All Chapters of 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています: Chapter 21 - Chapter 30

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21. 言葉が先に、心を追い越す

日を改めて、蘭珠は芳玉を訪ねた。紙問屋の裏手、帳場の奥にある小さな部屋は、相変わらず紙の匂いが濃い。机の上には書きかけの原稿が積まれ、墨の乾ききらない紙が端に置かれていた。「……え? 私が?」話を聞いた芳玉は、勢いよく顔を上げた。「ちょ、ちょっと待ってください。沈が? 私の本を読む?」言葉が追いつかず、両手をばたばたと動かす。「い、いや、あの……確かに私は書いてますけど!でもそれ、遊び半分というか、勝手に書いてるだけで……」「遊び半分で、あれほどの分量は書けませんよ」蘭珠は穏やかに言った。芳玉は一瞬口をつぐみ、ぷいと横を向く。「……だって、誰かに読ませるなんて思ってなかったし」「沈様は、本を愛する方です」その一言に、芳玉の肩がぴくりと揺れた。「……沈が、そんなこと言ってました?」「ええ。物語を、とても大切にしておられました」芳玉は、しばらく黙り込む。それから、机の端に置かれた原稿の束をちらりと見た。「……読むだけ、なんですよね?」「はい。今回は“女性作家を紹介する”という名目です」「……それなら」芳玉は勢いよく立ち上がった。「読んでくれるなら、いいです!面白くないって言われたら、理由をちゃんと聞きます!」蘭珠は思わず微笑んだ。芳玉は原稿を丁寧に撫でた。「……沈に会える」---約束の日。蘭珠は周蘭を伴い、芳玉と連れ立って東門近くの茶屋へ向かった。「緊張してる?」「してません!」即答だが、歩幅がやけに速い。「……でも」芳玉はふいに足を止め、前方を見た。茶屋の軒先に、見慣れた背中がある。沈文景だった。落ち着かない様子で門の方を見やり、また茶屋を振り返る。「あ……」芳玉の声が、思わず漏れる。同時に、沈もこちらに気づいた。一瞬、目が合う。沈の目が大きく見開かれた。「……芳玉?」「……っ」芳玉は反射的に原稿の包みを抱きしめた。蘭珠は、そっと背中を押す。「参りましょう」---茶屋に入り、席に着いても、沈はまだ半信半疑の顔だった。「……話って、芳玉のこと?」「はい」蘭珠は静かに頷く。「こちらが、先日お話しした“物語を書く方”です」「……まさか」沈の視線が、芳玉へ向く。芳玉は顔を上げ、少しだけ胸を張った。「……久しぶり。沈」沈は言葉を失い、それから小さく笑った。「……
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22. 東門に駆ける影

沈と芳玉が、原稿を挟んで言葉を交わし始めてから、 茶屋の空気は、目に見えて熱を帯びていた。沈は原稿の一節を指でなぞり、芳玉のほうを見る。「ここだ。この場面、気持ちが一気に動く。だから、その前の説明は少し抑えたほうがいい」芳玉は眉を寄せる。「抑えるって……削るってこと?」「削るというより、置き換える。説明で言う代わりに、登場人物の一言で見せるんだ」沈は原稿を少し手前に引き寄せた。「ほら、ここ。“不安だった”って書いてるだろ。これを、行動に変える。手が震えるとか、視線を逸らすとか」芳玉は思わず原稿を奪うように覗き込む。「……ほんとだ。言われてみると、そのほうが生きてる」そして、口を滑らせた。「……文景、やるじゃん」言った瞬間、芳玉ははっとして口を噤む。 だが沈は一瞬目を丸くしたあと、声を立てて笑った。「久しぶりだな、その呼び方」「……昔から、そう呼んでたでしょ。今さら変えるほうが変だし」そっぽを向く芳玉の耳が、赤い。蘭珠は茶碗を包む指先に、そっと力を入れた。(……ここまででいい)芽吹いたばかりの恋に、これ以上の手出しは野暮だ。 周蘭も同じ判断に至ったのか、静かに一歩下がる。蘭珠は席を立った。「沈様、芳玉様。お話の邪魔をしてしまいますから、私たちはこれで」沈が顔を上げる。「え、もう?」芳玉も反射で口を開きかけ、慌てて引っ込めた。「……あ、うん。そうだよね」沈は素直に頭を下げる。「紹介してくれてありがとう。……本当に」「こちらこそ」蘭珠は微笑み、一礼した。茶屋を出ると、周蘭が包みを差し出す。「詰所へ行くなら、と思って。饅頭です」「ありがとう。気が利くわね」周蘭は何も言わず、蘭珠の歩調に合わせて歩く。 腹はもう、衣の上からでもはっきり分かるほど丸い。ひょこ、ひょこ、と。 自分では平気なつもりでも、歩みは遅い。東門が見えてきたとき、詰所の前に立つ楚凌と目が合った。楚凌は、すでにこちらに気づいていた。(……やはり)今日、芳玉と沈が会うことは、事前に話してある。 だからこそ、詰所から目を離さずにいたのだろう。楚凌は歩み寄ってきた。「……終わったのか」「ええ。とても、良い雰囲気でした」楚凌の視線が、無意識に蘭珠の腹へ落ちる。「……無理はしていないか」「大丈夫です。周蘭もいます」それで
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23. 宮門の内と外

楚凌は、男の顔を見つめ問いかけた。「名は?」「韓守義(かん・しゅぎ)と申します」楚凌は短く頷いた。「……楚凌だ」名を告げながら、胸の奥に小さな違和感が残る。“楚将軍”と呼ばれることに、もう慣れていない自分がいる。韓守義は息を整える暇もなく、低い声で切り出した。「お願いがあります。このまま、私と共に宮へ来ていただけませんか」楚凌の眉が、わずかに寄る。「……俺は門番だ」言い訳ではない。それが、今の立場だった。将軍でも、功臣でもない。東門を守る、ただの男。「承知しています」韓は即答した。「ですが、今回の謀反――中心にいるのは、陸曜(りく・よう)将軍です」その名に、楚凌の目が細まる。「……陸曜か」かつて同じ戦場に立ち、互いの策を読み合い、先を奪い合った男。敵ではない。むしろ、誰よりも信頼できる“もう一つの刃”。「陸曜は、景衡王爺の側近として北方へ派遣されていました」韓は続ける。「雪瓔が殿下の側に入り、あなたが突然門番へ落とされたことに、強い憤りを抱いていたと聞いています。その不満に、蒼隼国が付け込んだのでしょう」楚凌は歯を食いしばった。「……あいつは、理の通らぬことを嫌う男だ。だが、謀反にまで踏み切るとは」陸曜は冷静で、現実を見据える将だ。戦は感情で動くものではないと、誰よりも理解している。「陸曜が指揮を執るなら、城は正面からは落ちません」楚凌は静かに言った。「必ず補給線を断ち、内応を使う。時間をかけて、瑞華を疲弊させるはずだ」韓守義の目が、大きく見開かれる。「……その読みを、殿下に進言いただけませんか?」「俺は、景炎様の信頼を失っている」「それでも――国の命運が掛かっています!」一拍の沈黙。楚凌の脳裏に浮かんだのは、詰所の窓辺に立つ蘭珠の姿だった。丸くなった腹。不安を押し隠す瞳。――国の一大事だ。「……わかった」楚凌は頷いた。「役に立つなら、行く」だが、すぐに続ける。「ただし、馬はない」韓は一瞬言葉を失い、すぐに察した。「……では、私が先に参ります」「構わん」楚凌は短く言った。「追いつく」韓守義が馬に飛び乗り、都の中心へと駆けていく。楚凌は、走り出した。---息が、重い。足が、以前のように前へ出ない。将軍だった頃は、肉も酒も欠かさず、身体は常に戦に備えていた
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24. 呪いの行方

「あなたの居場所は、もうここにはありません」雪瓔の言葉は、刃のように鋭かった。楚凌は、何も言い返せなかった。否定できない事実が、その言葉の裏に横たわっていたからだ。宮に来た。国の危機を前に、役に立てると思った。かつて預かった戦場の記憶も、陸曜の癖も、敵の出方も――すべて、まだ頭に残っている。だが、宮門は閉ざされた。門番という身分。それだけで、声を届ける資格すら与えられなかった。拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。(……何も、できなかった)歯を噛み締めると、奥歯が軋んだ。悔しさが、怒りが、胸の奥で重く澱んでいく。それでも――。楚凌は、ゆっくりと顔を上げ、雪瓔を見据えた。逃げるつもりはなかった。この女と向き合える機会を、ここで手放すわけにはいかなかった。「あなたが手引きして、瑞華国にもたらした土地が、再び蒼隼国へ戻った」声は静かだった。だが、一言一言に、確かな棘がある。「しかも今度は、瑞華国の軍備に通じた将軍が寝返った。……残念なことですね」嫌味とも、皮肉とも取れる言葉。雪瓔は、一瞬だけ楚凌を見つめ、それから、ふっと鼻で笑った。「残念?」唇が、わずかに弧を描く。その笑みには、勝ち誇った色も、焦りもなかった。「……願ってもないことだわ」その呟きはあまりにも低く、風に溶けるように消えた。楚凌の耳には届かなかったが、胸の奥に、嫌な予感だけが残った。雪瓔は視線をずらし、唐突に話題を変える。「蘭珠さんは、お元気?」その名を聞いた瞬間、楚凌の背筋に冷たいものが走った。「子が生まれるのは……冬のさなかになりそうね」淡々とした口調。まるで、季節の移ろいを語るように。「寒い冬のお産は、親も子も危険になるわ。体力も、気力も奪われる。……無事に済むかしら?」楚凌の中で、何かが切れた。「……蘭珠と、俺の子に何かしたら」声は低く、震えてはいなかった。だが、抑えきれない怒りが、その奥に潜んでいる。「俺は、あなたを許さない」剣を抜くよりも、重い言葉だった。雪瓔は一瞬、目を瞬かせた。それから、楽しそうに唇を歪める。「俺の子、ですか」その声には、嘲りと、どこか愉悦が混じっている。「よい覚悟ですこと。……ええ、とても」そして、ぽつりと落とすように言った。「でも――呪われた子だわ」楚凌の心臓
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25. 揺れる夏

楚凌が宮へ向かったあと、蘭珠は周蘭とともに、東門の詰所で待っていた。昼を過ぎ、陽は高く、夏の空気は重たく淀んでいる。門の外から吹き込む風も、生ぬるいだけだった。(……遅い)そう思ったのは、もう何度目だろう。詰所の長椅子に腰を下ろし、背を伸ばしても、胸の奥のざわめきは消えない。(……楚凌はいつ帰るの?)「蘭珠様、大丈夫ですか」周蘭が、そっと声をかけてくる。その瞬間、ふわりと視界が揺れた。立ち上がろうとしたわけでもないのに、足元が頼りなくなる。「……少し、目眩が」額に汗が滲んでいるのに気づき、蘭珠は思わず手で押さえた。「今日は暑すぎます。ここは風通しも悪いですし……一度、戻りましょう」周蘭の言葉は穏やかだったが、譲る気はなさそうだった。蘭珠は小さく頷いた。「ええ……そうします」詰所を出ると、外の光がやけに眩しく感じられた。腹をかばうように歩くたび、衣の内で重みが主張する。周蘭は、屋敷まで付き添い、冷たい水を用意してくれた。「私は用事を済ませてから戻ります。何かあれば、すぐに人を呼んでください」「ありがとう、周蘭」戸が閉まる音がして、屋敷は、しんと静まり返った。――ひとりだ。それを意識した途端、胸の奥に、不安がじわりと広がる。(瑞華国が奪った土地が……最悪の形で、蒼隼国に戻った)楚凌と使者の会話を思い出す。皇太子の弟が裏切った。国そのものを揺るがす火種になりかねない。もし、ここから動乱が広がったら――。(私は、その中で……この子を産むことになる)蘭珠は、思わず腹に手を当てた。そのとき、――小さく、確かな動きがあった。「……っ」わずかな胎動。初めて、はっきりと感じる命の存在。嬉しさより先に、動揺が込み上げる。(こんな時に……)守れるだろうか。この子を。楚凌を。自分自身を。胸が詰まり、呼吸が浅くなる。そのときだった。玄関の方で、物音がした。――戸が開く音。「……楚凌様?」反射的に声が出る。次の瞬間、土埃をまとった楚凌が、そこに立っていた。顔は張り詰め、目の奥に疲労と、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。蘭珠は、不安に駆られ、駆け寄ろうとして――足を止めた。「楚凌様……どのような、状況ですか?」問いかける声が、わずかに震える。楚凌は一瞬、言葉を探すように視線を伏せ、それ
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27. 揺らぐ皇太子

景炎は執務室の奥で、無言のまま使者の言葉を聞いていた。重厚な机の前には、韓守義と数名の重臣が控えている。窓は閉め切られ、夏の熱気が室内にこもっていた。「……もう一度言え」低い声だった。韓守義は一礼し、繰り返す。「蒼隼国との先の戦で奪取した北方の地、その中心都市――鴻州(こうしゅう)。その統治を任されていた景衡王爺(けいこうおうや)が、蒼隼国に通じました」景炎は眉ひとつ動かさなかった。「誤報ではないのか」問いというより、拒絶だった。景衡は臆病な男だ。幼い頃から兄に逆らったことは一度もない。流行病が国を襲い、多くの皇子が失われた中で、生き残ったのは自分と弟だけだった。有能ではないが、命令には従う。そう信じていたからこそ、重要な土地を任せたというのに――。「……王爺ご本人の書状、城門を開いたとの証言、いずれも複数ございます」沈黙が落ちた。景炎の指が、机の縁を強く掴む。「補佐の将軍はどうした」「陸曜(りくよう)将軍も裏切りました」その名が出た瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。忠実。冷静。戦を知り尽くした男。「陸曜が……なぜ」重臣の一人が、慎重に言葉を選ぶ。「陸曜将軍は、双頭の龍と称された楚凌将軍が突然門番に落とされたことに、強い不満を抱いていたと聞いております」景炎の胸に、熱が走った。蘭珠と楚凌――その処遇が、こんな形で返ってきた。怒りが、さらに募る。別の重臣が続ける。「自身も、いつ切られるかわからぬと恐れ、そこを蒼隼国に付け込まれたのではないかと」「……裏切り者が、二人も出たというのか」景炎は机を叩いた。乾いた音が、室内に響く。「捕えよ」立ち上がり、命じる。「景衡と陸曜、その親族をすべて拘束しろ」重臣たちが息を呑んだ。「跡継ぎの男子は――処刑せよ」一瞬、誰も動けなかった。「殿下……」「命令だ」声に、怒気が滲む。「裏切りは、根から断つ」そのときだった。「――甘いですわ」音もなく、扉が開いた。雪瓔が立っていた。白い衣。影のような気配。「今は取り込み中だ」景炎は冷たく言う。「下がれ」だが、雪瓔は一歩も引かなかった。「その処罰では、足りません」静かな声だった。「裏切り者は血を残します。血は、恨みを育てます」景炎の喉が鳴る。「……何が言いたい」雪瓔は、ゆっくりと
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28. 客人

反乱の知らせが都を揺らしてから、数日が過ぎていた。それでも都は、見た目だけなら変わらない。城門は開き、市は立ち、屋敷の門もまた、日常の顔をしている。ただ――何かが、じわじわと腐り始めている。蘭珠は、そう感じていた。空気が重い。人の声が低い。視線だけが尖っている。そして何より、暮らしが、じりじりと逼迫していった。「……昨日より、米がまた上がってました」周蘭が小さく溜息をついた。蘭珠の屋敷の台所。涼しいはずの朝だというのに、火を使うだけで熱がまとわりつく。周蘭は帳面を開き、購入した食材の額を指で辿っていた。眉間に刻まれる皺は、彼女が冗談ではごまかせないほど追い詰められている証だった。「卵も油も倍……とまではいきませんけど、確実に上がってます」「反乱が起きたから……?」蘭珠が問うと、周蘭は頷く。「噂が広がると商人は出し惜しみします。物を抱えます。そうすると値が上がる。都はそれで回ってますから」周蘭の言葉はいつも現実的だった。慈悲を語るより先に、計算と仕組みで世界を見ている。だからこそ蘭珠は、彼女を信頼していた。「周蘭、あなたの賃金……」「その話はダメです」周蘭は即答し、乾いた笑みを浮かべる。「奥様のお腹が大きくなってきたのに、そんな時に私の給金の話をされるほうが困ります」「でも……値上がりしているのに」「大丈夫です」周蘭は笑った。それは作り笑いではなく、いつもの調子だった。「都の女は強いんです。卵が高ければ粥にすればいいし、肉が高ければ豆で補う。そういうものです」その言葉に、蘭珠は胸の奥が苦しくなる。周蘭はたくましい。けれど、そのたくましさは、誰かに守られているからではない。守られることを期待できない暮らしが、そうさせただけだ。(……私は)蘭珠は腹に手を添えた。丸くなった腹は衣の上からでもはっきりとわかる。ここにいる命を守るための支度だけで、自分の世界はどんどん狭くなっている。「……ありがと」小さく言うと、周蘭は肩をすくめて話を切り上げた。そのとき、玄関のほうで声がした。「御免くださいませ」周蘭が顔を上げる。「……お客様ですね。奥様、少しお待ちください」周蘭は手早く手ぬぐいで指先を拭うと、玄関へ向かった。ほどなくして、周蘭に導かれて客が現れる。紙問屋の奥方だった。芳玉の母である。
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29. 赤い水路

年齢を重ねても背筋は伸び、装いは質素でも隙がない。紙を扱う商家の妻らしく、目が鋭い。「蘭珠様」奥方は丁寧に礼をした。「このたびは……娘の件。まことに、ありがとうございました」「そんな……私はただ」「いいえ」奥方は言葉を切り、懐から布包みを取り出した。「どうか、お納めください」「え……」蘭珠は慌てて手を上げる。「礼金など、受け取れません」「お受け取りください」奥方の声は静かだが、強い。「これは蘭珠様の働きがなければ得られなかった縁への礼です」蘭珠は困り果てた。(……本当に私は、何かをした?)確かに芳玉を説得し、沈文景と会わせた。けれど、あれは半分賭けだった。娘の人生を預かったわけでもない。しかし奥方は、それを当然のように言った。「うちの芳玉は」奥方は少し笑った。「男に見向きもしません。婿の話を出すたび逃げ出す。私は、娘の未来が怖かったのです」商家の娘として嫁ぐ。跡取りを産む。家を守る。それは正しい生き方だと皆が言う。けれど、その正しさが娘を窒息させることもある。蘭珠は奥方の目の奥に、母としての焦りを見た。「沈様とは……どうなりましたか?」そう尋ねると、奥方はわずかに表情を和らげた。「恋仲、というわけではありません」「……そうですか」少しだけ、蘭珠は肩を落とす。(でも、あの距離は……)すると奥方は、くすりと笑った。「ですが、まるで師弟です。編集者と作家と言えばいいのでしょうか。娘はあれほど夢中で誰かと語ったことがありません」「沈様も?」「ええ」奥方は頷く。「沈様も娘の原稿を手にしてからは、毎日茶屋で待つようになりました。時々、お菓子まで用意して」その様子が目に浮かび、蘭珠は思わず笑ってしまった。奥方は、少し声を落とす。「ねえ、蘭珠様。お願いがございます」「お願い……?」「娘のことを、もう少しだけ導いてください」奥方は真剣な目で蘭珠を見つめた。「娘は、あの方を好きなのでしょう。けれど好きと言うこともできない。恋をすれば負けだと思っている子ですから」「芳玉が……」「初めてなんです。男を、こんなふうに見るのは」奥方の言葉が胸に刺さった。娘の人生に恋が差し込む瞬間。それを母は、恐れと喜びの両方で見ている。そして蘭珠に頼る。――国が揺れる時代に、恋だ縁だと言っていられるのは贅沢かも
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30.  血の匂い

赤い水は、何事もなかったかのように流れていった。水路の縁に立つ人々だけが、流れを見送る目を失っていた。怒りと恐怖が混ざり合い、誰もが同じ言葉を繰り返す。それを聞くたび噂は膨らみ、やがて確信の形を取って、蘭珠の胸に突き刺さった。瑞華国では、女子供は処刑を免れることが多い。それが「良し」とされているわけではない。だが、少なくとも――女子供まで斬り捨てることは、都の人々が忌む行いだった。だからこそ、蘭珠は信じられなかった。信じたくなかった。周蘭の腕が必死に蘭珠の肩を支える。「奥様、息を。お願いです、息をしてください」蘭珠は頷こうとして、喉が鳴るだけだった。口の中が乾き、唇が震える。腹に当てた指先は冷たく、手のひらの下には確かに命があるのに――それが恐ろしくてたまらない。(景炎様が……そんな……)理性が拒んでも、目の前の赤は嘘を許さない。「帰りましょう。ここにいると倒れます」周蘭はそう言って、蘭珠の背に回り、抱えるように身体を起こした。だが蘭珠の足は石畳の感触を掴めず、ふわふわと宙を踏む。立っているつもりなのに、身体の芯が抜け落ちているようだった。そのとき、群衆の一角が割れた。黒い影が、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。都の雑踏に慣れた者の歩き方ではない。戦場の道を知る者の、迷いのない足取り。楚凌だった。汗に濡れた襟元。土のついた裾。けれど何より――目が違った。ただ噂を聞いただけではない。すでに、何かを見てきた者の目をしている。蘭珠が名を呼ぶより早く、楚凌は周蘭の腕の中にいる蘭珠を見つけた。「……蘭珠様」声は低いのに、ひどく硬い。「楚凌様……水路が……」楚凌の視線が赤い水へ一瞬だけ向く。眉間の皺がさらに深く刻まれた。だが彼は、言葉を飲み込むように口を閉ざす。代わりに楚凌は蘭珠の前に膝をついた。「立てますか」蘭珠は頷いたつもりだった。だが身体は拒んだ。足が震え、視界が揺れる。次の瞬間、楚凌の腕が蘭珠を抱え上げた。あまりに自然で、抵抗する暇もなかった。逞しい腕に囲まれると、血の匂いと雑踏の声が少し遠のく。「……楚凌様」呼び方が喉で絡む。楚凌の胸は硬い。けれど熱は確かで、そこに触れているだけで蘭珠は泣きそうになった。「帰ります」楚凌は短く言った。周蘭が慌ててついてくる。「奥様の足、汚れて……拭きます、すぐ―
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31. 白紙の記憶

桶が、静かに床に置かれた。景炎はそれを見た。見て——動けなかった。首が二つ。女のものと、小さなもの。部下が何かを報告している。言葉が耳を通り抜けていく。景炎の目は桶から離れない。小さい方の首が、目を閉じていた。眠っているように見えた。——俺は、これを命じたのか。胃の奥から何かが込み上げる。景炎は奥歯を噛み、顔には出さない。皇太子が桶の前で顔色を変えるわけにはいかない。「書面を」声は平静だった。我ながら見事だと思う。差し出された紙を受け取り、広げる。凌遅刑の許可。遺体を川へ。日付、印。自分の筆跡だ。疑いようがない。字の癖まで、紛れもなく自分のものだった。——いつ書いた。景炎は記憶を辿る。景衡の裏切りを知った夜。怒りで頭が沸騰していた。雪瓔の部屋へ行った。あの甘い香の中で話した。裏切り者の一族を断てと、雪瓔が言った。——それは、認めた。一族を断つことは認めた。裏切り者の血を残せば禍根になる。それは分かっていた。だが、凌遅は違う。川に流すことも、違う。凌遅は死ぬまで時間をかけて刃を入れ続ける刑だ。苦しみを長引かせることそのものが目的になる。瑞華では女子供を刑に処すこと自体が忌避される。それをわざわざ凌遅にかけ、遺体を都の水路に流す——見せしめだ。民に向けた、恐怖の見せしめ。「……俺がこれを書いたのはいつだ」「先の夜と聞いております」「先の夜」雪瓔の部屋を出た後の数刻が、いつも霧の中にある。あの甘い香を嗅ぐと、意識の輪郭が溶けていく。翌朝に目が覚めると、何かを決めた気がするのに、何を決めたのか思い出せない。あの女が来てから、ずっとそうだ。以前にもあった。夜だったことだけは覚えている。雪瓔と話した。香が濃かった。気づけば朝になっていて、自分が何を言い、何に頷いたのか、靄の向こうに沈んでいる。疲れのせいだと思っていた。違ったのかもしれない。「下がれ」部下が消える。景炎は書面を握ったまま、立っている。俺は凌遅を命じていない。そう言い切れるか。言い切れない。記憶がない。この筆跡は俺のものだ。——俺は、自分の手で書いたものを覚えていない。それが、一番おそろしい。処刑の是非ではない。自分の手が、自分の知らないうちに動いている。自分の印が、自分の知らないうちに押されている。皇太子の署名は命だ。その命
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