、という感覚。 それは、菜々美にとって新鮮で、少し恐ろしいものだった。 * ある夜、菜々美は深夜二時まで研究所で作業をしていた。 新しい論文の執筆に没頭していたのだ。気がついたら、終電を逃していた。 タクシーで帰宅する。玄関のドアを開けると、リビングの電気がついていた。「蓮さん? まだ起きてるんですか?」 ソファに座っていた蓮が顔を上げた。彼は本を読んでいたようだった。「おかえりなさい。心配していました」「心配?」「連絡がなかったので。何かあったのかと」 菜々美は罪悪感を覚えた。「すみません。夢中になっていて……」「いえ、大丈夫です。ただ、次からは連絡してください」 蓮は優しく笑った。「夜食、作りましょうか?」「いえ、結構です。もう眠いので」「わかりました。おやすみなさい」「おやすみなさい」 菜々美は寝室に向かった。 だが、ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。 蓮の言葉が頭の中でリフレインする。『心配していました』 誰かに心配される。 それは、温かくて、少し重い。 菜々美は天井を見つめた。 この感情は何だろう? 嬉しいのか? それとも、煩わしいのか? 答えは出なかった。 * 翌週、菜々美は週末に学会参加のため大阪に行くことになった。 一泊二日の予定だった。「蓮さん、土日は留守にします」 朝食の席で告げると、蓮