妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています

妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています

last updateLast Updated : 2026-02-02
By:  月歌Updated just now
Language: Japanese
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瑞華国の皇太子妃・蘭珠は、夫である皇太子・景炎に深く愛され、身ごもった命と共に幸せな未来を信じていた。 しかし、戦から帰還した景炎は“傾国の美女”雪瓔を連れ帰り、彼女の言葉を信じて蘭珠の不貞を疑う。 妊娠中にもかかわらず追放された蘭珠は、皇太子の命で将軍職を剥奪された武将・楚凌の妻とされ、都の東門で慎ましい暮らしを始めることに。 貧しくも誠実な日々の中で、無骨な楚凌の静かな優しさに救われていく蘭珠。 一方、景炎は次第に自らの過ちに気づき始め―― 奪われた愛と、守られる愛。その行方は。 月曜日/週4 更新

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Chapter 1

1. 蘭珠と景炎

婚礼から三ヶ月。

蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。

朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。

「……あ」

思わず小さく声が漏れた。

金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。

(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)

いまだに、ときどき信じられなくなる。

瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。

派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。

その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。

「……起きたのか、蘭珠」

低い声が耳元で囁いた。

景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。

「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」

「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」

ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。

彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。

「……殿下、朝から、その……」

「夫婦なのだから、当たり前だろう?」

さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。

景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。

血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。

けれど、ふたりきりの時だけは違う。

蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。

「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」

「でも、朝議が……」

「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」

「それは逆では……」

思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。

こういう時、彼は年相応の青年に見える。

鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。

(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)

胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。

同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。

ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。

北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。

「殿下」

蘭珠は、そっと顔を上げた。

「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」

景炎の笑みが、わずかに翳る。

「耳が早いな。内々の話のはずだが」

「女官たちは口が軽うございますから」

「ふむ。……大丈夫だ、と言えば安心するか?」

問い返され、蘭珠は少しだけ迷ってから、正直に首を振った。

「正直を言えば、不安です。陛下がご出陣なさるのか、それとも……」

「行くのは、俺だ」

短く告げられて、心臓が冷たくなる。

「殿下が……?」

「北境は、次の皇帝がどう動くかを測られる場だ。俺自身が行くしかない」

淡々とした声音。

それが、かえって本気であることを告げていた。

「危険では……」

「危険だからこそ、俺が行く。俺が勝つと知れば、敵も余計な火種を撒けなくなる」

理屈は分かる。

分かるのに、喉が詰まって言葉にならない。

景炎が、蘭珠の頬に手を添えた。

「そんな顔をするな」

「でも……」

「お前を置いていくのが、一番名残惜しいというのに」

軽く唇を重ねられて、蘭珠は目を閉じた。

いつもより、少しだけ長い口づけ。

離れたあと、景炎は彼女の額に唇を押し当て、小さく息を吐く。

「すぐに戻る。勝利を手土産にな」

「……本当に、戻ってきてくださいますか」

「約束する。花家の蘭珠。俺の妃。――世にひとりしかいない俺の妻だ」

静かな言葉に、胸がじんわりと温かくなる。

(信じていていいのよね)

蘭珠はこくりとうなずいた。

「では、私はここでお待ちしております。殿下が、お怪我なくお戻りになることを、毎日祈ります」

「祈るだけでは足りん。帰ってきた俺を、これまで以上に甘やかすと約束しろ」

「……殿下まで北境の噂の兵たちのようなことを」

「兵たちは何と言っている?」

「武功を立てて戻ったら、妻に酒を注いでもらうのだと、自慢していました」

「ならば俺は、妃の手料理を所望しよう」

「手料理、でございますか?」

思わず聞き返すと、景炎は真顔で頷いた。

「できるか?」

「……が、頑張ります」

料理など、ろくにしたことがない。

だが、「できません」とは言いたくなかった。

景炎が立ち上がる。

寝台の端に腰掛け、靴を履きながら、ふと振り返った。

「それと、蘭珠」

「はい」

「体調は、どうだ」

「体調……?」

唐突な問いに、蘭珠は瞬きをする。

言われてみれば、ここ数日、朝になると少しだけ気分が悪い。

匂いに敏感になった気もするし、以前よりも疲れやすい。

「少し、疲れやすいような気はいたしますが……」

「医師を呼ぼう」

「大袈裟でございますよ。きっと、夜更かしが過ぎたせいです」

「誰のせいだと思っている」

景炎が、わずかに口角を上げる。

「……殿下の、せいでしょうか」

ぽつりと呟くと、彼は満足そうに目を細めた。

「ならば責任を取らねばな」

そのやりとりが、妙にこそばゆくて、蘭珠は笑ってしまった。

まさか――この時、すでに彼女の腹に、新しい命が宿っていたことも。

その命が、後に帝都を揺るがす争いの火種となることも。

そして、北の空の向こうで、ひとりの女が静かに笑っていることも、まだ知らなかった。

敵国の王子の愛妾でありながら、

その美貌ひとつで戦の行方を左右し、「傾国の美女」と呼ばれる女――雪瓔の存在を。

蘭珠がそれを知るのは、景炎が北へと旅立ったずっと後のことになる。

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1. 蘭珠と景炎
婚礼から三ヶ月。蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。「……あ」思わず小さく声が漏れた。金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)いまだに、ときどき信じられなくなる。瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。「……起きたのか、蘭珠」低い声が耳元で囁いた。景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。「……殿下、朝から、その……」「夫婦なのだから、当たり前だろう?」さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。けれど、ふたりきりの時だけは違う。蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」「でも、朝議が……」「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」「それは逆では……」思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。こういう時、彼は年相応の青年に見える。鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。「殿下」蘭珠は、そっと顔を上げた。「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」景炎の笑みが、わずかに翳る。「耳が早いな。内々の話のはずだが」「女官たちは口が軽うございますから」「ふむ。……大丈夫だ
last updateLast Updated : 2025-12-19
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2. 出陣の朝、約束の口づけ
「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。 寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。 漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。 まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうございます。あの瞬間、世界の色が変わった気がした。 景炎は椅子を蹴るように立ち上がり、子どものように目を丸くしていた。『本当か? 本当に、余の子か?』『当たり前ですわ、殿下』頬を赤くして返すと、彼は笑って、笑って、何度も蘭珠を抱きしめた。 あれほど感情をあらわにする人なのだと、その日初めて知った。――なのに。「敵は、そう遠くはないと言っておりましたのに。父上に別の将を向かわせていただくことは……」言いかけると、景炎は首を横に振った。「皇太子である余が、最前線に立たねば、兵がついてこん」「ですが……」「大丈夫だ」景炎はゆっくりと歩み寄り、寝台の縁に片膝をついた。 甲冑の金具が小さく音を立てる。「余は戦に出向くが、勝つために行くのだ。死にに行くのではない」その手が伸び、蘭珠の頬を包む。 温かい。 冷たい鉄の匂いと、いつもの沈香の香りがまじりあって、涙腺がきゅっと痛くなる。「泣くな、蘭珠」「泣いておりませんわ」そう言いながら、視界が滲む。 情けない。泣きたくないのに、体のほうが勝手に震えてしまう。「……泣いておる」景炎が苦笑する。その親指が、溢れた涙をぬぐった。「余は必ず戻る。お前と、この腹の子のところへ」彼の視線が、蘭珠の手元――お腹へと移る。 蘭珠もそっと手をどける。 まだ平らな腹を、景炎の大きな手が慎重になぞるように撫でた。「ここに……余の、子が」まるで信じられないと言わんばかりに、低く呟く。 戦場では命を奪い、政においては冷静に人を切り捨ててきた男が、今は何よりも脆いものを前にしている。「殿下」「…
last updateLast Updated : 2025-12-19
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3. 風の中の影
夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔を青くして頭を下げた。「どうしたの?」「さきほど……皇太子殿下からの伝令が戻りまして」「景炎から!?」思わず声が上ずる。しかし、梅香の唇は震えていた。「……殿下は、勝利を収められました。ですが同時に……“雪瓔(せつえい)”という美女を連れ帰られたとのことです」「雪瓔……?」聞いたことのない名。けれどどこか、冷たい音の響きがした。「敵国の王子の側妾だったそうです。戦場で殿下の命を救い、その知略で勝利にも貢献したと……」——まるで、物語に出てくる傾国の美女。ひとりの女の微笑みが、国を傾ける。蘭珠は胸を押さえた。不安が、ひたひたと足元から満ちていく。「景炎は……無事なのね?」「はい。ただ……お、お姿に変化が……」梅香は言いにくそうに口ごもった。「変化?」「殿下は、まるで別人のように冷たく……雪瓔という女の傍を離れられないとか……」蘭珠の心臓が一瞬止まったように感じた。景炎が他の女から離れない?あり得ない。そんなこと——「梅香。その噂は……本当なの?」侍女の目が揺れ、涙が滲む。「……はい。皆、そのように」音もなく、蘭珠の世界にひびが入った。——景炎が、私以外の女のそばに。「帰りましょう、蘭珠様。お部屋は……まだ温かくしてありますから」「……ええ」蘭珠は歩きはじめた。だが一歩ごとに、胸の奥が軋む。景炎が愛してくれたのは、私ではなかったのだろうか。あの日々は、夢だったのだろうか。いや。あの瞳は嘘じゃなかった。自分を抱きしめた温度も、優しい囁きも、本物だったはず。(もし……誰かが景炎を操っているのだとしたら?)雪瓔
last updateLast Updated : 2025-12-20
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4. 帰還の報せと、満月の影
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせり上がる。しかし、梅香の顔色は真っ青だった。「ち、違います。殿下が……本日中にご帰還なさるとのことです!」「今日!?」喜びが浮かびかけたその瞬間——梅香は震える声で続けた。「おそばには、例の……雪瓔という女が、ずっと付き従っているそうで……兵たちは、殿下が“離れようとしない”と……」蘭珠の心臓が、きゅうっと縮んだ。景炎が他の女を連れて帰ってくる。その女を手放そうとしない——?(うそ……そんなこと……)信じたかった。けれど不安が耳元で囁く。最近、宮中での扱いが変わったのも事実だ。侍女たちは、蘭珠の目を避けるようになった。廊下ですれ違う宦官も、ひそひそと何かを言う。——皇太子妃様も、ついにお終いだな。——若くて美しい雪瓔様のほうがよほどふさわしい。そんな声が、蘭珠の背中を刺していた。「梅香……殿下は、本当に雪瓔という女をお連れに?」「はい。ですが、それだけではありません!」梅香は息を呑んだ。「雪瓔の正体は……“蒼隼国の王子の愛妾”であったとか。戦の最中、殿下の命を救い、さらに敵国の内部情報を漏らして勝利へ導いたそうです。兵たちは『傾国の美女』と……」「傾国……」国を傾けるほどの美しさ。だが、蘭珠は思ってしまう。(本当にただの美女……?)あの日のことが頭をよぎった。夜の回廊で聞いたあの囁き。窓の外を漂った黒い影。ありえない。そんな馬鹿げたこと……でも。蘭珠は胸に手を当てた。脈が不規則に跳ねている。「蘭珠様、景炎殿下が戻られたら……きっと、すぐにご妃様のお部屋に……」「……いいえ」蘭珠はそっと首を振った。目を閉
last updateLast Updated : 2025-12-22
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5. 夫の目が、私を映さない
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。(……この人……人ではないような……)だが景炎は、それに気づかぬ様子だった。「殿下……お帰りなさいませ」精一杯の笑みを浮かべて声をかける。景炎は短くうなずき――そして、雪瓔を振り返る。「疲れていないか、雪瓔」「ええ、殿下のおそばなら……」その声音は澄んでいて、妙に響く。蘭珠の胸が締め付けられた。(殿下は……なぜ。私よりも、あの方を……)蘭珠は勇気を振り絞り、一歩前へ。「殿下。お怪我はありませんか? わたくし……ずっとご心配しておりました……」景炎の瞳が向く。その目に、蘭珠は愛情の欠片を探した。だが――そこにあるのは、ただ冷たく曇った色。「……そうか」(……“そうか”?)胸が冷える。言葉があまりにも遠い。以前の景炎なら、真っ先に蘭珠を抱きしめたはずだ。蘭珠は震える声で続けた。「殿下、まさか……わたくしの手紙、届いておりませんでしたの……?」問いかけたとき、景炎の眉がわずかに動いた。「届いていた。だが……余は忙しかった」「それだけのことでしょうか……?」その瞬間、景炎の声が鋭くなった。「蘭珠。雪瓔が“夢で見た”という」蘭珠の血の気が引いた。「……ゆめ……?」隣で控えていた雪瓔が、蘭珠を一度も見ず、静かに景炎へささやく。「殿下、無理にお話しなさらずとも……蘭珠様を責めたくて申し上げたことでは……」その声は、確かに優しい。優しいのに、妙に空虚で、生気が薄い。景炎は雪瓔の手を取った。「いや、伝えねばならぬ。雪瓔の“夢見の力”は確かだ」蘭珠の胸が大きく波立つ。景炎は続けた。「雪瓔は言った。余が戦へ赴く前夜、宮中の庭
last updateLast Updated : 2025-12-24
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6. 疑いの庭
翌朝の後宮は、薄い霧に包まれていた。東殿の朝露に光が宿り、細い風が簾を揺らす。蘭珠は、寝台から起き上がれずにいた。胸の奥に残っているのは、昨夜の景炎の冷たい目と声。(……わたくしを、疑った……)腹に手を添える。まだ小さな命は確かにそこにいるのに、景炎の視線はその存在さえ拒んだ。「蘭珠様……お水をお持ちいたしました」侍女の梅香が台を運んできたが、蘭珠は首を振った。「梅香。お願いがありますの」「……何でございましょう?」「楚凌将軍を……呼んできてちょうだい。ここではなく、庭の東屋へ」梅香は驚いて目を丸くした。「後宮へ、男性を……?」「私室ではありませんわ。庭です。昨日の……殿下のご様子を、どうしても確かめたいのです」梅香は心配そうに頷き、そっと走り去った。蘭珠はゆっくりと立ち上がった。歩くたび腹が重く感じる。だが、胸の不安がもっと重い。(殿下……どうして。なぜ雪瓔様の言葉など……)庭に出ると、東屋の白木が朝の光の中で淡く輝いていた。まだ冷たい大理石の床に軽く手をつき、蘭珠は深呼吸をする。ほどなくして、楚凌が姿を見せた。将軍服のまま、背筋を伸ばし、東屋へと歩み寄るその姿は、昨夜よりずっと凛としていた。「お呼びとのことで参りました。皇太子妃殿下、お身体の具合はもう……?」昨日の馴れ馴れしさは一切ない。楚凌は正しい距離と礼を守り、蘭珠へ深く頭を下げた。「楚凌将軍、急に呼び出してごめんなさいね」「いえ。殿下の妃のお言葉とあらば」楚凌は蘭珠と目を合わせずに控えめに立つ。その姿に、蘭珠はようやく“今の自分はまだ皇太子妃なのだ”と実感した。「話したいことが、ございますの」蘭珠の声は震えていた。楚凌はその震えに気づいたが、あえて表情を崩さない。「殿下の……最近のご様子、あなたはどう見ているのかしら」楚凌の瞳がわずかに揺れた。「……殿下は、戦から戻られて以来、どこか……以前とは異なっておられます」「やはり……」「ただ……妃殿下。これは私個人の感想にすぎません。殿下は戦で多くのものを背負われ、雪瓔という方の“助言”を重く見ておられるようで……」蘭珠は唇を噛む。景炎が信じる“夢見の力”。雪瓔は自分を一度も見ていないのに、「妃が男と密会していた」と夢に見たと言ったという。(そんな馬鹿な話……でも、景炎は信じて
last updateLast Updated : 2025-12-26
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7. 離縁の言葉と、崩れ落ちる世界
景炎の怒号が、後宮の静けさを破ったのは、春の風が落ち着かない夜のことだった。「蘭珠! 余の前へ出よ!」寝所で文を書いていた蘭珠は、手を震わせて立ち上がった。 声が怒りに濁っている。こんな景炎の声を聞くのは初めてだ。胸がずくりと痛む。(殿下……どうされたの……?)扉が激しく開かれた。 景炎が立っていた。金の瞳が燃え上がったように怒りに濁っている。 その後ろに雪瓔が控えていた。薄い白衣が風に揺れ、微笑んだように見えた。「殿下……?」蘭珠が一歩近づこうとした瞬間、景炎は冷たく手を払うような仕草をした。「近寄るな」その声音に、蘭珠は息を呑む。「楚凌と……何をしていた?」心臓が止まる。(楚凌……?)思い浮かぶのはただひとつ。 あの日。景炎の変化に怯えていた蘭珠は、楚凌に不安を吐露してしまった。楚凌はただ、静かに励ましてくれただけなのに。「殿下、その……誤解ですわ。楚凌将軍とは、ただ……」「黙れ!」景炎の怒声が、蘭珠の胸を貫く。「雪瓔が“夢で見た”のだ。お前が楚凌と人目を避けて会い、密やかに情を交わすのを」雪瓔は景炎の背後で俯き、細い肩を震わせている。 悲しげに震える仕草が、景炎の怒りをさらに煽る。「殿下……! 楚凌殿と情を交わすなどありえません。雪瓔様の夢見の力など信じてはなりません!」「雪瓔の夢見は戦場で何度も余を救った! 嘘などつくはずがない!」(嘘をついているのは、雪瓔様です……!)叫びたい。 けれど、景炎はもう蘭珠の言葉を聞いていなかった。「蘭珠、お前を妃とは認めぬ。離縁する!」その瞬間、足元が崩れ落ちたような衝撃が蘭珠を襲った。「り、離縁……? 殿下……私たちは……子を授かったばかりですのに……」震える声。 胸が軋む。呼吸が苦しい。景炎の瞳には、もはや一片の慈しみもなかった。「子など……俺の子とは限らぬ」「……!」言葉が出なかった。 景炎の口から、そんな疑いが出るなど思ってもみなかった。(殿下……どうして……私たちは、あれほど……)あの日の甘い誓いが、胸を刺す。 戦へ向かう朝、景炎の手が、蘭珠の腹を優しく撫でた感触。すべてが幻のように遠ざかる。雪瓔がそっと景炎の袖に触れた。「殿下……あまり強く言っては、蘭珠様が……」「雪瓔、お前は正しい。悪いのは妃だ」雪瓔は蘭珠を見て、涙を浮かべたように微
last updateLast Updated : 2025-12-29
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8. 追放の道、手に残ったもの
蘭珠が宮殿の門をくぐった瞬間、背後で重く扉が閉まった。その音は、まるで「お前はもう宮中の人間ではない」と告げる裁きの鐘のようだった。「蘭珠様……こちらへ」楚凌が一歩前に出て、軽く頭を下げる。彼の声は以前よりも低く沈み、目の奥にどこか痛ましい影があった。(楚凌……殿下の命に逆らえず、わたくしの“新しい夫”にさせられてしまったのよね)婚姻など望んでいなかった。望むはずがない。だが、景炎は蘭珠への怒りを鎮めるどころか、「密会していた男女は罪を負って結ばれろ」と言わんばかりに命じた。雪瓔が告げた“夢の予見”を盲信し、蘭珠と楚凌の清き関係を、根本から穢したのだ。「……行きましょう」楚凌が静かに言う。宮殿前に用意されたはずの輿(こし)は、どこにもなかった。侍女たちに尋ねても、「追放された妃に必要ございません」と冷たく言い放たれた。宮中にいるときは、どこへ行くにも輿だった。外の塵に触れることなど、ほとんどなかった。それなのに――「歩いて……行くのですか」蘭珠の問いに、楚凌は目を伏せてうなずいた。「申し訳ございません。俺も、輿を出す立場では……もう」将軍職を取り上げられ、楚凌はただの“元将軍”となった。護衛らしい護衛もいない。二人きりの追放劇だった。蘭珠は歩き出した。楚凌が半歩後ろからついてくる。石畳を踏みしめるたび、胸の奥で何かが砕けていく。(……こんな形で宮中を出る日が来るなんて)寒風が衣をはためかせ、髪を乱す。華やかな宮殿の景色は、背後で遠ざかってゆく。ふと、楚凌が懐から一通の封書を取り出した。「……蘭珠様。これを……お預かりしております」蘭珠は受け取り、封に押された紋を見て息を呑んだ。蘭家の印。つまり――実家からの手紙。手が震えた。それでも、封を切る。『蘭珠へ本日をもって、我ら蘭家はそなたとの親子の縁を断つ。夫を欺き国恥となる行い、家の名を穢した行い、到底許しがたい。以後、蘭家の者を名乗ることも、敷居をまたぐことも許さぬ。蘭家当主 蘭 祁山』一文字ずつ、刃となって胸を裂く。蘭珠はその場に立ち尽くした。紙が風に揺れ、手を離れそうになる。「……もう……わたくしには……」声が出ない。楚凌が、そっと手を差し出した。「蘭珠様。……こちらへ」その手は、大きく、逞しい。でも決し
last updateLast Updated : 2025-12-31
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9. 新しい家と、静かな決意
東門の近くにある小さな家は、楚凌が「屋敷」と呼んだのが不思議に思えるほど質素だった。瓦屋根はところどころ欠け、門には錆びた蝶番。庭と呼ぶには狭すぎる土の空き地があり、その奥に古びた井戸がひとつ。誰かが住んでいた形跡はあるが、長く人が入っていないのか埃が薄く積もっている。蘭珠は玄関に立ちつくした。(ここで……生きていくのね)宮中の煌びやかな廊下も、侍女たちが運んでくる温かい湯茶も、彼女にはもうない。楚凌はそんな蘭珠の様子に気づき、気まずそうに視線をそらした。「狭く……古い家で申し訳ございません。将軍官舎を退くよう命じられ、東門番の官舎が空いていたため……ここに、二人で住むこととなりました」蘭珠は静かに辺りを見回す。皇太子妃だった蘭珠は、今や東門の門番の妻。その落差が胸に刺さったが、楚凌の言葉には責める色が微塵もない。ただ、申し訳なさと不器用な優しさだけがあった。「いえ……住むところがあるだけで、ありがたいわ」そう返したが、不安がつのる。楚凌は袖まくりをして言う。「今日は交代制で休みですので……できるだけ家を整えます。蘭珠様は、お身体をお労わりください。妊婦の身で無理は禁物です」「……でも、私も何か……」「休んでください」いつも穏やかな楚凌にしては珍しい、はっきりとした声音だった。蘭珠は口を閉じるしかない。楚凌はまず窓の板を外し、布で埃を拭き始めた。ぎこちない所作だが、丁寧で、真面目な性格がそのまま出ている。誰かに動いてもらうことに慣れすぎた蘭珠は、ただ立っているしかなかった。(どうして……下働きの者がいないの?)この屋敷は楚凌の家なのだから、最低限の使用人がいてもいいはずだ。思い切って尋ねる。「楚凌……こちらに、お手伝いの方はいらっしゃらないの?」楚凌の手が一瞬だけ止まった。「……東門の門番となってからは俸給が大きく減り、使用人を雇う余裕がございませんでした、家財のほとんども処分しました」言葉は淡々としているのに、その肩がわずかに落ちたのを蘭珠は見逃さなかった。胸の奥がきゅうっと痛む。(私のせいで……この人まで)景炎に疑われ、離縁され、宮中を追われた。その余波は、自分を救おうとしてくれた楚凌にまで及んでいる。なのに楚凌は不満も愚痴も言わず、黙々と家を整えている。その背中があまりにもまっすぐで、蘭珠は言葉
last updateLast Updated : 2026-01-01
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10. はじめての家事、はじめての肉饅頭
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難しいの……?」膝に手をつき、肩で息をする。お嬢様育ちである自覚はあった。 だが、これほど無力だとは思わなかった。(日が傾いてきてしまう……楚凌様がお戻りになるまでに、せめて一つでも形にしたいのに……)けれど、お腹に手を当てると、微かな張りを感じて動きが止まった。無理はできない。そんな葛藤を抱えたまま、ふらつきながら台所へ戻ったちょうどその時。「蘭珠様」楚凌の声がした。振り返ると、楚凌は鎧でも軍服でもない、門番の質素な衣に身を包み、手に包みを持って立っていた。「ちょうど昼の見回りの交代で戻りました。本日は……これを買ってきております」包みを差し出され、蘭珠が開けると、湯気を立てた肉饅頭が現れた。「まあ……本当に、温かい……!」思わず頬がゆるむ。楚凌は少し照れたように視線を逸らした。「市場の屋台のものです。蘭珠様には……お気に召さないかもしれませんが」「そんなこと……!」蘭珠は急いで縁側へ座り、楚凌も少し離れて腰を下ろした。 ふたりで熱々の肉饅頭を割る。湯気が白く上り、香ばしい肉の匂いが広がった。「……美味しい……!」かじった瞬間、思わず声がこぼれた。楚凌ははっとしたように蘭珠を見つめ、そして視線をやわらかく落とした。「それは……良かった」その声には、どこか安堵と嬉しさが混じっていた。肉饅頭を食べ終えた頃、楚凌がそっと口を開いた。「……蘭珠様。ひとつ、お話がございます」蘭珠は姿勢を正す。「はい」「これからの家事は……蘭珠様おひとりでは難しいと存じます。お体も……その、お子がおりますので」言いにくそうにしながらも、楚凌
last updateLast Updated : 2026-01-05
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