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第三章「観測者効果」

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-04 06:52:15

 京都での学会発表は、大成功だった。

 菜々美の新しい理論的解釈は、聴衆を魅了した。質疑応答では鋭い質問が飛び交ったが、彼女はすべてに明瞭に答えた。発表後、何人もの研究者が名刺交換を求めてきた。

 新幹線の中で、菜々美は窓の外を眺めていた。京都の山々が後方に流れていく。

 成功の余韻に浸るべきなのだろう。だが、彼女の心は妙に落ち着かなかった。

 理由はわかっている。

 家に帰れば、蓮がいる。

 それが嬉しいのか、それとも煩わしいのか、自分でもよくわからなかった。

 午後八時、菜々美は帰宅した。

「ただいま」

 誰に向かって言っているのか、自分でも不思議だった。これまで、この言葉を発する機会などなかった。

「おかえりなさい。発表、どうでしたか?」

 蓮がキッチンから顔を出した。エプロンをつけている。

「成功しました」

「よかった! じゃあ、お祝いですね」

 蓮はダイニングテーブルを指差した。そこには、いつもより豪華な料理が並んでいた。

 鶏の照り焼き。ポテトサラダ。茶碗蒸し。そして、小さなケーキまで。

「これ……」

「近くのケーキ屋さんで買いました。緒方さんの成功を祝って」

 菜々美の胸が、不思議な感覚で満たされた。

 祝福される。

 それは、これまでの人生で経験したことのない感覚だった。論文が認められても、学会で評価されても、それは「業績」として承認されるだけだった。だが今、目の前にいる蓮は、彼女という「人間」を祝福している。

「……ありがとうございます」

 声が少し震えた。

 二人は食卓に向かい合って座った。

「乾杯しましょう。お酒、ありますか?」

「冷蔵庫に缶ビールが……あ、でも古いかもしれません」

「確認してきます」

 蓮が立ち上がり、冷蔵庫を開けた。賞味期限を確認し、頷いた。

「大丈夫ですよ。では……」

 二人は缶ビールを掲げた。

「緒方さんの成功に乾杯」

「乾杯」

 カチン、と缶が触れ合う音。

 ビールを一口飲む。炭酸が喉を刺激する。

「美味しい……」

「緒方さん、普段お酒飲まないんですか?」

「ええ。一人で飲んでも楽しくないので」

「でも、今日は?」

「今日は……二人ですから」

 蓮は優しく笑った。

 食事を始める。鶏の照り焼きは絶品だった。外はパリッとして、中はジューシー。甘辛いタレが絡み、ご飯が進む。

「蓮さん、料理上手ですね。どこで習ったんですか?」

「母から教わりました。小さい頃、母が体調を崩すことが多くて。だから、私が料理を作るようになったんです」

「そうなんですか……」

「今はもう亡くなりましたけど」

 蓮の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。だがすぐに笑顔を取り戻した。

「だから、誰かのために料理を作るのは好きなんです。食べてもらえると、嬉しい」

 菜々美は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 この人は、誰かのために生きることを知っている。

 それは、菜々美が失ってしまったものだった。

「私は……」

 菜々美は口を開いた。

「私は、誰かのために何かをするということが、わからないんです」

 蓮は箸を止めた。

「研究は、自分のためです。論文を書くのも、学会で発表するのも、すべて自分の知的好奇心を満たすため。誰かを助けようとか、社会に貢献しようとか、そういう高尚な動機はありません」

「それの何が悪いんですか?」

「え?」

「自分のために生きる。それは悪いことじゃないですよ」

 蓮は真剣な目で言った。

「むしろ、自分のやりたいことをやれる人は幸せです。私は……」

 彼は言葉を切った。

「私は、他人のために生きすぎて、自分を見失いました」

 沈黙。

 菜々美は蓮の横顔を見つめた。彼の目には、深い疲労が宿っていた。

「蓮さん、あなた……何があったんですか?」

 蓮は深呼吸をした。そして、ゆっくりと話し始めた。

「私は、大手商社で営業をしていました。成績は良かった。上司にも認められていた。でも……」

「でも?」

「毎日、顧客の要求に応え、上司の命令に従い、同僚との競争に勝つために全力を尽くしました。朝七時に出社して、夜十一時に帰宅。休日も接待ゴルフ。気がついたら、三年が経っていました」

 蓮は缶ビールを一気に飲み干した。

「そしてある日、倒れたんです。過労で。病院のベッドで目を覚ましたとき、ふと思ったんです。私は何のために生きているんだろう、って」

「……」

「答えは出ませんでした。ただ、会社に戻りたくなかった。もう、他人の期待に応えるために生きるのは嫌だった。だから、辞めました」

 菜々美は何も言えなかった。

 蓮の告白は、あまりにも率直で、痛々しかった。

「それで、配達員に?」

「ええ。単純な仕事です。荷物を運ぶだけ。考えなくていい。期待されなくていい。楽でした」

「でも、それで満足していたんですか?」

 蓮は首を横に振った。

「いいえ。逃げていただけです。でも……」

 彼は菜々美を見た。

「緒方さんの部屋を掃除して、料理を作って、感謝される。それが、久しぶりに『やりがい』を感じた瞬間でした」

 菜々美の胸が高鳴った。

「だから、一週間と言わず、もう少し居させてもらえませんか? 家賃は払います。その代わり、家事は全部私がやります」

 菜々美は驚いた。

「でも……」

「緒方さんにとっても悪い話じゃないと思います。部屋は綺麗になるし、食事も作ります。そして私は、居場所を得られる」

 合理的な提案だった。

 だが、菜々美の心は揺れていた。

 蓮と暮らし続ける。

 それは、自分の生活に他者を受け入れるということだ。一人の時間が減る。予測不可能な出来事が増える。

 でも。

 温かい食事。綺麗な部屋。そして、誰かと会話する時間。

 それは、悪くない。

「……わかりました」

 菜々美は頷いた。

「ただし、条件があります」

「何でしょう?」

「私の研究の邪魔をしないこと。深夜に作業をすることもあります。そのとき、静かにしていてください」

「もちろんです」

「それから、プライバシーは尊重すること。私の部屋には勝手に入らないでください」

「承知しました」

「最後に……」

 菜々美は少し恥ずかしそうに言った。

「その……蓮さんが作る料理、美味しいので……できれば、これからも食べたいです」

 蓮は破顔した。

「任せてください!」

 二人は再び缶ビールを掲げた。

「新しい同居生活に乾杯」

「乾杯」

 その夜、菜々美は不思議な高揚感に包まれていた。

 人生で初めて、誰かと暮らす。

 それは、新しい実験のようなものだった。結果は予測できない。だが、だからこそ面白い。

 量子力学では、観測者の存在が観測対象に影響を与える。

 では、蓮という観測者は、菜々美という存在をどう変えるのだろうか?

 答えは、まだわからなかった。

   *

 翌朝、菜々美は早朝五時に目を覚ました。

 いつもの習慣だ。この時間が一番頭がクリアで、研究に集中できる。

 だが、リビングに行くと、意外な光景が広がっていた。

 蓮が、既にキッチンに立っていた。

「おはようございます」

「おはよう……って、もう起きてたんですか?」

「ええ、私も早起きの習慣があって。朝食、作りますね」

「お願いします」

 菜々美はダイニングテーブルに座った。蓮は手際よく朝食を準備していく。

 トースト。目玉焼き。サラダ。コーヒー。

 シンプルだが、温かい朝食だった。

「いただきます」

 二人は向かい合って食事を始めた。

 朝の光が窓から差し込み、部屋を優しく照らす。

 不思議な光景だった。

 これまで、菜々美の朝は常に一人だった。コンビニのおにぎりを頬張りながら、論文を読む。それが当たり前だった。

 だが今、目の前には蓮がいる。

「今日の予定は?」

 蓮が尋ねた。

「研究所で実験データの解析です。夜遅くなるかもしれません」

「わかりました。夕食は冷蔵庫に入れておきますね。レンジで温めれば食べられます」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 蓮は笑った。

 その笑顔を見て、菜々美は気づいた。

 この生活に、慣れ始めている。

 蓮がいることが、当たり前になり始めている。

 それは、危険な兆候かもしれなかった。

 一週間後、蓮が出て行ったとき、この部屋は再び空虚になる。そしてその空虚さは、以前よりも大きく感じられるだろう。

 でも、今は考えないことにした。

 今を楽しむ。

 それでいい。

 菜々美はコーヒーを一口飲んだ。

 苦くて、甘くて、温かい。

 人生の味は、こういうものなのかもしれない。

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