All Chapters of 心臓と共に去った愛: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私・一ノ瀬澄佳(いちのせ すみか)の夫・一ノ瀬司(いちのせ つかさ)が何の前触れもなく姿を消してから三か月目、私はSNSをだらだら眺めていて、カップル系配信者のショート動画が流れてきた。背の高い男が、強引に彼女を腕の中に引き寄せる。「ほら、聞こえる? 俺の心臓が『愛してる』って言ってるだろ。」そう言って、そのまま顔を近づけて、むさぼるようなキスを交わした。はだけたシャツの胸元には、意味ありげな爪痕がいくつも走っている。コメント欄は「尊い」「お似合いすぎ」といった言葉で溢れていた。私は思わず息を呑んだ。結婚して七年。顔が映っていなくても、それが司だと一目で分かった。私が昼も夜もなく司を探し回っていたあの日々、その間ずっと、彼は別の女と甘く愛し合っていたのだ。私が悲しみのあまり流産して入院していたときでさえ、彼はその女とベッドで激しく抱き合っていた。涙を拭い、私は弁護士をしている友人に連絡を取り、離婚協議書の案を作ってもらうことにした。……雲見市行きの便を待つ搭乗口のベンチで、私はもう一度、水瀬凛沙(みなせ りさ)のSNSのトップページを開いた。三か月前、心臓移植を受けたばかりの弱々しい体を引きずって、司がその動画に姿を見せていた。その目には、かつて私にだけ向けられた、あの眼差しが宿っていた。「お前に初めて会った瞬間から、俺の心臓はお前のためだけに動いているって分かってた」あの日は、私たちの結婚七周年の記念日でもあった。私は妊娠検査の結果用紙を握りしめたまま、日が暮れてから明けるまでずっと待ち続けていた。その後に投稿されたどの動画も、二人の幸せを証明するものばかりだった。二人がパリの街を連れ立って歩いているころ、私は一人きりで、鋭い目つきの株主たちを相手にしていた。二人がアイスランドでオーロラを追いかけていたころ、私は何度も入退院を繰り返し、泣きながら病室のベッドで目を覚ましていた。二人がトルコの空の上で熱くキスを交わしていたその時、私は冷たい手術台に横たわり、自分の下腹が少しずつ平らになっていくのを絶望の中で見つめていた。そんな自分が可笑しくて、私は自嘲気味に笑った。あんなに幸せそうな二人を見ていると、私の痛みなんてどれほど滑稽に映ることだろう。飛行機が着陸してから、私はメ
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第2話

私の目尻ににじんだ涙に気づいた瞬間、司の瞳がきゅっと細くなり、こちらへ歩み寄ろうとしたその腕を、凛沙がさっとつかんだ。 「あなたが司くんのお姉さんですよね?スマホの中で見たことあります!」彼女は司の手をぱっと放し、ぷんと足を踏み鳴らした。「来るなら一言くらい言ってよね。こんな顔じゃ会えないじゃない!」司は甘ったるい顔で彼女の髪をくしゃっとかき混ぜ、「そのままで十分かわいいよ」と低く囁いた。その親しげな仕草は、かつて私と恋をしていたころの司そのものだった。二人がさんざんいちゃついたあとで、ようやく凛沙が恥ずかしそうに司の胸から抜け出し、「よかったら、上で少しお茶でもどうですか」と私を二階に誘った。私は静かにうなずいた。ドアを開けた途端、小さな猫が私の足もとめがけてぴょんと飛びついてきた。私は思わずその場で固まった。一気に、昔の記憶がよみがえる。私は何度も司に甘えて子犬を飼いたいとねだり、その子の世話は全部自分がやるとまで約束したことがある。なのに司は、潔癖だからとか、ばい菌がどうとかを理由に、いつも首を縦には振らなかった。胸の奥に、じわじわと苦さが広がっていく。そのとき、凛沙が頬を赤く染めてぐっと顔を近づけ、耳元でこっそり囁いた。「お姉さんは知らないでしょ?この子を飼うまでに、私がどれだけ大変な目にあったか。司なんてもう、ほんと獣みたいで、三日間ベッドから起き上がれないくらいだったんだから」猫砂を片づけている司をちらりと見やって、彼女はふんと鼻を鳴らした。「自分は潔癖だなんて言ってたくせにね。絶対ウソだから」そう言いながら、彼女は何気ないふりをして、ソファの下に隠してあったレースの下着を指先でつまみ出した。私は思わず眉をひそめ、そのソファで二人が何をしていたのかを想像した瞬間、込み上げる吐き気に襲われた。所詮、まだ若いのだ、と私は思う。凛沙の浅い駆け引きなんて、一目で分かってしまう。頬いっぱいに不満を浮かべた凛沙は、ぎゅっと拳を握りしめて、拗ねたように司の胸をぽかぽか叩いた。「ちゃんと片づけておいてくれないからだよ。お姉さんに見られたら、嫌われちゃうじゃない!」司は凛沙を気遣うように何度も謝りながら、その視線だけは私に向けて鋭い警告を突きつけてきた。その瞬間、私のスマホがぶ
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第3話

胸の奥にこみ上げてきたのは強い嫌悪感だけだった。お粥の椀をぐっと遠ざけ、私は目を閉じたまま何も言わなかった。病室がしんと静まり返ったころ、私と司はまた息を合わせたみたいに同時に口を開いた。「司、離婚しましょう」「澄佳、俺、凛沙を京原市に連れて帰ろうと思って――」……言い終えた途端、司の激しい怒りが私に向かって噴き出した。充血した目を見開いた司が、血管の浮き出た腕で私の顎をわしづかみにし、外れそうなほど強く力を込めた。「澄佳、自分が何言ってるか分かってるのか?いきなり姿を消した俺が悪いのは分かってる。お前が怒ってるのも理解できる。でもいちゃもんをつけて、離婚なんて言葉を軽々しく口にするな!今の言葉を取り消すなら、全部なかったことにしてやる」「司、あなたが一番よく知ってるでしょ。私はそんな冗談は言わない。離婚協議書はカバンの中に入ってる。もう署名もした」司は眉間を指で押さえ、深いため息をついた。 「俺が移植した心臓は、もともと凛沙の彼氏のものなんだ。俺があの子を見つけたとき、川に飛び込もうとしてた。だから代わりに恋人を演じてやってるだけだ。生きる気力を持たせるために。澄佳、少しだけ大人しくしててくれ。俺が凛沙を京原市に連れて行く。あの子が無事に子どもを産んだら、全部きちんと片をつける」私は何も言わず、口だけでかすかに笑った。その「恋人のふり」とやらには、ベッドを共にして妊娠させることまで、ちゃんと含まれているのだろう。目が合うと、司は気まずそうに視線をそらし、その場から逃げるように出て行った。私が入院しているあいだ、司本人は一度も病室に現れず、代わりに毎日のように誰かに贈り物だけを運ばせてきた。今日も同じだった。けれど、いつもと違ったのは、置いていったばかりのその人たちが、すぐにまた戻ってきたことだ。「一ノ瀬さん、申し訳ありません。贈り物を間違えてお届けしてしまいました」顔を上げると、そこにあったのは――どこか濁った筋が入っていて、どうにも好きになれないガーネットのペンダントだった。そのときスマホが小さく震え、フォローしている配信者の更新通知が画面に現れた。動画の中では、凛沙が幸せそうな笑顔で、妊娠したことを視聴者たちに報告していた。彼女の首元では、照明を受けて透き通るように
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第4話

私は自分の手で、砕かれて汚れたそれらをゴミ箱に掃き集めた。……そのあと数日間、司はまったく姿を見せなかった。電話にも出ず、メッセージも返さず、会社にも顔を出さない。仕方なく、私はSNSの裏から凛沙にDMを送った。司がいないところでは、凛沙も猫をかぶる気はないらしい。ほどなくして、送りつけられてきたのは、撮ったばかりのあからさまに卑猥で意味深な写真が十数枚。【司くんにたっぷり可愛がってもらって疲れちゃった。電話に出る元気なんてないよ〜ねえ、年取ると図々しくなるって本当なんだね。司くんにもう愛されてないのに、まだ必死にすがりついてさ!】私はふっと笑った。【彼が私を愛していなくても、名義上の妻はまだ私。あなたは、人に言えない浮気相手よ】【私は浮気相手なんかじゃない!愛されてないほうが、本当のいらない女なんだから!あんた、覚えてなさいよ!】凛沙の挑発なんて、私は一つも気に留めなかった。翌日、秘書から電話があり、司が会社に来ていると知らされた。わかったとだけ答え、三十分後には司のオフィスの前に立っていた。「藤森若菜(ふじもり わかな)を支社に回せ。本社のポストは凛沙に空けておけ。そうすれば毎日会社に押しかけてこなくなるだろ」凛沙の生き生きした顔を思い浮かべたのか、司の口もとがわずかに緩んだ。「仕事はあまりきつくないものにしてやれよ。凛沙に無理はさせたくない」こめかみがズキズキしてきて、私はドアを勢いよく押し開けた。「司、本気で言ってるの?藤森さんがどれだけ長いあいだ会社を支えてきたか、その誰よりも分かっているのは、あなたでしょう?この何年でどれほどの利益を会社にもたらしてきたかも。それを全部無視してまで、水瀬のために――」「今は時代が違う。藤森の考え方はもう古いんだ。今の会社に必要なのは、凛沙みたいに勢いのある若い人材なんだ」司は私の言葉を怒鳴り声で遮った。「たかが数日間、代行してるだけで、会社を自分のものみたいに考えるなよ!」人材、ね。いわゆるFラン大卒の子が……恋に溺れて正しい判断もできなくなっている男を前に、ふっと笑いがこみ上げた。前から用意しておいた退職届と離婚協議書を、司の前に差し出した。「サインして」私の目に宿った冷たさに、司は面食らったようだ。めっ
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第5話

視線を落とした先、開いたページの一番上に、大きな見出しが躍っていた。【衝撃、人気急上昇カップル配信者、その関係は略奪愛から始まっていた!】その見出しを目で追ったのはほんの一瞬で、画面はぱっと閉じられた。乱暴に腕をつかまれ、手術を終えたばかりの私の体などおかまいなしに、司は力ずくで私を凛沙のベッドの前に押しつけ、膝をつかせた。 「そこから動くな。これはお前が凛沙に払うべき代償だ」私は昔から痛みに弱いのに、司は凛沙のためなら、何度だって私を平気で傷つける。胸の奥がきゅっと締めつけられ、こらえきれずに涙が頬を伝った。司のことで泣くのは、これが本当に最後だと心の中で決めた。「司、離婚しましょう。いつまでも離婚を引き延ばすなら、水瀬はずっと浮気相手って言われ続けるだけよ」そう言い終えたとたん、ベッドで気絶したふりをしていた凛沙の口もとが、誰にも気づかれないほどかすかに持ち上がった。長い沈黙のあと、司の瞳の奥でさまざまな感情が渦を巻いた。きっと心のどこかで、ここで頷いてはいけないと告げる声がしていた。けれど司が何か言おうと口を開いた瞬間、凛沙がうなされるように激しく泣き叫んだ。「違うの、私、浮気相手なんかじゃない!」目を覚ますと、助けを求める子どものような目で、必死に司を見上げた。「司くん、みんな私に嘘ついてるんだよね……?」泣きそうな凛沙の瞳と目が合った途端、司の強張っていた表情はたやすく緩んでしまう。「ああ、そうだよ。あいつらが全部嘘をついてる。俺にはお前しかいないし、愛してるのもお前だけだ」凛沙を宥め終えた司がこちらを振り向いたとき、その顔にはどうしようもない疲れと諦めがにじんでいた。「澄佳、いくら拗ねてるからって、やっていいことと悪いことがある。俺が気づくのが遅れてたら、凛沙はお腹の子と一緒に死んでたかもしれないんだぞ!これは、俺たちが凛沙に償わなきゃいけないことなんだ」司はペンを取り上げ、しぶしぶといった顔で離婚協議書にサインをした。「でも安心しろ。これはあくまで一時的な離婚だ。凛沙の気持ちが落ち着いたら、ちゃんとやり直す」……離婚協議書に並んだ司の署名を見つめながら、血の気の引いた自分の顔に、久しぶりに笑みが浮かぶのを感じた。「ええ」と気のない返事だけ残して、私は
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第6話

「司くん、どうしてそんなふうに怒鳴るの? 今まで一度だって私に声を荒げたことなんてなかったのに……もしかして他に好きな人ができたの?それとも、最初から私なんて好きじゃなくて、だからスマホにまだあの人の写真を残してるの……?」眼の前でまた自分を傷つけそうなそぶりを見せた凛沙を、司は仕方なさそうに抱き寄せた。どこか投げやりなまま、彼女の額にそっと口づけして、「凛沙、余計なこと考えるなよ。俺がお前を愛してないわけないだろ」ようやく凛沙をなだめて眠らせたあと、司は気づけば車を走らせていて、別荘の前まで来ていた。真っ暗な別荘を見上げ、私を起こすのはやめておこうと判断する。そのまま車のシートに身を沈め、一晩中タバコを吸い続けた。翌日、役所で顔を合わせたときには、このやつれた姿を見て私がきっと胸を痛めるだろうと、どこかで信じていた。わざと髭も剃らず、咳き込みながら待ち合わせの場所に駆けつけたものの、見慣れた私の姿はどこにもなかった。「一ノ瀬司さんですね。澄佳さんの代理人の弁護士です。今後、離婚に関するお話はすべて私が担当いたします」 ……司と一緒に過ごした十年間、私たちは何度も喧嘩をしたし、離婚だと騒いだこともある。けれど、どんなときでも司が折れて謝りさえすれば、私は結局、毎回のように彼を受け入れてきた。だから今回も、司は大して事態を重く見てはいなかった。心のどこかで凛沙の存在を思うとざわつくものはあっても、私と本気で別れるつもりなど、一度たりともなかったのだ。一言の「ごめん」と花束さえあれば、どうせまた自分のもとに戻ってくる――司はそう思い込んでいた。ところが、弁護士の硬い表情を目にした瞬間、言いようのない不安が胸に広がった。「澄佳は?ここに来させろ。本人と直接話すまでは、離婚には同意しない」まるでそう言われることを予想していたかのように、弁護士は業務用の笑みを浮かべた。「もし協議離婚に応じていただけないのであれば、澄佳さんのご依頼どおり、正式に裁判所へ離婚訴訟を提起いたします」あまりにも迷いのない口調に、司は思わず言葉を失った。無意識のうちに、離婚を切り出したときの、私の揺るがない眼差しが脳裏によみがえる。それは、かつてプロポーズを受けたあの日、私がきっぱりと言い放ったときの表情とまったく
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第7話

駆けつけたボディーガードたちに力ずくで家へ連れ戻されたころには、司の頭にはようやく冷静さが戻っていた。「澄佳を探せ。何としてでも見つけ出して、連れ戻せ!」皆が引き上げたあと、司は寝室のベッドに仰向けになり、空気の中に残っているはずの彼女の匂いを探すように深く息を吸い込んだ。けれど、この部屋から私の痕跡になるものはとっくに捨てられていて、私が眠っていたシーツさえ新しいものに替えられていた。司は体を小さく丸め、目のふちを真っ赤にしながらつぶやいた。「澄佳……本当に冷たいよな……俺はただ、凛沙が彼氏を亡くした苦しみにいつまでも縛られているのが見ていられなくて、代わりに恋人のふりをしてやっただけだ。あいつのことなんて、好きになったこともない。 なのにお前は、こんなふうにきれいさっぱり切り捨てて、俺に未練ひとつ残してくれない」……飛行機は港崎市に着陸した。祖父の身の回りを整えて落ち着かせたあと、私は自分の会社を立ち上げた。立ち上げたばかりの仕事がようやく動き出したころ、一人で深夜までバタバタしていると、スマホに若菜からのビデオ通話リクエストが突然表示された。画面に映った若菜の顔はひどく疲れ切っていて、三十代のはずなのに、まるで七十、八十代のような老け込み方だった。「もうほんとやってられないわ。水瀬って、マジでバカでしょ。フォトショもまともに使えないくせに、それはまだいいとしてさ、気遣いってものがゼロなのよ。社長の後ろ盾があるからって、クライアント相手に好き放題やって!その結果、社長と連絡つかない今、後始末は全部こっちに回ってきてるんだから!社長もどれだけ見る目ないのよ。水瀬なんかのために……」そこまで言いかけて、自分の失言に気づいたのか、若菜は慌てて口をつぐみ、慎重に私の表情をうかがった。私が過去のことを思い出して取り乱す様子もないのを見て、彼女はほっと息をつき、話題を切り替えた。「会社作ったって聞いたけど、人手、足りてる?」「どうしたの、うちに移るつもり?うちの待遇なんて一ノ瀬グループには到底かなわないし、この先どう転ぶかも分からない会社よ」「澄佳、もうちょっと自分のこと評価しなよ。あなたの実力、私たちがいちばん分かってるんだから」私はふっと笑って、肯定も否定もしなかった。一ノ瀬グループ
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第8話

「澄佳、お前って本当に容赦ないよな。犯罪者だって弁解するチャンスくらいは与えられるのに、俺には謝る機会さえくれないのか……」私は司を見つめた。ただの見知らぬ人間を見るみたいに、冷え切った目で。司はハッとしたように固まり、その現実をなかったことにしたいかのように、私の目を手で覆おうとして一歩踏み出した。声は自分でも抑えられないほど震えている。「澄佳、そんな目で俺を見ないでくれ。そんなふうに突き放さないでくれ……」「司、そういうのはやめて」私は一歩身を引き、司の手は空中で固まった。「既婚者としての自覚くらい持ちなさい」善意でそう忠告したつもりが、司はあっさりと勘違いした。 目の中に、たちまち喜びの色が浮かぶ。「澄佳、やきもち焼いてるんだろ?安心しろよ、あんな性格の悪い女とはちゃんと離婚するから!」凛沙の企みを思い出すと、司は今すぐにでもあの女を八つ裂きにしてやりたい気持ちになった。結局のところ、凛沙はただの虚栄心まみれの女だった。彼女の言う心の傷とやらも、司に誤解されたときに、その場しのぎででっち上げた話を、そのまま膨らませてきただけ。嘘を重ねた末に、彼女は多くの資産を手に入れ、一ノ瀬家の妻の座にまでちゃっかりおさまった。けれど、嘘にはいつか必ず終わりが来る。司はいまも、あの日の凛沙の嘲るような声をはっきり覚えている。「一ノ瀬ってさ、本当バカよね。ちょっと指先ひとつ動かせば澄佳の潔白なんてすぐ証明できたのに、わざわざ私の前でひざまずかせるほう選ぶんだもん。しかもあのとき、ファンの子に刺されたでしょ?それでも平然としてたし。マジで信じられないわ。でもさ〜、本妻のくせに私みたいな浮気相手に頭下げさせられるって、あの優越感? ほんっと最高だった〜」凛沙のその一言は、司にとって衝撃そのものだった。司の脳裏には、あのときの血の気の失せた私の顔が、勝手に浮かび上がった。自分は間違っていた。とんでもない勘違いをしていた。こんな薄っぺらな女のために、本当に大事な人を手放してしまったのだ。それでもまだ、やり直す時間は残っている――そう信じていた。「澄佳、愛してる。お前のいない人生なんて考えられない!一緒に帰ろう。やり直そう。残りの人生全部かけて、お前に償わせてくれ……」自分の世界に浸っ
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第9話

凛沙は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、わんわん泣きじゃくっていた。彼女と友人の会話を耳にしてから、司の報復はどこか歯止めを失ったように狂っていった。ネットで大炎上させられたことから、車の事故で脚を折る羽目になったことまで――司は、私が味わってきた屈辱を少しずつ、確実に倍返ししていった。目元には柔らかな色を浮かべたまま、司はそっと彼女のふくらんだ腹を撫でた。その口からこぼれた言葉だけが、背筋が凍るほど冷たかった。「澄佳も俺の子どもを宿してたんだ。本当なら、あいつだって無事に産めたはずなんだよ。お前が嘘をついて俺を自分のそばに縛りつけなければ、あいつは流産なんてしなかった。お前は俺から、大事な人間を二人も奪った。その分、お前にもはっきりした意識のまま、同じ痛みを味わってもらう」その言葉に、凛沙はぞくりと身の毛がよだつのを感じた。「一ノ瀬さん!全部私が悪いの!出来心であなたに近づいただけなの!罰なら何だって受けるから、この子は関係ないの!お願い、この子だけは助けて!あああああ――!」まともな麻酔もないまま、妊娠五か月での中絶手術は、凛沙の命を奪いかねないほど彼女を追い詰めた。 ……それでも司は諦めず、毎週末わざわざ京原市から港崎市まで飛んでは、私の好きな和菓子を一箱抱えて現れた。その行き先が決まってゴミ箱の中だと分かっていても、司はしつこいほどに同じことを繰り返した。彼のその「一途さ」とやらは、すでに私の仕事にも生活にも深刻な支障をきたしていた。またしても菓子の箱をぶら下げて会社の前で愛を叫ばれ、さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。「司、もう来ないで。私の好きな菓子くらい、港崎市でいくらでも買えるわ。わざわざ京原市から持ってくる必要なんて、どこにもないの」「澄佳、それじゃ違うんだ……」「何も違わないわよ。司、いい加減にして」息を呑んだ司の笑みがそのまま顔に貼りつき、泣き顔よりみじめにゆがんだ。「しかして、他に好きな人ができたのか?氷川ホールディングスの社長か? それとも百瀬グループの社長か? あいつらがお前にしてやれることなら、俺にも全部できる……だから、頼むから俺を無視しないでくれ……」裾をつかんで離さない司の手を振り払い、私は一度も振り返らずに背を向けた。まさか次に司と顔を合わせる場所が、交
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第10話

その瞬間、司は、自分が私からどんどん離れていっているのをはっきり自覚した。苦笑しかけたそのとき、視界の端に、薄暗い隅で凛沙が鋭い目つきでこちらをにらみつけ、その手の刃がぎらりと光ったのが映った。キャップを目深にかぶり、足を引きずりながら近づいてきた。「くたばれ!ハハハ……」ところが、私が血だまりに倒れるはずの光景はいつまでたっても現れず、凛沙の笑いがぴたりと止まった。私の前には、司の背中が立ちふさがっていた。腹から血を流し、顔は血の気がすっかり引いているのに、司はどこかほっとしたように笑っていた。「澄佳、無事でよかった……本当に……良かった」会場から悲鳴が上がる中、私は落ち着いて警察に通報した。凛沙はすぐに警備員たちに取り押さえられ、床にねじ伏せられた。かつては華やかで愛らしかったはずの顔は、今では土気色にやつれきっている。「なんでよ!どうしてあんただけそんなにうまくいくのよ!私はドブネズミみたいに、陽の当たらないところでもがいて生きてるっていうのに!!」顔をゆがめてわめき散らす凛沙の姿が、ただ滑稽にしか見えなかった。どうしてかって?それは、私が自分の足で立つために払ってきた努力と、前に進む覚悟があったから。ただ男にすがりついて生きる、寄生みたいな女じゃないから。病院。三時間に及ぶ手術と処置の末、司はどうにか命の危機を脱した。ベッドに横たわった司の肩が、かすかに震えていた。「澄佳……あのとき、お前もこんな痛みに耐えてたのか……」私は首を横に振った。彼にまつわる記憶も感情も、もうとうの昔に忘れてしまっている。「もう終わったことよ。司、ちゃんと治療に専念して。明日また様子を見に来るわ」感情を何ひとつ込めていないつもりのその言葉が、司には都合よく聞こえてしまったらしい。「澄佳、やっと許してくれたんだな。明日にでも籍を入れ直して、それからまた二人で――」私は眉をひそめ、その妄想をばっさりと断ち切った。「司、あなたが私を庇ってくれたことには心から感謝してる。だからこうして見舞いにも来た。でも、それ以上の気持ちは何ひとつ残っていない。私たちの関係は、とっくに終わってるの。司、もう現実を見なさい」ふと思い出したように、私は左手の薬指にはめたリングを司の前にかざした。
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