Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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11. 忘れてはならぬ人を、忘れさせられていく

景炎は政務室の窓の外を眺めていた。 庭に咲いた白梅が風に揺れている。それを見て、ふと胸の奥に懐かしい気配が疼いた。白梅を愛でる女がいた。 穏やかに笑い、花の香りを袖に集めるようにしていた女が。(……蘭珠)その名が脳裏をかすめた瞬間、景炎は眉を寄せた。どうして、今この名を思い出したのか。 もうあの女は追放され、楚凌の妻として東門の官舎に住んでいるはずだ。(余を裏切った女のことなど考える必要はない)そう言い聞かせるのに、胸の中にひどく小さな痛みが走った。気持ちを切り替えるため、景炎は部屋を出ることにした。扉に近づくと、近衛たちのひそめた話し声が聞こえてくる。「……東門のほうで見かけたぞ。楚凌殿と、あの……前妃様を」「本当に門番の妻になられたのか……? 静かに暮らしておられると……」「楚凌殿も災難だな。あの方を養うなど……」気配に気がついたようで、声が途中で止まる。 景炎は静かに扉を開いた。気づいた近衛たちは蒼白になり、地に額を擦りつけて平伏した。「……何を話していた」景炎の声は低く、冷たかった。「も、申し訳ございません、殿下……っ! 何でもございません!」「……ふん」景炎はそのまま二人を無視して歩き去る。 だが、耳には確かに焼きついていた。——楚凌と蘭珠が慎ましく暮らしている。城の外で。 東門の官舎で。 粗末な暮らしをしながら。(あの女が、そんな生活に耐えられるはずがない)景炎は袖の中で拳を握った。――冷遇されていたとはいえ、蘭珠は名家の娘だ。(すぐに泣いて余のもとへ戻ってくると思っていた)楚凌などでは釣り合わない。 門番の妻など……冗談にもならぬ。だから景炎は密かにこう考えていた。——もし泣きながら「宮中へ戻してほしい」と願うなら、  下働きとして置いてやってもよい。惨めな格好で許しを請う姿を見れば、少しは胸のしこりも晴れるだろうと。(それで十分だったはずなのだ……)ところが。蘭珠は戻ってこない。泣き叫ぶこともなく。 景炎に縋りつくこともなく。 必死で宮城へ駆け戻る姿もない。(なぜだ……?)景炎はふと、自分の掌を見つめた。その手には、かつて蘭珠の髪を撫でた温もりが確かに残っているような気がした。あの柔らかい髪。 震える肩。 怯えながらも景炎を信じる
last updateDernière mise à jour : 2026-01-07
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12. 楚凌の誓い

門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周蘭(しゅうらん)。 五十に手が届く頃だろうか。 働き者で、口は達者だが、言葉の端々に思いやりが滲む。「奥さま、今日は横になっていなさい。床はわたしが掃いておきますから」奥さま、と呼ばれるたび、蘭珠は小さく息を飲む。 まだ、自分がそう呼ばれることに慣れていない。その日の午後、窓の外がまだ明るいうちに、戸の音がした。「……ただいま戻りました」楚凌の声だった。今日は門番の交代がなく、早く戻れたのだという。 蘭珠が立ち上がろうとすると、楚凌はすぐに言った。「そのままでいてください。無理をなさらぬように」言葉は丁寧で、距離を保ったまま。 それでも、気遣いははっきりと伝わる。楚凌の手には、布に包まれた包みがあった。「卵が手に入りました。農家の者が、産みたてだと」周蘭が目を見開く。「まあ……それはありがたい。夕餉の粥に溶きましょう。奥さまのお身体にも良いです」包みを受け取り、周蘭は炊事場へ向かった。 すぐに火を起こす音がする。蘭珠は楚凌を見つめた。将軍だった頃の甲冑はない。 それでも、背筋の伸びた立ち姿は変わらない。 ただ、その背に背負うものが、確実に変わったのだと分かる。「お身体はいかがですか」「……少し、気分が悪いですが。横になれば、落ち着きます」「そうですか」楚凌は短く答え、それ以上は踏み込まない。蘭珠は布団に身を横たえた。 何もできない自分が、少し情けなくなる。楚凌は懐から小さな布包みを取り出した。「……こちらを」干菓子だった。淡い色合い。 宮中で口にしていたものと、よく似た香り。蘭珠は驚いて目を見開く。「楚凌様
last updateDernière mise à jour : 2026-01-09
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13. すれ違い

門番宿舎での暮らしにも、季節の移ろいがはっきりと感じられるようになった。後宮を追われたのは春先のことだったが、今はもう夏の気配が庭に満ちている。朝の湿気は重く、日が昇るにつれて土の匂いが濃くなる。庭先の草は勢いを増し、風に揺れる葉擦れの音が、静かな宿舎に夏を知らせていた。蘭珠は縁側に腰を下ろし、膝の上に白い布を広げていた。細い針に糸を通し、生まれてくる子の産着を縫っている。針仕事は久しぶりだった。宮中にいた頃は、手を動かすよりも、眺める側でいることのほうが多かった。つわりは、ほとんど治まっている。胸の奥を掻き乱していた不快感は薄れ、代わりに、腹部の重みがはっきりと主張し始めていた。——大きくなっている。布の上に置いた手が、自然と腹へ向かう。目立ち始めた膨らみを、蘭珠は悪くないと思った。生きている。この中で、確かに育っている。同時に、不安も芽を出す。どうやって、この子を育てるのか。どうやって、守るのか。針を動かす指が、わずかに止まった。「奥さま、縫い目がきれいですねえ」向かいに座る周蘭が、にこりと笑う。彼女もまた布を手にし、慣れた手つきで針を進めていた。「今まで針仕事をしてこなかったから、難しいわ……」「すぐ慣れますよ、蘭珠様。無事に生まれて、丈夫に育つように、って思いを込めながら縫えば大丈夫です」「そうね」思わず、蘭珠の口元が緩む。指先に、少しだけ力が戻った気がした。針を進めながら、蘭珠はふと口を開いた。「周蘭……お産には、どれほどの費えがかかるのでしょうか」周蘭は一瞬、手を止めた。「そうですねえ……」少し考えてから、率直に言う。「医師を呼べば銭が要りますし、産後もしばらくは薬や滋養のあるものが必要です。正直、安くはありません」蘭珠は、小さく息を吐いた。「……そう、ですか」「それに」周蘭は続ける。「お子を、将来きちんとしたお役人にしたいなら、師をつける必要があります」「師……」「読み書き、算術、礼法。家で教えられることにも限りがありますからね」蘭珠は、針を布に落としたまま、黙り込んだ。——やはり。楚凌はよく働いてくれている。門番の務めを怠らず、余計なことは言わず、淡々と日々を重ねている。それでも、将軍職を失った今、銭に余裕があるとは言えない。——私も、何かできないだろうか。「奥
last updateDernière mise à jour : 2026-01-12
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14. 芳玉

楚凌とのぎこちなさは、日を重ねても解けなかった。言葉を交わさぬわけではない。朝には挨拶をし、夜には同じ卓を囲む。それでも、互いの間には、薄い隔たりが残っている。——あの言葉は、楚凌様を傷つけたのだろうか。思い返すたび、胸の奥が小さく疼いた。だが、今は立ち止まってはいられない。この子のために、前へ進まなければならない。その日、蘭珠は周蘭と連れ立って門番宿舎を出た。紙問屋へ向かうためだ。夏の陽射しは強く、石畳が白く照り返している。道沿いの木々は葉を広げ、蝉の声が遠くで重なっていた。蘭珠は歩きながら、腹にそっと手を添えた。——王宮を不名誉に去ったこの身で、人前に立つことになるとは。仕事として請け負う以上、相手に迷惑をかけるわけにはいかない。それが、どのような家であれ。「周蘭……」「はい、奥さま」「私が教えに行くことで、先方の評判を落とすことにはなりませんか」周蘭は一瞬きょとんとしたあと、あっさり首を振った。「今さらですよ」「……今さら、とは?」「奥さま。都では、もう別の噂のほうが大きいのです」歩調を少し落とし、周蘭は声を低めた。「雪瓔様が宮に入られて、しばらく経ちますでしょう。最初は、国を勝利に導いた方だと、皆ありがたがっていました」「ええ……」「けれど、最近は」周蘭は小さく息をつく。「浪費が過ぎる、と」蘭珠の足が、わずかに止まった。「浪費……?」「はい。雪瓔様のために、皇太子殿下が別邸を建てられたそうで」周蘭は周囲を気にしながら続ける。「その場所が、もともと王都の民が季節ごとに花見を楽しんでいた場所でしてね。今は立ち入りもできず、不満が出ています」胸の奥が、ざわりと波立つ。——景炎様が、そのようなことを……?民の声を軽んじる方ではなかった。少なくとも、蘭珠が知る限りは。「殿下を恨む声も、少しずつ増えております」その言葉が、静かに重く落ちる。蘭珠は、腹に手を当てた。——雪瓔に、操られているのだろうか。そう考えてしまう自分に、苦笑が浮かぶ。この子の父は、景炎だ。もし彼が圧政を敷き、国が傾くようなことになれば。その影は、いずれこの子にも及ぶ。恨んでいる。それでも、無事でいてほしいと祈ってしまう。その矛盾を抱えたまま、蘭珠は前を向いた。通りには活気があった。商人の呼び声、行き交
last updateDernière mise à jour : 2026-01-14
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15. 琴の音と、指先の本音

帳の内には、蘭珠と芳玉が向かい合って立っていた。部屋の中央には、まだ誰の手にも触れられていない琴が一面、静かに置かれている。その周囲には、紙問屋の主人夫妻と、周蘭の姿があった。皆、どこか落ち着かない様子で、二人の間に視線を行き来させている。「……」蘭珠は、ひとつ息を整えたあと、ゆっくりと視線を上げた。「少しの間、芳玉様と二人でお話ししてもよろしいでしょうか」静かな声だった。だが、拒む余地のない調子でもあった。紙問屋の主人が、戸惑いがちに口を開く。「しかし……先生、お腹も大きいのに――」「ご心配、ありがとうございます」蘭珠は柔らかく微笑んだ。「けれど、琴の稽古は、まず本人の気持ちを知ることから始めたいのです」その言葉に、芳玉の肩がわずかに揺れた。主人夫妻は顔を見合わせ、やがて小さく頷く。「……わかりました。では、私たちは外で」周蘭も一礼し、名残惜しそうに蘭珠を見てから、主人夫妻とともに帳の外へ下がった。帳が引かれる。布越しに、人の気配が遠ざかっていく。しん、と静けさが落ちた。残されたのは、蘭珠と芳玉。そして、二人の間に置かれた、一面の琴。蘭珠はそこで初めて、琴の前へと進み、腰を下ろした。「……こちらへ」そう言って、芳玉にも視線で促す。芳玉は一瞬ためらったが、やがて同じように腰を下ろした。帳の内で、ようやく二人は並んで座る。静かだった。紙の香りがほのかに漂い、奥の中庭からは、遠く水を打つ音が聞こえてくる。「……琴」芳玉が、ちらりと視線をやった。「弾いてもよろしいですか」「かまわないわよ」蘭珠は、小さく頷いた。琴に触れるのは、久しぶりだった。実家では、弾くことを快く思われなかった。姉の陰に隠れるように育ち、音を立てることさえ遠慮していた。けれど後宮では違った。景炎が、蘭珠の奏でる音を好んだ。夜更け、灯の落ちた部屋で、「もう一曲」と静かに求められるたび、蘭珠は指を動かした。——けれど、追放されてからは。琴は、遠い存在になっていた。「……少し、お耳汚しになるかもしれません」そう断って、蘭珠は琴の前に座る。背を伸ばし、そっと息を整えた。指先が、弦に触れる。ひやりとした感触。けれど、音を探る必要はなかった。一音。澄んだ音が、部屋に落ちる。二音、三音。指は、覚えていた。考えるよ
last updateDernière mise à jour : 2026-01-16
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16. 箱の中の物語

「……あなたって、変わり者ね」芳玉は、くすりと笑った。帳の内、二人きりの静けさの中で、その声はよく響いた。「元皇太子妃と聞けば、もっと傲慢で、近寄りがたい人を想像していたわ。でも……」視線が、まっすぐ蘭珠に向けられる。「気に入った」思いがけない言葉だった。蘭珠は一瞬、どう返すべきか迷い、けれど結局、小さく微笑むことしかできなかった。「……ありがとうございます」芳玉は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、くるりと踵を返し、部屋の棚へ向かった。几帳の奥、壁際に据えられた低い棚。その一角から、芳玉はひとつの箱を取り出した。漆塗りの黒。 蓋には細やかな螺鈿細工が施され、光の角度で淡く色を変える。「これ」箱を抱える仕草が、少しだけ慎重だった。芳玉は蓋を開ける。中には、きれいに揃えられた紙の束があった。「……これは?」蘭珠は、差し出された紙を受け取りながら尋ねる。芳玉は、少しだけ顎を上げた。「私が書いたの」「……え?」思わず声が漏れる。紙に視線を落とす。端正な文字。 流れるような筆致で、物語が綴られていた。この国に古くから伝わる悲恋譚。 だが、ただの写しではない。情景が息づき、登場人物の心が、行間から立ち上がってくる。蘭珠は、夢中になった。頁をめくるたび、時間の感覚が薄れていく。——どれほど経っただろう。最後の一行を読み終えたとき、蘭珠はゆっくりと息を吐いた。そして、顔を上げる。「……素晴らしい才能ですわ、芳玉様」その言葉に、芳玉の頬がさっと赤らんだ。「そ、そんな……」目を逸らし、口を尖らせる。照れているのだと、すぐに分かった。(……可愛らしい)蘭珠は、そう思ってから、はっとする。芳玉は、ぽつりぽつりと語り始めた。「昔から、書いてたの。紙問屋の娘でしょ。紙だけは、いくらでもあったから」幼い頃は、両親も喜んで読んでくれたこと。 だが年を重ねるにつれ、言われるようになったこと。「物語を書くのは、男の仕事だ」「女が夢を見るものじゃない」「そんなことをしても、身を滅ぼすだけだ」「……だから、隠して書いてきた」現実と、理想。その間で、芳玉は長く揺れてきたのだ。蘭珠は、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。(……似ている)立場は違えど、「選ばされる人生」の苦しさは、よく分かる。「それに……」
last updateDernière mise à jour : 2026-01-19
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17. 遠くを見る恋

「……そんなに、親しかったわけではないの」芳玉は、膝の上で指を組みながら、ぽつりと語った。帳の内、先ほどまで物語の紙が広げられていた卓は片づけられ、琴だけが二人の間に残っている。外の気配は消え、部屋は再び静けさを取り戻していた。「幼い頃はね、よく一緒に遊んだわ。紙の山に潜り込んで、物語を読んだり、書いたりして」懐かしむように、けれどどこか慎重に言葉を選ぶ。「でも、大きくなってからは……それほどでもない」蘭珠は、何も言わずに聞いていた。「沈文景が、親と喧嘩して勘当されてからは、なおさらよ」その名を口にした瞬間、芳玉の声がわずかに柔らぐ。「書肆の三男。家業を継ぐ気はないって言って……結局、家を追い出された」「……今は、東門の門番なのですね」「ええ」芳玉は小さく頷いた。「話す機会なんて、ほとんどないわ。ただ……」一瞬、言葉に詰まる。「ただ、姿を見たくて。時々、門の近くの茶屋に行くの」蘭珠の胸が、静かに鳴った。「遠くから、見るだけよ。声をかける勇気なんて、ないもの」自嘲気味に笑うが、その目は真剣だった。「門番の仕事をしている姿を見ていると……ちゃんと生きてるって、分かるの」蘭珠は、ゆっくりと息を吸った。(……一途)飾り気も、計算もない。ただ、相手の人生を尊重する距離感。「芳玉様のお気持ちは、よく分かりました」そう前置きして、続ける。「ですが……その想いが、両思いかどうかは、まだ分かりませんね」芳玉は、少しだけ唇を噛んだ。「……そうね」「そこで、一つ、提案があります」芳玉が顔を上げる。「私の夫——楚凌に、探りを入れてもらいましょう」「え?」「沈文景様に、想う人がいるのか。これから、どう生きていくつもりなのか」蘭珠の声は、落ち着いていた。「芳玉様のお話だけでは、判断できません。相手を知ることは、大切です」芳玉は、しばらく黙って考え込んだ。(……夫を通じて、間接的に)それは、決して無作法ではない。むしろ、この身分差のある世界では、最も穏当な方法だ。「……わかったわ」やがて、頷く。「蘭珠、お願いする」その呼び方に、蘭珠はわずかに目を瞬いたが、何も言わなかった。「承知しました」二人の間に、静かな合意が生まれる。「それと……」芳玉が、ふと思いついたように言った。「どうせ通ってもらうなら、
last updateDernière mise à jour : 2026-01-21
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18. 門の内と、家の灯

東門の詰所は、今日も変わりなく人の流れを受け止めていた。行商人の荷車、都へ戻る役人、暮れ前に急ぐ民。 楚凌は門扉の脇に立ち、いつもと同じように目を配っていたが、心はどこか上の空だった。「……浮かない顔だな」隣から声がかかる。沈文景だった。 同じ門番として組むことの多い男だ。「そうか?」楚凌は短く返す。「ええ。溜め息、出てましたよ」言われて、ようやく気づいた。 無意識に息を吐いていたらしい。——情けない。楚凌は唇を引き結ぶ。頭に浮かぶのは、家にいる蘭珠の姿だった。妊娠している身でありながら、働きに出ている。 それは、門番の俸給だけでは暮らしが心許ないからだ。自分が、もっと稼げていれば。 もっと、力があれば。知らず、拳を握っていた。「新婚だってのに、そんな顔して。 まあ……元皇太子妃を嫁にしたら、気も休まらないか」沈文景が、半ば冗談めかして言う。「悪女だなんだって、噂も多いしな」その言葉に、楚凌はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと、沈文景を見る。「……違う」低い声だった。沈文景が、わずかに眉を上げる。「蘭珠は、悪女じゃない」言い切る。「心優しく、思慮深い人だ。 噂で語られているような女じゃない」沈文景は、しばし黙ったあと、肩をすくめた。「へえ……じゃあ、 あなたと密通して追放された、って話も?」「誤解だ」楚凌は即座に否定した。「俺と蘭珠は、そんな関係じゃない」「……男女の仲じゃ、ない?」沈文景の声が、少しだけ低くなる。楚凌は、答えに詰まった。唇を合わせたこともない。 手を握ったことすら、ほとんどない。けれど——「……男女の仲じゃないが」言葉を選ぶ。「大切な人だ」零れた声は、自分でも驚くほど静かで、確かなものだった。沈文景は、不意に姿勢を正した。「悪かった」短く、素直な謝罪だった。「大切な人を貶すようなことを言った」「謝らなかったら……殴っていた」楚凌がぼそりと言う。沈文景は苦笑した。「本気で惚れてるんだな」そう言ってから、門の外へ視線を向ける。「……俺にも、大切な人はいる」楚凌は、何も言わず続きを待った。「でも、身分が違いすぎる」軽く笑ってみせるが、 その奥にある諦めは、楚凌にもはっきりと伝わった。「……」「大切な人を嫁にで
last updateDernière mise à jour : 2026-01-26
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19. すれ違いと、温もりの行方

夕餉を終えると、家の中は静まり返った。卓の上には、まだ湯気の残る椀が二つ並び、窓の外では夜の気配がゆっくりと濃くなっていく。楚凌は、黙ったままだった。箸を置いてからも視線を落とし、考え込むように動かない。 蘭珠は湯呑みを片づけながら、何度かその横顔を盗み見た。(……何か、変)いつもより、空気が硬い。少し迷ってから、蘭珠は意を決して口を開いた。「楚凌様」名を呼ぶと、楚凌は一拍遅れて顔を上げた。「はい」穏やかな声だが、どこか身構えているようにも聞こえる。「お願いが……あるのです」その言葉に、楚凌の肩がわずかに強張った。「……お願い、とは」蘭珠は一度言葉を切り、指先を重ねた。「その……最近、門番の方のお話を、よく耳にするようになりまして」曖昧な言い方だった。楚凌の視線が、ふっと揺れる。「……門番の、話?」「はい。詰所のことや、その……人となり、など」言いながら、蘭珠は自分でも言葉が足りていないことを自覚していた。 けれど、どう切り出せばよいのかわからない。一瞬の沈黙のあと、蘭珠はようやく名を口にした。「沈文景様のことなのですが……」その瞬間だった。楚凌の表情が、はっきりと曇った。 視線が、すっと外れる。「……沈、ですか?」低く抑えた声。 問いかけの形をしていながら、すでに答えを決めつけている響きがあった。蘭珠は、その変化に気づかぬまま言葉を継ぐ。「少し……探っていただけないかと思いまして」沈黙。楚凌はしばらく何も言わず、やがて、ゆっくりと息を吐いた。「……そう、ですか」その声には、諦めに似た響きがあった。蘭珠の胸が、ちくりと痛む。「楚凌様……?」楚凌は視線を伏せたまま、淡々と続ける。「門番で、身分も低い。ですが……誠実な男です」言葉を選んでいるのが、はっきりと分かる。「……蘭珠様が、気にかけるのも、無理はありません」その一言で、蘭珠はすべてを理解した。(……勘違い、していらっしゃる)「違います!」思わず声が強くなり、蘭珠ははっとして腹に手を当て、呼吸を整えた。「違います、楚凌様。そうではありません」楚凌が、はっとしたように顔を上げる。「……では」蘭珠は、今度こそ誤解を解かなければと、ゆっくりと言葉を紡いだ。「沈文景様を想っているのは……芳玉様です」楚凌の目が、わずかに
last updateDernière mise à jour : 2026-02-02
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20. 詰所の休み時間

東門の詰所は、昼の人の流れが引いたあと、ひととき穏やかな空気に包まれていた。門の内側に設けられた簡素な詰所。壁際の長椅子に腰を下ろし、門番たちは交代で休憩を取っている。楚凌と沈は並んで腰掛け、他愛のない雑談をしていた。その入口に、小さな包みを抱えた蘭珠が姿を見せた。「……失礼いたします」その声に、楚凌がすぐ顔を上げる。「蘭珠様? どうしてここへ……」驚きに目を見張りつつも、すぐに立ち上がる。蘭珠は一歩中へ進み、沈に向かって穏やかに微笑んだ。「いつも夫がお世話になっておりますので」そう言って、包みを差し出す。「ささやかですが、お茶菓子をお持ちしました」沈文景は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。「……え、元皇太子妃の——」「沈」楚凌が低く名前を呼ぶ。沈ははっとして頭を掻いた。「あ、悪い。つい……」立ち上がり、軽く姿勢を正す。「沈文景です」「蘭珠と申します。いつも夫が、お世話になっております」丁寧に一礼すると、沈は慌てて手を振った。「いやいや、こちらこそ」包みを開けると、甘い香りがふわりと広がる。「お……団子だ」「休憩中でよかったな」楚凌が言うと、沈は小さく笑った。「運がいい」三人は詰所の端に腰を下ろした。楚凌は蘭珠を席に案内する。門の外からは遠く人の話し声が聞こえるが、詰所の中は穏やかだった。沈が団子を一つ口に運び、ぽつりとこぼす。「……うまい」「それはよかったです」蘭珠が微笑む。「久しぶりの甘味です」沈は団子を手にしたまま、少し考えるように視線を落とした。「……自分の店を持ちたくて、金を貯めてるんです」楚凌が沈を見る。「だから、無駄遣いはできない」沈は肩をすくめた。「菓子は好きなんですけどね。つらいところです」蘭珠はくすりと笑った。「もしかして……本屋、ですか?」沈が顔を上げる。蘭珠は言葉を継ぐ。「夫から、本のお話をよくなさると聞いておりましたので」沈は一瞬動きを止め、それから照れたように笑った。「……ええ。昔から本が好きで」「沈は、字を見込まれて門番になったんだ」楚凌が自然に言葉を添える。「通行証や荷の書付を確認する役が必要でな」「字が読めるだけで、重宝される」沈は苦笑した。「本当は、最初から門番になるつもりじゃなかったんです」声が少し落ち着いたもの
last updateDernière mise à jour : 2026-02-09
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