LOGIN瑞華国の皇太子妃・蘭珠は、夫である皇太子・景炎に深く愛され、身ごもった命と共に幸せな未来を信じていた。 しかし、戦から帰還した景炎は“傾国の美女”雪瓔を連れ帰り、彼女の言葉を信じて蘭珠の不貞を疑う。 妊娠中にもかかわらず追放された蘭珠は、皇太子の命で将軍職を剥奪された武将・楚凌の妻とされ、都の東門で慎ましい暮らしを始めることに。 貧しくも誠実な日々の中で、無骨な楚凌の静かな優しさに救われていく蘭珠。 一方、景炎は次第に自らの過ちに気づき始め―― 奪われた愛と、守られる愛。その行方は。 月曜日/週4 更新
View More婚礼から三ヶ月。
蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。
「……あ」
思わず小さく声が漏れた。
金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)
いまだに、ときどき信じられなくなる。
瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。 派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。
「……起きたのか、蘭珠」
低い声が耳元で囁いた。
景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」
「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」
ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。
彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。「……殿下、朝から、その……」
「夫婦なのだから、当たり前だろう?」
さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。
景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。
血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。けれど、ふたりきりの時だけは違う。
蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」
「でも、朝議が……」
「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」
「それは逆では……」
思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。
こういう時、彼は年相応の青年に見える。
鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)
胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。
同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。
北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。「殿下」
蘭珠は、そっと顔を上げた。
「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」
景炎の笑みが、わずかに翳る。
「耳が早いな。内々の話のはずだが」
「女官たちは口が軽うございますから」
「ふむ。……大丈夫だ、と言えば安心するか?」
問い返され、蘭珠は少しだけ迷ってから、正直に首を振った。
「正直を言えば、不安です。陛下がご出陣なさるのか、それとも……」
「行くのは、俺だ」
短く告げられて、心臓が冷たくなる。
「殿下が……?」
「北境は、次の皇帝がどう動くかを測られる場だ。俺自身が行くしかない」
淡々とした声音。
それが、かえって本気であることを告げていた。「危険では……」
「危険だからこそ、俺が行く。俺が勝つと知れば、敵も余計な火種を撒けなくなる」
理屈は分かる。
分かるのに、喉が詰まって言葉にならない。景炎が、蘭珠の頬に手を添えた。
「そんな顔をするな」
「でも……」
「お前を置いていくのが、一番名残惜しいというのに」
軽く唇を重ねられて、蘭珠は目を閉じた。
いつもより、少しだけ長い口づけ。離れたあと、景炎は彼女の額に唇を押し当て、小さく息を吐く。
「すぐに戻る。勝利を手土産にな」
「……本当に、戻ってきてくださいますか」
「約束する。花家の蘭珠。俺の妃。――世にひとりしかいない俺の妻だ」
静かな言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
(信じていていいのよね)
蘭珠はこくりとうなずいた。
「では、私はここでお待ちしております。殿下が、お怪我なくお戻りになることを、毎日祈ります」
「祈るだけでは足りん。帰ってきた俺を、これまで以上に甘やかすと約束しろ」
「……殿下まで北境の噂の兵たちのようなことを」
「兵たちは何と言っている?」
「武功を立てて戻ったら、妻に酒を注いでもらうのだと、自慢していました」
「ならば俺は、妃の手料理を所望しよう」
「手料理、でございますか?」
思わず聞き返すと、景炎は真顔で頷いた。
「できるか?」
「……が、頑張ります」
料理など、ろくにしたことがない。
だが、「できません」とは言いたくなかった。景炎が立ち上がる。
寝台の端に腰掛け、靴を履きながら、ふと振り返った。「それと、蘭珠」
「はい」
「体調は、どうだ」
「体調……?」
唐突な問いに、蘭珠は瞬きをする。
言われてみれば、ここ数日、朝になると少しだけ気分が悪い。
匂いに敏感になった気もするし、以前よりも疲れやすい。「少し、疲れやすいような気はいたしますが……」
「医師を呼ぼう」
「大袈裟でございますよ。きっと、夜更かしが過ぎたせいです」
「誰のせいだと思っている」
景炎が、わずかに口角を上げる。
「……殿下の、せいでしょうか」
ぽつりと呟くと、彼は満足そうに目を細めた。
「ならば責任を取らねばな」
そのやりとりが、妙にこそばゆくて、蘭珠は笑ってしまった。
まさか――この時、すでに彼女の腹に、新しい命が宿っていたことも。
その命が、後に帝都を揺るがす争いの火種となることも。そして、北の空の向こうで、ひとりの女が静かに笑っていることも、まだ知らなかった。
敵国の王子の愛妾でありながら、
その美貌ひとつで戦の行方を左右し、「傾国の美女」と呼ばれる女――雪瓔の存在を。蘭珠がそれを知るのは、景炎が北へと旅立ったずっと後のことになる。
侍医が楚凌の肩へ新しい包帯を巻き終える頃には、正殿の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。怒号が消えたわけではない。だが、それは混乱から生まれる悲鳴ではなく、命令を伝え、兵を動かすための声へ変わっている。景炎は地図を前に立ったまま、武官たちへ次々と指示を飛ばしていた。「西の荷門は平時どおりの警備を続けろ。門番を総入れ替えするな。黄色い布を巻いた者を見つけても、こちらから捕らえる必要はない。監視だけに留め、決して敵へ異変を悟らせるな」「はっ!」武官たちは一斉に頭を下げ、それぞれの持ち場へ散っていく。その中で、一人の門番頭だけが足を止めた。白髪混じりの老兵は、納得できないという表情で楚凌を見る。「楚凌殿。門番にとって、門を守ることは何よりの務めです。敵が門を開こうとしていると知りながら手を出さぬなど、若い者たちは戸惑いましょう」楚凌は静かに頷いた。その気持ちは痛いほど分かる。三か月前の自分なら、同じことを口にしていただろう。「見逃すのではありません」穏やかな口調で答える。「敵が勝ったと思う、その一瞬だけ待つのです。景衡軍は内応が成功したと信じなければ動きません。ならば、その油断を利用します」門番頭は腕を組み、しばらく考え込んでいた。やがて深く息を吐くと、ゆっくり頭を下げる。「承知いたしました。若い者たちにも、そのように伝えます」楚凌は小さく頷いた。老兵が去ると、侍医が困ったような顔で包帯を結び直す。「これで終わりです。ですが、火傷も肩の傷も決して浅くはありません。どうか無理だけは……」楚凌は肩をゆっくり回した。鈍い痛みが走る。それでも腕は上がった。剣も握れる。「十分です」短く答えると、侍医は諦めたように肩を落とした。「戻られたら、今度こそ安静にしていただきます」「約束します」楚凌は穏やかに笑い、壁際へ置かれていた装束へ歩み寄る。武官の一人が恭しく将軍鎧を差し出した。「楚凌殿。こちらをご用意いたしました」銀の飾り金具が灯火を受けて静かに輝いている。かつて幾度となく戦場で身につけた鎧だった。楚凌はそれを見つめたあと、静かに首を横へ振る。「必要ありません」武官が驚いたように目を見開く。「ですが、この戦は――」楚凌はその言葉を遮ることなく、隣へ置かれていた門番の装束を手に取った。質素な衣だった。
「……続きを聞こう」景炎の言葉が落ちると、先ほどまで怒号に満ちていた正殿は、再び静まり返った。敵を王都へ入れるなど、常識では考えられない。武官たちの顔には反発と疑念が浮かんでいたが、景炎が楚凌の話を聞くと決めた以上、誰もそれ以上声を荒らげることはできなかった。楚凌は地図へ視線を落とし、西側の小門を指したまま口を開く。「この門は、城外から運び込まれる荷を通すために使われています。人の出入りを想定して造られたものではなく、道幅も狭い。一度に通れるのは、荷車一台か、横に並んだ二人ほどです」指先を小門の内側へ移していく。「門を抜けた先には、荷を改めるための細長い区画があります。両側は高い石壁で囲まれ、正面にはもう一枚、内側の門がある。そこを閉ざせば、外から入った者は前にも後ろにも進めません」景炎は地図へ目を落とした。王都の外壁に設けられた小門と、その内側にある細長い検分所。敵が押し寄せても、一度に入り込める人数は限られるうえ、中の様子は城外からほとんど見えない構造になっている。「敵を、そこへ閉じ込めるのか」「はい。ただし、最初から討つつもりはありません」楚凌がそう答えると、武官の一人が怪訝そうに眉をひそめた。「では、何のために入れる」「生け捕りにします」楚凌は顔を上げ、正殿に集まった者たちを見渡した。「今、我々が把握しているのは、黄色い布を目印にした者たちが王都の内部で動いていることと、景衡王爺軍が城外に待機していることだけです。誰が門を開く手筈になっているのか。どの合図をもって景衡軍が動くのか。陸曜将軍がどこに布陣しているのかまでは、分かっておりません」陸曜の名が出た瞬間、正殿の空気がわずかに重くなった。景衡は皇族であり、反乱軍に正統性を与える旗印ではある。だが、臆病で決断力に欠けるあの男が、ここまで周到な軍略を自ら組み立てたとは考えにくい。実際に軍を動かし、王都の内応者と連絡を取り合っているのは陸曜だろう。景炎もまた、その可能性を考えていた。「陸曜を失えば、景衡は軍をまとめられぬ」低く呟くと、楚凌は深く頷いた。「私もそう考えております。王爺は反乱の旗にはなれますが、戦を指揮する男ではありません。陸曜将軍を捕らえるか、少なくとも指揮から引き離すことができれば、景衡軍は大きく揺らぎます」「だが、最初に小門へ来るのは雑兵であろう
正殿の広間は、一瞬だけ静まり返った。血と煤にまみれた楚凌の姿を前に、誰もが言葉を失っている。背中の衣は焼け焦げ、肩からは血が滴っていた。火傷と斬り傷、その両方を負いながらも、楚凌は背筋を伸ばしたまま景炎を見据えている。景炎は静かに楚凌を見つめた。「……生きていたか」短い言葉だった。だが、その一言には安堵と、自責と、さまざまな感情が滲んでいた。楚凌は深く頭を垂れる。「ご心配をおかけしました」「蘭珠は」景炎は、それ以上堪えられなかった。皇太子としてではない。一人の男として、口を開いていた。楚凌は一瞬だけ目を伏せる。「紙問屋の屋敷へ避難しております。医師も診ておりますので、命に別状はございません」景炎は小さく息を吐いた。その吐息は誰にも気づかれないほど静かだったが、張り詰めていた肩からわずかに力が抜ける。生きている。その一言だけで十分だった。だが、その安堵は長く続かなかった。すぐに景炎の表情は引き締まり、皇太子の顔へ戻る。「報告を」楚凌は頷こうとした。その瞬間、足元がわずかによろめく。「楚凌殿!」侍医が慌てて駆け寄る。「まず傷の手当てを! このままでは――」楚凌は首を横へ振った。「後で構いません」「しかし!」「今を逃せば、さらに多くの血が流れます」その一言で、侍医は言葉を失った。肩から流れた血が床へ落ちる。それでも楚凌は気にも留めず、広げられた王都の地図へ歩み寄った。武官たちが自然と道を開ける。誰も命じていない。だが、その背中には、人を従わせるだけのものがあった。楚凌は地図の一点を指差した。「こちらです」細い路地が複雑に入り組む、西側の一角だった。「水路沿いで、不審な集団を発見しました」景炎は黙って耳を傾ける。「町人に紛れておりましたが、動きが不自然でした。互いに距離を取りながらも、目配せだけで意思を通じ合わせていたのです」「黄色い布か」景炎が低く問う。「はい」楚凌は頷いた。「腕に黄色い布を巻いていました。同じ布を巻いた者同士で連絡を取り合い、放火を繰り返しております」正殿がざわつく。武官の一人が声を上げた。「では、やはり城下の火事は!」「すべて計画の内です」楚凌は静かに答える。「狼煙を上げ、民を混乱させ、門へ押し寄せさせる。そして、その隙に景衡王爺軍を王都へ招き入
正殿は、すでに戦場だった。広間の中央には大きな地図が広げられ、その周囲を武官と文官たちが慌ただしく行き交っている。伝令が駆け込み、怒号が飛び、火急文書が次々と机へ積み上げられていく。誰もが声を張り上げているのに、不思議と空気は重かった。焦りが、場そのものへ染み込んでいる。「南側倉庫の火勢、未だ収まらず!」「西門付近で暴徒化した民が兵と衝突しております!」「北側へ送った伝令が戻りません! 城壁上の兵とも連絡が取れぬと――!」報告が飛び交う。その中心に、景炎は立っていた。机へ両手をつき、広げられた地図を見下ろしている。顔色は悪い。目の下には深い影が落ち、唇の色も薄くなっていた。だが、その目だけはまだ死んでいない。「北側城門の兵を増やせ。王都の門は閉じたまま維持しろ。民は外へ出すな」景炎が低く命じる。すぐに武官の一人が顔を強張らせた。「ですが殿下、このまま王都の門を閉ざせば、火を恐れた民がさらに暴れます!」「開ければ景衡軍が雪崩れ込む」短く言い切る。その声音には、迷いがなかった。武官は言葉を呑み込む。周囲にいた者たちも、顔を見合わせながら沈黙した。景炎は視線を地図へ落としたまま、さらに続ける。「城下の火災は囮だ。混乱を広げ、門を開かせるためのものだろう。避難経路を限定しろ。民衆の流れを一方向へ絞れ。兵を分散させるな」静かな声音だった。静かすぎるほどに。だが、その静けさが逆に場を支えていた。武官たちは慌ただしく散っていく。景炎は、その背を見送りながら小さく息を吐いた。肺が重い。香が、まだ身体へ残っている気がした。雪瓔を斬った瞬間の感触が、今も掌にこびりついて離れない。血。柔らかな肉を裂く感覚。そして。――子を斬ったわね。あの声。景炎は一瞬だけ目を閉じた。頭の奥が鈍く痛む。雪瓔の言葉が、今も耳の奥へ残っている。もう子はできない。毒が身体へ染み込み、血脈は絶たれたのだと。ならば。蘭珠の腹にいる子だけが、自分の子になる。景炎の喉が、かすかに動く。どうして、信じなかった。あれほど真っ直ぐに自分を慕っていた女を。薬に侵され、思考を歪められていたとはいえ、どうして最後まで蘭珠の言葉を聞こうとしなかったのか。楚凌と何もないのだと、涙を堪えながら訴えていたあの女の顔を思い出すたび、胃の奥が焼けるように痛
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ